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1 謎の美青年、海に落ちる

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 尾道に来て一年以上たつけれど、今でも海を見下ろす坂の街は迷路みたいだなあと思う。細い路地や階段が入り組んでいて、ちょっと一本違う道を行けば新しい発見があったりする。道が狭いので、車で家の前まで行けるところは少ない。郵便や宅配便は歩いて配るのだそうだ。

 タクシーの運転手も「この先で降りてあっちへ行ったら向こうの方に曲がると坂があるけえそこを上がって……」と、わかるようなわからないような説明をして、西國寺の参道の途中で車を停めた。雅楽川さんの別荘へは車で行くこともできるけれど、遠回りになってしまうのでここで降りて歩いた方がいいとのことだった。

 運転手としては家の前まで乗りつけた方が儲かるはずなのに、と思いながらタクシーを降りた。ちなみに、「さっきのお兄ちゃんには家の前まで行ってくれ言われたけどな」と言っていた。

 近くまで行けば目立つからすぐわかると言われていたとおり、それらしき建物はすんなりと見つかった。

 お屋敷へと続く石畳の坂の途中で足を止める。

 ここからでは全貌はわからないけれど、二階の青っぽい屋根やクリーム色の壁、庭に植えられた大きな木が見える。やはり奥さんとマスターが言っていたのはここのことだろうか。

 お屋敷の前まで来てみると、両サイドに石柱が立ち、つる植物のようなデザインの鉄製の門扉が、いかにも古い洋館の入り口といった趣だ。表札にはローマ字でUTAGAWAとある。

 額ににじんだ汗をハンカチで抑えながら、しばらく中の様子を窺った。

 静まり返っていて、人がいるのかどうかわからない。でも、清風さんはきっとここにいるはずだ。

 緊張しながらインターホンのボタンを押した。

 …………。

 応答はない。いないのだろうか。

 もう一度押す。

 やっぱり出ない。

 出かけているのか、それとも出たくないのか……。

 ハッと息を呑んだ。もしかしたらまた意識を失って倒れているのかもしれない。助けを呼びたくても動けないでいるのかもしれない。

 慌ててボタンを連続で押し続けた。するとようやくカチャリと応答の音がした。

(警察呼びますよ)

 低い声、かつ冷静な口調での第一声はそれだった。

「えっ!? あの、違うんです。すみません。中で倒れているのかと思って……」

(どちら様ですか?)

「夏井咲和と言います。昨日、一緒に救急車に乗って行ったものなんですけど……」

 しばらく間があって、どうぞ、と言われたきりインターホンは切れた。

 どうぞということは、入ってもいいということよね?

 恐る恐る門扉の取っ手に手をかける。

 開かない。

 どうぞと言っておきながら開けてくれないつもりだろうか。

 あ、押すのか。

 インターホン越しの清風さんは、想像していた感じと違った。葵さんが、ちょっと強引ではあるけれど誠実そうな話し方の人だったので、お兄さんの清風さんもそんな感じかと勝手に思っていたのだ。けれどさっきの感じだと、ちょっと取っつきにくいタイプの人かもしれない。

「どうぞ」と言うまでの間は、きっと迷いだ。本当は招き入れたくはないのだけれど、助けてくれた恩がある以上無下に追い返すわけにもいかないといったところか。

 こっちとしても関わりたくない気持ちがふつふつと沸き上がっていた。

 玄関前に立つと同時にドアが開いた。現れたのは清風さん本人だった。シャワーを浴びたのか、ふわっといい香りがする。もちろんもう病衣姿ではない。黒いTシャツにグレーのラフなパンツ姿だ。昨日よりはいくぶん顔色はいいけれど、それでも健康的とは言えない。そしてやっぱり、とても整った顔立ちをしている。整形かと思うほどだ。整形か?

「あ、あの、こんにちは」

 わたしは改めて挨拶をした。

「どうぞ」

 応接間のような部屋に通された。ダークブラウンの床も、そして置いてある家具もピカピカに磨き上げられ、古いけれど全体的に手入れが行き届いているのがわかる。マスターたちが言っていたように、管理人を雇っていつでも使えるようにしてあるのだろう。本当に立派なお屋敷だ。けれど他に人がいる気配はない。

「あの、すみませんでした。何度もピンポン鳴らして」

「もし僕が倒れていたとしたら、何度鳴らしても無駄じゃないですか?」

 清風さんはにこりともしない。

「そう……です……よね……スミマセン……」

 張り詰めた空気に飲まれて言葉が尻すぼみになってしまう。

「適当に座ってください。ただ申し訳ないんですが、おかまいできるようなものが何もないんです」

「そんな、何もいりません。お気づかい、なく……」

 緊張する。小さく「失礼します」と言いながら、お高い外国製と思われるソファに腰掛けた。硬過ぎず柔らか過ぎず、さすがに座り心地がいい。

「あ、これ、洗っておきました。昨日着てた服」

 わたしが紙袋を少し掲げてみせると、一瞥して、低い声で「どうも」とだけ言った。

 清風さんは座ろうとはせず、外を見ながら窓辺にまっすぐに立っている。あえて“まっすぐ”と形容したくなるような、ぴんと美しい佇まいだ。

「具合は、どうですか?」

 恐る恐る聞いてみる。

「大丈夫です」

「あの……勝手に退院されたって聞いたんですけど、ちゃんと検査してもらった方がい……」

「一つ伺っていいですか」

 清風さんは窓の外を見たまま、そう言ってわたしの言葉を遮った。
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