9 / 46
1 謎の美青年、海に落ちる
9
しおりを挟む
バイトが終わると、café leafの人気メニューの一つであるオムライスにサラダを添えて、テイクアウトの容器に入れてもらった。
「お疲れさま。気をつけて」
「変なことされそうになったらすぐ逃げるのよ」
自転車で来ていたので、荷物を前のかごに入れ、オムライスが崩れないようにできるだけ段差を避けてゆっくりと進む。夜風が気持ちいい。
自転車で行けるところまで行き、あとは自転車を置いて、細い石畳の坂道や階段を登る。途中で見上げても二階しか見えないので、電気が点いているのかどうかわからない。でもきっと他に行くところもないだろうから家にいるだろう。
門の外から窺うと、一階に灯りが点いている。一つ深呼吸をしてインターホンを押した。
応答はない。
もう一度押す。
出ない。
応答があったのは、三度目のピンポンを押したあと、もしかしたらお風呂にでも入っているのかもしれないとあきらめかけた時だった。
(はい)
「あっ、こんばんは。こんな時間に突然すみません。夏井咲和です」
清風さんは小さくため息を吐いたあと「どうぞ」と言った。小さなため息が心境を物語っている。でも負けない。本当にちゃんと食べているかどうかだけでも確認しないと。
「電話しようと思ったんですけど、いきなり押しかけちゃいました。すみません」
わざと明るく言ってみる。清風さんは黙ったままだ。
昨日の応接間に通された。
「今夜は何か食べました?」
「…………」
「ちゃんと食べました? ごはん」
清風さんはずっと黙っている。
「やっぱり」
そんなことじゃないかと思っていた。わたしはソファに座り、前のテーブルに持ってきたオムライスとサラダを並べた。デミグラスソースがフタについてしまっている。
「これ、またマスターが作ってくれたんです。うちのお店の人気メニュー。美味しいんで食べてください。食べないと本当に死にますよ。わたし葵さんにあなたのこと頼まれてるんで、葵さんが来るまでは死んでもらったら困るんです」
清風さんはおとなしくわたしの正面に座った。そして言った。
「崩れてる」
「崩れてない! 自転車で来たからちょっとソースが飛んじゃっただけです。味は変わらないんだから文句言わずに食べてください」
スプーンを袋から取り出して渡すと、清風さんはそれを受け取り、黙々と食べ始めた。あいかわらず変な人だけれど、昨日よりは素直だ。オムライスを食べる姿は、ちょっとかわいい。
しばらくすると手を止め、顔を上げてわたしを見た。ドキッとする。
「そんなに見られてると、食べにくい」
そんなにまじまじ見ていたんだろうか。逆に恥ずかしくなってちょっとうつむいた。
「そう言えば、病院、行ったんですか? お金払いに」
清風さんは口を動かしながら横に首を振った。
「へ? だって今日電話で行くって」
清風さんは黙ったまま立ち上がって部屋を出て行った。そして昨日わたしがコンビニで買って来た水のボトルを持って戻ってきた。元の位置に座り、フタを開けて水を飲む。そして言った。
「行こうと思ったんだけど、面倒くさくて」
「は? 何それダメでしょ」
もしかしてお坊ちゃま育ちだから、今までそういう雑事はみんな周りの人がしてくれていたのだろうか。
「ちゃんと行かないと警察に捕まりますよ? だって、そういうの何ていうか知らないけど、飲食店で言うところの食い逃げと同じでしょ? 病院から連絡とか来てないんですか? わたし手続きのとき、清風さんの携帯番号書きましたよ?」
清風さんはまた一口水を飲んでから言った。
「知らない番号から何度か電話はあった」
「それでしょ! 出てないんですか?」
「出てない」
何なんだこの人は。二十八歳にもなって。わたしの方がよっぽど常識があると思う。
「明日。ちゃんと行ってくださいね。葵さんに言いつけますよ」
清風さんはちらっと上目遣いでまたわたしを見た。そしてオムライスに視線を戻して言った。
「君、何者なの?」
そう言えば清風さんは名前以外、わたしのことを知らない。話すタイミングも無かったのだからしょうがないけれど。
「見ず知らずの人間が救急車で運ばれるのに一緒に乗って行くなんて、そうとうお節介な人だなあと思って」
「知らなかったんです! 一緒に行かなきゃいけないのかと思っちゃって。わたしだって後悔してますよ。同乗しなかったら、あなたなんかと関わらなくて済んだのに」
「訛りないんだね」
「わたし、実家は東京だから。こっちには祖父母の家があって、今はそこから市内の大学に通ってるんです」
「へえ」
まるで興味無いといった感じだ。自分から聞いたくせに。
「ここの別荘にはよく来てたんですか?」
腹立ち紛れに適当に質問を返した。
「初めて」
「初めて?」
「来ないよ。こんなとこ」
「こんなとこ!?」
「別荘は世界中にいくつもあるから。ここは祖父が気に入って買ったらしいけど、その祖父ももういないし」
言い返す言葉もない。住む世界が違い過ぎるのだ。
「じゃあわたし、そろそろ帰りますね」
「タクシーを呼ぶよ。もう暗い」
まさか、わたしのことを気遣ってくれているのだろうか。清風さんが?
「大丈夫です。いつものことだから。危ない道は通らないし。それより明日、ちゃんと病院行ってくださいね」
「あのさ」
「はい?」
「きちんと、お礼をしなくちゃいけない。君にも、マスターや、ほかの人にも」
どうしたというんだろう。急にまともなことを言い出して。気味が悪い。
「僕はもう大丈夫だから。もうこういうこと、してもらわなくていいから。葵には僕から話す。だから最後に、きちんとお礼をしなくちゃと思ってる」
この人本当は、意外とちゃんとした人なのかもしれないと思った。と同時に、わたしたちを遠ざけようとしているのがわかった。きっと人と関わりたくないのだろう。どんな事情があるのか知らないけれど、一人になって、何をするつもりだろう。
「じゃあ、コーヒー。コーヒー飲みに来てください。うちのお店、コーヒー美味しいって評判なんですよ。ごはんも、一人で用意するのが面倒くさかったらうちのお店で食べてください。一回じゃダメですよ? マスターはあなたを助けるために海に飛び込んで風邪ひいたんだから、何度も来てもらわないと割が合わない」
「それは……」
「来ないんだったらわたしが来ます。毎日ごはん持って押しかけます。夜でも朝でもかまわず押しかけますよ。それが嫌なら来てください」
けっこう間があったけれど、清風さんは「わかった」と言ってくれた。
「お疲れさま。気をつけて」
「変なことされそうになったらすぐ逃げるのよ」
自転車で来ていたので、荷物を前のかごに入れ、オムライスが崩れないようにできるだけ段差を避けてゆっくりと進む。夜風が気持ちいい。
自転車で行けるところまで行き、あとは自転車を置いて、細い石畳の坂道や階段を登る。途中で見上げても二階しか見えないので、電気が点いているのかどうかわからない。でもきっと他に行くところもないだろうから家にいるだろう。
門の外から窺うと、一階に灯りが点いている。一つ深呼吸をしてインターホンを押した。
応答はない。
もう一度押す。
出ない。
応答があったのは、三度目のピンポンを押したあと、もしかしたらお風呂にでも入っているのかもしれないとあきらめかけた時だった。
(はい)
「あっ、こんばんは。こんな時間に突然すみません。夏井咲和です」
清風さんは小さくため息を吐いたあと「どうぞ」と言った。小さなため息が心境を物語っている。でも負けない。本当にちゃんと食べているかどうかだけでも確認しないと。
「電話しようと思ったんですけど、いきなり押しかけちゃいました。すみません」
わざと明るく言ってみる。清風さんは黙ったままだ。
昨日の応接間に通された。
「今夜は何か食べました?」
「…………」
「ちゃんと食べました? ごはん」
清風さんはずっと黙っている。
「やっぱり」
そんなことじゃないかと思っていた。わたしはソファに座り、前のテーブルに持ってきたオムライスとサラダを並べた。デミグラスソースがフタについてしまっている。
「これ、またマスターが作ってくれたんです。うちのお店の人気メニュー。美味しいんで食べてください。食べないと本当に死にますよ。わたし葵さんにあなたのこと頼まれてるんで、葵さんが来るまでは死んでもらったら困るんです」
清風さんはおとなしくわたしの正面に座った。そして言った。
「崩れてる」
「崩れてない! 自転車で来たからちょっとソースが飛んじゃっただけです。味は変わらないんだから文句言わずに食べてください」
スプーンを袋から取り出して渡すと、清風さんはそれを受け取り、黙々と食べ始めた。あいかわらず変な人だけれど、昨日よりは素直だ。オムライスを食べる姿は、ちょっとかわいい。
しばらくすると手を止め、顔を上げてわたしを見た。ドキッとする。
「そんなに見られてると、食べにくい」
そんなにまじまじ見ていたんだろうか。逆に恥ずかしくなってちょっとうつむいた。
「そう言えば、病院、行ったんですか? お金払いに」
清風さんは口を動かしながら横に首を振った。
「へ? だって今日電話で行くって」
清風さんは黙ったまま立ち上がって部屋を出て行った。そして昨日わたしがコンビニで買って来た水のボトルを持って戻ってきた。元の位置に座り、フタを開けて水を飲む。そして言った。
「行こうと思ったんだけど、面倒くさくて」
「は? 何それダメでしょ」
もしかしてお坊ちゃま育ちだから、今までそういう雑事はみんな周りの人がしてくれていたのだろうか。
「ちゃんと行かないと警察に捕まりますよ? だって、そういうの何ていうか知らないけど、飲食店で言うところの食い逃げと同じでしょ? 病院から連絡とか来てないんですか? わたし手続きのとき、清風さんの携帯番号書きましたよ?」
清風さんはまた一口水を飲んでから言った。
「知らない番号から何度か電話はあった」
「それでしょ! 出てないんですか?」
「出てない」
何なんだこの人は。二十八歳にもなって。わたしの方がよっぽど常識があると思う。
「明日。ちゃんと行ってくださいね。葵さんに言いつけますよ」
清風さんはちらっと上目遣いでまたわたしを見た。そしてオムライスに視線を戻して言った。
「君、何者なの?」
そう言えば清風さんは名前以外、わたしのことを知らない。話すタイミングも無かったのだからしょうがないけれど。
「見ず知らずの人間が救急車で運ばれるのに一緒に乗って行くなんて、そうとうお節介な人だなあと思って」
「知らなかったんです! 一緒に行かなきゃいけないのかと思っちゃって。わたしだって後悔してますよ。同乗しなかったら、あなたなんかと関わらなくて済んだのに」
「訛りないんだね」
「わたし、実家は東京だから。こっちには祖父母の家があって、今はそこから市内の大学に通ってるんです」
「へえ」
まるで興味無いといった感じだ。自分から聞いたくせに。
「ここの別荘にはよく来てたんですか?」
腹立ち紛れに適当に質問を返した。
「初めて」
「初めて?」
「来ないよ。こんなとこ」
「こんなとこ!?」
「別荘は世界中にいくつもあるから。ここは祖父が気に入って買ったらしいけど、その祖父ももういないし」
言い返す言葉もない。住む世界が違い過ぎるのだ。
「じゃあわたし、そろそろ帰りますね」
「タクシーを呼ぶよ。もう暗い」
まさか、わたしのことを気遣ってくれているのだろうか。清風さんが?
「大丈夫です。いつものことだから。危ない道は通らないし。それより明日、ちゃんと病院行ってくださいね」
「あのさ」
「はい?」
「きちんと、お礼をしなくちゃいけない。君にも、マスターや、ほかの人にも」
どうしたというんだろう。急にまともなことを言い出して。気味が悪い。
「僕はもう大丈夫だから。もうこういうこと、してもらわなくていいから。葵には僕から話す。だから最後に、きちんとお礼をしなくちゃと思ってる」
この人本当は、意外とちゃんとした人なのかもしれないと思った。と同時に、わたしたちを遠ざけようとしているのがわかった。きっと人と関わりたくないのだろう。どんな事情があるのか知らないけれど、一人になって、何をするつもりだろう。
「じゃあ、コーヒー。コーヒー飲みに来てください。うちのお店、コーヒー美味しいって評判なんですよ。ごはんも、一人で用意するのが面倒くさかったらうちのお店で食べてください。一回じゃダメですよ? マスターはあなたを助けるために海に飛び込んで風邪ひいたんだから、何度も来てもらわないと割が合わない」
「それは……」
「来ないんだったらわたしが来ます。毎日ごはん持って押しかけます。夜でも朝でもかまわず押しかけますよ。それが嫌なら来てください」
けっこう間があったけれど、清風さんは「わかった」と言ってくれた。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
お昼ごはんはすべての始まり
山いい奈
ライト文芸
大阪あびこに住まう紗奈は、新卒で天王寺のデザイン会社に就職する。
その職場には「お料理部」なるものがあり、交代でお昼ごはんを作っている。
そこに誘われる紗奈。だがお料理がほとんどできない紗奈は断る。だが先輩が教えてくれると言ってくれたので、甘えることにした。
このお話は、紗奈がお料理やお仕事、恋人の雪哉さんと関わり合うことで成長していく物語です。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
おしっこ我慢が趣味の彼女と、女子の尿意が見えるようになった僕。
赤髪命
青春
~ある日目が覚めると、なぜか周りの女子に黄色い尻尾のようなものが見えるようになっていた~
高校一年生の小林雄太は、ある日突然女子の尿意が見えるようになった。
(特にその尿意に干渉できるわけでもないし、そんなに意味を感じないな……)
そう考えていた雄太だったが、クラスのアイドル的存在の鈴木彩音が実はおしっこを我慢することが趣味だと知り……?
隠れ御曹司の愛に絡めとられて
海棠桔梗
恋愛
目が覚めたら、名前が何だったかさっぱり覚えていない男とベッドを共にしていた――
彼氏に浮気されて更になぜか自分の方が振られて「もう男なんていらない!」って思ってた矢先、強引に参加させられた合コンで出会った、やたら綺麗な顔の男。
古い雑居ビルの一室に住んでるくせに、持ってる腕時計は超高級品。
仕事は飲食店勤務――って、もしかしてホスト!?
チャラい男はお断り!
けれども彼の作る料理はどれも絶品で……
超大手商社 秘書課勤務
野村 亜矢(のむら あや)
29歳
特技:迷子
×
飲食店勤務(ホスト?)
名も知らぬ男
24歳
特技:家事?
「方向音痴・家事音痴の女」は「チャラいけれど家事は完璧な男」の愛に絡め取られて
もう逃げられない――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる