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志恩が派遣してくれた優秀なプログラマーのお陰で、山積みな仕様書ファイルは1週間で片付けられた。
メトロームのプログラマーで優秀な志恩の秘蔵っ子と言われてる2人、間宮蓮(28歳)と津山彰人(28歳)が、わたしと同じ、いや、それ以上の力を発揮させ、仕事を片付けた。
間宮と津山のプログラミングスキルに、わたしが自分の力を過信していた事に気づく。
志恩はわたしがいなくても、優秀なプログラマーを雇い、育ててる。
わたしを優秀なプログラマーとして側に置きたいと思ってるわけではないと知った。
2週間の予定で派遣されてる間宮と津山の歓迎会が金曜日の夕方に行われた。
溜まりに溜まった仕様書ファイルは片付いたけれど、開発プログラマーから無理難題な仕様書は次々と上がってくる。
でも、今週末ぐらいはゆっくりしたいからと寝不足と過労でぐったりしてるのに、任天社の《ポッケモン》の製作プログラマーチーム30人プラス助っ人6名が、間宮と津山を連れて、近場の居酒屋バイキングを2時間貸し切りにして飲み会を開いた。
「櫻井さん、変わりましたね」
居酒屋バイキングに着き、最近胃が悪いから乾杯のビールも断り、料理に舌鼓を打つわたしに、間宮と津山が近づいてきて話しかけてきた。
キョトンとしているわたしに、
「僕たち、メトロームに初期から勤めてます。ちなみに覚えてないと思いますが、T大時代に同じゼミにいましたよ。櫻井さんは常に須藤社長の横にいて、須藤社長が牽制して、他のゼミのメンツとは関わらせないようにしていたから、話した事も無いですけど」
間宮がため息をつく。
わたしの横に間宮、前に津山が座った。
「櫻井さん、須藤社長の元にいい加減、帰ってきてくれませんか。社長、あなたが居なくなって、性格がかなりきつくなって、直接関わるプログラマーはいつも当たられて困ってます。あなたがいなくなり、あなたの代わりになるよう、プログラミングスキルを短期間で身につけさせられたメンツは社長が恐ろしくて震えてますよ」
わたしがメトロームから逃げてからの志恩について、2人が愚痴るように話してくる。
間宮と津山はわたしの代わりをする主力プログラマーの7人のうちの2人らしい。
わたしがメトロームを去ってからも、メトロームは業務を拡大して行った。
間宮と津山はわたしよりもプログラミングスキルは上だと思う。
プログラマーとしてのわたしはもう役に立たないと思う。
「櫻井さん、須藤社長はストイックなぐらい、あなたが居なくなってから仕事をしてきました。それであなたが帰って来てくれると思って。社長のどこが嫌なんですか。かっこよくて仕事もできて、後、社長は女性に関しては、櫻井さんの事しか見てなくてかなり一途じゃないですか。嫌う、拒否する理由はないと思いますが」
だいぶアルコールが入った間宮がわたしに強く言ってきた。
津山が間に入り、抑えても、止まらない。
「間宮くん。ごめんね。わたしはもう、須藤社長の元には戻りたくない。わたしは、あの意のままに動く操り人形でいたくない。自分の好きなように生きたいの」
感情が高まってる間宮と話し続けたくなくて、笹部リーダーに一声、帰ることを伝えて居酒屋をでた。
次の週は志恩はマサチューセッツ工科大学に勉強に行って、メトロームには居なかった。
ほっとするもつかの間、KY神田副社長に副社長室に呼び出されて行く羽目に。
出向先副社長という立場からの呼び出しで、無視するわけには行かず、気分が悪い。
副社長室に入ると不機嫌なKY神田副社長がいた。
「美咲ちゃん、志恩の気持ちを少しは考えろよ。あいつ、美咲ちゃんと再会して、美咲ちゃんの事しか考えられないぐらいに美咲ちゃんの事を思ってるのに。仕事にも支障が出始めてるし、もうさ、諦めて、志恩の元に帰れ」
いつものおちゃらけた口調でなく、いつも須藤社長と呼ぶところがプライベートの呼び方の志恩になってる。
やはり、湯河原の高級旅館に志恩を置いてきたのはまずかったか。
でも、わたしの意志関係無しで、湯河原の高級旅館に一緒にいきなり宿泊は無いと思う。
逃げた恋人に対して、自分は別れたつもりないからって、わたしにはその気は無いから、身を守るために逃げるよ。
「何度も言ってますが、わたしは須藤社長とはもう全く関係ない身です。その件に関しては業務とは全くない関係のない事ですので従えません。業務に戻ります。失礼しました」
間宮といい、KY神田副社長といい、わたしの気持ちを考えてくれない。
あえて、志恩の事を須藤社長と呼び、拒絶するようにKY神田副社長に言い切って、副社長室から出た。
志恩から逃げきるには、任天社を退職して、今までのキャリアを捨てて全く違う業種に再就職するしかないと思った。
任天社に退職願を出した。
上層部からも考えるように言われたけれど、京都と東京を行ったり来たりする生活や体調不良を理由に、《ポッケモン》のゲーム開発が終了する7月末に退職する事が決まった。
あれから、体調不良が酷く、病院へ行き、プログラマーの大半がかかると言われてるうつ病の診断書を出して貰い、メトロームへの出向を取りやめにして貰った。
大好きだったプログラミングの仕事さえが苦痛に感じて、診断書の提出で定時に退社するわたしは、マンションの部屋でぼうっと物思いに浸っていた。
任天社を退職してから、どうやって生きていこう。
もう、わたしが唯一できるプログラミングの仕事に就く気はしない。
京都に居続けるのも苦痛に感じ、実家のある福岡に帰ろうかと頭によぎった。
わたしの父は福岡にある自動車メーカーで開発の仕事をしていて、今、常務をしてると言ってた。
物作りの現場で、CAD設計や生産技術のロボットプログラミングの仕事につこうかと今後について考えた。
任天社で業務時間内はたんたんと仕様書ファイルをこなすためにプログラミングしていく。
慣れた仕事だから、指は高速に動く、他のプログラマーの5倍ぐらいの仕事量をこなしていく。
このスキルは、志恩が教えてくれた。
志恩に出会わなければ、わたしは、こんな高度なプログラミングスキルは身につかなかったと思う。
志恩の下で開発プログラマーとして働いてる間宮と津山はわたしよりも高度なテクニックを持っていた。
その事に多少なり嫉妬をし、それが引き金に気持ちが沈んだ。
志恩から逃げて、任天社に再就職し、そこでプログラマーとして働くうえでは、わたしの今あるスキルで充分通用していた。
メトロームに出向し、メトロームのプログラマーと肩を並べて仕事をし、任天社で、メトロームの有能な開発プログラマーの2人に力の差を見せつけられ、間宮とKY神田副社長に志恩の女としての役割をするよう求められてる気がして辛かった。
志恩のITエンジニアとしての能力を尊敬していた。
彼から教わるスキルを習得し、彼が手がけるアプリやシステムを構築する事が生き甲斐だった。
それが、志恩がわたしに仕事のパートナーとしてでなく、欲望の捌け口のパートナーという位置づけにされてきて、それが辛くてわたしは逃げたんだ。
退職する、7月末が近づいてきた。
わたしの退職はメトロームに伝わってる。
精神科からの鬱の診断書で、残業禁止で勤務をしている事も…。
本来は休職になるところだけど、猫の手を借りたいぐらいの開発の終盤業務で、わたし自身もやり遂げたくて、出勤をした。
7月19日にプログラミングはなんとか終わらせ、7月20日から27日に開発プログラマーが全体を通して動作確認し、問題点を修正してから、ソフトカセットの工程に進む。
25日にメトロームの《ポッケモン》のアプリと連動が上手く行くかのチェックで、間宮と津山と志恩が任天社に来ていた。
メトロームに出向社員としてお世話になっていた事もあり、笹部マネージャーに挨拶をするように言われて、会議室に呼ばれた。
笹部マネージャーは、志恩とわたしの関係を知らない。
会議室に内線で呼ばれて行く。
湯河原の高級旅館から逃げてから、志恩とは顔を合わせてない。
どんな顔をして会えば良いかわからない。
仕事上で会うんだ。
「失礼します」
会議室には、笹部マネージャーと、志恩と間宮と津山の3人しか居なかった。
「来た、来た。櫻井、出向を途中で放棄したんだから、きちんと謝罪しろ。まっ、女には体力的にも荷が重かったよな。本来なら開発プログラマーの誰かが出向いて滞在する職務だったからな」
笹部マネージャーはわたしが退職することをいまだに認めてない。
うつ病の診断書も『職業病だ。風邪と一緒だ。ガッツで直せ』と、無理難題を言って、残業させようとしたぐらい。
「7月末で俺は認めてないけど、うちを退職する事になった。休職をして復職するように勧めたけど、本人の意向で退職するって。 櫻井も若く見えて28だもんな。せっかくプログラミングのスキルを身につけたのにもったいない。女の幸せにでも目覚めたか?」
KY神田副社長以上にモラハラセクハラ発言を発する笹部マネージャー。
わたしの退職に腹を立ててるのはわかる。
でも、志恩の前では言わないで欲しかった。
「いえ、もう年齢的に体力的についていけないので地元に戻って身の丈に合う仕事に就いて療養しようと思っただけです。
須藤社長、お世話になりました。最後まで出向業務を遂行できず申し訳ございませんでした」
最後だから…、志恩の顔をしっかり見て、丁寧に謝罪をした。
久しぶりに会う志恩は、以前のように覇気がなく、わたしと同じぐらいやつれていた。
「まっ、女は結婚したら妊娠だ出産だ子育てだ看護だって、所詮プログラマーとして活躍していくのは無理だから、今まで務められただけマシか」
笹部マネージャーのモラハラセクハラ発言は続く。
わたしの実力を認め、中途社員だけど、製作プログラマーで無く開発プログラマーにという話が何度かあった。
それを、開発プログラマーの中で反対する声があり移動できなかった。
笹部マネージャーはわたしよりプログラミング技術が劣る事を知っていて、わたしを開発プログラマーにはせず、製作プログラマーとして立場上見下したかったんだと思う。
自分でもプログラミングできないような仕様書を投げてきて、涼しい顔してわたしが形にする事にイラついていた。
わたしが入社してすぐの頃に、笹部マネージャーから交際を何度も申し込まれても受けなかったのも彼のプライドを傷つけたのかもしれない。
わたしが交際を断り続けてる中で、社長から娘との縁談を持ちかけられ、尻尾を振って、社長の娘と結婚した笹部マネージャー。
交際しなくて良かったと心底思う。
好きに言わせればいい…。
退職は決まってる。
笹部マネージャーがいつか社長になるこの会社に対し、仕事内容について多少なりやり甲斐を感じ、やめる事に対して後ろ髪を引かれる心中だった。
それが拭いきれて、清々する。
「笹部マネージャー、わたし、1度も婚活するとは言ってませんよ。任天社で勤めるには体力的に難しいから退職すると説明しましたよね。体調が回復しましたら、またこの業界に戻ってくるつもりです。でも、モラハラセクハラ発言を受けたので、任天社には復職するつもりはありません」
あまりの暴言に堪らず言い返す。
志恩の前で、この言い合いはしたくなかったけど…。
志恩とは、こんな言い合いをした事、無かったな。
志恩は、わたしが女だからと差別する事はなかった。
わたしのプログラマーとしての能力を認めてくれてた。
そして、その力を活かし、好きなようにプログラミングの仕事をさせてくれてた。
だから、仕事に関しては、不満はなかった。
「み…、櫻井さん、体調が回復されたら、もし可能なら、メトロームの開発プログラマーとして働きませんか。あなたのプログラミングスキルを最大限活かせるよう、体力的に無理がないようにしますから。待ってます。新幹線の時間があるのでこれで失礼します」
志恩は、間宮と津山を連れて、会議室を出て、帰って行った。
わたしは、笹部マネージャーと外まで見送りに出た。
志恩は、わたしを優しく包み込むような瞳で、わたしを求めるよう、でも諦めてるようなそんな感情でわたしを見つめて、わたしにメトロームにくるように言った。
任天社を退職し、5ヶ月後に手がけてた《ポッケモン》が発売された。
実家の福岡で手に取り、プログラミングはしても仕上がったゲームはあまりやらないわたしだけど、自宅療養してるのもあり、プレイしてみた。
やってみて、ゲーム本体よりアプリの方が楽しかった。
やはり、連動のアプリの方が評価された。
小さな子供から大人や、海外の人々にまでも大ヒットした。
さすが、志恩。
3ヶ月悩み、わたしは東京に戻った。
そして、恐る恐るメトロームの本社があるオフィスビルに入った。
事前に、再就職について、KY神田副社長に相談の電話をしていた。
KY神田副社長はおちゃらけた人だけど、いつから出社できるかを聞いてきて、入社までの段取りをしてくれた。
オフィスビルに入ると、約束の時間よりも10分も前なのに、社長の志恩がそわそわしながら待っていた。
今話題のカリスマハンサム社長の志恩が受付前にいるから、出勤中の女性社員達が頬を赤めて見惚れ、黄色い声を上げて、通って行く。
志恩がわたしを見つけ、緊張した足取りでわたしに近づいて来た。
「お帰り、美咲。美咲を、社長直属の開発プログラマーとして迎え入れるよ」
わたしは、再就職した日から、志恩直属の開発プログラマーのメンバーとして迎え入れられた。
7人のメンバーのプログラミングスキルはわたしより遥かに上で、志恩に教わりながらレベルを上げていく。
志恩はわたしに女の部分を求めては来なかった。
我慢してるなという表情は何度も見た。
わたしを触ろうとして、手を止める。
KY神田副社長がこっそり教えてくれた。
志恩はわたしが逃走してから、普通なら他の女性に手を出しそうなところ、わたし以外には反応しなくなったとかで、全く女遊びはせずにいたらしい。
メトロームに再就職して、1年経った。
3月が誕生月のわたしは、30歳を迎えてしまった。
再就職してから3ヶ月ぐらいまで、わたしにつきっきりでプログラミングスキルを教えてくれた志恩。
直属の開発プログラマーにその役割を任せたらいいのに、頑なにわたしに教えた。
志恩が不憫になり、彼の気持ちを受け入れたのは再就職して半年後。
彼の気持ちを受け入れたら、即、結婚を申し込まれた。
そして、申し訳なさそうに、
『子供が欲しい。子供が産まれたら俺が産休とってしばらく育てるから産んでくれ』
と言われた。
笹部マネージャーとのやり取りが頭にあったんだろう。
子供が産まれても、パソコンがあればプログラミングの仕事はどこでもできる。
プロポーズは受け、子供に関しても時期をみて、わたしも欲しいと答えた。
昔みたいに、志恩の操り人形みたいな純情なわたしではないのに、志恩は受け入れ大切にしてくれて、本音でぶつかってくるわたしの方が好きだと言ってくれる。
昔は、わたしをエスコートしないといけないと、カッコつけてたところがあったと、志恩は言っていた。
そして、わたしがなんでも受け入れるから、本音がわからず不安だったとも言っていた。
メトロームのプログラマーで優秀な志恩の秘蔵っ子と言われてる2人、間宮蓮(28歳)と津山彰人(28歳)が、わたしと同じ、いや、それ以上の力を発揮させ、仕事を片付けた。
間宮と津山のプログラミングスキルに、わたしが自分の力を過信していた事に気づく。
志恩はわたしがいなくても、優秀なプログラマーを雇い、育ててる。
わたしを優秀なプログラマーとして側に置きたいと思ってるわけではないと知った。
2週間の予定で派遣されてる間宮と津山の歓迎会が金曜日の夕方に行われた。
溜まりに溜まった仕様書ファイルは片付いたけれど、開発プログラマーから無理難題な仕様書は次々と上がってくる。
でも、今週末ぐらいはゆっくりしたいからと寝不足と過労でぐったりしてるのに、任天社の《ポッケモン》の製作プログラマーチーム30人プラス助っ人6名が、間宮と津山を連れて、近場の居酒屋バイキングを2時間貸し切りにして飲み会を開いた。
「櫻井さん、変わりましたね」
居酒屋バイキングに着き、最近胃が悪いから乾杯のビールも断り、料理に舌鼓を打つわたしに、間宮と津山が近づいてきて話しかけてきた。
キョトンとしているわたしに、
「僕たち、メトロームに初期から勤めてます。ちなみに覚えてないと思いますが、T大時代に同じゼミにいましたよ。櫻井さんは常に須藤社長の横にいて、須藤社長が牽制して、他のゼミのメンツとは関わらせないようにしていたから、話した事も無いですけど」
間宮がため息をつく。
わたしの横に間宮、前に津山が座った。
「櫻井さん、須藤社長の元にいい加減、帰ってきてくれませんか。社長、あなたが居なくなって、性格がかなりきつくなって、直接関わるプログラマーはいつも当たられて困ってます。あなたがいなくなり、あなたの代わりになるよう、プログラミングスキルを短期間で身につけさせられたメンツは社長が恐ろしくて震えてますよ」
わたしがメトロームから逃げてからの志恩について、2人が愚痴るように話してくる。
間宮と津山はわたしの代わりをする主力プログラマーの7人のうちの2人らしい。
わたしがメトロームを去ってからも、メトロームは業務を拡大して行った。
間宮と津山はわたしよりもプログラミングスキルは上だと思う。
プログラマーとしてのわたしはもう役に立たないと思う。
「櫻井さん、須藤社長はストイックなぐらい、あなたが居なくなってから仕事をしてきました。それであなたが帰って来てくれると思って。社長のどこが嫌なんですか。かっこよくて仕事もできて、後、社長は女性に関しては、櫻井さんの事しか見てなくてかなり一途じゃないですか。嫌う、拒否する理由はないと思いますが」
だいぶアルコールが入った間宮がわたしに強く言ってきた。
津山が間に入り、抑えても、止まらない。
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感情が高まってる間宮と話し続けたくなくて、笹部リーダーに一声、帰ることを伝えて居酒屋をでた。
次の週は志恩はマサチューセッツ工科大学に勉強に行って、メトロームには居なかった。
ほっとするもつかの間、KY神田副社長に副社長室に呼び出されて行く羽目に。
出向先副社長という立場からの呼び出しで、無視するわけには行かず、気分が悪い。
副社長室に入ると不機嫌なKY神田副社長がいた。
「美咲ちゃん、志恩の気持ちを少しは考えろよ。あいつ、美咲ちゃんと再会して、美咲ちゃんの事しか考えられないぐらいに美咲ちゃんの事を思ってるのに。仕事にも支障が出始めてるし、もうさ、諦めて、志恩の元に帰れ」
いつものおちゃらけた口調でなく、いつも須藤社長と呼ぶところがプライベートの呼び方の志恩になってる。
やはり、湯河原の高級旅館に志恩を置いてきたのはまずかったか。
でも、わたしの意志関係無しで、湯河原の高級旅館に一緒にいきなり宿泊は無いと思う。
逃げた恋人に対して、自分は別れたつもりないからって、わたしにはその気は無いから、身を守るために逃げるよ。
「何度も言ってますが、わたしは須藤社長とはもう全く関係ない身です。その件に関しては業務とは全くない関係のない事ですので従えません。業務に戻ります。失礼しました」
間宮といい、KY神田副社長といい、わたしの気持ちを考えてくれない。
あえて、志恩の事を須藤社長と呼び、拒絶するようにKY神田副社長に言い切って、副社長室から出た。
志恩から逃げきるには、任天社を退職して、今までのキャリアを捨てて全く違う業種に再就職するしかないと思った。
任天社に退職願を出した。
上層部からも考えるように言われたけれど、京都と東京を行ったり来たりする生活や体調不良を理由に、《ポッケモン》のゲーム開発が終了する7月末に退職する事が決まった。
あれから、体調不良が酷く、病院へ行き、プログラマーの大半がかかると言われてるうつ病の診断書を出して貰い、メトロームへの出向を取りやめにして貰った。
大好きだったプログラミングの仕事さえが苦痛に感じて、診断書の提出で定時に退社するわたしは、マンションの部屋でぼうっと物思いに浸っていた。
任天社を退職してから、どうやって生きていこう。
もう、わたしが唯一できるプログラミングの仕事に就く気はしない。
京都に居続けるのも苦痛に感じ、実家のある福岡に帰ろうかと頭によぎった。
わたしの父は福岡にある自動車メーカーで開発の仕事をしていて、今、常務をしてると言ってた。
物作りの現場で、CAD設計や生産技術のロボットプログラミングの仕事につこうかと今後について考えた。
任天社で業務時間内はたんたんと仕様書ファイルをこなすためにプログラミングしていく。
慣れた仕事だから、指は高速に動く、他のプログラマーの5倍ぐらいの仕事量をこなしていく。
このスキルは、志恩が教えてくれた。
志恩に出会わなければ、わたしは、こんな高度なプログラミングスキルは身につかなかったと思う。
志恩の下で開発プログラマーとして働いてる間宮と津山はわたしよりも高度なテクニックを持っていた。
その事に多少なり嫉妬をし、それが引き金に気持ちが沈んだ。
志恩から逃げて、任天社に再就職し、そこでプログラマーとして働くうえでは、わたしの今あるスキルで充分通用していた。
メトロームに出向し、メトロームのプログラマーと肩を並べて仕事をし、任天社で、メトロームの有能な開発プログラマーの2人に力の差を見せつけられ、間宮とKY神田副社長に志恩の女としての役割をするよう求められてる気がして辛かった。
志恩のITエンジニアとしての能力を尊敬していた。
彼から教わるスキルを習得し、彼が手がけるアプリやシステムを構築する事が生き甲斐だった。
それが、志恩がわたしに仕事のパートナーとしてでなく、欲望の捌け口のパートナーという位置づけにされてきて、それが辛くてわたしは逃げたんだ。
退職する、7月末が近づいてきた。
わたしの退職はメトロームに伝わってる。
精神科からの鬱の診断書で、残業禁止で勤務をしている事も…。
本来は休職になるところだけど、猫の手を借りたいぐらいの開発の終盤業務で、わたし自身もやり遂げたくて、出勤をした。
7月19日にプログラミングはなんとか終わらせ、7月20日から27日に開発プログラマーが全体を通して動作確認し、問題点を修正してから、ソフトカセットの工程に進む。
25日にメトロームの《ポッケモン》のアプリと連動が上手く行くかのチェックで、間宮と津山と志恩が任天社に来ていた。
メトロームに出向社員としてお世話になっていた事もあり、笹部マネージャーに挨拶をするように言われて、会議室に呼ばれた。
笹部マネージャーは、志恩とわたしの関係を知らない。
会議室に内線で呼ばれて行く。
湯河原の高級旅館から逃げてから、志恩とは顔を合わせてない。
どんな顔をして会えば良いかわからない。
仕事上で会うんだ。
「失礼します」
会議室には、笹部マネージャーと、志恩と間宮と津山の3人しか居なかった。
「来た、来た。櫻井、出向を途中で放棄したんだから、きちんと謝罪しろ。まっ、女には体力的にも荷が重かったよな。本来なら開発プログラマーの誰かが出向いて滞在する職務だったからな」
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うつ病の診断書も『職業病だ。風邪と一緒だ。ガッツで直せ』と、無理難題を言って、残業させようとしたぐらい。
「7月末で俺は認めてないけど、うちを退職する事になった。休職をして復職するように勧めたけど、本人の意向で退職するって。 櫻井も若く見えて28だもんな。せっかくプログラミングのスキルを身につけたのにもったいない。女の幸せにでも目覚めたか?」
KY神田副社長以上にモラハラセクハラ発言を発する笹部マネージャー。
わたしの退職に腹を立ててるのはわかる。
でも、志恩の前では言わないで欲しかった。
「いえ、もう年齢的に体力的についていけないので地元に戻って身の丈に合う仕事に就いて療養しようと思っただけです。
須藤社長、お世話になりました。最後まで出向業務を遂行できず申し訳ございませんでした」
最後だから…、志恩の顔をしっかり見て、丁寧に謝罪をした。
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「まっ、女は結婚したら妊娠だ出産だ子育てだ看護だって、所詮プログラマーとして活躍していくのは無理だから、今まで務められただけマシか」
笹部マネージャーのモラハラセクハラ発言は続く。
わたしの実力を認め、中途社員だけど、製作プログラマーで無く開発プログラマーにという話が何度かあった。
それを、開発プログラマーの中で反対する声があり移動できなかった。
笹部マネージャーはわたしよりプログラミング技術が劣る事を知っていて、わたしを開発プログラマーにはせず、製作プログラマーとして立場上見下したかったんだと思う。
自分でもプログラミングできないような仕様書を投げてきて、涼しい顔してわたしが形にする事にイラついていた。
わたしが入社してすぐの頃に、笹部マネージャーから交際を何度も申し込まれても受けなかったのも彼のプライドを傷つけたのかもしれない。
わたしが交際を断り続けてる中で、社長から娘との縁談を持ちかけられ、尻尾を振って、社長の娘と結婚した笹部マネージャー。
交際しなくて良かったと心底思う。
好きに言わせればいい…。
退職は決まってる。
笹部マネージャーがいつか社長になるこの会社に対し、仕事内容について多少なりやり甲斐を感じ、やめる事に対して後ろ髪を引かれる心中だった。
それが拭いきれて、清々する。
「笹部マネージャー、わたし、1度も婚活するとは言ってませんよ。任天社で勤めるには体力的に難しいから退職すると説明しましたよね。体調が回復しましたら、またこの業界に戻ってくるつもりです。でも、モラハラセクハラ発言を受けたので、任天社には復職するつもりはありません」
あまりの暴言に堪らず言い返す。
志恩の前で、この言い合いはしたくなかったけど…。
志恩とは、こんな言い合いをした事、無かったな。
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わたしのプログラマーとしての能力を認めてくれてた。
そして、その力を活かし、好きなようにプログラミングの仕事をさせてくれてた。
だから、仕事に関しては、不満はなかった。
「み…、櫻井さん、体調が回復されたら、もし可能なら、メトロームの開発プログラマーとして働きませんか。あなたのプログラミングスキルを最大限活かせるよう、体力的に無理がないようにしますから。待ってます。新幹線の時間があるのでこれで失礼します」
志恩は、間宮と津山を連れて、会議室を出て、帰って行った。
わたしは、笹部マネージャーと外まで見送りに出た。
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任天社を退職し、5ヶ月後に手がけてた《ポッケモン》が発売された。
実家の福岡で手に取り、プログラミングはしても仕上がったゲームはあまりやらないわたしだけど、自宅療養してるのもあり、プレイしてみた。
やってみて、ゲーム本体よりアプリの方が楽しかった。
やはり、連動のアプリの方が評価された。
小さな子供から大人や、海外の人々にまでも大ヒットした。
さすが、志恩。
3ヶ月悩み、わたしは東京に戻った。
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KY神田副社長はおちゃらけた人だけど、いつから出社できるかを聞いてきて、入社までの段取りをしてくれた。
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今話題のカリスマハンサム社長の志恩が受付前にいるから、出勤中の女性社員達が頬を赤めて見惚れ、黄色い声を上げて、通って行く。
志恩がわたしを見つけ、緊張した足取りでわたしに近づいて来た。
「お帰り、美咲。美咲を、社長直属の開発プログラマーとして迎え入れるよ」
わたしは、再就職した日から、志恩直属の開発プログラマーのメンバーとして迎え入れられた。
7人のメンバーのプログラミングスキルはわたしより遥かに上で、志恩に教わりながらレベルを上げていく。
志恩はわたしに女の部分を求めては来なかった。
我慢してるなという表情は何度も見た。
わたしを触ろうとして、手を止める。
KY神田副社長がこっそり教えてくれた。
志恩はわたしが逃走してから、普通なら他の女性に手を出しそうなところ、わたし以外には反応しなくなったとかで、全く女遊びはせずにいたらしい。
メトロームに再就職して、1年経った。
3月が誕生月のわたしは、30歳を迎えてしまった。
再就職してから3ヶ月ぐらいまで、わたしにつきっきりでプログラミングスキルを教えてくれた志恩。
直属の開発プログラマーにその役割を任せたらいいのに、頑なにわたしに教えた。
志恩が不憫になり、彼の気持ちを受け入れたのは再就職して半年後。
彼の気持ちを受け入れたら、即、結婚を申し込まれた。
そして、申し訳なさそうに、
『子供が欲しい。子供が産まれたら俺が産休とってしばらく育てるから産んでくれ』
と言われた。
笹部マネージャーとのやり取りが頭にあったんだろう。
子供が産まれても、パソコンがあればプログラミングの仕事はどこでもできる。
プロポーズは受け、子供に関しても時期をみて、わたしも欲しいと答えた。
昔みたいに、志恩の操り人形みたいな純情なわたしではないのに、志恩は受け入れ大切にしてくれて、本音でぶつかってくるわたしの方が好きだと言ってくれる。
昔は、わたしをエスコートしないといけないと、カッコつけてたところがあったと、志恩は言っていた。
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しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。
楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。
その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。
ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。
その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。
敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。
それから、3年が経ったある日。
日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。
「私は若佐先生の事を何も知らない」
このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。
目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。
❄︎
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※30,000字程度で完結します。
(執筆期間:2022/05/03〜05/24)
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2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます!
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○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。
(作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
○雪さま
(Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21
(pixiv)https://www.pixiv.net/users/2362274
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