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5 知らない誰か
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運ばれて来たコーヒーとハーブティーをそれぞれ手に取り、静かに口に運ぶ。
「俺、松本に帰ることにしたんだ」
「そうなの? 会社は?」
「辞めたよ。彼女とは別れたんだ。そのことは、耳に入ってる?」
「たまたまだけど、聞いた」
「バカさ加減に自分でも呆れるよ」
保之はまたカップを口に運んだ。
「実は俺、君と別れた後、何度か行ったんだ。君のマンション。でも下から部屋の明かりを見上げることしかできなくてさ。マジ、ストーカーだよな」
初めて知る事実だった。奈瑠が生きているのか死んでいるのかわからないような生活をしていたときに、保之がすぐそばまで来ていたなんて。
「それで、たしか三回目に行ったときに、部屋の電気が点いてなくてさ。そのときは出かけてるんだと思った。だけど次に行ったときも暗くて、もしやって思ってポストの表札を確認したら、プレートが外されてて……。なんかすっごいショックでさ。部屋の契約は四月末までだっただろ? だからそれまではあそこに行けば奈瑠がいるって、会えなくても、奈瑠がそこにいるんだっていう、何だろ、安心感じゃないけど、勝手に思っちゃってたから……。本当にバカだよな」
カチャカチャカチャッと小さく音を立てながら、保之はカップをソーサーに戻した。彼の手は微かに震えていた。そして深く息を吐くと、まっすぐに奈瑠を見た。
「自分の身勝手で奈瑠を失ってみて、君が俺にとってどれだけ大事な存在なのか思い知らされたよ」
そして一つ深く呼吸をして、保之は続けた。
「一緒に松本に来てくれないかな」
まさかの申し出だったが、あまり驚かなかった。どこかにそんな予感があったのかもしれない。
「バカなことを言ってるのはわかってる。十分わかってるけど、これ以上後悔したくないから言う。俺と、もう一度やり直してくれないかな」
目の前の保之の顔が、知らない誰かに思えた。かつて幸せな時間を過ごし、結婚まで約束した人だという感覚はなかった。嫌悪とか憎悪とか、そういったマイナスな感情も湧いてこない。ただ目の前に座っているだけ。奈瑠ははっきりと自覚した。もうこの人に、なんの感情もない。街を歩いている、その他大勢と同じ――。
「それは、できない。あなたとは、もう」
静かに、けれどきっぱりとそう告げた。気持ちにさざ波も立たなかった。保之は細く息を吐き、口を結んで、深くうなずいた。きっと答えはわかっていたのだろう。奈瑠が自分の気持ちに区切りをつけるつもりでここへ来たように、保之もまた、ここできっぱりと奈瑠への思いを断ち切るつもりだったのだと思う。
「松本に帰ってどうするの?」
「実家の店を手伝うよ。ちょっと遅い職人修行だけど、いつかは店を継ぐ覚悟でさ」
まだつき合い始めの頃、実家が和菓子屋をやっていると聞いて、勝手に自分が若女将になった姿を想像したりもしたものだ。
「頑張ってね」
保之は少し笑ってこくんとうなずいた。
「最後に会えて、よかったよ」
保之とは店の前で別れた。もう会うことはないだろう。奈瑠も、会ってよかったと思った。
「姉ちゃん何考え込んでんの?」
その晩、自分でも気が付かないうちに、食卓の上に頬杖をついてぼうっとしていた。
「え? ああ、別に。ねえ勇樹。一番好きな料理って何?」
「一番好きな料理? そうだな……やっぱカレーかな」
「カレー!?」
「そう。しかも辛口。昔ばあちゃんがよく作ってくれてたんだ。二人だったからけっこう余っちゃって、たいてい次の日の朝もカレーなんだけど、時間が経って煮詰まった感じのもまた美味しかったりするんだよな」
「そうなんだ……」
「なんで? カレーじゃダメなの? ガキっぽいから? っていうかなんで俺の好物がカレーだったら姉ちゃんが落ち込むわけ?」
「勇樹は和食党だと思ってたから……」
「もちろん和食も好きだよ。特に朝は。でも落ち込むほどのことじゃないだろ」
昼間保之に言われたことが気になっていたのだった。保之は、奈瑠のことを「思い込んだら一直線」と表現していたけれど、それはつまり、勝手な思い込みの押し売りではないだろうか。保之がイタリアン好きだと勝手に思い込んで押し付けていたように、勇樹の好きなものも本当は違うんじゃないかと、ふと思ったのだった。
「わたしって勘違い女だよね」
ぼそりとつぶやいた。
「あ? どうしたの?」
「わたしって、ただの自己満足なおせっかい女なのかな? ねえうっとうしい?」
「急に何だよ。その言い方はうっとうしいよ」
奈瑠は大げさにため息を吐いて、「やっぱりそうなんだ」と嘆いてみせた。
「だから。何が言いたい?」
「ねえ、本当にうっとうしい? ほっといてほしい?」
「ほっといてほしいって思うほどかまってもらってないんですけど」
「ホント? じゃあもっとかまってほしいの? ん? どうなの? 勇樹くん」
顔を覗き込みながらわざと一言ごとにすり寄って行くと、怪訝そうな顔をしていた勇樹の方が、急に「ガウ!」と噛みつく真似をして顔を寄せて来た。顔と顔がぶつかりそうになって、思わず奈瑠の方がのけぞる。
「びっくりしてやんの。子供みたいだな」
勇樹はそう言って楽しそうに笑っていた。
「俺、松本に帰ることにしたんだ」
「そうなの? 会社は?」
「辞めたよ。彼女とは別れたんだ。そのことは、耳に入ってる?」
「たまたまだけど、聞いた」
「バカさ加減に自分でも呆れるよ」
保之はまたカップを口に運んだ。
「実は俺、君と別れた後、何度か行ったんだ。君のマンション。でも下から部屋の明かりを見上げることしかできなくてさ。マジ、ストーカーだよな」
初めて知る事実だった。奈瑠が生きているのか死んでいるのかわからないような生活をしていたときに、保之がすぐそばまで来ていたなんて。
「それで、たしか三回目に行ったときに、部屋の電気が点いてなくてさ。そのときは出かけてるんだと思った。だけど次に行ったときも暗くて、もしやって思ってポストの表札を確認したら、プレートが外されてて……。なんかすっごいショックでさ。部屋の契約は四月末までだっただろ? だからそれまではあそこに行けば奈瑠がいるって、会えなくても、奈瑠がそこにいるんだっていう、何だろ、安心感じゃないけど、勝手に思っちゃってたから……。本当にバカだよな」
カチャカチャカチャッと小さく音を立てながら、保之はカップをソーサーに戻した。彼の手は微かに震えていた。そして深く息を吐くと、まっすぐに奈瑠を見た。
「自分の身勝手で奈瑠を失ってみて、君が俺にとってどれだけ大事な存在なのか思い知らされたよ」
そして一つ深く呼吸をして、保之は続けた。
「一緒に松本に来てくれないかな」
まさかの申し出だったが、あまり驚かなかった。どこかにそんな予感があったのかもしれない。
「バカなことを言ってるのはわかってる。十分わかってるけど、これ以上後悔したくないから言う。俺と、もう一度やり直してくれないかな」
目の前の保之の顔が、知らない誰かに思えた。かつて幸せな時間を過ごし、結婚まで約束した人だという感覚はなかった。嫌悪とか憎悪とか、そういったマイナスな感情も湧いてこない。ただ目の前に座っているだけ。奈瑠ははっきりと自覚した。もうこの人に、なんの感情もない。街を歩いている、その他大勢と同じ――。
「それは、できない。あなたとは、もう」
静かに、けれどきっぱりとそう告げた。気持ちにさざ波も立たなかった。保之は細く息を吐き、口を結んで、深くうなずいた。きっと答えはわかっていたのだろう。奈瑠が自分の気持ちに区切りをつけるつもりでここへ来たように、保之もまた、ここできっぱりと奈瑠への思いを断ち切るつもりだったのだと思う。
「松本に帰ってどうするの?」
「実家の店を手伝うよ。ちょっと遅い職人修行だけど、いつかは店を継ぐ覚悟でさ」
まだつき合い始めの頃、実家が和菓子屋をやっていると聞いて、勝手に自分が若女将になった姿を想像したりもしたものだ。
「頑張ってね」
保之は少し笑ってこくんとうなずいた。
「最後に会えて、よかったよ」
保之とは店の前で別れた。もう会うことはないだろう。奈瑠も、会ってよかったと思った。
「姉ちゃん何考え込んでんの?」
その晩、自分でも気が付かないうちに、食卓の上に頬杖をついてぼうっとしていた。
「え? ああ、別に。ねえ勇樹。一番好きな料理って何?」
「一番好きな料理? そうだな……やっぱカレーかな」
「カレー!?」
「そう。しかも辛口。昔ばあちゃんがよく作ってくれてたんだ。二人だったからけっこう余っちゃって、たいてい次の日の朝もカレーなんだけど、時間が経って煮詰まった感じのもまた美味しかったりするんだよな」
「そうなんだ……」
「なんで? カレーじゃダメなの? ガキっぽいから? っていうかなんで俺の好物がカレーだったら姉ちゃんが落ち込むわけ?」
「勇樹は和食党だと思ってたから……」
「もちろん和食も好きだよ。特に朝は。でも落ち込むほどのことじゃないだろ」
昼間保之に言われたことが気になっていたのだった。保之は、奈瑠のことを「思い込んだら一直線」と表現していたけれど、それはつまり、勝手な思い込みの押し売りではないだろうか。保之がイタリアン好きだと勝手に思い込んで押し付けていたように、勇樹の好きなものも本当は違うんじゃないかと、ふと思ったのだった。
「わたしって勘違い女だよね」
ぼそりとつぶやいた。
「あ? どうしたの?」
「わたしって、ただの自己満足なおせっかい女なのかな? ねえうっとうしい?」
「急に何だよ。その言い方はうっとうしいよ」
奈瑠は大げさにため息を吐いて、「やっぱりそうなんだ」と嘆いてみせた。
「だから。何が言いたい?」
「ねえ、本当にうっとうしい? ほっといてほしい?」
「ほっといてほしいって思うほどかまってもらってないんですけど」
「ホント? じゃあもっとかまってほしいの? ん? どうなの? 勇樹くん」
顔を覗き込みながらわざと一言ごとにすり寄って行くと、怪訝そうな顔をしていた勇樹の方が、急に「ガウ!」と噛みつく真似をして顔を寄せて来た。顔と顔がぶつかりそうになって、思わず奈瑠の方がのけぞる。
「びっくりしてやんの。子供みたいだな」
勇樹はそう言って楽しそうに笑っていた。
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