烏と狐

真夜中の抹茶ラテ

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第二章:黄昏の深紅

2-x-1.鳶の回廊A

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 最初に届いたのは、どこまでも無垢で気楽そうな鳥のさえずりだった。泥中に沈んだが如く重い瞼をもたげれば、視界に飛び込んで来るのは見慣れない天井。窓の向こうで光が踊り、吹き込んだ穏やかな風が薄いレースのカーテンを揺らす。その向こうで揺蕩う雲は淡く、午後の美空へと同化していた。
 背を支える柔らかな感触に手をついて、二度寝の微睡みから覚めるようにぼんやりと周囲を見渡せば、視界の隅でちかりと何かが瞬く。それに導かれるように視線を向ければ、鏡の向こうからこちらを見つめる少年と目が合った。
 不安げに垂れた眉、頼りなく揺らぐ赤茶色の瞳、風に遊ばれた細い桃色の髪……。ぼんやりと夢現なまなこでこちらを見つめる歳にして10へ届かないであろう少年に、特筆すべきことと言えば首の左側……否、それが左右対称であることに留意するならば右側に、あざにも似たシミのようなモノが描かれていることだろうか。
 それが、鏡に映ったの姿だと認識するまでに、しばしラグがあり、そうしてようやく焦点が合うように、脳はそれが鏡の向こうの人がいる訳ではなく、ただ単純に光を反射しているだけなのだと回答を導き出した。
 不可思議なことに、未だ白昼夢から覚めやらぬように、全てが俯瞰ふかん的で、まるで誰かの人生でも追体験しているかのような、三人称的でどこまでも現実味がない……。人は一体いつから、その反射する虚像を自分の姿だと明瞭に区別できるようになったのか。知りなどしないが、自分からすればが到底だとは思えない。
 頭では理解しているのに……、なんて気持ち悪さが胃の中でうずめいて、逃げるように白雲漂う空へ視線を投げた。先程まで響いていた小鳥の歌もどこか遠く、煽られたレースの擦れる音だけが、どこまでも現実感を見せつけている。
 かちゃり、軽い金属の音がして、反射的に振り返った先にあるのはこの部屋の出入口。
「ーー……ーーーーーーーーーーー……」
感嘆とも安堵ともとれる深い声を吐いたのは、ちょうど入室してきた白髪混じりの老執事だ。しかし、その声色が穏やかなものであることは理解できるものの、紡がれた音が意味する言葉を、その少年は知らなかった。
 「えっと……あの……」
静寂が閉ざしたらきっと自分は耐えられない。静寂から逃げるように無為な音を吐き綴っても、老執事は何らかかをのたまうばかり。スルスルと流れていく異国の言葉は、鳥の囀りなんて可愛らしいものではなく、ただひたすらに混乱する脳を掻き乱していく。
 なんだか自分が間違っているような、言いようもない不安感に駆られて、老紳士の静かで、しかしどことなく活力を秘めた強く明るい瞳から逃げる。落とした視線は自分の小さな手の甲へ。幾らかの傷にまみれてはいるが、薄い橙の肌の向こうで脈々と流れる血流が透けていた。
 「ーー……」
ようやく、一方的に何かを話していた老人が言葉をとめ、踵を返す。何をも答えない不躾な少年を見限ったか、あるいは……。
 どうしようもなく悪いことをしてしまった気がする。柔い肌に爪を立てて拳を握れば、無意味に涙がこぼれ落ちそうになった。馬鹿馬鹿しい。自分でもわかっているはずなのに、正しく自分の感情や思考をまとめられない時、何故か人はそれらの言葉を飲み下して、代わりに温い雫を落とすものだ。
 とくとくと響く鼓動の音と、吸い込んだ呼吸。あぁどうしよう……。言いようも無く唇を噛んだ時、
「あぁ、起きたのか」
再度開いた扉から、先の老執事に連れられてきた男性の声がそれらを打ち消した。
「……!」
耳に馴染みのある言葉。たがいなく聞き取れた文字列に心臓が跳ねる。
 老執事と並んだ男性の胸には、美しい赤い宝石で作られた♢のバッヂと、それを支えるように飾った金のAの印。しなやかに鍛えられた大柄な体躯を屈め、少年の座っているベッドの横へ膝をつけば、その青い目がずいと近づいた。
 「あー……なんだ。……ようこそ♢へ、我らが幼き主よ」
吐き綴る台詞の臭さに顔を顰めつつ、少年の小さな手を取る。握ったら壊れてしまいそうな脆い体温が伝っていく。
 「え……あの……その……?」
しかしながら、当の本人の理解が追いつかない。♢……? ♢、確か、国の名だったはずだ。
 (……あ、れ……?)
そして浮かび上がる疑問符。ここはどこだろう。なぜ自分はここにいる? それに気づいてしまえば、とめどない違和感が胸中を埋めつくしていく。何かを失ってしまったような、しかしながらそんなもの、初めからなかったと信じ込もうとする空虚感。先程胃をかき混ぜた不快感が、再度喉元を締め付けているような気がした。
 「まあ、突然こんなところ連れてこられて、驚くのは仕方ないと思う。そのうち慣れるだろ。あと、この国の言葉も覚えないとだな。会話に困るだろ」
これから大変だぞ、なんて笑う苛烈でいて朗らかな男。何一つと理解できないまま流れていく世界に置いていかれた少年の心には、全てが空虚で、そして無意味に通り過ぎていくばかりだ。

「で、お前、名前は?」



 それから数日、ようやくわかってきた気がする。自分の置かれている状況が。
「あぁ盟主様、また間違えましたね。そこはこうではなくて……」
目の前に立った丸メガネの似合う教師は、たった今書き綴った文字に修正を入れ、いくつもの言葉を並べ立てては失敗を訂正していく。
「うー……わかんないよ……」
思わず唇から漏れた不満とも取れる嘆きが零れ落ち、項垂れるように頬杖を着いた。
 現在地、♢の王宮。ここ東の内陸国・♢の中心に位置する象徴たる宮殿の、KING OF DIAMONDの執務室だ。身の丈に合わないとしか思えない高級そうな家具に囲まれて、桃色の髪の少年はこの国の言語を学んでいる。
 目の前に広げられた辞典と赤いバツ印の問題の山。同じ羽という意味のplumaプルーマという単語でも、この国ではpiumaピウーマと綴るらしい。それらを全て覚え直していくのは無謀にさえ思えた。
 投げ出したい気持ちの方がもちろん強いが、喋れなければ意思疎通もできず、覚えなければ満足に本も読めない。ここで、この国で、この王宮で……生きていくには言語が必須だ。
 「はぁ……仕方ありませんね。今日はここまでにしましょうか」
「ほんと!?」
パッと表情を明るくして、席を立った少年に、教師は思わず苦笑いを浮かべた。しかし、仕方の無いことか。こんなにも幼い子供の自由を奪い、その座に縛り付けるだなんて、自分たちは悪役にしか見えないのだから。
 「えぇ、ほんとですよ」
ため息混じりに返せば、そのまま手を引かれ、
「じゃあおやつ食べに行こ!」
と厨房の方へと連れていかれる。全く、これだから子供というものは……。しかしまあ、これもこれで良いのかもしれない。



 「ちゃぁお! おやつください」
少ない食料を何とかやり繰りしようと知恵を働かせていた厨房担当のメイドたちは、その明るい声にハッと顔を上げる。状況を理解していない少年は、ただ愛らしく困ったように眉根を寄せた。
 こんな幼い子供に我慢をさせるべきではない。それが一番初めにメイドたちの脳によぎったことだ。
「かしこまりました、盟主様。これから準備いたしますので、少々お待ちください」
苦笑いを隠すように軽く頭を下げ、さて……と調理場を見渡した。
 僅かばかりの栗と、芋の欠片……。卵やミルクは家畜から取れるから良いとしても、子供のおやつにはあまりに無惨な面々だ。……しかし、長年こんな状況に直面し続けた彼らは強く、いくらかの知識と技術を有している。
 吐き出したい溜め息を胸中に押しとどめ、興味ありげな大きく瞬いた瞳をこちらに向ける少年を背に、調理台へ。切り落としのような栗を潰してペーストに、芋の欠片は蜂蜜と共に煮込んで甘く味付ける。それらを卵と混ぜて焼けば、砂糖も小麦粉を使わずにパンケーキを作ることが可能だ。
 ふわりと漂った甘い香りに、
「わぁっ! いい匂い! もうできる?」
少年はたちまち高い声をあげた。あぁ、なんと可愛らしい。
 「焼き上がるまでもう少しかかりますよ」
食事には飲み物が必須だ。水なら井戸から地下水を組み上げることはできるが、おやつのお供にはあまりに味気ない。
 子供の味覚にコーヒーは可哀想だろうか。残念ながら砂糖は砂金と同等の価値を持つため、甘いコーヒーというものはそれなりの希少性を持つ。また、豆自体も♢南部である程度生産されているが、それでも十分な量存在しない。
 故に、この国で一般的な最も安価な飲み物はハーブティだ。特に言及するならば、ミントティが最も庶民的と言えよう。実際、ミントは栽培にそれほどの手間がかからず、無駄に広い温室で量産されている。
 ティーポットに茶葉を入れ、沸かした湯を注ぎ、しばらく待てばふわりとミントの爽やかな香りが鼻を刺激した。ただ、ミントの強い香りは子供の好みに大きく左右されてしまうため、先ほど使用した蜂蜜を一掬いして混ぜる。
 ちょうどその辺りでオーブンを覗き込めば、焼き上がりを示すきつね色。
「さあ、できましたよ。熱いですから、火傷しないように気をつけてくださいね。Buon appetito召し上がれ
「はぁい、Gracias!」
つい口を突いて出た母語に、隣に大人しく腰を下ろしていた言語教諭は
「……盟主様、この国ではgrazieと言うのですよ」
と静かに横槍を入れた。
 「まあまあ先生、良いではありませんか。お茶の時間くらい許してあげてくださいな」
一瞬、しゅんと眉根を寄せた少年を庇うように、メイドは穏やかな口調で笑いかけ、教師にもミントティを提供する。もちろん、蜂蜜は入っていない。
 やれやれと首を横に振りつつ、まあ、時には勉学を忘れることも必要だ。この数分間だけは見逃してやるかと、僅かに息をこぼした。
 行儀よくパンケーキを一口大に切り分けて、ゆっくりと口に運ぶ。口内を満たす甘い蜂蜜の香りと芋本来の甘さ。それから、小麦粉の代わりに使われた栗の甘み。質素と言えばその通りだが、これはこれで美味しい。
 ただしかし、水気は少ないため口内はあっという間にパサついて、少年は提供されたミントティに口をつける。やはり、お茶よりもジュースの方が好きだ。
「……?」
その思考に、一瞬疑問符が浮かぶ。
 ……? この国はどこも深刻な食料難に直面しており、ジュースなどという高級品、滅多に口にできていないと言うのに、なぜ、今その思考が脳裏をよぎったのだろうか。
 自分は以前に、ジュースを飲んだことがある? それしか思い当たる説は無いが、間違いなくこの国では不可能だ。母語では無い異国の言葉たち、知らない環境……おそらく自分はこの国の出身ではない。もっと豊かな国にいたのであろう。
 ではなぜ、♢に? 国境を跨いでの移動は危険を伴う。♢に隣接した国は♧と♤。♧との国境には険しい山脈が連なっており、♤との国境には深い森が立たずんでいる。忍び込むことも、または脱出することも不可能な、陸の孤島♢……。
 自分の失っている過去に触れられそうで、しかし、手を伸ばせば霧のように消えていく仮説を、ミントの強い香りと共に喉の奥へと押し込んだ。もちろん気にならない訳では無い。……が、覚えていないことを考えたところで無意味だ。
 自分がここへやってきた経緯を考える代わりに、
「二人はどうしてここで働いてるの?」
と、メイドと教師に対して突発的な質問を投げかけた。急に話を振られた大人二人は、一瞬きょとんとした表情を浮かべ、顔を見合せる。
 「……私の家は、代々♢の絵札様にお仕えしたきたのですよ。それこそ、先代の頃から……。陰ながらこの国を支えられることが、私の誇りであり、我が家の誇りなのです」
先に答えたのはメイドの方だった。少し気恥ずかしそうに、しかし凛と胸を張って紡いだ答えに迷いはない。彼女は本心から、この王宮に仕えられることを喜ばしく思っていることが、その言葉の端々から伺い知れた。
 「先代の頃から……?」
少年の興味は、この荒廃した国をかつて治めていたであろうその人物たちに引き寄せられる。
「えぇ。先代方に関する資料は図書室にございますよ。もしご興味があるのでしたら、司書にお声をかけてみてはいかがでしょう?」
先代の時代と言っても、二代目の絵札が存在した時代は今から二世紀も前の話だ。さすがに、代々♢の王宮に努めている彼女の家系であろうと、詳細な口伝は残っていない。
 「うん、後で図書室寄ってみるよ」
この廃れた国を、一体先代たちはどのように治めていたのだろうか。どのような人物だったのだろうか……。絵札についての詳細は、言語学習が終わってから取り掛かる予定であるため、彼は未だほとんどの知識を有してはいなかった。
 そうして、メイドの話が一段落すると、今度は教師が口を開く。
「私の場合は、兄の影響が大きいでしょうね……。恥ずかしながら、私の兄は旅人で、何かの職に就くことも、大きな目的もなく、各地をふらふらしているような愚兄なのです。あぁはなりたくないと、この職に就き、今ここにいるというわけです」
もちろん、旅人を悪としているわけではない。が、どうしても兄の行動は、ただ方針もなく自由気ままにふらふらしているだけで、とてもではないが真似したいとは思えなかったのだ。
「王宮に勤め、次期国王となられる盟主様の教育係を務められるなど光栄です」
 兄……。その単語に引っかかりを覚える。自分には兄弟がいたのだろうか? 灰色がかった記憶の霧の向こうに、ぼんやりと過去の像を浮かべて思考する。どうせ、思い出せるはずも……いや、
(……兄ちゃん)
霧のように指の間から零れ落ちていく失われた記憶を、今度ばかりは掴み取る。間違いない、自分には兄がいた。
 しかし、思い出せる記憶はそこまでで、兄がいたという確信意外、何をも掘り起こすことはできなかった。どんな人物だったのか? 自分と兄とはどのような関係だったのか? その兄は、今どこで何をしているのか……。気になることは山のようにあるのに、どうしてだろう。その答えは自分の手の届く範囲には存在しない。
 「……どうかいたしましたか?」
急に黙りこくった彼を心配するように、教師は少年の顔を覗き込む。何か気に障ることでも言ってしまっただろうか……。
「! う、ううん、なんでもない! ちょっと考え事してただけ……」
心配させないようにと首を振り、いつも通りに笑顔を張り付ける。ただ一つ、自分は今この瞬間、確実に自分の過去に近づいたのだという確信は、彼の小さな心にともしびを作った。
 「そうですか……?」
未だ心配そうに首を傾げる教師と、そんな教師と顔を見合わせて眉根を寄せるメイド。その二人の視線から逃げるように、手元のティーカップをソーサーへ戻し、
「ぐらっちぇ、えー、いる、ぱっそ!」
拙い発音で席を立つ。
 それに対してメイドは、
Sono contentoお粗末様でした
と返し、その隣で言語教師は
「正しくは、Grazie per il pastoごちそうさまでしたと発音するのですよ」
と冷静に訂正を加えた。
 そんな言葉が彼の背へ届くころには、厨房の扉はパタンと音を立てて閉じてしまっていたけれど。マナーに関してはまだまだといったところだ。



 駆け足で廊下を進み、まだうろ覚えの階段を上る。この広い王宮の地図を数日で覚えきるのは、些か不可能に思われた。向かう先は言うまでもなく図書室。この王宮には数百万の蔵書があると聞く。きっとその内に、先代たちの記録も含まれているのだろう。
 人通りの少ない廊下を駆けていく。もしもこの場に教師がいたのなら、廊下を走ってはいけないと注意されたに違いない。
 しかしそれだけのことなのに、何故だろう、この胸の内のざわめきは……。何気ないただの日常の一片。それがまるで、以前にも同じような行動をとったことがあるかのように。人はそれをデジャヴと言うのだろうか? ただ、答えは見つからない。
 (えっと……多分、ここ……だよね?)
大きな扉の閉ざす一室の前に立ち止まる。扉にはBiblioteca図書室の文字。幸い、この単語は西♡語でも南♢語でも同一らしい。
 特に意味もなく緊張しながら扉を押し開けると、姿を現すのはどこまでも続く本棚の迷宮。温もりある重厚な木材のそれらは、中に敷き詰められた蔵書の重みに、棚板は今にも湾曲してしまいそうだ。遥か上方から降り注ぐ暖色の光が書籍の背表紙を彩り、この世の英知を結集させたと言わんばかりに多数のジャンルの知識たちが列をなしている。
 一歩踏み込めば、静寂の閉ざすその厳かな雰囲気は教会にも似ていて、思わず息をのんだ。
「すごい……」
思わず感嘆の言葉が口を伝ったことにも気づかないまま、まるで立ち並ぶ紙の香りに、一歩、また一歩と奥へいざなわれていく。
 「お気に召しましたか?」
不意に鼓膜を震わせた音に、少年は反射的に振り返った。音源にいたのは一人の女性。後ろで三つ編みを作るように髪をまとめ、丸い眼鏡を緩く鼻にかけた穏やかな雰囲気の彼女は、どうもこの本の森の番人らしい。
 「あ……えっと……」
そもそも目的の探し物があってここへやってきた彼からすれば、こうして本を物色したいわけではない。ただ、あまりに圧巻な眺めに視線を奪われてしまっただけで。
 思わず言いよどみ、この空間を支配する静寂が二人の間に流れようとしたが、それを許すわけにはいかないとでも言いたげに、
「本を、探していて……」
と、拙い言葉で彼はゆっくりと続ける。一度でも静寂に飲み込まれてしまえば、もう二度とその先の言葉を発せなくなるような気がしたから。
 「おや、どんな本ですか? ここにあるものでしたら協力いたしましょう」
知識の番人たる司書は、物腰柔らかに少年と目線を合わせてしゃがみ込む。さすがにこの空間に存在する全ての本の名前を記憶しているわけではないが、どのあたりにどの種類の本があるのかは把握しているし、彼が探している特定の一冊が見つからなかったとしても、代替案を提案できるはずだ。
 「えと……先代の、絵札の記録が知りたいです」
その言葉に司書はようやく、彼の首の左側に刻まれた、♢の紋様に気が付いた。どうやらこの少年は、この国の未来を担う存在らしい。そうとなれば、一般に公開されない詳細な情報であっても、彼に渡してやるべきだろう。
「かしこまりました。こちらです」

 司書が案内したのは閉架。一般的には公開されていない貴重な文書を保管するための書庫だ。開架の気圧けおされるほどの物量もそうだったが、ここはまた違った雰囲気が包み込んでいる。
 立ち込めた古い文書の匂い、静かに劣化していく羊皮紙と、黄ばんだ紙を閉じる無駄に重厚な皮の背表紙。そこに刻まれていたはずの文字は風化し、歴史が人々の記憶から消えることを体現するように薄れていく過去の息吹だ。
 きょろきょろと興味に踊らされ、読めもしない難しい単語の織り成す表題に視線を走らせていた少年の瞳は、
「ここが先代に関する記録になります」
と示した司書の声によって一点に定まる。ずらりと並んだ分厚い革表紙と、金箔によるタイトルの刻印。もともとは鮮やかであっただろうその輝きは、既に二世紀の時を経てくすみ、ところどころ剥離してしまっている。しかしそれでも、そこに三枚の絵札に関する記録があることは理解できた。
 「……これ、触っても大丈夫?」
長い時を経た貴重な文書は、下手な触り方をすればより傷をつけてしまうだろう。過ぎった思考に、伸ばしかけた手は虚空で止まってしまう。
「こちらの手袋をお使いください」
そうして秘書が差し出したのは、清潔な白い手袋。こうすれば、皮脂による劣化やインクの掠れを軽減させることができる。
 少しばかり大きい手袋をはめ、とりあえずと先代のKING OF DIAMONDに関する記録に目を通す。案の定わからない単語の羅列に目が回りそうだ。それでも、わかる言葉からなんとなくの雰囲気を掴むこと程度はできる。
 ぱらぱらとできるだけ本を傷めないように注意しつつ、必死に異国の言語を睨みつけていく。そこから理解できたのは、先代のKINGは公正な統治と賢明な政策によってこの国を治めていた、偉大な国王であったこと。読み取れた部分はそれほど多くないが、それでも民から慕われていたということは、火を見るより明らかだった。
 それは、続けざまに読んだQUEENやJACKの伝記も同様で、自分には到底同じような絵札に成れるとは思えなかった。そしてどうも、この国は二世紀前にはとても栄えていたらしい。絵札を失い、ここまでこの国が堕ちようとは、きっと先代たちは思いもしなかっただろう。
 少し疲れたような表情で、静かに三冊の分厚い伝記を閉じた少年に、司書は少しだけ心配そうな表情を向ける。こんなに幼い少年の未来を、「絵札だから」という理由で、この国に、その座に縛り付けることは果たして正しいのだろうか……。
 しかし、この国の状況を前に「絵札に成ることを強制するつもりはない」などと言える猶予は、もう一刻もない。せっかく現れた打開のすべが、ようやく掴めそうな一筋の希望が……彼という、その幼い命なのだから。それが彼にとってどれほど苦しい未来になろうが、暗闇に沈み続ける自分たちへ救いの手を差し伸べてもらわなくては困る。
 「……大丈夫ですか?」
小さく息を吐き出して、ほとんど理解できなかった厚い皮の表紙を見つめ続ける少年に、司書は心配そうに声をかけた。
「……うん、大丈夫。でも、ちょっと難しかったかも……。もっとちゃんとこの国の言葉がわかったら、また読みに来てもいい?」
彼はそんな心配を他所に、想像以上に前向きに笑顔を向けて、困ったように首を傾げる。……彼が、この国を治めることになるならば、この国の未来はきっと明るい。
「えぇ、ぜひまたいらしてください」
司書はそんな期待を込めて、首を縦に振った。

 開架へ戻れば、不思議と少し開放的に感じられた。室内であるにもかかわらず、吸い込んだ空気はどこか澄んでいるようで、鼻を抜ける紙の香りが心地良い。
 「何か他に御用がございましたら、お申し付けください」
司書はそうとだけ告げ、閉架をしっかりと施錠してカウンターへ戻っていく。今日ここへ訪れた目的は半分達成したようなものだが、せっかく普段来ない場所へ踏み入ったのだから、もう少し物色していっても良いだろう。
 とはいえ、まだこの国の言語が理解しきれていないため、読めても絵本が限界。しかし、8歳にもなって未だ絵本から卒業できていないというのも、なんだか恥ずかしい気がしてしまう……。
 特に当てもなく、立ち並ぶ本棚の合間をぐるりと一周し、目ぼしい作品を見つけられずにため息を吐いた辺りで、
(……そうだ、雑誌ならまだわかるかも……)
そんな考えが脳裏を過ぎていった。
 もちろん雑誌にもインタビュー記事など、大量の文章が掲載されているページはある。それでも、雑誌ならば他のジャンルに比べて比較的に写真が多く使われているため、ページをめくるだけでも楽しめそうだ。
 そう思い至って、読書用の椅子や机が配置されたオープンスペースへ。その脇には、そこまで量は多くないが雑誌ラックが置かれていた。
 前面に押し出された知らない人物の顔写真。アーティスティックに配置されたデザイン性の高い文字と、丁寧に描かれた装飾や絵画。数ページしか存在しない薄い冊子にしても、そこに盛り込まれた魅力は十分だ。
 意味もなく手近な雑誌を開き、パラパラとページをめくる。
「わぁっ……!」
そこに載っていたのは、様々なデザインと組み合わせの洋服たち。少年が偶然出会ったのは、ファッション雑誌だった。
 洗練されたデザイン、個性的なコーディネート、デザイナーの意図を言外で表現するそれらは正しくアートの領域だ。微細なデザインの違いや、素材の違いが引き立てる無数の可能性は、その先に続く無限の想像力を刺激する。
 写真を貼ったページは少ないが、同じ人物であろうが違う衣装を身にまとうだけで、その雰囲気を大きく豹変させることはありありと読み取れた。それこそが、ファッションという世界の魅力で、全てが自由で、音楽や芸術と同じ力強い魅力を放っているかのようだ。
 そこから先は、泥沼に沈み込むように、ただ夢中でページをめくり、手当たり次第にファッションに関する本を集める。Moda Nova最新のファッション誌Libro de los Traje衣装図鑑Tratado de la Eleganciaエレガントな服装に関する論文……。その底知れぬ好奇心で、ほとんど記述の意味も分からないまま、ただ様々なコーディネートを眺めて楽しむ。その時間が、何より幸せに感じられた。
 「ふぅ……」
そうして一通り、手に届く範囲で、かつ、理解できる程度の物を読み漁り、ようやく呼吸することをお思い出したかのように息を吐く。それから、重力を思い出した体を椅子の背もたれへ預けた。
 こんなにも魅力的で、面白い世界が存在するなんて……。もっと知りたい、学びたい。そう、内なる情熱が掻き立てられていく。
 (もしも……もしも、僕の人生を、僕が自由に決められるなら……)
……しかし、そこまで考えて、思考は壁にぶつかった。そんな可能性は存在しない。自分に、選択権はない……。失った過去を想像することと同じくらい、存在しない夢の人生を思い描くことは無意味だ。
 「……」
そう思ってしまえば、脇に積み上げられた雑誌やいくつもの本は、どこか虚しく思えた。これらに、意味はない。自分とは関係のない世界の話だ。少年に与えられた人生は、この国に尽くすことのみ……。この国を治める絵札として、この国を導くこと以外、少年の人生に価値を与えない。
 (……行かなくちゃ……)
自らを現実へ引き戻し、つかの間の夢を切り捨てる。積み上げた本の山を基合った場所へと切り崩した僅か8つの少年は、夢を描くことすら許されてはいなかった。



 絵札の幼体、自らの名を忘れた少年の一日には、分刻みのスケジュールが存在する。早朝に目覚め、用意された無数の教材と向かい合い、午後のお茶の後は剣術に励む。今しがたまで閉架にいた少年は、午後の鍛錬の時間に遅れないようにと、廊下を駆けていた。
 動きやすい♢の見習い兵の制服を身にまとい、腰から下げた長剣を揺らす様は、どこからどう見ても一般的な見習い兵士にしか見えない。その首に刻まれている、まごうことなき♢の紋様を度外視するのならば、だが……。
 「遅くなr」
「遅い!」
「うわっ⁉」
修練場の扉を開くと同時に飛んできた短刀を、反射的に身を翻した。顔のほんの数ミリ横には、壁に穴を空け深くめり込んだナイフが一本。一歩間違えば、少年のか細い命の糸がちぎれていたどころの騒ぎではない。
 (……鬼教官)
ぽつりと胸中で呟いた、可愛らしい顔の少年の言葉は的確そのもの。もちろん、そんなこと口にできるはずもないのだが……。
 「それでも絵札の幼体か! 時間に遅れないなど当たり前だと何度言えば……」
飛び出した激しい言葉は、続く第二撃の音にかき消されていく。それを避けるために駆け出した足は、坂道を転げ落ちる歯車のように回転し、軌跡に突き刺さる短刀の意味を殺した。
 そのまま彼の教官である屈強な男性の前まで一気に距離を詰め、その腰に下げた長剣を抜き払う。響き渡る鈍い鉄の音。一瞬制した空気が押し広げられ、一陣の風が駆け抜ける。
 しかし、30代中ごろの屈強な体つきの男性と、8歳の未熟な少年では力量差は明らかだ。例えその少年が剣術に天性の才能を持っていたとしても。
 「っ……!」
体制が崩れ、弾き飛ばされる前に、どうにかして自ら後方へ飛び、衝撃を受け流す。腕の痺れる感覚。わかりきっていたことではあるが、対峙するその教官は少年が相手取るには不釣り合いすぎる。
 教官たる男性の胸に輝くACE OF DIAMONDのバッヂ。絵札のいないこの王宮で、この国で、現在最上の地位に立つ者の印だ。
 剣を交えるたびに、まざまざと見せつけられるその技量と経験。剣を握ることも、誰かと争うことも嫌いな少年であっても、その姿に憧れない兵などいない。
 崩れかけた体勢を戻し、再度距離を詰める。
「力みすぎだ、もっと柔軟に! 自分の太刀筋を想像してから剣を振れ!」
荒い息が歯の隙間から漏れ、毎日のように剣を握るせいで、小さな手のひらに刻み込まれた肉刺まめが潰れていく。それでも強く対象を視界にとらえ、尚も剣を振り上げた。
 ギンと音を立てて刃が交わり、
「ッ!」
鋭い痛みの走った手から剣が抜け落ちて宙を舞う。咄嗟に無意味な受け身でも取るかのように、顔の前で腕をクロスさせ、その赤茶色の大きな瞳をぎゅっと閉ざした。
 しかし、いつになっても結局続く痛みはやってこず、恐る恐る目を開けると、彼の腕をすり抜けて、その首筋にピタリとACE OF DIAMONDの刃が突きつけられていた。
「……ここが戦場じゃなくてよかったな。もしそうなら、お前はここでリタイアだ」
見下ろす強く冷たい視線に、屈服するように少年はその場に膝を折り、敗北を認める。否、一度だって勝利など収めたことは無い。
 ……向いていない。その言葉が一番しっくり来た。剣を振ることを楽しいなんて思ったことは無い。誰かを傷つけることを良しと思ったこともない。できることならば、誰一人傷つくことも、傷つけることもないような、そんな生き方がしたい。
 (……)
脳裏の過った、数時間前に見た色とりどりの世界。言ってしまえばそれらはただの洋服で、着ること以外の価値はないはず……。けれど、組み合わせ次第で、人の雰囲気さえも大きく左右してしまう布きれに、どうして感動せずいられるだろうか。
 芸術は、音楽は、文学は……誰をも傷つけることのない世界だ。もしも、もしも……。……いいや、なんでもない。
 「剣の軌道は悪くない。が、相手の動きを見てから判断してるだろ? お前はそれに対応できるほどの俊敏性も経験も持ち合わせてないし、間合の取り方もまだまだ未熟……。相手の動きを予測しろ。先読みは全ての武術の基礎だ」
その場にへたり込んだ少年の首から刃を退け、代わりに彼へ手を差し伸べて現実へ引き戻す。このACEの地位を冠する男は、この少年が夢を持つことすらも許されない現実に苦しんでいるだなんて、知る由もない。
 「……」
「……なんだ、不満か?」
目の前の手をいつになっても掴まない少年に、むしろ教官の方が不満げに声のトーンを下げた。こちらの気遣いを踏み躙っているも同義だ。
 「……そういうわけじゃないけど……」
処世術の心得は無いが、機嫌を損ねると後々面倒くさそうだと、少年は教官の手を借りて立ち上がる。これ以上に厳しくしごかれるのは御免被りたい。
 「なら、なんだ」
冷たい声。言えばより目の前の男の機嫌は悪くなるかもしれない。その思考が一瞬唇を縫い合わせる。……けれど、言わなければ自分の中の疑問は払拭されないだろう。
「……僕が剣術を学ぶ必要って、あるのかな……」
できる限り言葉を選んで吐き出した思い文言には、自分の未来を選ぶ選択肢は自分になど無く、周りの望むような統率者へのレールを如何に上手に走るかを求められているのだから……なんて卑屈な意味合いが内包されていた。
 その言葉に、ACEは小さくため息を吐き、足元を見つめる少年と目線を合わせる。
「あのな、お前はまだどの役職に就くか決まってない。KINGになるとしても、JACKになるとしても……まあ、可能性は低いだろうが……仮にQUEENだったとしても。上の座に就くんなら、最低限自分の身は自分で守れないと困るだろ」
成長半ばの細い首筋に刻まれた、♢の印。そこには未だ、寄り添う役職を示す紋様は刻まれていない。
 「それに……あまり大きな声では言えないが……俺は、お前は多分JACKになると思ってる。確証は無いが……だとしたら、お前の身だけじゃなく、国民やいずれお前が仕える君主たちを護る必要があるからな」
「JACKに……?」
その言葉は一言で言えば、意外だった。皆、おそらく自分がKINGの座に就くことを期待している。荒廃したこの国を、どうにか建て直す兆しとなることを望んでいる……。だから、他の役職の可能性なんて考えたころがなかった。
 (……まあ、全くの確証がない訳じゃないが……)
ACEは一人胸中で呟く。それは実際に剣を交えた彼だからこそわかる事だ。
 確かにまだ未熟。経験や体格の差で自分が有利を譲らない程度には、目の前の幼体は成長途中だ。しかし、その太刀筋、身のこなし、咄嗟の判断力……。何人もの兵を育ててきた経験が語る。彼には才能がある、と。
 賢い者がQUEENに、統制力のある者がKINGになるのなら、きっとJACKになるのは戦術において才がある者だ。この国が、この世界が……一体どんな基準で絵札となる者を選んでいるかだなんて知らないが、一切の素質ない者を選ぶとは思えない。
 (……ちゃんと育ててやらないと。この国の将来を託せるように)
……けれど、悲しいかな。そこに目の前の少年の意思は介在しない。たとえ彼が、この国の絵札になることを拒んだとしても、彼の意思を受け入れてやることは出来ない。たとえ他の夢を持っていようが、将来像を望んでいようが……それをへし折ってまで、この国の絵札の座に座らせなければならない。
 教官が、ほんの少しの罪悪感を押し潰したところで、
「……わかった。もうちょっと、頑張ってみるよ」
と少年は視線をあげる。彼も、その胸の内に、そっと儚い夢を押し潰したところだ。
 「よし、良い目だ。……だが、まあ……このまま剣術だけ磨いても、いずれ限界がくる。先輩としてアドバイスするなら、第二第三の武器を持っておくべきだな」
確かに少年は剣術においては、目覚しい成長を見せているが、所詮剣は剣。近接戦闘以外での使い道と言ったら、投擲する程度……。何が起こるか予想不可能な戦場において、たった一つの武器しか持たないのは危険だ。
 しかし、とは言ったものの何を奨めるべきか……。ACEは数秒の間を置いてから、
「お前、能力は?」
と首を傾げる。
「えと……隠密? 確か……ちょっと気配を薄くできるとか、そういう感じ、だったと、思う……多分……」
それは数日前、この王宮に来たばかりの時に、いくつかの能力検査の結果だ。衰退したこの国では厳密な検査はできないが、おおよその見当をつけることはできる。
 ただ残念なことに、彼の能力はあまり役に立たなさそうな力だった。多少気配を薄くできるとは言っても、気づかれる時は普通に気づかれるし、使い勝手もかなり悪い。彼自身、まだ自分の能力を扱いきれていない側面も大きい。
 「隠密か……どの武器にも活かせる能力だな」
ACEは正直にそう呟いたが、彼にとっては何とか痛々しくフォローされたようにしか聞こえなかった。
「だがまぁ……伸ばすなら銃術と槍術が良いだろう」
きっと彼の能力自体にも伸びしろがある。完全に銃声や投擲音を消せたのなら、致命の一撃に繋げることもできるし、近接戦に特化した剣術に対して、もう一つ武器を選ぶなら、違う間合いのものが良い。
 「銃は……整備やらが必要だし、今日はとりあえず槍にするか……。ちょっと待ってろ、軽めのやつ持ってきてやるから」
そう言うとACEは奥の武器庫へと駆けていく。残された少年はただぽかんとその様子を眺めてから、思い出したように弾き飛ばされた自分の剣を拾い、鞘に収めた。
 しばらくして戻ってきたACEの手には、長さにして約1.5m程の槍が握られている。槍にしては短い方だが、まだ背の伸びきっていない少年にはちょうど良いだろう。
 「とりあえず持ってみろ。剣術の初歩が素振りなら、槍術にも槍術の型ってもんがある。実践まではいかなくとも、基礎は教えてやるから」
少年は渡された槍を両手で握る。見た目以上に重く、まず普通に横にして持つだけでも安定しない。
 グラグラと左右に大きく揺れる振子ふりこのようで、こんな武器まともに使えるのかと胸中で文句をこぼした。それでもなんとか、それらしく構えてみるも……先端を持ち上げ、地面と槍を並行にするだけでも精一杯だ。
 「こんなの、振れないよ!」
「う~ん……そうだなぁ……全体的に筋力不足。剣術はまあ……身のこなしで何とかなってたようだが……まずは筋トレからだな」
おそらく振れば遠心力で体の方が持っていかれてしまう。その細い体つきには、些かその長い武器は不釣り合いだ。
 「ま、安心しろ。俺の地獄のメニューに着いてこれれば、そのうちソイツも奮えるようになるだろ」
そう言って笑ったACEの顔には一切の曇りはなく、ヒ……と息を吸った少年の背に冷たい汗が流れた。



 「ただいまぁ……」
とっぷりと日の暮れた広い部屋に、疲れ果てた少年の声が弱々しく響く。生乾きの髪を乾かすのもそこそこに、吸い寄せられるように無駄に大きなベッドへ身を投げた。
 ここはKING OF DIAMONDの寝室。豪華に飾り付けられた家具が虚しいほど少年の幼さを際立たせている。長い長い一日が終わる頃には、彼の体も頭も悲鳴をあげていた。
 (うぅ……節々が痛い……。明日は絶対筋肉痛だよぉ……)
少年の身には広すぎるキングサイズのベッドへ大の字に寝転がり、シーツの海に体を埋める。結局、午後はひたすら厳しいトレーニングに付き合わされ、槍を握らせてもらったのは最初の1回だけ……。自分の不甲斐なさが原因ではあるのだが、なんというか……不完全燃焼だ。
 ……数日前、ここで目を覚ましたその瞬間からしか、彼の記憶は存在しない。けれど、こんな気持ちになるのは、である、気がする……。まあ、覚えていないため、それが正しいのかについてはなんとも言えないが……。
 自分の未熟さをありありと焼き付けられた。よく言えば、成長の余地は無限にあるということだ。
(……JACK)
考えもしなかった可能性が、脳裏を過ぎる。正直、勉強は向いていないと思う。誰かをとりまとめるのも、多分得意ではない。
 (もしも……)
目を閉じて空想する。瞼の裏側には、新月の夜のような暗がりが広がっていく。もしもKINGならば……国民から慕われ、荒廃したこの国を導いていく未来を。もしもJACKならば、兵の長として、まだ見ぬKINGとQUEENを守る様を……。
 そんな未来が、来るのだろうか? 今わかることは何もない。どちらが良いのかと聞かれても、答えようもない。ただ、
(……誰かの役に立てるなら、それでいいや。いつか、ここが……僕の居場所になりますように……)
そう淡く願いかけて、瞼の向こうに意識を送る。今日は疲れた。続きはまた明日……と、襲い来る睡魔に身を任せて……。



【2-x-1.鳶の回廊A】
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