烏と狐

真夜中の抹茶ラテ

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第二章:黄昏の深紅

2-x-3.鳶の回廊B

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 晴天が光の雨を振らせ、小鳥の囀りがどこか遠く響き渡る午前八時。
「今日もいい天気だねぇ……」
吹き抜ける幾ばくか冷たい風に、そんなことを呟いた青年は現在20。次の誕生日まではあと1ヶ月もない。
 庭園にしゃがみ込み、春の訪れを待つ蕾を数えながら、のんびりと欠伸を噛み殺す。なんとも穏やかで平穏ないつも通りの日常。ここへ来てもう12年も経っただなんて……無情な程に穏やかに時は移ろっていった。
 ここへ来たばかりの頃は、言語さえも不自由で、周囲との意思疎通にはかなり苦労したなんてぼんやりと思い出し、懐かしい日々に思いを馳せる。膨大な量の知識を、待ったの一言も許されず、ただ必死になって詰め込んだあの頃を、なんだか酷く懐かしく思う。
 (まあ、あの頃の無茶がなければ、今相当困ってただろうしね……。Tutto è bene quel che finisce bene終わりよければ全てよしって言うし)
苦笑いの向こうに眩しい太陽が反射した。ゆっくりと折りたたんだ膝を伸ばして立ち上がり、快晴へ向かって手を伸ばす。脈打つ血潮が透けて見えた。
 自分は人間ヒトでは無い。その事実を否応なしに認識させられるような現実は、幸いなことに今の所一つも見つからない。強いて言うなら、首に刻まれた紋様くらいだ。
 それさえも、タトゥーか何かだと言い切ってしまえば、他に相違点がどこにあるだろうか……。あるいは、これから自分が絵札人外へと成っていく中で、変わっていってしまうのだろうか……。それが今は少しばかり怖い。
 「……お散歩してこよっかな」
気分を変えるように呟けば、優しい風に揺れた枝葉が賛同するような囁きを返した。稽古まではまだ時間があるし、街へ出れば午前のお祈りも済ませられるだろう。
 軽い心に弾き出されるよう、早足に踵を返した青年の背を、静かな庭園の低木達が見送った。



 王宮から街の中心地までは、歩いて半刻もかからない。……というより、この国が王宮を中心に形作っているため、中心である宮殿からはどこへ行くにも不便はしない。
 本来ならば朝の市が開催され、人がごった返しているであろう時間帯だが……目につく道は閑散としている。
(……仕方ないよね、食べ物、あんまりないし……)
自給自足に向かない痩せた土地では、全ての物資は貴重品だ。オマケに、少ない食料は富裕層に独占され、王宮でさえ日々の暮らしに頭を抱えているというのに。
 その原因は一重に、長年の絵札の不在。他国が次々と次代の絵札を見つけている中で、この国だけが取り残されている。先代のKINGが死去してから222年。エンジェルナンバーだなんて喜んでいる場合では無い。
 国土を潤す力を持つKING無しには、土地は痩けていくばかり……。
(……僕が、しっかりしないと)
国の現状を理解する度に、酷く胸が痛む。そして、一刻も早く、役職を示す印が現れることを強く願う。だって、今のままでは、これほどまで苦しんでいる国のために、自分は何一つとして力になれないのだから……。
 周囲の目から逃げるように、高く立てた襟元に♢の印を隠し、早足に大通りを行き過ぎる。ヒソヒソと鼓膜を揺する話し声……治安が悪い。焦る気持ちは何にもなりはしないのに……と自分自身へ言い聞かせ、見知った道へと消えていく。

 異様に賑わいの無い大通りを過ぎ、小さな道を何本か渡った先。散歩の終着点にあるのは、白い教会だ。……否、白かった教会だ。
 教会の壁は経年劣化と神など信じていない者たちによる八つ当たりで、酷く汚れていた。もちろん、おそらく牧師はきちんと清掃しているのだろうが、悪意をもってつけられた汚れは完全には落ちきっていない。
 口を零れかけるため息を飲み込んで、開け放たれた教会の扉をくぐる。Politica di porta apertaなんてよく言ったものだが、悪化の一途を辿る情勢を鑑みれば、もう幾らか防犯意識が高い方が良いのかもしれない。
 祈りを捧げるための神聖な空間は心地良い静けさで満たされており、思わず足音を潜めてしまう。入口から真っ直ぐに祭壇へ伸びた道を行き、クロスの前で跪く。両手を胸の前で結び、僅かに俯けば宗孝な信徒にしか見えないだろう。
 薄く目を閉ざし、暗闇に思いを馳せる。信教の自由を否定する気は無い。……が、もしもこの世に神などというモノが存在するならば、
(そんなモノ、クソ喰らえだ)
今日を生き、明日を求める惨めなこの国に、救いの一つさえ齎さない。願いはただ虚しく、現実逃避にすり変わるだけ。そんな世界を良しとするモノなど、神だろうが仏だろうが滅んでしまえ。
 自らの内に犇めく黒色へ焦点を当てた時、そんな感情が沸き上がる。形容するなら、腹の底が煮えくり返るとでも言おう。なにか直接の危害を加えられたわけでもないにも関わらず、どこまでも深く熱い憎悪がそこに佇んでいた。
 ゆっくりと瞼を持ち上げる。厚いベールの向こうから、あるいは雲の切れ間から降り注ぐ射光、それこそ幻想的な白。それに照らされた世界を見て、人は存在しない神を信じたのかもしれない。
 苦しい現実の中で何かに縋り、助けを乞うのがヒトの本質だとするのなら、宗教は文明人にとって最大の発明だ。それがこの国に深く根ざすのも理解できる。
(祈れば救われるなんて幻想だって、この国の現状を見ればわかるのに。何かを変えるには、血の滲むような苦しみの中で自ら踠く他ない)
 小さく息を吐いて立ち上がる。どこからどう見ても信徒の一人のような様相で、クロスへ僅かに頭を垂れてから、真っ直ぐに天井付近のステンドグラスを見上げた冷たい目は、この空間にあまりにも似合わない。端から否定しながら、足げくここへ通うのは、絵札と成ってから教会との繋がりがあった方が都合が良いから。ただそれだけ。神も仏も興味は無いが、宗教が人間の発明なら利用するまで。
 ……帰ろう、そう踵を返そうとした時、
「お兄ちゃん! お歌歌って?」
服の裾を下へ向かって引かれ、天使のように高い少女の声が鼓膜をゆする。
「うん?」
導かれるように下方へ視線を落とせば、そこまで身なりの良いとは言えない服を身にまとった少女が一人。おそらく、この教会へ祈りに来た他の信者だろう。
 基本的に教会内では静寂と厳かな雰囲気が求められ、他の者へ声をかけることはまず無い。つまるところ彼女の行動は不躾なものだが……
「こらこら、行けませんよ。他の方の邪魔をしては……」
穏やかに濡れた声がして、振り返るとこの少女の保護者らしき老人が聖堂に置かれたベンチへ腰を下ろしていた。
 立ち上がったばかりだが、少女と目線を合わせるためにしゃがみこめば、
「この前の日曜日、お歌歌ってた人よね?」
降り注ぐ光をめいっぱいに閉じ込めた大きな瞳が輝く。
 この前の日曜……と言えば、ミサに参加した日だ。別に何か意味があった訳では無いが、たまたま予定が空いていたためほとんど気分で参加した。改めて聞かれていたと思うとなんだか少し恥ずかしい。
 「1曲でいいの! お願い!」
少女は置かれたクロスよりも、目の前の桃色の髪の青年へ手を合わせている。もしもこの場の熱心な教徒がいたのなら、おそらく相当に怒られただろう。
 少女に不審がられない程度にそっと周囲を見渡せば、今この場にいるのは自分たち3人だけ。牧師も何がしかの用事か何かで出払っているようだ。ならば少しくらい騒がしくしても許されるだろうか。
 「Si,いいよ? じゃあちょっと座ろうか」
少女の手を引いて、老人の座っているベンチの通路を挟んだ隣側の列へ腰を下ろし、自らの膝の上に少女を座らせる。暖かな体温が伝わってきて、あぁどうしてこんなにも小さな生き物というのは可愛らしいのだろう……と腕を回した。
 音を紡ぐために吸い込んだ聖堂の空気は、春を前にした穏やかな冷たさを纏い、静けさが肺腑を浸す。淡いテノールに乗せて吐き出す息は漂う光を通り抜けて、空間の隅々にまで染み渡っていった。
 紡ぐ言の葉は存在しない偶像に対する賛美。崇拝する心も一欠片の信仰もこもっていない、どこまでも冷たい感情が撫でるからこそ、彼の賛美歌は美しいのかもしれない。
 穏やかなロングトーンが溶け、膝の上の少女はキラキラと輝いた目で拍手を送る。
「とっても素敵!」
「えへへ……Grazie?」
その素敵な歌声が、歌詞の示すモノではなく、ただ目の前の少女のためだけに紡がれていただなんて皮肉なものだ。音楽は人間から神々へ捧げるために作られたと云われるが、その実、そんな様相の上でただ娯楽として消費されるために作られたのでは無いだろうか……。
 満足したのか膝を降り、老人に手を引かれて歩いていく小さな背中に手を振る。可愛らしく小さく脆い笑顔。どれだけ苦しいこの国でも、その中で必死に生きる命がある。
(……僕も、頑張らなきゃね)
良い国にしたい。誰も明日を悲観しないような、そんな国に……。



 「立て直しが遅い! 武器に振り回されるな!」
激しい叱責と鈍い音が鳴り響く。歯を食いしばり何とか受け止めるも、息が上がりまともに次の行動を予測できない。
 おそらく自分はあまり要領の良い方では無いのだろう。手先が器用な自覚はあるが、存外体の覚えは悪い。それでも昔に比べれば随分上達した方だと思うが……
(うぅ……ACEったら厳しすぎるよぉ……)
目の前の鬼教官は12年の歳月を経ても、その実力は一切衰えず、一向に追いつける気がしない。
 握りしめた2mを超える槍の強みは、その圧倒的なリーチ。飛び物の武器を除けば、相手の間合いに入ることなく、一方的に攻め続けることだって可能だ。
 けれど、同じくらい大きな弱みとしては、その大ぶり故の後隙の大きさが指摘される。強い遠心力に耐える足腰はあっても、連撃へ続ける身のこなしは今一つ……。大きな隙を晒すようでは、一人前とは到底言えない。
 「うわっ!?」
伸ばした槍を思いっきり蹴られ、引っ張られるように体勢を崩す。何とか受身を……と思ったが早いか、一陣の風が凪いで首筋に金属が触れる。
(まずっ……)
そう気づいた身体は無意識のうちに急停止した。ほんの僅かでも身動きをすれば、その鋭利な刃は容易に薄い皮膚を血に染めるだろう。
 「まだまだだな。JACKにしてもKINGにしても未熟」
小さく息を吐き出したACEのバッヂを身につける、この国の現状第一位は淡々と呟きながら刃を退けて収めた。
「もうちょっと手加減してくれてもいいのに……」
その場に座り込んで、むぅと頬を膨らませる。槍術ではまだ1本も取れていないのに、そこまで本気にならなくたって……。
 それに第一、教官であるACEの能力は腕力強化。首に向かって剣を凪ぐだなんて、一歩間違えれば人の首を容易に跳ね飛ばせる危険極まりない行為だ。本人は、身体強化の下位互換だなんて笑っているが、ただの訓練でも手を抜かないACEの一撃は致命傷になり得る。
 「笑わせるな。戦場で誰が手加減をする。実践を想定しない訓練など無意味だ。お前はお遊びで今ここにいるのか?」
「……」
口を噤む。言い返せる言葉がない。遊びに来ているだなんて口が裂けても言いたくないが、一度は勝ってみたいのだって事実で……。まあ、目の前のクソ真面目を象徴するような男が、手を抜いてくれるだなんて初めから思ってもいないが。
 不貞腐れるように膝を立てて両腕で抱え込み、その上の頬を乗せる。伸び代があるのは悪いことでは無いが……それでも悔しいものは悔しい。
「はぁ……そんな顔するな」
ACEと呼ばれた男は、困ったように桃色の髪の青年へ手を差し伸べる。見上げた赤茶色の垂れ目は、どちらかと言うと本質的に温厚な性格であることを示している気がした。
 そんな若い絵札の種を見つめながら、鬼教官は思う。本人の望まぬ戦場に駆り出すこと。夢を持つ暇さえ与えず、この国のための尽くさせること……。それらが正しいとは言えない。自分たちのやっていることは余りに酷なのかもしれない。
 人と争うことは好きではない。けれど、求められるのなら……と、青年は差し出された手を取ろうと膝を抱えていた腕を解く。
「ッ……」
しかし、解いた腕は伸ばされることなく、そのまま自分の首筋へ。
 首の左側だけが異様に熱を帯びており、突き刺すような鋭く鈍い痛みが伝播する。
「ぅ……ぐ……」
身を縮めるようにしてその場へ横になり、止まりかける呼吸と激しい脈拍にもう片方の手で胸もとを抑える。
 「おい、どうした!」
先程まで冷酷な教官の顔をしていたACEも、急な様子の変化に明らかな動揺と心配を向け、ひとまず身体を起こさせて支えた。体温が異常に低いにも関わらず、紋様の刻まれている部分だけが強く発熱している。
 とにかく状況を伝えなければ、そう脳は思考するのに、いたい、いたい、いたい痛い。思考回路を支配するうるさい自分の声で、それしか考えられない。痛みに抗うように、ただ身体を支える腕にしがみついた。
 「っ……落ち着け、いつもの発作だろ。すぐ収まる、とにかく落ち着け」
しがみつくように握られた左腕が折れるのではないか、なんて甘えだと思えるほどの激痛が走る。人間の握力だとは思えない。
 この頃桃色の髪の青年……♢の絵札の幼体は、時折こうして突然の痛みを訴えることがあった。あまりにもなんの脈絡も無く、初めは病を疑ったが、至って健康体だとわかってから一瞬は虚言の可能性も考えた。……が、嘘でここまで完璧に演技ができるとは思えない。
 苦しげに紋様を抑え、額に汗を滲ませて……。助けてやりたい。皆そう思ってしまう。ACEも何度かこの光景に立ち会っているが……何もしてやれないのが現実だ。
 絵札や幼体に関する研究の最前線は♧だが、国交のない♧の資料を取り寄せることもできず、おまけに♢には長らく絵札がいなかったせいで研究結果はほとんど残っていない。
 おそらくは幼体が絵札へと変わる際の反動やら肉体的な変化やらで痛みが生じているのだろう。あくまで仮説でしかがないが、発作という表現が一番しっくりくる。
「深く呼吸しろ。大丈夫だ、その程度じゃお前らは死なねぇ」
左腕に走る激痛をこらえ、右腕で背をさすってやる。その行為がどれほど為になるかは分からないが、少なくとも何もしないよりはマシなはずだ。
 「っ……ぅう…………」
自分が自分で無くなるような感覚。内側から食い破られるような、壊れていくような……。瞳にめいっぱいに涙を溜めて、歯の奥を食いしばる。
 1時間にも2時間にも感じられた苦痛の末に、まるで波が引いていくかのように急に楽になる瞬間が訪れた。乱れていた呼吸が整い、歪んだ視界が正常に戻っていく。しかし現実には、それらはほんの数分にも満たない出来事だ。
 ようやく正気を取り戻したとでも言いたげに、ゆっくりと手を離した様子を見て、
「……収まったか?」
とACEが声をかければ、青年はぼんやりとした疲れた視線を持ち上げて、小さく頷いた。
「……よし。医務室行くぞ。一応報告と診断はしておいた方がいいだろ」
「Si」
立てるか? という言葉と共に差し出された右腕を支えに立ち上がる。一瞬重力を思い出した体がふらりと揺らぐが、それも一瞬のことに過ぎない。

 「骨、折れてますね」
「マジか……」
「マジです」
結論から言って、絵札の幼体である青年には特に異常なく、絵札へ変化する過程の症状だろうと言うことで片がついたが、むしろ付き添っていたACEの男の方が重症だった。
 「いやいやいやいや、嘘だろ? 握られただけだぞ?」
確かに痛かったし今も痛いが……自分より明らかに鍛えていなさそうで、腕も細く、病的に痩せているように見える目の前のたった20の見習いに、人骨をへし折る握力があるだなんて思いたくない。
「いえ、事実です。絵札は一般的には我々よりも身体能力が高いと言われていますし、風の噂にすぎませんが、KING OF HEARTは人骨ぐらい折れるのではないかという話もあります」
あまり情報が出回っていないか、あるいは単純に国交がないこの国に届かないだけなのか定かではないが、現実問題、不可能では無いのだ。
 「だが、まだ幼体だろ?」
「えぇ、そうです。しかし、幼体の身体は徐々に絵札に近づいていくものです。おそらく、発作の最中はほとんど絵札と相違ない状態なのでしょう」
トドメと言わんばかりに、医者は続ける。
「実際、スートの量も発作後の計測の度に着実に増加しています。発作の頻度と増加量から考えると……あと1~2ヶ月程度で絵札の平均的な量まで達するでしょうね」
 あと1~2ヶ月……。その言葉を胸中で繰り返す。おおよそ自分の誕生日の頃だ。それに少し心が踊るような、しかし、やはりどこか怖いような……そんな気がする。
 「てことはつまり……普通に今の状態でも俺より多いのか?」
きょとんとした顔で首を傾げる青年を指さして、ACEは食いつくように眉根を寄せた。
「はい、言うまでもありません」
「はぁ……なんか負けたみたいで、気に入らねぇな……」
これでも、絵札のいないこの国ではACEが第一位の座に着いている。別にその地位を驕っている訳では無いが……なんだか複雑な気持ちだ。
 「仕方ありませんよ。絵札は我々とは違う生き物なのですから」
医者は淡々とそう告げた。覆りようもない、事実だから。
(……違う、生き物……)
姿かたちこそ同じでも、本質的に絵札と人間は別の生き物である。その肉体の性質も、寿命も、話す言語も、もしかしたら物事の考え方や心の有り様まで違うのかもしれない。ただ、姿が同じだけで。
 ヒトよりもずっと長い寿命を持ち、ほとんどの傷は致命傷とはならない不思議な身体。しかし不死ではない。少なくとも身体の半分を失うか、あるいは頭と胴体が分断されるような傷は治すことが出来ないらしい。そして、秘宝を扱うことの出来る数少ない存在……。
 この世界には、四つの秘宝があると言われている。……言われているというのはつまり、誰も見た事がないからだ。一つの国に一つずつ。大きな力と、大きな代償を必要とする、最後の切り札。
 (……絶対使っちゃ、ダメなんだよね)
絵札について学ぶ中で教えこまれた知識を繰り返す。死者を呼び戻す♧の大樹、万病万傷を癒す♡の泉、世界の時を戻す♤の大時計、そして、あらゆる願いを叶える♢の王冠……。その中でも、この国に眠る♢の王冠は最も代償が重く、使用するリスクが大きいと言われていた。
 (そういえば……)
ふと思い出す。いつ聞いたことだったかは既に覚えていないが、一説によるとこの国の先代の絵札はその秘宝を使ったそうな。
(あの資料に書いてあるかな?)
かつて読もうと図書室へ出向いたは良いものの、まともに読めなかった先代たちに関する文書……。今なら、相当に難しい古語でない限り、読み取ることが出来るだろう。
 「まあ、お大事になさってください。しばらくは安静に」
医者のその声に意識が現実へと引き戻された。
「ごめんね、ACE……」
骨を折ってやろうなんて思ったことは無いし、痛みについ思いっきり握ってしまったのは否定できないが……申し訳ないことには変わりなく、眉根を寄せて僅かに頭を垂れる。
「気にすんな、骨ぐらいすぐくっつくだろ。それに、わざとやった訳じゃないなら責められねぇよ」
大きな手で、ぽんぽんと桃色の頭を撫でる。次が無ければそれでいいのだ。
 「うん……。この後はどうするの?」
流石に骨折している教官相手に訓練を続けろというのも酷なような……。まあ、おそらくは骨が折れているとか、片腕が使えないとか、そんな程度はハンデにもならないのだろうが……。
「安静って言われてるしな……続きはまた今度だ」
「Si, じゃあ僕図書室行ってくるから」
「騒いで迷惑かけんなよ~」
そんな言葉に、もう子供じゃないんだから……と内心ツッコミを入れた。TPOが分からないほどもう幼くない。

 幼体の青年が出て行って、パタンと音を立てて扉がしまった後、医務室に残されたのは大人が二人。もう12年、かの桃髪とは生活を共にしている。
「……早いもんだな、子供の成長っつぅのは」
ぽつり、随分老けた発言が口を突いた。実子はいない。件の幼体との血の繋がりなんてない。……が、12年を共に過ごして、本当の家族のように思っている。
 「ですね。……我々の選択は正しかったのでしょうか……」
患者の前では見せていけない、不安そうな本音。しかしこれは医療の分野に関することでは無いし、目の前の相手がそんなことも分からないままに一位の座に着いているとも思えない。
「さぁな。それは俺らじゃなくて、アイツ自身が決めることだろ」
偶然か必然か……この国に流れ着いた記憶の抜け落ちた少年。自分の名も覚えていなかった……否、今も覚えていない彼に、お前は絵札の幼体なのだと言い聞かせ、まるで洗脳でも施すかのように絵札となるように導いた。
 彼が小さな夢を持っていたことを、誰も知らない。その心を無言のうちに折ってしまったことを、誰も知らない。弱音も吐くし、嫌なことからは逃げ出す頼りない我らが盟主……。しかし彼は一度だって、絵札のなること以外を語らなかった。
 それが果たして正しかったのかと、この王宮に仕える者は皆、一度以上思考する。けれどそんなもの、答えなんて出ないのだ。
 あと1~2ヶ月。本当にその通りになるかは不明だがせめて……次の誕生日は盛大に祝ってやろう。きっとその日が、彼にとって大切な日になるから……。



 ノックを三つ。重厚な木の扉を開けば、ある種聖堂と同じような静まり返った空気が出迎える。天井まで伸びた高い本棚と、無理に身を寄せあって押し込まれている無数の本。出迎える物語の題名は、どれも魅力的に映った。
 しかし今日の目的はそれらではない。
「Ciao? 先代の記録が見たいんだけど……」
傷んだ本の修復に精を出していた司書へ、カウンターに越しに軽く手を振る。集中しすぎると周りの音が聞こえなくなるタイプはたまにいるが、この司書がそうでなければ良いと願いながら……。
 「おや盟主様、お久しぶりです。では閉架へご案内しますね」
時を経て僅かに老いた彼女はすぐに彼の声へ気づき、作業中の手を止めた。仕事を邪魔してしまっただろうか……。
 そんな気遣いを他所に、仕事の一環として無数の貴重な資料が保管されている閉架へと案内する。年月を増してより一層の増して古びて見える背表紙たち。かつてここへ来たばかりの頃は読めなかった無数の文字列は、今となってはこれ以上なくわかりやすい。
 渡された手袋をはめ、目的の一冊へと手を伸ばす。先代のQUEENに関する記録だ。何故ここでKINGでもJACKでも無く、QUEENの記録を求めたのか……正直なところ理由は分からない。
 はらり、分厚い表紙を捲れば、びっしりと文字が敷きつめられた羊皮紙。以前はそれを見ただけで諦めてしまったが……今は時間もある。知識もある。
「Grazie、ちょっと時間かかりそうだから、しばらくここにいてもいい?」
「はい、構いませんよ。帰る前に声をかけてくださいね」
司書は快く承諾し、ごゆっくり、と閉架を去っていく。残されたランタンが弱く暗闇を照らしていた。


 先代の女王は二百年と少し前に退位している。彼女は生まれも育ちもこの国で、当時の♢は今よりもずっと栄えていた。食糧難に嘆く事も、貧富の差に叫ぶこともない、穏やかで平和な国。
 技術水準は明らかに今より劣っている中で、それでも彼らは強く生きていた。民からの静かな、しかし確かな信頼を得て、その繁栄に見合う貢献を示していたらしい。
 それらの伝記のどこまでが真実かは分からないが、少なくとも先代たちが民から忌まれていた記録はない。
(豊かな国……)
今からは考えられもしない。……けれど、この国・♢は商業の国。商業という豊かな文化の発展を促し、人々の生活に文明的な価値を与えるものがこの国の本質であったはず……。それを思えば、何も違和感はない。……むしろ、今の方が異常なのかもしれない。
 そんな先代の最期の記録を探してみる。そこにはただ一文、『秘宝の代償により死亡』とだけ記されていた。より詳細な記録はこの本には書かれていないらしい。
 仕方なく今度は秘宝に関する本を探し、同じようにめくっていく。最後の使用記録や、それに関する内容……おそらくそれが先代の願いの内容だ。
 秘宝に関する書物は異様に数が少なく、そして非常にページ数も少ない。その現実は、♢の王冠はやはり使用された回数が少ないのだろうということを示している。やはり、その命を奪うほどに大きな対価のせいだろうか……。
 ようやく発見した記述の内容、それは『この国の復興、あるいは持続を願ったのではないか』と言った内容だった。栄えるものも等しく皆いつかは意味をなさぬ枯葉のように朽ちていく……。きっと、今にまで続く衰退の原因があり、それを抑え込むために先代は秘宝を用いたのだろう。
 文字通り、この国のために命を捧げた……。果たして自分が同じ状況なら、同じ選択を取れただろうか? 先代に関する記録はほとんど残っていないが、それでも、先代達が命を賭して、この国の未来を繋いだことに間違いはない。
 例えそれが後世へ語り継がれることがなかったとしても、今後人より永い時を生きていく身として、自分だけは覚えておかなければならない。その名も残らぬ英雄譚を……。
 そっと音を消して本を閉じる。自分には同じことが出来るのか、その問いにまだ答は見つけられていない。自分はまだこの国について多くを知らない。幼体が絵札へと成る条件は分からないが、そこにこの国に尽くす覚悟が含まれていたのなら……未だに紋様が完成しない理由は自分の未熟さなのかもしれない。
 (あと1ヶ月……)
それがタイムリミットだなんて思うたくないが……そろそろ現実と向き合わなければ。そのために今できることは、ひたむきに、ただ努力を続けることくらいだ。
 弱い明かりの灯るランタンを手に、棚に戻した貴重な資料たちへ別れを告げて、彼は開架へと戻って行った。



***



 暗がりに音が滑る。傾いた西日が不気味に長い影を落として、幻想的なようにもどこか不気味にも思えた。
 「……では最終確認だ」
一つ黒く影に塗られた街並みと、赤く燃える夕闇の境に声が響く。低く、深く、苦潜って重く……耳を澄まさなければ聞こえない、そんな声が。
 「最優先事項は食糧の確保。不要な給仕たちと接触と戦闘は避けること。ただし、絵札は捕獲・殺害。作戦決行は午前3時だ。問題ないな?」
その声に数十人の人影が無音のままに頷く。今宵起きるのは小さな反撃。それがいつかの狼煙のろしになると、そこに集まった人影は盲目的に信じていた。
 この国の現状は厳しい。もはや一刻の猶予さえ残されていない。いつまで経っても貧困を嘆く暮らしは改善しないし、私腹を肥やす上層階級も減らない。不満と怒り。何もせず未来に願い続けるくらいなら、いっそ自分たちで変えてしまえ。
 ギラついた瞳には、そんな過激な炎が宿っている。悲劇を呼びたい訳では無い。無駄な犠牲を出したい訳では無い。
 隣国♤では、もう100年以上前に革命を成功させたと言う。悪徳に満ちたKINGを倒して……。この国には果たして今、絵札はいるのだろうか? 民間人の寄せ集めでしかない彼らは、その答えを知らない。
 もしもこの国に今もなお絵札がいるのなら、きっとこれは後世に語り継がれる偉大な革命となるだろう。もしもいなければ……ただの暴動か暴乱になるのだろう。それでも構わない。ただこの苦しみから開放されたいだけなのだ。
 「この国の未来を変えるのは我々である!」
誰かが力強く叫ぶ。それに答えるように、静かで力強い歓声が湧いた。結構は今宵。新月の暗がりに隠れて、ゆっくりと歯車が動き始めた。



***



 「ん~……?」
何かに呼び起こされるように、桃色の髪の青年は目を覚ます。手元にだけ灯った小さなランタンの明かりでは、壁にかけられた時計は暗くてよく分からない。
 とにかく時刻を確かめようと霞む視界を窓の外に向ける。新月の暗闇が不気味に赤くてらされていた。
 どうやら寝落ちしてしまっていたらしい。腕枕の下敷きになってた分厚い専門書を救出し、息苦しさに第一ボタンまで閉めた胸元を少し緩める。
 「……?」
着替えてベッドへ行こうと椅子を引き……ようやく違和感に気づく。目が覚めてきても依然としてぼやけた視界、月明かりが無いにも関わらず赤い夜空、鼻を突く異臭と息苦しさ、やけに煩い廊下……。まさか、
(火事!?)
そう思えば全てに納得がいく。
 火元の可能性があるのはキッチンぐらいだが……しかしなぜこんな深夜に? ……いや、考えている時間はない。
 寝巻きでないのが不幸中の幸いだ。そう慌てて立ち上がると同時に部屋のドアが勢いよく開き、
「おい、まだいるか!? 起きろ!!」
と切迫した様子の男が入ってくる。ノックもなしに無礼なものだが……今はそんなことも言っていられないか。
 焦った顔と煙で滲む視界では鮮明にその深刻そうな表情を読み取ることはできないが……声の主は昼間の訓練の相手・ACE OF DIAMONDだ。
 「いるよ! なんの騒ぎ?」
腕で口元を覆いつつ、できる限り煙を吸わないようにと身をかがめて扉へと駆ける。
「説明は道中、行くぞ」
「Si」

 廊下へ出て、顔を歪める。遠くから聞こえる罵詈雑言とも悲鳴とも取れる人間の声。何某かを訴えているのは確かだが、その声は不鮮明で言語として汲み取ることができない。
 嗅覚を刺激的灰と煙と……物も人も皆平等に焦げていく匂い。一体なぜ。つい数時間前まで、そこには平穏な日常があったはずなのに……。
 灰による刺激か、あるいは別の要因か……ぼやけた視界が涙で滲む。
「それで、何が……」
浅い呼吸を繰り返しながら、聞き取れるギリギリの小声で状況を確認する。他の皆は無事なのか? 原因は? 火元は? 天井付近で滞留する黒い煙のように、胸の内も疑問符で埋め尽くされていく。
 「多分暴動か何かだ。火元が食料庫だからな……。ここなら食べ物があるだろうと踏んで襲って……灯りとして持っていた松明かランタンかロウソクか……まあそういう物でやらかしたんだろ」
この状況にありながら、現状の第一位として国を守ってきたACEはた淡々と分析を述べた。
 確かにこの王宮は古く、木造で……燃やそうと思えばあっという間だ。しかし、
「食料なんて……」
ない。その日食べていくのがやっとなのは、この王宮だって変わらない。少ない食料を必死にやりくりして生きている。襲ったところで、大した収穫はないだろうに……。
 「犯人たちは知らなかったんだろうな。……ま、この城も見た目だけは豪華だし、富裕層の輩と同じだと思ったんだろ」
見た目が豪華なのはこの王宮が今よりずっと昔に造られて、その当時この国が豊かだったからに他ならない。ここ数十年で改築なんて行っていないのを、皆知っているはずなのに……。
 冷静に考えれば、きっとすぐにわかったはず事実。それを受け入れられない程に、この貧しさに心をやられてしまったのだろう。
 ガラガラと音を立てて崩れた、数メートル先の廊下に、意識は現実へと引き戻される。
「!」
現在地は四階。手近な部屋の窓から身を投げれば、運が良ければ助かるかもしれないが……怪我をするのは目に見えている。出来れば遠慮願いたい。
 反射的に振り返った来た道は、既に赤々と燃える炎に包まれており、ここから引き返すのは不可能に思われた。残された選択肢は、二つ。崩れ落ちた廊下の先へ、一か八かで飛び移るか、手近な窓から飛び降りて重症を追うか……。
 頬を嫌な汗が伝う。
「ど、どうしよう……?」
ここにひとりぼっちじゃなくて良かった。もしもそうだったら、きっと判断できずに焼死か窒息死だっただろう。
 自分よりも豊富な経験を持ち、冷静な判断力を持つ者へ……そう、ACEに判断を煽り見るが、件のACEも苦い顔で思考を巡らせているところだった。仕方がない、消防士でも無い限り、火事に見舞われるだなんてそうそうない経験なのだから……。
 (最優先事項は……)
隣にいるまだ若い青年を見やる。桃色の髪は炎に照らされて紅色に、赤茶色の目に火の粉が反射して黄色に見える。この青年を、何があっても生かさなければならない。そのためなら、自分の命など惜しくない。
 窓から飛び降りるとして、自分が下敷きになれば助かる可能性は上がるだろうか? ……いや、人間は三階以上の高さから落下すると意識を失うと言う。意識を失ってしまえば、守るものも守れない。それに、運良く助かったとしても、大怪我は免れないし、そのせいでもしも絵札の幼体が死んでしまったら……。
 幼体の肉体は、全体的に脆く、人間の肉体よりも物理的な損傷に弱い。小さな怪我でも命取りになるか弱い生き物……。
(……ダメだ、その選択は無い)
賭けに出るには危険すぎる。12年も皆で必死に育てて来た希望絵札を、こんなところで運任せに殺すことは出来ない。
 (なら、どうする)
考えている時間はない。刻一刻と火の手は迫っている。
 「いいか、今から言うこと、よく聞けよ。一度しか言わないからな」
日中の怪我でギプスをはめたままの左腕を無理に動かし、青年を右肩に担ぐ。
「うわっ!? 何するの!?」
混乱に叫ぶ声を無視して、そのまま下がれるところまで後ろへ。背中を炎が焦がす痛みが走る。
 「一つ、他の絵札を気にかけろ。お前がKINGだろうが、JACKだろうが、お前はいずれこの国を治める仲間に出会う。最も長くこの国を治め続ける者として、他の絵札に手を差し伸べ、いつだって国民を一番に考えろ」
「?」
下位互換、なんて称した能力に、こんな場面で助けられるなんて。自虐的に笑いながら能力を発動する。
 「二つ、何があっても信じたものを裏切るな。見捨てるな。信じると決めたお前自身を、そしてお前にそう思わでせた相手を、盲目的に信じてやれ。何があっても世界でたった一人でも、お前が味方になってやれ」
強く床を蹴る。徐々に加速して行く身体と、熱を帯びて頬を焼く空気の渦。頼むからもう少しだけ、崩れないでくれ。
「待って、ACE……? なんか変だよ。それじゃぁまるで……」
 「三つ、どんなに苦しくても、もがいて、足掻いて、生き意地悪く生にしがみつけ。絶対に手放すな。永くを生きるお前らは、きっと多くの命を見送る。今日のような凄惨な経験を繰り返すかもしれない。……それでも、後を追うな。失ったものを背負って、ひたむきに苦しみながら生きろ」
紡ごうとした言葉をさえぎられ、代わりに近づいてくる崩落地点。理解してしまう。この男がやりたいことを。だって、12年も一緒に生きていたのだから。
 「やだやだやだやだ! ACE!! ダメだよ! なにか別の方法がッ……」
無いことなんてわかっている。ふわり、風が凪いだ。

「四つ……今までありがとな」

待って、と叫ぶ声を無視し、本当に中身が入っているのか心配になるほどに軽い青年の体を投げ飛ばす。
 泣きそうな顔と、こちらに伸ばされる手。しかし、それを掴むことはしない。自分が共に行くことはできない。
自分たち兵は所詮駒であり、守ると決めた相手のために命を賭す。生き残ることよりも、生き残らせることの方が大きな価値を持つ狂人の集まりだ。
 そんな脆い狂気が、誰かのためになるのなら、助けになるのなら……それも悪くないだろう? 所詮はエゴだ。生と死の天秤を身勝手に決め、理不尽に思いを託す。大事な相手に生きていてほしいと願うのが、人間の性だから。抗えもしない本能だから。
 どさりと音がして、桃髪の青年は背中から床に叩きつけられる。受け身を取れば良かったと、つまりかけた呼吸の向こうで後悔した。しかし、例え伸ばした手を取られることが無かったとしても、見捨てることなんてできない。
 遠のいた熱。すぐに体を起こして叫ぶ。
「やだよ! ACE!! 一緒に逃げようよ!」
何故自分だけ……。人の命の上に出来上がっている生が、どれほど息苦しいものか、きっと人生の先輩であるACEは良く知っている。それなのに、そのエゴを押し付けようというのか……。
 「いいから早くいけ! そこもいつまで持つかわからん」
助かりたくないわけではない。しかし、手段も可能性も無い。だから……
「お前はきっと立派な絵札に成る。この国を良い方向へ導ける。大丈夫だ、ずっと傍で見てた俺が言うんだからな。……この国を、未来を……頼んだぜ?」
最後の最後まで強がって、こらえた涙を奥歯で噛み締めてエールを送る。せめて、彼の記憶の中の自分が、最期まで強く在るように……。
 石火の如く燃え震える喉と声を噛み締めて、絞り出すように叫ぶ。その勇姿を無駄にしないために。
「っ……Si. 君のこと! 忘れないからっ……! きっと、素敵な国にするよ。君が誇れるぐらい、素敵な国にっ……! 約束する、だから……」
涙で視界が滲む。もう、20なのに。泣き虫、直せって言われていたのに……。こんな時に限って、どうでも良い、幸せな思い出ばかりが蘇る。
 「いいから早く行けよ……。いつまで経っても、成長しねぇなぁ……」
苦笑いを浮かべた恩人へ、せめてもと、泣き顔の代わりにヘタクソな笑顔を取り繕って、
「Grazie……!」
踵を返す。一思いに。躊躇ったら、きっとその場に釘付けにされてしまうから……。
 視界が歪む。こんなにも熱気に包まれているというのに、涙があふれて止まらない。それを拭っている時間さえも惜しむように、唇をかみしめて廊下を駆け抜ける。振り返るな、振り返るな。
 息が切れる。心臓が耳元で脈打っている。噛み締めた唇から血がしたたり落ちる。けれど、そんな苦しみに襲われている間は、現実を思考しなくて済んだ。見殺しにしたのだ。恩人を。自分だけ助けてもらって、捨ててきたのだ。
 あぁ、恨まれればいい。どうか恨んでくれ。そうしたら、一生その罪を背負って、贖い続けて生きていくから。……きっと、優しい彼らはそんなことしないし、望まないのだろうけれど……。
 崩れかけた階段を駆け下りて、歪む視界の向こうから夜風が頬を撫でる。焼け落ちた裏口扉が倒れ、黒く口を開けた闇から冷たい風が吹き込んでいた。その風に揺らされて行く手を阻む業火が一瞬途切れる。
 まるで、この王宮そのものが、自分を逃がしてくれようとしているかのようだ。あるいは、力尽きていったが、少しだけ思いを傾けてくれたのかもしれない。



***



 背中が、遠ざかっていく。蠢く炎に、足音が消える。
(ばーか……男のくせに泣くなっての……)
疲れ果てたように、その場に身を倒した。めいっぱいにまで能力を使った反動で、もう、立ち上がろうとも思えない。……あぁ、もう立ち上がる必要も無いのか……。
 この人生に悔いがない、なんて言えない。こんなことが起こらなければ、来月の彼の誕生日を盛大に祝ってやりたかった。こんなことが起こらなければ、彼の着任を見届けて、仕え支えて、この国を変えていきたかった。こんなことが起こらなければ……。
 考えても仕方がないのに、湧き上がってくるのは無念ばかり。もっと一緒にいたかったに決まっている。剣術も槍術も、一人前になるまで教えてやりたかった。時々に見せる多様な表情をもっと知りたかった。願わくば、自分が寿命を迎えるその時に、傍で見送って欲しかった。
 近くに感じる死の香りに、否応なく視界が滲む。人に泣き虫だなんて言えた口ではないのかもしれない。でも……
(案外、悪くない人生だったかもしれねぇな……)
未練はある。後悔もある。生き恥の多い一生だったとも思う。
 不意に意識が揺らぐ。せめて苦しまなければ良いと思っていたが……熱に殺されるより先に、肺を埋める一酸化炭素に殺されそうだ。それなら、意識も痛みも無く、楽かもしれない。
 この世界に神がいたなら、この手で殺してやりたいが、あぁしかし、最後に一つ願いが叶うなら……
(どうかあいつを、無事に逃がしてやってくれ)



***



 炎に包まれた王宮の周囲には、人だかりができていた。皆、茫然とした様子で、燃え尽きていくこの国の象徴を見上げている。
 何が起きたのかわからない。自分たちは何も悪くないのだと信じている。そんな雰囲気に包まれ、炎の轟音と瓦礫の崩れる音、遠くから響く人の悲鳴を聞きながら、野次馬たちは異常な静けさを保っていた。
 中にはふと急に自分の家族や恋人がこの場にいないことを思い出して、心配そうに「ーーがいない」と口にする者はいたが、それに答える声はない。
 一体何人が犠牲になったのか……。一体何人が今、あの王宮の中にいるのか……。一体、今夜何が起こったのか……。この暴動に参加していない国民たちは、その一切を知らないらしい。
 しかしやがて、燃え盛るそれが、ただの大きな篝火かがりびに他ならないことに気がつくと、野次馬たちは一人また一人と去っていく。もしかしたらただの悪い夢なのかもしれない。この夜が明ければ、何事もなかったのかもしれない。そう、現実から逃げるように……。
 そうしてやがて、新月の夜にも関わらず、一際眩く輝く命の終わりのような大火の前には、たった一人が残るのみとなった。深くかぶった黒いフードで、その表情を伺うことはできない。ただ、ぽつりと
「……虚しいものですねぇ……」
と呟いた声だけが、誰にも聞かれぬままに夜空へと消えた。
 そのフードの内側で、銀の髪が揺れた気がする。



***



 半ば飛び込むようにして、その黒へ身を投げた。澄んで冷たい、冬と春の境目の空気が、熱された肺腑を冷やしていく。
 振り返る。聳え立つ、立派で、白く、豪華だった過去の城。それは今となっては、ただの無意味な火だるまと瓦礫の残骸だ。
 (……離れなくちゃ、崩れてきたら危ない……)
現実から目を背けるように、痛いほど冷静な頭で思考し、震える足を踏み出した。助かった、だなんて思いたくない。けれど、助けられたうえで助からなかったなんて無礼だ。
 そんな思考に終止符を打つように、銃声が一発、鼓膜を揺する。
「⁉」
刹那、膝に走る激痛。その場に立っていることもままならず、痛みに顔を歪めて崩れ落ちる。熱に焼かれるのとは違う、もっと直接的で強い痛みだ。
 「いたぞ! 絵札だ!」
焼け焦げちぎれた襟元から露出した♢の紋様……。続いてとんできた鋭い声に、否定を返そうと呻くが早いか、首に枷をはめられ、その場に組み伏せられる。
 「うぐっ……」
抗議と非難と助けを求めようと震わせた喉は、熱気に当てられて高温となった鉄枷に張り付いてしまう。息が詰まる。その痛みに耐えかねて唸り声をあげるほどに、張り付いた皮膚が引き裂かれ、悪循環を生み出していく。
 何故? 自分は何もしていないのに。見ず知らずの誰かの怒りを買うような生活も、迷惑をかけるようなこともしていないのに……。ただ平穏に生きてきただけ。苦しくても、ひたむきに。それなのに、こんな仕打ち、あんまりだ。
 肩口に何かを突き立てられる。うつぶせにされた視界では、それが何なのかわからなかったが、ずぶりと音を立てて、鋭い刃をもって肉へめり込んできた感触に、嫌でも予想がついてしまった。剣か、あるいはそれに近い武器。明らかに、こちらに敵意と殺意を向けている証拠だった。
 「ッ……」
痛みをかみしめる。悲鳴を上げるわけにはいかない。声を発せば、熱された首輪に張り付いた喉の皮膚がはがれてしまうだろう。
 情けない。助けてもらったのに、その命を無駄に散らしてしまうことになるだなんて……。無念が瞳から涙となって伝っていく。
 雫は荒ぶる風に揺れながらも頬を落ち、地面へ。青い雫型の宝石として。絵札の幼体が絵札へ変わる間のほんの僅かな時間だけに見られる、極めて珍しく、世間一般に知られていない不思議な生態の一つだ。
 それを見た襲撃者たちは、一瞬目を疑って、しかしすぐに
「おい、宝石だ!」
と、食いつくようにそのを拾う。炎の赤い光を反射する小さな宝石の欠片には傷一つなく、売れば相当な高値になることは間違いない。
 本来それらは、幼体を絵札まで育て上げるのが非常に難しいにも関わらず、彼らを見捨てず、最後まで寄り添った者たちへ対する感謝の証。そう、彼がたったこの数時間で失った、彼のたちに贈る物だ。彼の幸せを破壊し、王宮の従者たちを殺した犯人に与えられる物なんかでは断じてない。
 しかし、この状況において、その意味が伝わるはずもない。絵札の涙は宝石へ変わる。そう誤解した襲撃者たちがとる行動は一つ……。
「もっと痛めつけろ! 取れるだけ取るぞ! 食料が無かったんだ、このくらいの収穫は無いとな!」
飢えの挙句に人命を奪った強欲さに、倫理観を訴える方がおかしな話か。その顔には、狂った万遍の笑みが張り付いていた。
 「殺すなよ! 生かしたままやれ」
「わかってるっつぅの!」
ケタケタと嫌に煩い笑い声をあげ、その集団の内の一人が、恨めしそうにこちらを睨む青年の桃色の髪を掴む。無理やり顔を上げさせれば、傷ついた喉を刺激されうめき声が漏れる。
 「じゃぁまず手始めに~……」
何がそんなに楽しいのかわからない。奥歯を噛んで痛みをこらえる彼の赤茶色の眼球に向かって、男は左右一発ずつの銃弾を送り込む。
「ぁがっ……う……」
突如として奪われた視界。暗闇の中で、滑り気を帯びた液体が溢れていくのがわかる。光のない瞼の向こうから、楽しそうに笑う声が響いていた。
 「おいおい、目はまずいんじゃねぇの?www」
「いや、問題ないらしいぜ? ほら」
零れ落ちてきた小さな宝石を楽し気に拾い集め、苦しむ青年の指を折る。頬を切り、足を貫く。そのたびに呻きながら、涙をこぼす様が滑稽で仕方がない。
 「なぁ、コイツ、殺しちまうより持って帰って、死なない程度に拷問しようぜ?」
「いいな~、賛成!」
殺さなければ、永遠に価値を生み出し続ける存在ならば、周りに内緒で連れ帰って、自分たちだけ良い思いをした方が、何倍も得だ。むしろ、金の卵を産むガチョウを殺す輩がどこにいる?
 枷から伸びた鎖を引き、無理やりに王宮から引きはがす。たった今痛めつけられたばかりの四肢が、地面を擦られ、周囲に転がる小石やら残骸やらガラス片やらで、さらに傷ついていく。
 もちろんそんなことお構いなしの襲撃者たちの笑い声に、より浮き彫りになった自分の情けなさ……。
(っ……ごめん、ACE……。僕、せっかく、守ってもらったのに……)
こんなことなら、いっそ舌を噛みきって死んでしまいたい。大事な人たちを殺した輩に良いように使われるくらいなら……。
 それなのに、鼓膜の奥に反響するのは、何があっても生きろという大事な人の最後の言葉。例え嘘であっても、その思いを踏みにじることなんてできない。
 無力さにまた涙が頬を伝う。肉体的な痛みよりも、よっぽど心の傷の方が強い痛みを放っていた。宝石を拾う笑い声に、それらはお前たちのための物じゃないと言ってやれたらどんなに良かったか……。
 そんな折、背後で……否、頭上でガラガラと何かが崩れるような音がした。燃え尽き、限界を迎えた王宮が崩壊を始めたのだ。この世界の歴史が始まって641年、この国を守り続けていた王宮が。
 その無残な姿を、国民は一体どのような気持ちで眺めているんだろうか……。それを、彼に知る由はない。
「おい! 崩れるぞ!」
「逃げろ!」
それに気づいた襲撃者は、持っていた青年の鎖を手放し、我先にとその場を離れる。自分の命に危険が及んだ瞬間の人間の行動とは、なぜこうも愚かなものか……。崇高にも他人の命を守るために散っていった名もなき英雄の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
 しかし、そんな行動も空しく、次に聞こえてきたのがぐちゃり、と肉の潰れる音。もちろん、崩れ落ちてきた瓦礫が地面を打つ騒音と共に。
「っ……?」
ぎゅっと見えもしない目をつむり、身をこわばらせていた桃色の髪の、傷だらけの絵札の幼体。けれど、一方で彼には一向に痛みは襲ってこなかった。
 潰された瞳では周囲を確認することは難しく、とにかく、崩れ落ちる瓦礫の音が収まるまで身を縮めた後、状況確認のために手探りで周囲を這う。
 あぁ、足が動いたらどれだけマシだったか。あぁ、目が見えたらどれだけ楽だったか……。失った後に気づくなんて、人間の愚かさの体現のようだが、当然のことのようにあった感覚を奪われては、仕方がない事なのかもしれない。
 指先に触れる、ぬめりとした感覚。自分の眼球から流れ出た血液が頬を伝っていくのと同じ感覚……。その先にあるのは、何か、大きな固い塊。壁か屋根か骨組みか……材質だけで判断することは叶わないが、おそらくはこれが降り注いできた瓦礫だろう。
 不思議なことに、瓦礫は彼が居る場所を避けるように、円状に広がっていた。まるで、この王宮そのものに意志があり、どうしようもない状況の彼を助けるがため、自分の最後を捧げたとでも言わんばかりに……。
 まあ、そんなこと、あるはずがないか。ただの偶然にしては何か不可思議だが、もしかしたら、今日この場で命尽きていった彼の家族の願いが加護として届いたのかもしれない、なんて思っておこう。
 ただ、しばらく手探りで這ったところで、首に繋がれた鎖が伸び切って、動けなくなった。鎖の端を握っていた者が瓦礫に押しつぶされたなら、彼の鎖の端も一緒にその下敷きになってしまったのだろう。
 折れた指の痛みをこらえ、鎖を引っ張ってみるが……残念ながらびくともしない。
(……結局、ここが僕の死に場所かぁ……)
諦めのため息が漏れる。火の海に焼かれなかったにしろ、瓦礫に押しつぶされなかったにしろ、招かれざる客に殺されなかったにしろ……ここから動けないのでは、最終的に行きつく先は餓死だ。
 食事をしなくとも一週間は生きられるという話はよく聞くが、それはあくまで、水分はきちんと摂取していた場合に限る。人間は三日間水を絶たれれば生きていられない。
 おまけにこの熱気で大量の汗をかいてしまって、既に大分喉が渇いた。この調子では、あと何日持つのやら……。餓死する前に、運よく誰かに発見されれば、まだ助かる可能性はあるが……
(……嫌、だな……。怖い。また痛めつけられたらどうしよう……)
もう、人を信じることなんてできない。
 諦めてその場に仰向けになる。重さのある鉄の枷が、焼けて傷ついた喉にのしかかる。息苦しい。

 そうして、どのくらいの時間が流れただろう。十分? 一時間? あるいは一日だろうか? もう、誰の悲鳴も聞こえない。炎の音も、王宮が崩れていく音も……。全てが終わってしまった。何も見えなくとも、静かに冷めていく空気から察せてしまう。
 (……誰も、いないのかな……)
見えない視界、閉ざした瞼の裏側は、新月の空よりもずっと暗い。星の光なんて、見えるはずもないから。
 (うぅ……頭、痛い……。喉乾いたなぁ……)
脱水の症状に、眩む意識。思考が鈍って上手くまとまらない。
(……でも、このまま死んだら、ACEや皆に、また会えるかな……?)
後を追うなとは言われた。彼らがそれを望むとも思えない。けれど不可抗力。それならば、許してくれるだろうか……。
 たとえ生き残ったのとして、これから自分一人で生きていかなかればならない。この王宮を立て直し、この国を導いていかなければならない。

 ……なんのために?

真っ黒な疑問が一つ、波のように脳に広がっていく。
 一体、なんのために? 王宮を焼き、家族を殺すような国民のために、一体なぜ自分が苦しみながら、この国を導いていかなければならないのか?
 彼らの平穏を、幸せを祈れと? 自分からそれらを奪っておきながら……。
(っ……ありえない)
激情に揉まれ、乱れていた思考が収束していく。自らの内にひしめく本心へと焦点を当てた時……そこに広がる、ただ黒い感情に、気づかされてしまう。
 どうして自分が苦しまなければならないのだろう。こんなにも、この国の為にと思い、昔からできる限りの知識を詰めて、人生を捧げてきたと言うのに……。こんな結末、あんまりだ。
 それなのに……鼓膜の奥で響く、「国民を第一に考えろ」という言葉。まるで呪いのようだ。恨めしい。こんな現実を前にしてなお、国民を愛し、慈悲をかけていかなければならないなんて……。
 ため息の代わりに唇を噛む。国民を恨んだって、仕方がない。ACEの言いつけを、絶対に破りたくは無いから。
 ならばそれ以外で、一番憎いのは、誰だ? 何だ? どうして今、こんな状況に置かれている? この行き場のない感情を、一体誰に、何に向ければ良い?
 もちろん、一番の原因にあるのは今日のこの事件。きっと後世に名を残す惨劇だ。……けれど、それよりも悔いて止まないのは……
(僕が、もっと……しっかりしていれば……)
もっと多くの知識があれば、あの場でACEが自らを犠牲にする以外の方法を提案できたかもしれない。もっと早くに気づいていれば、自分が周りへ警告を発して回れたかもしれない。そうだったら、皆助かっていたかもしれない……。
 誰かのせいなんかじゃない。国民のせいなんかじゃない。ここまでの悲劇を生んでしまったのは、他ならないこの国の絵札の幼体でありながら、何も出来なかった自分自身のせいだ。
 もっと言えば、今日日中に街中へ出た時のあの治安の悪いような、不穏な空気を、誰かに伝えていれば……。あるいは、幼体だからと何もしないのではなく、学びながらにもできる政策を実行していれば……。
 自戒の意で黒い心を塗りつぶしていく。それが正しいことだとは思わないけれど……他人を憎むより、自分を恨んだ方が幾分かマシに思える。
 後悔先に立たず。本当にその通りだ。償いのために自分にできること……
(……きっと、素敵な国にする。もう誰も、苦しまないように。こんなことが、二度と起きないように。僕と同じ思いをする人が、いないように……)
涙と共に反芻する誓い。それを口にした時よりずっと強く。
 命の重荷を背負って生きていくこと。それはきっと、口にするよりもずっと苦しい。想像することすら難しいほどに。けれど、
(……それが一番の、償いだから……)
息を止める。行き場のない怒りを振りかざし、他の誰かへ復讐を向けるよりきっと、この国の為にと生きた方が死んでいった彼らは喜んでくれるだろう……。
 再度強く唇を噛む。苦い味がする。鼓膜の内側から響く、パキパキと何かのひび割れる音。まるで雛鳥が卵の殻を破るような……ゆっくりと壊れていく感覚。
 左の首筋に走る熱い痛み。吸い込んだ空気が、重く、そして果てしなく冷たく肺を支配していく。
(……変わらなきゃ。このままじゃ、何も変えられない。何も守れない)
強い使命感が、眩む脳裏を埋め尽くす。吸い込んだ空気が熱い。熱を帯びた目頭と呼応するように心臓が叫んでいる。

 刹那、瞼の裏で黄色い光が瞬いた。直後に首の左側に走る熱の感触。引っかかれるような、焼き入れられるような、鈍く、しかしなぜかそれを痛いとは感じなかった。ただ熱い。そんな不思議な感覚……。
 やがてその熱が引くと、今まで感じていた他の痛みも、連れられるように静まっていく。冷たい肺腑の空気に痛みはない。折れた指の感触も、切りつけられた足も感覚も……。
 そして、ゆっくりと目が開く。赤茶色の瞳は、暗い新月の夜空を映していた。弾丸で潰された痕跡はない。
 何度か瞬きをすれば、ぼやけていた視界も収束していく。視覚に異常は見当たらない。
(……傷が、治ってる……?)
確認した自分の手足も、喉元も傷一つない。それどころか、焼け焦げていた衣服も、所々煤けているだけで燃えた痕跡は見つからず、首を絞めていた枷は鉄塊と化して地面に転がっていた。
 黒い夜空の端に佇む過去の美しい面影もない、焼け落ちた城跡。美しかった庭園は無残な瓦礫に埋め尽くされている。全てが起こる前に思いを馳せるほどに苦しいだなんて……。
 (もしも……)
夜空にぼんやりと手を伸ばす。新月の夜、最も星の美しい夜。思い出したように涙に溺れた瞳の奥で、静かに明るく、しかしどことなく不気味で不穏に輝く光を見たような気がする。
 (もしも、願いが叶うなら)
脳裏に王冠が像を結ぶ。この国の秘宝。それを安易な気持ちで使ってはいけないことなんてわかっている。その代償が計り知れないほど重いことも理解している。
 この命を無駄に散らすつもりはない。けれど、ただの焼け焦げた残骸でも、そこには無数の思い出が存在していた。建て直したってそれらが元に戻るとは思えない。あくまで、新しくできた場所になってしまう。そんな気がする。
 星の瞬きとは違う光が手の向こうで形作る。魅入られるような、ひきつけるような、不思議な魅力を放つ、シンプルな形の王冠。
 あぁそう言えばと、不意に脳裏へ自分の名前が流れていく。なぜこんな時に? 理由は分からないけれど。ずっと失っていた懐かしい名前だ。
 その名に罪を刻み込むように、願う。禁忌へと踏み込むように。
(……お城を、返して。みんなと過ごした、あの場所を)
 本当に求めているのは場所などではない。あの日々、そのもの。……しかし、例えどんな最期であったとしても、穏やかに眠りについた者を黄泉の縁から呼び戻すなんて冒涜、許されないから。どれだけ寂しくとも、再会の願いはかなえられるべきではないから……。
 首筋が熱い。今度は間違いなく、鋭い痛みが走る。まるで警告のように。安易な願いであるのなら、ここが引き返す最後のチャンスだろう。
 燃えるような、ひび割れるような痛みを噛み殺し、強く光を見つめれば、今度はそこにはっきりと王冠の姿が見えた。曇りのない金のシェル、紅色のシルクでできた内張り。星の光を受けて、金の光を反射している。
(叶えて)
美しい王冠に向けて強く手を伸ばすと同時に、プツリと意識が途切れた。





***



 『この国で新聞を読む人間が、一体何人いるのだろうか。大半は掃除道具代わりに使われるか、あるいは火にくべられて終わる。仕方ない、紙は良く燃えるからね。
 かく言う私も、読んだ後はそうする。まあ、そもそもこの国には新聞社なんてないから、記事を書き溜めては隣国に持ち込み、隣国での売れ残りを国内で配布しているので、私はスパイ活動に片足を突っ込んでいるのかもしれないけど。
 この手帳も燃料に尽きたら牧の代わりにでもしよう。でも、今はとりあえずそうはならなさそうだから、今日も一つの記事について記録を残していこうと思う。

 書くまでもないが私は名もない新聞記者の一人だ。私には恋人がいる。……否、いた。現在行方不明……というか、おそらくほぼ間違いなく死んでいるだろう。
 今回の記事のテーマは、件の王宮についてだ。ご存じの通り、先日、この国の象徴であるあの白と金で飾られた美しい王宮が燃えた。近くまで見には行かなかったけど、私の家からもよく見えたよ。
 その日の夜は新月だった。私はいつも通り、自室で記事をまとめる仕事をしていた。私は主にこの国についての記事を書いているけど、活動場所は主に隣国。おかげで収入にも食べ物にも困ってはいない。
 とはいえ、♢と♤の国境には大きな森があり、♤に入国する際には♤の国境警備隊の許可を得ないといけないから、安全な仕事とは言えないけど。毎回あの検査は異常にピリついててかなり怖い。私の場合はビジネスだから、ありがたいことに毎度意外とすんなり通してもらってる。もちろん、♤の記事を書いて、♢で売ってるって状況だったら、即射殺されてるだろうけどね。
 話を戻すと、あの夜やけに外が騒がしくて、窓から覗いたら王宮が燃えているのが見えた。城門の前にはそれなりの人だかりができていたよ。よくもまああんな近くで見て、熱くないものだ。
 あんなにネタになりそうなこと、普段の私なら近くまで見に行かないわけない。ただ、今回は状況が違った。
 私は、今回の件について、事前にある程度知っていたから。それも偶然か必然か……運よく、両方の言い分を知っていた。……知っていながら、止めようとしなかった私は罪かもしれないけど。

 さてここで、前述の通り私には恋人がいた。具体的な日程は決まっていなかったけど、結婚を前提に付き合ってる人だった。彼のことについて書き始めると永遠に止まらないし、本題とそれほど関係ないし、何より思い出して辛くなりそうなので、今回は省くことにする。
 恋人は、今回のこの王宮焼失事件に関わっている。主に犯人側? の、方で。この表現で適切かわからないので、必要があれば後で訂正する。
 彼は仕切りに、「この国を変えるんだ」と意気込んでいたよ。まあ、そのための手段として、絵札の殺害と王宮の食料の強奪を提示してきたときには、正気を疑ったけど……。
 彼らの実行グループは、王宮に食料があると信じて止まなかったらしい。私も彼には、現実を伝えたんだけど……信じてはもらえなかった。
 この国の貧富の差は非常に激しい。富裕層は何不自由のない暮らしをしながら、貧困な国民から不当な搾取を行っている。王宮は見た目だけは豪華だから、そんな富裕層と同列視されることがよくあるのだが、現実はそうでない。
 王宮だって食料はカツカツで、他の国民と何ら変わりない生活を送っている。民の苦しみだって、王宮に勤めている人々が知らないはずもない。
 それどころか、この国に絵札はいない。存在しない絵札を殺そうだなんて……少し、飽きれてしまった。神を成敗する方法なんて、わかるはずもないのに。
 私がなぜこんなに王宮に詳しいのかというと、私には王宮で働いてる友人がいるから。彼女とは親友というほど仲が良いわけではないが……新聞記者として街中でインタビューのために声をかけたのが始まりで、馬が合って仲良くなった感じ。
 それで色々と事情を聴いて、建物は古くからあの姿のままだから豪華だけど、実際の生活はかなり厳しいことを知った。もちろん、この話を恋人にもしたんだけど……信じてもらえなかったよ。
 とはいえ、私はたった一夜で恋人と友人の二人を失うことになってしまった。淡々と綴っているように見えるかもしれないけど、かなり精神的にやられてる。多分、私と同じ思いをしている人が、この国には多くいるんじゃないかな……。
 全て夢であれ。そう願ったよ。あるいは、私の知人たちだけでも助かってくれって。
 そして次の日、いつも通りの朝が来て、窓の外の風景に目を疑った。そこには、何食わぬ姿で白と金の美しい王宮が佇んでいたから。もう……何を、どう表現すれば良いかわからなかった。
 昨夜のことは全部悪い夢だったのか、そう胸をなでおろす頭と、あわてて恋人の家に向かう体。ノックもせずに、合鍵でドアを開けて、扉を蹴破る勢いで室内に入り込むが……案の定、そこには誰もいなかった。
 寝室にも、リビングにも。小さな家だから他の部屋はなく、すぐに見て回れる。でも、探している人の姿はどこにもない。夢じゃ、なかった。
 友人にも連絡を取ろうと思ったんだけど、友人は王宮に住み込みで働いてるから、調べるためには王宮へ行かなければならない。記者でありながら恥ずかしいことに、すぐには覚悟が決まらなかった。何が起こったのか、理解できなかったし。
 とりあえず、まずは情報収集しなくては。そう思って、ひたすら聞き込みに尽くした。昨日の事件を知っているか。関わった人は身近にいるか。いるなら、その安否は知っているか……など。
 結果は予想通り。みんな私と同じ状態だった。誰も状況を理解していない。人がいなくなり、ただ建物だけが元に戻っている、不思議な状況。

 そんなこんなで数日が経った。聞き込みにこんなに時間がかかることなんて珍しい。……いや、きっと、現実を受け止めるのが嫌だったんだと思う。誰か、私の予想を外れる答えを、何も変わりなく過ごしている知人を知っていると、そう言ってくれる人を探していたのかもしれない。
 あはは……なんだか、惨めだ。まあ、私に話はこのくらいにして、ここからは今日の実際に王宮へ乗り込んで調査に行った記録を書いていく。本題に入るまでの無駄口が過ぎたかな?
 まずは王宮の城壁に沿って一周回ってみよう……と、思ったけど、広すぎて中を調べる時間が足りなくなりそうだったので断念。軽く城門付近を見て回ったが、代わり映えない城壁と、美しく装飾された城門。近くで見るのは初めてで、思わず立ち尽くしてしまいそうだった。
 門に施錠がされていないか、多少心配しながら押してみると、キィと軽く音を立てて門が開いた。あんなことがあってなお、施錠しないとは……。Politica di porta apertaの精神も、過ぎると問題がありそうだ。
 城門から真っ直ぐ進めば、すぐに城内には入れるが、先に庭園を見て回ることにした。だって、ミステリー小説なんかでは、勝手に忍び込んだら閉じ込められるのが定番だから。別に王宮の中に閉じ込められてもネタの塊だから問題ないが、どこからも出られず庭園を調べられなかっただなんて、悔やんでも悔やみきれない。
 春はまだ少し先。ゆっくりと芽吹き始めた、青々とした美しい葉と膨らんだ蕾。全てが花開けば、きっと圧巻の眺めだろう。よく手入れされた美しい庭園だった。

 しばらくそんな美しい光景に目を奪われながら見て回っている時、私は「ヒ……」と情けない声を上げて、その場に尻餅をついてしまった。記者なのに情けない? 仕方ないだろう、人がいるなんて予想していなかったんだから。
 その人は丁度庭園の手入れをしていた。歳は私と同じか少し若いくらい? だいたい二十代前半あたりに見える。桃色の細い髪に赤茶色の垂れ目の男性だった。
 「? わ、Ciao~ 珍しいね、人が来るなんて」
鈴を転がしたような高く甘い声。男性にしてはかなり高い方だと思う。顔立ちは整っているのに、笑っているようにも泣いているようにも見える笑顔が少し怖かった。
 彼はその場にへたり込んでしまった私へ手を伸ばし、
「大丈夫? びっくりさせちゃったかな……」
と困ったように首を傾げる。悪い人ではなさそうだと、その手を借りて立ち上がることにした。
 ひんやりとした、少し体温の低い手のひら。こちらが触れると同時に、彼は怯えたように一瞬肩を震わせていた気がする。むしろ怯えたいのはこっちだ。不法侵入しているのが私である点については何とも言えないが……。
 遠目から見たときはスレンダーだなとは思ったが、いざ目の前にしてみると思ったより背が高い。170cm以上はありそうだ。私に恋人がいなければ惚れていたと思う。あぁ、今件の恋人は行方不明か……。
 上から下までまじまじと眺める中で、ふとその首筋の印に目が行く。立てた襟にほとんど隠れているが、首の左側の全面……というよりは、左耳の付け根から刻まれている紋様は、どう隠しても隠しきれていない気がする。
「それ……」
首元の印を示すと、彼は少し慌てたような、驚いたような表情をして、咄嗟に左手で首元を隠した。あからさますぎる。嘘は苦手なんだろうか……。
 「あー……えっと……見えちゃった?」
困ったように眉根をハの字に寄せるので、頷いて返す。これでも記者だ。人を観察するのは職業病のようなもので、洞察力にはそれなりに自身がある。
「絵札?」
一撃で核心を射抜くように発せば、彼は諦めたように笑った。
 「あはは……えっと、つい数日前にね? まだ色々わかんない事だらけだし、う~ん……見習い絵札?」
こんなに頼りない男を、一体どうやって記事にしてやろうか……。この国の未来が心配だ。こんな誰もいない王宮に一人で、一体何を見習うのだろうか……。
 「何よそれw 変な人。あぁ、私はーー。あなたは?」
そう聞きながら、なんとなく、この自称見習い絵札さんが私に対して距離をとっているような、若干怯えているような態度の理由が分かった気がする。
 人は自分が傷ついたとき、苦しんているのは自分だけだと思いがちだけれど、現実はそうではない。彼がいつからこの王宮にいたのかは知らないが……おそらく彼も、あの事件の被害者のだ。王宮に火を放たれて、命まで狙われていた可能性があるのなら、人間不信になったって仕方がない。
 「僕は~……うーん……なんて名乗ろうかなぁ……」
何故ここで困るんだ。思わず突っ込みたくなるのをぐっとこらえて、その先を無言で促すと、
「じゃあとりあえず、JACKで。JACK OF DIAMOND. 本名は、またいつか仲良くなったら教えるよ」
なんて笑った。観察するのが私の職業病なら、笑うのが彼の職業病だろうか?
 「それで君、何でここに?」
彼からそう聞かれて、ようやく何も語っていないことに気が付く。
「調査よ調査! 一夜にして蘇った王宮に、消えた人々の謎……。きっと良い記事になるわ!」
題名だけでも、よく売れそうな気がする。私は生まれも育ちも♢。根っからの商人根性は認めよう。
 「消えた人々……? あぁ、それなら……」
彼はそういうと、手にしていた庭園の手入れ道具をその場において手招きする。ついてこいとでも言いたいらしい。
 一体どこへ行くのだろう? きっと彼は何かを知っていて、もしかすると皆無事にどこかで生活しているのかもしれない。そんな期待からか足が急ぐ。

 彼に案内された先に会ったのは、一つの墓石。あぁ、わかっていたとも。わかっていた。自分の信じたいと願う幻想が、諸全幻想でしかないことくらい……。
 「……ここには誰が?」
自分で退路を断ちに行くなんて愚かかもしれない。けれど、最後の希望に縋るように、あるいは自分から絶望へ落ちていくように、私はそう確認を取る。
 「ここにいた人たち。圧死と窒息死の後で丸焦げになっちゃった人がほとんどで、あんまり回収できなかったんだけど……せめてお墓は建てておこうかなって思ってね……」
伏せがちな瞳で静かに墓石を見下ろす表情が、どこか恐ろしかった。なぜそんなに淡々と言えるのか。
「お城が元に戻ったって、お墓を建てたって……もう誰も、帰ってこないのに」
ぽつり、呟いた言葉が鼓膜を揺する。水底を思わせるほどに、酷く冷たく、悲し気な声色に、思わず彼の方を見てしまう。
 張り付けた不器用に上がった口角と、伏せた瞳。そこに涙は浮かんでいなかった。



何を考えているのかわからない。ただどこまでも深い悲しみがあるようで……しかし、その裏にもっと黒く残酷な考えが滲んでいるようで……。
 絵札に対して、私たちは本能的に恐怖を覚えると聞いたことがある。もしかしたら、それなのかもしれない。どこか不気味で、しかし儚く、手を伸ばしたくなってしまう不思議な魅力を持った人。
 「あ、そうだ。君、ここに調査に来たんでしょ? なら、ここで働かない?」
そんな思考に思いを馳せていた折、急にそんな提案をされる。待て待て待て待て、その提案はあまりに筋が通っていなくないか?
 彼は私のその怪訝そうな表情を読み解いたのか、
「自分で言うのもなんだけど、この王宮かなり広いよ? 一日かそこらじゃ、絶対調べ終わらないって。だから、ここで働きながら調べればいいんじゃないかなぁって思ったんだけど……。その方が僕も楽しいし、人手は見ての通り足りてないからさ!」
と補足してくれる。可愛らしく笑った楽しそうな声。先ほどの私に対する怯えに似た態度は一体何だったのか……。
 「えぇ……? まあ、良い提案だと思うけど……報酬は? 働くって言うんだったら、例え調査の一環であっても、ただ働きはお断りよ?」
そこは私も♢の民。自国の情報を他国に売っているような状況だが、自分が不利になる可能性があるなら、交渉は怠らない。
 すると彼は、心配するなと言いたげに、自分の胸ポケットから小さな青い欠片を取り出して見せた。澄んだ太陽と青空の光に当てられて反射したそれは、どうやら何かの宝石のようだ。
 「生憎、現金は無くてさ。売ったらそれなりの価値になると思うんだけど~……どう?」
確かに、雫型に綺麗にカットされたその青い宝石は、♤に記事を売りに行くときに一緒に持ち込めば、それなりの値が付きそうだ。
 「……のったわ。働いてあげる。私は何をすれば良い?」
「えっとね、全部人手不足なんだけど~……まあ、女の子だし、メイドさんとか?」
メイドか……悪くない。私の友人が、もうこの世にはいない友人が、前に従事していた職業。果たして私にできるだろうか?
 ……まあ、問題ないだろう。この王宮にはおそらく、私と目の前の青年しかいない。迷惑をかける相手もいないのだから、失敗も経験の内だ。

 鏡の前に立つ。くるりと一周回ってみれば、柔らかなフレアのスカートが持ち上がった。中に敷き詰められたこれでもかという量のフリルが邪魔くさい。けれど、まぁ……かわいいかな。女子ならば一度は憧れる姿に、私は僅かに口角を緩めた。
 コンコンコンと三つノックが響いて、
「着替え終わった? 入っても良い?」
と律儀に廊下で待っていた、これから仕える主の声がする。あんな情けない男、主だなんて思いたくないが……KINGのいないこの国では、JACKである彼が一位の座についているのだから仕方がない。
 「いいわよ」
度胸がなさそうだとは思ったが、やはり覗きなんてできなかったらしい。ほんの少しだけ扉を開けて、中の様子を確認してから、本当に着替え中ではないことを確認すると、ようやく彼は入室した。そんなに警戒しなくても。
 そして私の姿を視界に収めると、
「わぁっ! すっごく似合ってるよ! 可愛い!」
なんて無邪気に声を上げる。見た目は20かそこらに見えるが、精神年齢が見合っているか……と思いかけて気づく。そういえば男性の精神年齢は、実年齢より3つほど低いらしい。
 あぁなるほど、そう言われてみれば納得かもしれない。こんな顔だけは良いちんちくりんが、今後仕える主だなんて……。心の中でため息をつきながら、
「これからよろしくお願いするわね? 君主様?」
と恭しく頭を下げてみる。つまんだスカートは存外軽い。
 「く、君主だなんてそんな……。僕はJACKだし……」
少し照れくさそうにたじろぐ姿は、いじりがいがありそうだ。
「何言ってるのよ。この城を治めてるのはあなたなんだから、自信持ちなさいって」
ケタケタと笑う。
 あくまでこれは調査だ。その目的のもとで、私はここで働くだけ。しかしまぁ……これから突飛な日々が始まる気がする。いつか彼の本名も聞き出してやろう。

 この手帳は、ネタになりそうな話と記事の基を書き記すための物だ。だから、ここに今後私のメイドとしての生活が綴られるかは定かではない。けれど、いつか再度この王宮が人でにぎわい、この国が暴動なんて起こらない平和な国になったらその時は……また何か記事を書こうと思う。
 私はそう、手帳を閉じた。』


【2-x-3.鳶の回廊B】
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