烏と狐

真夜中の抹茶ラテ

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第二章:黄昏の深紅

2-1.未明の空、暁の海

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 朝日まだ差さぬ宵闇の中、一つの産声が静寂を裂いた。時代は遡ること80年前、トランプ史620年。生まれ落ちた小さな命を抱きかかえ、その父となる人物はぽつり、
「……KINGに報告しよう」
深刻な声を落とした。この国の血となり肉となる新たな命であり、そしてそれ以上に自らの子であるその赤子に。何か問題が起きる前に。少しでも情が湧いてしまう前に……。

 なぜなら……その赤子の右手には、美しい♡の紋様が刻まれていたのだから――――



***



 青い光が差し込む♡の王宮では、大臣、給仕、来客……と忙しなく人々が行き交っている。そんな中、♡の見習い兵士の制服を身につけたおおよそ6~7歳前後の少年たちが、訓練前の輝く瞳で団欒だんらんを楽しんでいた。その声色は高く、この後の意気込みやら、憧れている兵の名をあげては盛り上がっているようだ。
 しかしどうしたものだろう。そのうちの一人である、桃色の髪の少年は、どこかぼんやりとした視線を遠くへ投げている。彼の表情は浮かばれず、どことなく寂しそうだ。
 「おーい、マローネ~?」
ふと名を呼ぶ声に意識を引き戻され、見れば一団は訓練場へ向けて歩き始めていた。
「あーっ! 待ってよ~!」
なんて情けない声をあげ、慌てて追いかける。
 「転ぶなよー」
「お前すぐ怪我するし!」
「そのせいで今日の訓練の相手いなくなったらやだしなー」
幼少年たちは軽く笑いながら足を止め、桃髪の彼が合流するのを待っていてくれた。
 「う~……ごめんってばぁ~」
今日は転ぶことも無く無事に追いついて、眉根を八の字によせて苦笑いを向ける。不注意なのか危なっかしいのか、マローネと呼ばれた桃髪の少年は頻繁に怪我をしては、医務室の世話になっていた。
 それはイジメなどでは断じてなく、なんでもないところで躓いて転んで流血沙汰になったり、階段を踏み外して大怪我をしたり……とまあ、ほとんどが自損事故のようなもので。医務室の先生とはとっくに顔見知りになってしまったし、医務室を訪ねる度に気をつけろと笑われる。
 「そんなんじゃ、かっこいい兵士になれないぞ」
「てゆーか、マローネってホントに、♡のAの息子なのかぁ?」
少年たちは冗談めかして笑い、再び訓練場へ向けて歩き始める。
 「そ、そんなこと言わないでよ~……。多分、うん、多分! 僕あの人の子供のはずだから……」
自分と似ている面を探す方が難しい父を脳裏に浮かべれば、必然的に苦笑しか出てこない。
 と言われる♡のAは、紛れもなくマローネの父で、ストイックさと真面目さで有名な、この国の現状の第三位だ。ACEという、兵の頂点を意味する数字を与えられた偉大なる父は、見習い兵士たちの憧れだった。
 「なぁなぁっ、家では♡Aってどんな感じなんだ?」
「意外と抜けてたりして!」
「いいなぁ、マローネは! 可愛がられてるんだろ? だし!」
「妬いちゃうよなー!」
「なーっ!」
キラキラと光に笑顔を反射させ、楽しそうに語る少年たちは、明るい眼差しをマローネへ向ける。しかし、向けられた桃髪は何故か言い淀んでいて……否、言葉を探すように視線を泳がせていて、ほんの少しの沈黙が居心地悪く流れた。
 そして、ようやく適する言葉を見つけると、視線を足元へ落として、
「え、えっと……その……父さんはあんまり家には帰ってきてなくて……よくわかんないんだ……。いつも任務任務って言って出て行っちゃう、家では……うーん……寝てるくらい? しか、わかんない……」
と現実を突きつけた。少年たちがどんな幻想を抱いていようが、多忙なる現状の第三位には、家の事情に構っている時間などない。
 そうしてようやく事情を理解した少年たちは少し驚いてから顔を見合わせ、そして申し訳なさそうに八の字に眉を下げた。もう二度と、羨ましいなんて言葉が出ることはないだろう。確かに♡Aを父とする事実自体は羨ましいかもしれない。けれど、父親からの愛をまともに受けられない家庭環境など、望む子供はほとんど居ないはずだ。
 「……そっか」
「……ごめん、羨ましいなんて言って……」
場に気まずさが走る。
「いいよ、気にしないで。よく言われることだし……。それに、僕マシな方だからね」
ただ笑っていればそれで良い。ただのうのうと日々を送れる幸せ。それを、僅か6歳ばかりの少年は知っていた。
 視線を落とした自分の右手の甲には何も無い。もちろん、左手にも。数ヶ月前まで、今年の誕生日を迎えるまで……ほんの少しの希望を持って、鏡の前に立ち続けた日々を忘れてなどいないし……時折件の父が自分に向ける些細な失望の眼差しの意味を、彼はよく理解していた。
 それでも、優しい母とを送れることを、それを手に入れられない人がいることを……理解していたから。
 やがて見えてきた訓練場。そこから、
「遅い! 二分遅刻だぞお前ら! とっとと入ってこい!」
と怒鳴る教官の姿に気づき、今しがたの会話はものの数秒で忘れ去られることとなった。



 一方、先刻桃髪の少年がぼんやりと眺めていた先……♡王宮厨房では、一人の少年が皿を洗っている。紅色の髪は、艶がなく明らかに質が悪かった。
 同年代の子供より二回りほど細い棒切れのような腕に、ヨレた灰色のシャツ、黄ばんだ古いエプロン。まだ春先の冷水の浸された指はささくれ、荒れている。誰がどう見ても、彼を健康だとは判断できないだろう。



 不意に顔を上げると、遠くに同年代の少年たちの姿が見えた。皆一様に、見習いの♡兵の制服を身につけている。……自分も……と考えかけて、すぐに思考を振り払った。どうしようもないことを考えたって時間の無駄だ。
 代わりに、遠くに見えた桃色の頭に対して、あぁ母さんと同じ色だ、なんて胸中で呟く。そして、泡だらけの水面に映った紅色の自分の髪に対して、自分はなぜ、父と同じ色なのだろう。自分を捨てた父と……なんて、誰にも答えられぬ問いを投げた。
 洗い終わった食器を所定の位置へ置き、汚れた水の入った桶を持ち上げる。血色の悪い肌に桶の金具が食い込み、キリキリと悲鳴をあげた。
 手のひらに血が滲む中、ふらつく足元を気合いで引きずって、波々と揺れる桶の中の汚水をこぼさぬように、慎重に歩を進める。磨きあげられた王宮のタイルか、高価な赤い絨毯に一滴でも落とそうものなら、きっと鞭で叩かれるだけでは済まない。
 厨房を出て廊下を抜け、倉庫へと続く階段を下る。湿気に塗れた地下の空気が誇り臭く鼻を突いた。
 地上の光も届かない地下深くには、下水を垂れ流す汚れきった水脈がある。目的地はそこだ。周囲を取り巻く湿気とアンモニアの匂いが混ざり合い、淀みきった臭気として空間を支配している。
 あまり長居したいとは思えない環境に目を瞑り、生活排水が音を立て流れる川へ、桶の中身をひっくり返す。壁に一定間隔で取り付けられた明かり程度では、川の中を覗き見ることは叶わないが、薄ら暗いこの空間はどことなく恐怖心を駆り立てた。
 (いっそこのまま……)
暗闇に飲み込まれるように、あるいは誘われるように、一瞬思考に影が差す。このまま汚水に溺れて死んだところで、きっと誰も何も思わない。
 ……が、そんな思考はドブ臭さですぐに打ち消えた。どうせ死ぬなら、もっとマシな場所を選びたい。淀んだ汚水にまみれるよりは、最後の一瞬くらい澄んだ小川か、海の水底に……。
 ただひたすらに先の見えない苦しみへ巻かれて、僅か7つの心は疲弊しきっていた。それでもなんとか立ち上がり、来た道を戻る。轟々と音を立てる下水が、まるで悪魔か何かの声のように暗闇へと誘っていたが、地上と地下とを繋ぐ扉を閉ざしてしまえば、それも間もなく消え果てた。

 地上の澄んだ空気を肺に取り込んで、浅く息を吐き出す。やはり下水道は好きになれない。否、好きになれるような人間などいないだろう。
 とはいえ、行かなければならないし、休んでいる暇はない。重みを失った桶を一度置いて、取っ手の後が着いた手のひらを何度か曲げ伸ばす。
 この後は井戸へ向かい、水を汲んで運び、それから……と脳内でやらなければならないことを思い浮かべた。一度座り込んでしまえば、疲労に苛まれてしばらく立ち上がれなくなるだろう。だから、疲労を叫ぶ身体を無視し、次なる行き先の井戸へと向かう。

 外に出れば目が回りそうな眩い光が頭上で瞬いて、一瞬視界が白く染る。季節はもうじき春。……まあ、季節が巡ろうが、同じ日常を繰り返し続ける少年に関係ないことだが……。
 王宮の陰にある井戸は打込井戸ではなく掘井戸。利便性に優れているとはとても言えないが、きっと下働きの苦労など、上流層の知ったことではないだろう。
 その脇へ運んできた桶を置き、慣れた手つきで釣瓶つるべを井戸の中へと落とす。しばらくすれば小さな水音が耳へ届いた。
 覗き込んだ井戸の底は、先程までいた地下よりもずっと暗く深く見える。
(いっそこのまま……)
再度脳へ思考が過ぎる。ここならば、下水よりはきっとマシだろう。飲水に使用されているかは知らないが、少なくとも汚水では無いから。
 冷たい水底が呼んでいるような気がする。深さはおよそ10~20メートル程度……。ここから落ちたら転落死になるのだろうか? それとも溺死になるのだろうか……。
 もしも叶うなら、今際の際くらい、苦しみなく消え去りたい。このまま落ちてしまえば……。
 誘われるように身を乗り出す。釣瓶を持ち上げる綱へではなく、井戸のそこへと手を伸ばして……
 と、その時、何かそれなりの速度を持った硬く小さい物が頭に当たった痛みが走り、反射的に身を戻して振り返る。
「やーい、!」
「お前なんかそのまま落っこっちまえ!」
同い年程度に見える少年がこちらへ石を投げてきた。先程の痛みは、投げられた石が頭へ当たった衝撃だったようだ。
 (……言われなくても)
そう恨めしくげに睨み返したところで、少年たちは気が晴れたとでも言いたげに、大声で笑ってどこかへ走り去ってしまった。これが、彼にとっての日常だ。
 再度身を乗り出していた井戸へと視線を向ければ、水底は深く暗く、ただぽっかりと闇が口を開けているかのようで、ゾッと背筋に恐怖が走る。
 今、自分は何を……思考が黒く凍りついた。ここから落ちる? とんでもない。溺れ死ぬなんてごめんだ。きっと息ができずもがき苦しんでも、井戸の底からの悲鳴など誰にも届きはしない。
 先程までの吸い寄せられるような思考から逃げようと、手早く縄を掴むと釣瓶を引き上げる。重みが腕へかかり、しっかりと握らなければ、縄が巻き戻る摩擦で、手はあっという間に酷い有様になるだろう。
 ぎゅっと目を瞑り、汗だくになりながら釣瓶を引き上げ、桶を洗う。微量に残っていた泡が洗い流され、地面の草の色をより一層濃い色へ染めた。
 釣瓶を投げては引き上げを繰り返し、再度桶を水で満たす。汗ばみ、縄の摩擦で擦り切れた手は赤く、質量を取り戻した桶の重みで取っ手がそれを更に傷つける。けれど、痛みと仕事に忙殺されている間は、現実逃避的な希死念慮に襲われずに済んだ。

 次は洗濯場の所定の位置へと桶を持っていくが……肝心の洗濯物はまだ到着していないようだった。おそらく今頃、他の給仕かメイドたちが無駄に数の多い部屋を回って、シーツや枕カバー、寝巻きや下着などを回収して回っているのだろう。
 顔を上げれば痛いほどに太陽が降り注いでいる。このまま待っていても薄い肌が紫外線で炙られるだけだろう。
(……今のうちに)
周囲を見渡しても人の姿はない。もちろん、話し声も足音もしない。つまり……今、この辺りには誰もいない。
 それを見計らって、少年は少し離れた雑木林の方へと早足に駆けていく。さんざめく太陽も、ざわつく風の音もどこか遠く、彼の目に映っているのはただ静かで暗く深い雑林だけ……。
 そして、林の低木の陰へ身を潜めるように、半ば崩れ落ちるようにして地面へ倒れ込んだ。ひんやりとした土の感触と、青臭い雑草の匂いが鼻を刺す。前に眠ったのはいつだったか……。体はとっくに悲鳴を上げていた。
 人間の三大欲求のうちの二つ……食欲と眠欲に責め立てられる視界は、数秒と持たずに歪み始める。ほんの少し、数分で良い……。倒れそうな頭はそれ以上働かず、彼自身も睡魔に抵抗する気なく、意識はそこで途絶えた。



***



 鈍い音が響く。手には既に感覚がなく、重みがかかる度に腕が痛む。それでも、まだ耐えられる。奥歯が鳴るほどに食いしばった。
 振り下ろされた剣を、自分に剣を横にして受け止めれば、もう何度目か分からない鈍い音が鳴る。歳上、自分より30cm以上高い身長。年齢の差は成長の差であり、純粋な力の差でもある。
 それでも、それでも。第25代目ACE OF HEARTの子としてこの世に生を受けたからには、一度の黒星さえも許されない。優秀であれ、有能であれ。勝利に貪欲で無ければ、自分もきっと……。
 相手の動向を素早く観察する。まだ動かない。腕にかけた圧は変わらない。考えている。次の手を……。ならば。
 先に動けずして勝ちは無い。力の方向を理解して、身体の外側へ逸らし、拮抗していた剣を緩める。
「っ!」
一瞬の動揺を見逃すな。最速で相手の懐へ入り込み、あとは剣を……
 「そこまで!」
教官の声が響いた。マローネのは剣を3つ年上の先輩の横腹へ刃を当てていた。ほんの僅かにでも静止が遅ければ、床一面が赤く染まっていたのは間違いない。彼らが持っている剣は、違いなく本物だから。
 高鳴った鼓動と熱い息を抑え、剣を鞘へと納める。そして2歩下がり、相手と目を合わせ、
「「ありがとうございました」」
汗の滴る桃色の髪を揺らして頭を下げる。勝敗はどうであろうが、これは訓練。本当に殺し合う訳では無いのだから、礼儀は当然として必要だ。
 「今日の訓練はここまでとする! 各々修練に励むように!」
教官は周囲の見習い兵士見渡して、凛とした声で終了を告げた。それを皮切りに、訓練場を出ていく者、残って自主練に励む者など、思い思いに動き出す。
 そんな中、マローネは、
「すげーっ! お前、何勝目だよ!?」
「さすがはACEの息子だな!」
「なあなあ、俺にもコツ教えてくれよ!」
目を輝かせる少年たちに囲まれていた。いつものメンツ、先程一緒に訓練場へ向かっていたメンバーだ。
 「あー……いや、その……えへへ……」
気恥しさで眉根をよせて、苦笑いを返す。もちろん勝利とは往々にして嬉しいものである。しかし、いつも余裕で勝てているわけではない。ただ、勝たなければという意思の奴隷として、最善を尽くしているだけだ。
 彼の胸の内を支配するのは、捨てられたくない、置いていかれたくない、失望されたくない……という薄ら暗い焦りだ。剣術や勝負が好きで、楽しいからでは断じて無い。見放され、捨てられればどうなるか……それは痛いほどよく知っている。だから、勝ち続けなければなければならない。
 そんな折、遠くから
「おーい!」
と知り合いの一人の声がした。訓練の後半辺りから姿が見えないと思ってたら、どこかへ抜け出していたらしい。今は訓練場の外から戻ってくるところだ。
 「面白いもん見つけたぜ!」
「マローネの相手に丁度良いだろ」
楽しそうに笑う二人の少年は、そう言いながら何かをマローネの前へ投げた。
 はぐったりとした人の形をしている。おそらく、ここまで引きずられてきたのだろう。脛や裸足の足首から痛々しく、鮮血が流れている。故に彼の足は、その紅色の髪と同じようにくすんだ赤い色に染まっていた。
 (っ……!)
ほんの僅かな動揺を噛み殺し、周囲と同じようにその様子がおかしくてたまらないという笑顔を作る。
「おー、国殺しじゃねぇか!」
「いいな! いたぶっちまおうぜ!」
「むしろ、殺した方がKINGに褒めてもらえるかも!」
これが普通だ。これが……そう自分に言い聞かせ、周りに見つからないようにそっと拳に爪を立てる。汗と潰れた肉刺まめで湿った手のひらが悲鳴をあげた。
 きっと彼らは何も知らない。何も。心を押し殺して、
「んーでも、訓練場が血まみれになってたら、教官に怒られそうだし……訓練に付き合ってもらったってことにしない?」
と、逃げ道を作る。人を殺すなんて、簡単に口にする友人たちが怖かった。
 「ま、それもそうか」
「おい、誰か剣貸してやれよー」
「嫌に決まってんだろ!」
そうしてまた笑い声が起きる。何が面白いのか微塵も分からない。
 「いいよ、僕取ってくるから。国殺しなんかに剣貸したい人なんていないでしょ」
できる限り自然に笑って、輪を抜け、奥の備品庫へ向かう。

 備品庫はひんやりとした空気に飲まれていて、遠くに少年たちの笑い声が聞こえる。その声が、何故か酷く痛々しく聞こえた。
 数種類ある貸し出し用の剣の中から、できるだけ軽く、初心者でも扱いやすい物を選ぶ。あの少年は給仕であって、兵士ではない。まともに訓練設けていない素人に剣を持たせるなんて……。いたぶる? 虐める? それの一体何が楽しいのだろうか……。

 剣を持って一団の方へ戻れば、赤髪の少年は依然として床に倒れたままだ。取り囲む少年たちは、楽しそうに彼を蹴っていた。
 せめて、骨が折れていませんように……。そう願いながら、赤髪の少年の眼前へ貸し出し用の剣を突き立て、周囲の少年たちに合わせて少年の脇腹へ蹴りを入れた。
「早く立って。僕の時間、無駄にしないでくれる?」
 これで立ってくれなければ、どうしよう……。自分の剣の柄にかけた手に、じんわりと汗が滲む。人を……肉を、蹴った感触がまだ足先に残っている。それを不快だと感じてしまう自分は、きっと兵士には向いていない。
 しかし、そんな心配は杞憂に終わったらしい。一回りか二回りほど小さな少年は、血に濡れて傷ついた足で立ち上がり、冷たい目で眼前の剣を抜いた。
 少し距離を置けば、低い位置から睨み上げる金茶色の目。濁った金色のその目は、母と同じ色だ。

 一陣の風が凪いだ。
 そして、剣の交わる音が響く。訓練を受けていないからか、紅髪の少年の剣は軽く、受け流すのも、いなすのも容易い。
 マローネは知っていた。相対する少年が誰であるかを。5歳程度の姿のまま、まるで時を閉じ込めたような彼が、本当は自分より2つ年上であることを。
 剣を受け流し、間合いへと深く踏み込んで、その鳩尾めがけて、剣の柄を逆手で突き出す。彼の怪我を手当してくれる人はいない。そんな哀れな年上の少年へ、刃を向けるべきではないから……。
 しかし、存外柔軟で素早い身のこなしで、彼は的から外れる。凡そ予想はしていた。きちんと訓練を受けたならば、きっと彼が優秀な兵になれただろう。なぜなら彼もまた……
 「ッ!」
避けられたことを理解して、流れるように横に振った剣で、少年の剣を弾く。
「!」
カランカラン……と虚しい音が鳴って、彼の得物が遠くに落ちた。
 けれど、ここで辞める訳にはいかない。降り注ぐ周囲の見習い兵たちは、好機の眼差しを依然として向けているから。
 そのまま無防備な少年へ高く振り上げた剣を振り下ろす。急所は外れるようにと願いながら……
 けれど、
「!」
それは叶わなかった。マローネの剣は所定の位置まで下がらない。手ぶらになった背の低い少年が、詰まったままの間合いを活かし、マローネの腕を掴んだからだ。
 即座に振り払おうと試みるが……その見た目に似合わず、存外力が強い。それもそのはず。給仕とは力仕事であり、彼は無駄に重い物を運ばされるような雑用ばかりやらされている。
 (やば……)
自分に隙が生まれたことくらい、嫌でも分かった。一瞬、頭の中が真っ白になる。
 刹那、振り抜いた少年の膝が脇腹を殴打する。一瞬息が詰まりかける。同時に、どこか他人事に、やはり目の前の彼は給仕なんかより、よっぽど兵士の方が向いている、なんて思ってしまった。
 しかし、それも一瞬だ。周囲の浴びせるような視線に気づく。こんなところで……こんなところで、見放される訳にはいかない。国殺しに敗北を喫しただなんて……許されない。
 掴まれているこの距離で剣を振り下ろすのは不可能だ。……ならば。
 「っ!」
短く息を吐き、剣を離すと同時に、関節を無理にねじって少年の腕を掴み返す。今にも折れてしまいそうな棒のように細い腕と、傷だらけの右手の甲には美しい♡の紋様……。彼がどんな状況であり、何者であろうが……今、手加減するような余裕はない。持ちうる全ての力で持って少年を前方へと投げ飛ばす。
 ふわり、少年の体は難なく浮いた。年上とは思えない、異様に軽い体……。正しい投げ技のやり方を、訓練で教わった気がする。……が、実践で安全な投げ方を考える方が馬鹿だ。
 ガッ……と嫌な音がして、小さな体が壁に打ち付けられる。そして、力無く壁に背を預けるようにへたりこんだ姿が見えた。
「っはぁ……はぁ……」
僅かに上がった息を宥め、手放した剣を鞘へ戻す。もしも本当に彼が訓練を積んでいたら……と脳裏を思考がよぎり、背の汗が急に冷えた。
 「おーっ!」
「さっすがマローネ!」
「綺麗に決まったな!」
そんな歓喜の声で意識が現実に引き戻されれば、少年たちは楽しそうに手を叩いていた。何が楽しいんだ、なんて口が裂けても言えないから、
「そんなことないよ~、多分みんなもできるよ?」
そう謙遜めいて首を傾げた。
 少年たちのうちの誰かが、次は鬼ごっこでもしようと提案した。すると、今しがたの出来事を忘却の彼方へと投げたかのように、皆、外へと駆けていく。その後ろ姿を見てから、マローネは一度だけ紅髪の少年を振り返り……そして、
「待ってよぉ~」
と、わざとらしい声を発して、彼らを追いかけた。



 ふわり、体が浮いた時、ようやくになって自分の状態を理解した。そして、しまった、と、どこか他人事に失態を悔いた。周囲の景色が、出来の悪いコマ送りのように、一瞬を無駄に長く見せつける。
 そんな中で、自分を投げた当の本人が、誰よりも一番傷ついた顔をしていたのを、彼は見ていた。なぜ? という疑問が浮かぶが早いか、背中から壁に強く叩きつけられる。
 最初に来るのは痛みではなく、硬い何かが背を叩く純粋な衝撃。次に、肺が締め付けられるような感覚を理解した。息を吸うことも、吐き出すことも出来ないまま、重力に負けた体が床へ落ちて、後を追うように全身へ痛みが伝播した。
 空気を求める心臓に逆らって、痙攣して動かない肺。苦しみもがくように震えながら、自分の喉やら胸やらを掴んだころに、
「ッ……っ……」
ようやく吐き出された息と、入れ替わりに細く入ってきた酸素に心臓が高鳴っている。体温もよく分からない中、全身を汗が伝っていく感触だけが、ありありと感じられた。
 今更になって、なぜ逃げなかったのかと、自分を叱責する。もちろん、そんな隙がなかったわけだが……。
 足音に似た気配を感じ、飛び起きた時にはもう遅かった。眼前にいたのは見習い兵の制服を身につけた見知らぬ少年。逃げる時間も、何かを叫ぶ猶予もなく、酷く乱雑に髪を掴まれる。
 そのまま引きずられて、気がつけばここへ。見習い兵の訓練場なんて、来る用も無いし、自分には縁のない場所なのに。……しかし、不思議と疑念はわかなかった。彼らの目的は、痛いほどわかっていたから。
 今日はどんな暴行を加えられるのか、と半ば諦めながら覚悟を決める。できれば、仕事に支障がでないとありがたい。が、きっとそんなこと考えもされないだろう。せめて骨が折れていなければ良いな……なんて他人事に思った。
 その報いか、願いが通じた結果がこれならば、納得しよう。認めよう。顔を上げた先の桃色の頭を見上げて、あぁまた背が伸びたのか……なんて考える余裕があったのが不思議でならない。
 時を止めたように、あの日から1mmたりとも伸びていない身長。それに比べて、相対した彼は健康的に、そして、当然のことのように前へ進んで行く。まだ15cmかそこらで納まっている身長差は、これから開く一方だろう。
 率直に言って、剣を持つのは嫌いではなかった。それを振っている瞬間も、どこか楽しくあった。しかし、自分が素人であることも理解していた。まともに訓練を積んでいる相手に、適うはずがないとも。
 オマケに本物の剣でなんて斬られたら、目も当てられない。医務室へ行ったところで、自分の傷が手当して貰えないことくらい、知っていた。
 だから、最善を尽くさなければならない。それを即座に理解した。同時に、刃を向ければ刃で返しては来るものの、相対する桃髪の少年も、できる限り自分を斬りつけないようにしていることを汲み取れた。
 手加減されていると言えばそうかもしれない。けれど、それはありがたい限りで、利用する以外に選択肢はない。まずは剣を手放させなければ。……なら、剣が振り下ろせない間合いまで入らなくては。
 そこまでは思考した。そこまでは覚えている。あとは何がどう転んで今に至ったのか、何も理解できなかった。当然だ。戦闘訓練なんて受けていない。
 それでも最善だったと思う。実際、切り傷は負わずに済んだ。壁に体重をかけて立ち上がる。早く仕事に戻らなくては。きっと今頃、洗濯物は到着しているだろう。
 怪我をしていようが、仕事と周囲の大人たちは待ってくれない。また鞭で叩かれるのはごめんだ。幸い足はまだ動く。痛みに慣れるなんて無いと半ば確信しながら、血痕の足跡を残して歩き出す。



***



 すっかり日が沈めば、周囲に満ちる夜の闇。息を殺して辿り着いた家の影で、そっと裏口扉へと手を伸ばす。音を立てないように細心の注意を払って押し開ければ、中から暖色の暖かな光が漏れてきた。
 入ってすぐに置かれたタオルを、その脇の桶に浸して足を拭く。自分に与えられる靴は無い。素足で歩き通し、泥に塗れて、小石に傷ついた血の滲む足の裏に、ひんやりとした柔らかなタオルが痛く染みた。
 そうこうしていると、
「おかえりなさい」
暖かな声が降ってきた。振り返れば、桃色の髪を肩あたりで切りそろえた女性が立っている。その目は自分と同じ金茶色だ。
 返す言葉に迷い、居心地の悪い数秒の沈黙が流れ、
「……ただいま」
結局、目を背けて小さく返答をした。追い出された家に帰って来るなんて、許されてないのに……。
 しかし、それを咎められることも無く、
「ご飯、食べるでしょ?」
優しい問いにただ頷くしかできなかった。もう何日、まともに物を食べていないか、数えるのはとっくにやめた。
 「……トワは」
四人がけの食卓に、ぽつんと置かれた食事を前に、口をつける前に俯いたまま呟く。
「もう寝たわ」
「……」
きっと、今日何があったか、話していないだろう。母へ無駄な心配をかけないように。あれはそういう輩だから。
 ゆっくりと口に運んだ夕食は、優しく穏やかな母の味。なんでもないただのパスタ。それを、心底美味しいと思うと、必然的に頬を雫が伝った。
 ずっとここにいたい。口が裂けても言えない願いだ。どうして自分はここにいてはいけないのか。聞いたところで現実は変わらない。
 あっという間に空になった皿を見て、
「……また食べてないんでしょ」
母は、理解しているとでも言いたげにため息をついた。食べていない、ではなく、食べる物がないと言うべきだが……言ったところでどうにもならない。
 「……」
俯いたまま沈黙を返す。
「沈黙は肯定よ?」
「……」
それでも、返す言葉は見つからない。今更、頼ることだってできない。そして、聡い母は決して『いつでも返ってきて良い』なんて言わない。どれだけ苦しくとも、もう二度と、彼らが家族として復縁することはない。
 「……早く風呂入って寝なさい。明日もどうせ早いんでしょ」
「……ん」
やっとの思いで小さく首肯して、席を立ちかけ……
「……トワのとこ行ってから」
と方向を変える。そんな彼に、母は穏やかな目で頷いただけだった。

 月光だけが照らす暗い部屋。息を殺せば、小さな寝息が聞こえてくる。ベッドで僅かに上下する毛布を覗き込めば、母と同じ桃色の髪を持つ少年。日中に見せた痛々しい表情は今はなく、ただ穏やかに寝息を立てている。
 「……」
波白なみしろ 飛羽とわ。間違いなく自分の弟だ。髪の色も目の色も、身長も地位も違うけれど……それでも。
「……ねぇ、カイト」
後ろから名を呼ばれる。振り返って顔を上げれば、廊下の光を背にして、母が見下ろしていた。
 「……あなたはまだ若い。まだ幼い。そんな子供に言うのは間違っているかもしれないけれど……トワをよろしくね。何があっても、あなたたちは、世界でたった一人の血を分けあった兄弟なんだから」
これから先、何があっても……と小さく繰り返した音を、彼はしっかりと聞き取って、頷き返す。
 苦しみしかない毎日の中で、今すぐに人生から脱落したいと思うことは無数にある。その度に理由をつけて、未だに自分を生へ捕え続けている。……もしも、自分がこの環境に耐え忍べたならば、その時は……いつかきっと、もう一度、兄弟として暮らしてみたい。
 同じ屋根の下で言葉を交わした数は数える程しかない。それでも、それでも……間違いなく、彼は家族で、そして自分の弟なのだから……。
「……Buenas nochesおやすみ



***



 不意に目が覚める。顔を上げた先のレースのカーテンの向こうはまだ暗く、夜明け前の朝闇を称えていた。
 こんな時間に目が覚めるなんて珍しい……。ベッド下に揃えて脱いだ靴を履き、立ち上がってふと、
(……あれ、もしかして)
なんて本能的な予感めいた直感に誘われ、早足にリビングへ向かう。
 キッチンには早起きな母が既に立っており、
「あら、今日は随分早いのね。Buenos díasおはよう
と、朝食の準備をしながら顔を上げた。
Buenos díasおはよー
今日はいつものように、眠い目を擦りながら、ぼやけた頭で食卓につっ伏する気は無い。
 一種、毎朝の日課ではあるけれど、今日はいつもより少しだけ期待を込めて、リビングのソファーを覗き込む。
「!」
その先には、静かでいて、どこか悲しそうな……寂しそうな表情のまま、眠りに落ちている紅色の髪の少年の姿があった。
 数日~数週間に一度、父が居ない日を見計らって帰ってくるこの少年を、彼は心待ちにしていた。ソファーの前面に回ってしゃがみ込めば、静かな寝顔が近づく。
 頬や額に小さな傷や瘡蓋かたぶたを無数にこさえ、それでもあの環境で耐え忍ぶ少年。自分には到底真似出来ないと思う。
 「……おかえり、兄ちゃん」
そう声をかけても、死んだように眠り続ける兄が目を覚ますことは無い。この家はきっと、彼にとって有数の、安心して眠れる場所なのだろう。
 「……」
時を閉じ込めた自分より小さな体……。いつか聞いた時、母はこっそりと教えてくれた。眼前の少年が、という特別な存在であるということを。彼の右手に刻まれた♡の印は、その証だということを。
 絵札は自分たちよりもずっと長い時を生きると母は言った。故に彼ら時が止まったような姿なのだと……。それが正しいかは知らない。
 けれどそれは……共には生きられないという証明でもあって……。だから、期待していた。数ヶ月前まで。自分にももしかしたら紋様が現れるかもしれないと……。
 「……何見てやがる」
そんな声で意識は現実に引き戻された。見れば、いつの間にか開いていた金茶色の濁った目に、自分が反射している。
 「あ……Buenos díasおはよ
「……ん」
しかしそれはすぐに逸らされて、返って来たのは短い返事だけ。
 「……あの、さ…………」
口を開き、発しかけた短い音は
「ご飯できたわよー」
と呼ぶ母の声にかき消され、続きが言葉になることは無かった。
 「……?」
怪訝そうな目に数秒見つめられるが、
「はぁい」
母に返事をして、その目から逃げるよう食卓へ向かう。一瞬の気の惑いなど、気づかれぬように……。



***



 息を潜め、周囲を素早く伺う。できるだけ足音は立てないように。けれど、躊躇わず遠くへ。
 今日は鬼ごっこではなく隠れんぼ。広い王宮内を自由に駆け回り、少年たちは今日も遊びに暮れる。
 この広さなら、エリアを限定しなければ鬼が不利になることなど目に見えているが、バランス調整という言葉は少年たちの辞書には無い。
 そのメンバーの一人であるマローネは、隠れ場所を探していた。まだ鬼の声はしない。けれど、スタートからそれなりに時間が経ってしまっているため、既に王宮内を探し回っていることだろう。
 (……とりあえず、ここにしよう……)
とにかく隠れなくては、と手近なドアノブを回す。背後や周囲を見渡しながら、部屋へ滑り込み静かにドアを閉めて息を殺す。
 あとはここが見つからないことを願うばかりだが……ここで気がつく。鼻を突く煙の匂い。見渡せば、室内はうっすらと煙がかっている。
 一瞬脳内に火事という二文字がチラつくが、フー……と聞こえた息に続いて、
「……ノックも無しに、人の部屋入ってくるなんて、えぇご身分やねぇ?」
と言った声で、その可能性は掻き消えた。



 顔をあげれば、薄く煙い部屋の奥、乱反射する光を背に人影が見える。僅かに開いた窓から煙が外へ流れていけば、その姿はより鮮明になった。
 白と赤を基調とした見慣れない服、茶色い髪、こちらを見つめる橙色の目。その手にはタバコを吹かすパイプが握られており、室内を満たす灰の匂いはそこから発せられているらしい。
 「……あぁ、アンタ、波白の」
その女性が口を開けば、そこからも僅かに煙が溢れた。しかし、そんなことを気に止めている余裕が無いほどに、マローネの体は凍りついていた。
 名前が、漏れているはず、ない……。王宮ここでその苗字を知っているのは、父か兄だけのはずだ。ここでの名は、マローネ。それ以外には無いのに……。
 「♡Aの息子、国殺しの弟」
続けざまに放たれた言葉は真っ直ぐに真実を貫いて、思わず息を飲む。込み上げるのは恐怖。心の内の全てを見透かされているのではないかと思えてしまう。
 「どう、して……?」
後退る。背後にある締め切った扉から冷たい木の熱が伝わって、薄いシャツが背中に張り付いた。今すぐ逃げ出せと本能が警鐘を鳴らしているのに、凍りついた足は言うことを聞かない。
 女性は口角を釣り上げて、魔女か悪魔か……そんな人を屠る者のような笑みを浮かべる。その唇から覗いた白い歯は、獰猛な肉食獣の牙ではなかったけれど、
「さぁ? なんでやと思う?」
言葉には十分な殺傷性があった。
 後退りたくても扉が邪魔をして、それ以上許されない。妖美な威圧を前に血の気が引いて、扉を背に地面にへたり込む。
 不意に冷たい風が吹いて、部屋を満たしていた煙が窓の外へ流れ、入れ替わりに立ち入った美しい金の光が視界を染めた。後光のように窓を背に、まだ薄く煙に揺れるパイプ煙草を片手に、細身の女性の茶色い髪が揺れる。
「仕えとる主の顔くらい覚えときぃや、見習い兵士くん? ウチはQUEEN OF HEART。アンタ、名前は?」
「ま、ろーね……です」
 「ふぅん? Marrone茶色か……アンタの目と同じやね。……にしても、♢の言葉なんて気に食わんなぁ……」
自分の部屋にノックもなしに立ち入った挙句、主の顔すら覚えていない子供を、彼女たち快く思っていなかったが、弱いものイジメは性にあわない。
 「……ま、今日のとこは許したるわ。次からはノックしてから入りゃぁよ」
立ち込める冷気を振り払うように、打って変わって穏やかな笑顔を向ければ、
「は、はい! すみませんでした……じゃ、じゃぁ、僕はこれで……」
少年は束縛を解かれたように勢いよく立ち上がって、部屋を出ていった。
 静まり返った部屋に、遠く小さな足音がいくつか響いて……やがて、消えた。



***



 息が切れる。熱い呼吸が肺を満たし、石火の如く脈動している。振り返れば、
「お待ちください!」
と声が追ってきた。待てと言われて待つ者がどこにいようか。
 自分にとっては庭にも等しい♡の王宮。しかしそれは、追っ手である家臣達にも同じこと。以前通った道や想定可能な範囲内なら永遠に追いかけっこが続くだけ……。
 何か良い案は、と周囲を見渡せば、宮殿の影に潜むように鬱蒼と茂った雑木林が目に付いた。もともとこの王宮は、先代二代目のKING OF HEARTが森林火災の跡地に建造させたと聞く。植林はその時に行われたのだと。
 あそこならばそう簡単には見つからないだろう。そもそも、そんな所へ逃げ込むなんてきっと想定されていない。

 息を殺し、低木を飛び越える。カサリ、足元の草が、或いは乗り越えた低木の葉が小さな音を立てた。しかし今、そんなことを気にしている余裕はない。
 その時不意に、何かを蹴飛ばしたような感覚があった。……否、それはただの見栄みえだ。本当はただ単に、なにかに躓いたのである。
 「ふおっ!?」
情けない声を押し殺せず、同時に体が前のめりに傾く。鍛えていない訳では無いが、それなりの速度を保っていた肉体は直ぐには止まらない。服が汚れたらまた小言を言われる……せめて着地面が最小になるように受身をとった。
 青いコートからはみ出した腕が地面に当たり、痛みが走る。こんなことなら林になんて入らなければ良かった。後悔してももう遅い……が、幸い遠くからの声は聞こえない。どうやら無事に捲けたようだ。
 後ろを振り返りながら立ち上がりかけて……
「? なんや、子供?」
自分が今しがた躓いたものが、小さな人の形をしていることに気がついた。
 蹴られたことを呻くでも、苦しむでもなく、そのまま地に伏している様子に一瞬嫌な汗が流れ、
「おい、大丈夫か」
少し離れた距離を詰めて抱き起こそうとする。
 が、生憎それは叶わなかった。一歩近づこうと踏み出したところで、その子供は兎のように身を跳ね起こし、素早く自分との距離をとったからだ。警戒した金茶色の大きな目が下から睨み、低くとった体制で腰元のナイフケースに手を添えている。
 この王宮で、自分に対してそんな態度をとる者は随分と珍しい……。
「ほぉん、お前が噂の」
声は一段低くなる。確かに、スートの気配がする。……しかし、それ以上に、
「って、お前怪我しとるやん! 悪い、俺が蹴ってまったで?」
その小さな体に刻まれた血の筋の方が気になった。もしも自分のせいだったのなら、早急に謝罪し手当しなければ。
 そう思って伸ばした手は、
「! 触るな!」
警戒から敵意に変わった声と共に小さな手に弾かれる。パシ、と響いた音と、触れ合った刹那に感じた小さな痛み。静電気のようなそれに傷をつけられることは無かったが……代わりに、子供の皮膚の傷は大きくなり、まるで独りでに自壊していくかのように、脈々と赤い線を作った。
 (ほぉ……珍しい体質やな……)
初めて目にしたが、ここまで痛々しく生々しいものだとは思っていなかった。
「わかったわかった、触らへんから。な?」
自分が無害であると示すように両手を胸の前で広げ、詰めかけた距離を開ける。野生の猫でも相手にしているような気分だ。
 距離を開ければ、少しだけ少年が肩の力を抜いたのが分かり、こちらも僅かに緊張がほぐれる。さて、これからどうしたものか……。
 この少年の事など放っておけばそれまで。けれど見るに、身につけているのは給仕の衣服。直近ではないとしても、同じ王宮に生きる自分の間接的な従者の一人……。それを子供だからという単純な理由で無下にするのはおかしな話だ。
 「で、お前、名前は?」
視界の端に移る少年の手の甲には、♡の紋様が刻まれている。無論、彼が現代の♡A・波白の家の長男であり、国殺しなんて名で呼ばれていることも知っているが……。
 「……カイト」
僅かな間を開けて返ってきたのは短い返事。元より敵対を望んでいるわけでは無さそうだ。それには一先ず安堵するも、問題は……
「名前聞かれて、本名答える阿呆がどこにおるん……」
彼が偽名ではなく、実の名を答えたということだ。この少年は、ここで生きていくにはあまりにも無知で、あまりにも脆い。
 しかし、そんなこと露も知らぬ少年は、眉根に皺を寄せて首を傾げ、
「……それ以外に名前なんてねぇぞ」
と痛いほど純粋に睨みを返した。
 (あんのバカACE、自分の子くらいちゃんと躾とけや……)
胸中で盛大にため息を零す。賢いとは言えないが、それでも良識はある件のACEこと、この少年の父親が、一体なぜもう一つの名を与えなかったのか……。
 そんなことを考えていても仕方がない。濁りかけた思考を笑顔で晴らし、
「えぇか、カイト。その名前は人前で言ったらあかん。そーやなぁ……」
まじまじと少年に視線を送る。若干の癖毛は父によく似ていて、濁ってはいるが金茶色の目の意思は強い。
(……原石みたいやな)
酷い仕打ちに晒され、忌み名で苛まれてもなお、その根底に秘めた輝きは失われていない。目の前の少年は、正しくそれだった。
 「ロッソにしよか! 綺麗な赤い髪やし。パジェーナ・ロッソ、お前の名前」
名前がないならば与えてしまえば良い。きたる将来、この少年が自分に牙を剥くことになろうが、今のこの瞬間を後悔しないと確信しながら、彼は笑う。
 「ロッソ……」
「そ。これからは名前聞かれたら、そー答えるんやお?」
これで少しでもこの少年への当たりが弱くなれば良いのだが……なんて淡い願いは誰にも届かない。けれど何をも知らぬ小さき命は、ただ純粋に首を縦に振った。
 「で! お前、怪我しとるやろ。手当したるで、ついてこやぁ」
敵意と警戒心の薄れた瞳に笑いかけ、手を差し伸べる。悪意はない。怪我をしている子供を放っておけるほど、自分は冷酷にはなれないから。
 今しがたロッソと名付けられた少年は、自分の足元と目の前の青年を交互に見つめ、しばし惑う。そうやって善意を差し伸べられ、何度裏切られたことか……。どれだけ幼くとも、鮮烈な記憶は未だと焼き付いている。
 返答の代わりに絞り出したのは、
「……お前の名前、聞いてない」
そんな逃げの疑問符だった。
 「ん? あれ、まだ名乗っとらへんかったっけ?」
紺色の髪の青年は変わらぬ笑顔で首を傾げる。何か悪意があったわけではなく、普段の生活の中で、周囲の人物が皆自分の名を知っていることを前提としているが故に、ついついそんなを忘れてしまいがちなのだ。
「俺はマール。パジェーナ・マールや」
 「パジェーナ、って……」
「そーやお? お前と一緒」
そう言ってニカッと眩い笑顔を向けるマールと名乗った青年からは、ただの純粋な好意だけしか感じない。まるで太陽のような……。
 そして、今度は有無を言わせずにロッソと名付けたばかりの少年の手を引いて、
「さ、手当しに行くで!」
好意のままに歩き始める。自分より歩幅の小さな少年を気遣って、彼の足取りは随分とゆっくりだ。
 (……コイツは、悪いヤツじゃ、無いのかも……しれない。……たぶん)
どこへ行っても居場所がない自分に、初めて手を差し伸べてくれた他人。信頼には値しないが、その手を振りほどく必要は感じられなかった。



 そうして並んで歩いていく二人は、なぜか王宮からは離れていく。もちろん、♡王宮の敷地内であることは間違いないが、広いこの敷地で宮殿から離れた場所に何があるのかまで、ロッソは未だと知らなかった。
 「……おい、どこに……」
人の声、生活音、雑踏……全てが遠ざかり、進む先には見知らぬ道。何か文句を言うつもりも、繋がれた手を振りほどいて逃げるつもりもなかったが、僅かな不安感が胸中を占める。
 「もうすぐやよ。ほれ、あそこ」
そう言って示されたのは小さな小屋。誰も寄り付かないような、知りもしなような、王宮の隅にぽつんと立てられたそれに見覚えはなかった。一体なんのために、一体誰が……。
 しかし、それが言葉になるよりも早く、ギィ……と音を立てて小屋の裏口が開かれ、意識は疑問符から現実へと向けられる。裏口の先にあるのは、地下深くの暗闇へどこまでも続く階段。吸い込まれそうな黒が、石畳の階段の先を閉ざしていた。
 吹き抜ける冷たい風が悪寒を誘い、反射的に腕が総毛立つ。マールはそんなロッソの様子に気づいてか、
「大丈夫。ここ、俺の隠れ家なんや」
安心させるように声をかけて、扉の横にかけられたランタンにマッチで火を灯した。心もとない明かりではあったが、それでも無いよりは随分マシだ。
 手を引かれ、一歩地下へと踏み出せば、ひたり、素足の裏に冷たい石の感触。幸い苔むしてはいないようで、うっかり滑って下まで一直線……なんてことにはならなくて済みそうだ。
 一瞬、脳裏に、どうして着いてきてしまったんだという後悔が過ぎる。つい先刻出会ったばかりの人物に着いていくだなんて自殺行為だと、少し考えればわかったではないか。甘い言葉に絆されるなんて馬鹿馬鹿しい。
 ただ、後悔してももう遅く、握られた手を振りほどいて階段を駆け上がることは、些か不可能に感じられた。あぁ、どうせ命尽きるなら、せめて日の下が良かった……。なんて、嘆いても今更か。
 そして、次に聞こえた音は
「着いたで。ここが俺の隠れ家」
という明るい声だった。
 周囲を見渡せば、階段と同じ石造りの正方形の部屋と、その中に備え付けられた今にも錆びて朽ち果てそうな木製の家具。どれも状態はとても良いとは言えないが、それでも隠れ家と呼ぶには差し支えないだろう。
 マールは部屋の中央に置かれた4人がけのテーブルの上にランタンを置き、適当な椅子を引いてロッソを座らせる。随分古びたクッションが座面に引かれていたが、まあ、無いよりはマシ程度にしか役割を果たしていない。
 「暗いし空気悪いし、あんまえぇとこやないけど……ま、これはこれやろ? ここ教えたんのはお前だけやし、好きに使ってもえぇけど、夜になったら水没するでここで寝たらあかんよ」
部屋の隅に置かれた朽ち果てそうな戸棚から、応急処置セットを取り出してランタンの隣に置き、マールはロッソの隣に腰を下ろす。本当に治療してくれるつもりだったらしい。
 「ここ……沈むのか?」
部屋が水に沈む。にわかには信じられない発言に首を傾げる。自分の人生は確かに他に比べれば短い方ではあるが、そんな話聞いたことがない。
 「そーやお。ここ、海抜より低いんや。やから、潮の満ち干きで沈むんやて。基本的には夜やけどな。……っていうても、まだお前にはわからんか」
そう話している間にも、青年は慣れた手つきで少年の傷を手当していく。柔らかな肌に似合わない、幾多もの生々しい傷と傷跡……。目を背けたくなるような現状に、なぜ誰も何も言わないのか……。そんな理由、わかりきってはいるが、あんまりな仕打ちだ。
 「……?」
「……」
沈黙を返せば静寂が閉ざす。海水でやられないよう、真空パックに詰めた綿花と包帯と瓶詰めの消毒液。自分とは縁の無いというものを手当するための道具……。ここを造った当初、一体どうしてこれを持ち込んだのか甚だ謎だが、今以上にこれを必要とした瞬間が果たしてあっただろうか……。
 (……やりすぎやと、俺は思うんやけどな……)
こちらを見つめる純粋で、それでいて嫌に悲しく濁った金の目。同い年の少年たちよりも随分と小さく、発達の遅れている体。そして何より、大半は外的要因によって作られた無数の傷……。なぜ、ここまで無情になれるのか。時にヒトとは理解し難い生き物だ。
(……第一、こんなヤツに……)
今にも折れてしまいそうな細い首。きっと握ったら簡単にその息の根が止まってしまうだろう。胸中の声は、皆まで言わずそこで言葉をやめた。
 「ほい、終わり! 他に傷は? どっか痛いところとかあらへん?」
少し大袈裟すぎただろうか。露出している肌の至る所から覗く包帯の白。一歩間違えれば、やんちゃ少年か自傷行為の跡にも見えてしまいそうだ。
 「……ない」
本当に疑う余地もなく手当をしてくれた目の前の青年に、ようやく幾分かの信頼を置いた少年は素直に言葉を返す。先程疑ってしまった詫びも込めて、
「…………Graciasありがと
小さく不器用な発音で感謝を伝えた。
 その様子に満足したようにマールは笑顔を向け、
「えぇよ、こんくらい。てか、怪我しとる子供手当するんは当然やし」
屈託なく告げて見せた。
 確かにこの少年を生かしておくことが、危険ではないとは言いきれない。もしかしたらきたる未来……それも、たった数年から十数年の後に、自分がこの子供に殺されることになったとしても……
(……俺は、今日ここで俺がとった行動を、後悔するとは思わへんし)
そう、確信をもって思えたから。QUEEN紛いな未来視の力なんて持っていないけれど、自分の未来くらい自分で決められなくて、何が一国の主か。一国の未来を担う者か。
 「……なぁ、また……来てもいいか」
見上げる少年の目に、自分の姿が反射して見える。少しの間を置いて続けたのは、きっとそこに「明日も」なんて言葉を入れるべきか迷ったからだろう。よく見れば……否、よく見なくたって、ただの少年じゃないか。
 「えぇよ、いつでも。……あ、夜以外ならな!」
「わかった」
少年の表情にはまだ笑顔は見られない。けれど、きっと彼は素敵な顔で笑うのだろう。不器用な言葉からして、なかなかに先は長そうだが……。
 「ほな、帰ろか。俺もそろそろ戻らんと、ホンマに怒られてまう」
応急セットを棚に戻し、ランタンを片手にとって、もう片方の手で小さな手を握る。行きよりも多少は気を許してくれたのか、柔い肌から緊張は差程感じられなくなった気がする。
 二つの足音と一つの明かりが階段を上って行ってしまえば、もはやその正方形の部屋に僅かばかりも光は入り込まない。無音の室内にやがて反響し始めた波の音が、黒い水と共に部屋を海へと連れ去ったことを、振り返らなかった少年は、まだ、知らない。



【2-1.未明の空、暁の海】
---------------------

ー登場人物ー(トランプ史627年現在)


名前:波白なみしろ 飛羽とわ
偽名:マローネ
役職:見習い♡兵
能力:ーー
外見:桃髪、赤茶色の目
出身:♡
性別:男
象徴:茶
備考:第25代目ACE OF HEARTの子


名前:カイト?
偽名:パジェーナ・ロッソ
役職:ーー
能力:ーー
外見:赤髪、金茶色の目
出身:♡
性別:男
象徴:赤
備考:第25代目ACE OF HEARTの子


名前:ーー
偽名:フィーリア・フェール
役職:QUEEN OF HEART
能力:ーー
外見:茶髪、橙目
出身:ーー
性別:女
象徴:桃 / いるか
備考:喫煙者


名前:ーー
偽名:パジェーナ・マール
役職:ーー
能力:ーー
外見:紺色の髪、赤紫の目
出身:ーー
性別:男
象徴:海 / くじら
備考:お人好し、子供好き

    
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