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第9唱 クロヴィスとコンラート
とどかぬもの 1
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「おい。これから俺と結婚するぞ」
クロヴィスのぶっきらぼうなプロポーズを聞いた途端、震えながら対座していたリーゼロッテは、堤防が決壊したごとく泣き出した。とめどなく溢れる涙で大きな緑の瞳が溶けてしまいそうだ。
あいにくハンカチの持ち合わせがなく袖口で涙を吸収していたら、何度も感謝の言葉を繰り返したあと、彼女はきっぱりと言い切った。
「わたし、あなたの妻にはなれません。……いえ、なりません。今、ようやく目がさめました」
親たちの取り決めではなく、クロヴィスの口から求婚される日のことを、ずっと夢見てきたと彼女は言った。
そしてそれは現実になった。夢は叶ったのだから、もう充分だと。
「ずっとあなたを見てきたから、あなたは自由になりたいのだとわかっています。情けにすがって縛りつけたところで、『愛される幸せな妻』にはなれません」
だがそれでは腹の子は、どうするつもりなのか。
らしくもなく口ごもると、少女はピンクの薔薇が咲くように笑った。
「きっとコンラートが引き受けてくれますわ。わたし、こう見えて図太いのです。あの人はわたしを利用して、あなたをこの家に留めようとしました。だから今度はわたしが、あの人を利用します。きっと上手くやれます。わたしたち、似た者同士ですもの」
膝の上でぎゅっと組んだ細い指が震えていたが、笑顔に曇りはない。
ただ、リーゼロッテのその言葉に、クロヴィスは違和感を抱いた。
胸に湧いたモヤモヤを直接確かめたかったが、おそらく薄氷を履む思いで保たれている彼女の精神に、迂闊な言葉を投げ込むことはできなかった。
★ ★ ★
「やっぱり彼女では、兄上を引きとめることはできませんか」
その日の就寝前に弟の部屋を訪ね、リーゼロッテの言葉を伝えると、すべて予想していたというような苦笑が返ってきた。まるで「やっぱり雨が降ってきましたか」と言うみたいに淡々と。
「いいですよ。そうなると思っていましたし、リーゼロッテのことは僕が引き受けます。さあ、どうぞ入って。今後のことをゆっくり話し合いましょう」
いらないと言うのに嬉しそうに「おもてなしをさせてください」と茶など淹れて、すぐに引き揚げようとしていた思惑を阻止された。
促され、向かい合わせに腰をおろした椅子は座り心地がよかったが、歓談とはほど遠い。
「……引き受けるって、どうするつもりだ。そもそもお前は」
「ああ、無償というわけにはいきませんよ? 僕が真実、何があっても彼女を守り、妻として幸せにするという約束をしたなら、代わりに兄上は何をくれますか」
「……なんだと?」
言っていることが無茶苦茶だ。
クロヴィスには二人の結婚に負い目を感じる理由がない。なのに何を要求しようというのか。睨みつけても、返ってくるのは意味不明の薄笑いばかり。
二人のあいだに沈黙が落ちると、窓を打つ雨の音と、薪が爆ぜる音ばかりが耳を打つ。
暖炉の炎とあちらこちらに置かれた燭台が、不規則に踊る明かりで夜闇の室内を照らしていた。
「兄上が僕の部屋に来てくれたのは、これが初めてですね」
ぽつりとコンラートが言った。
クロヴィスが無言で見つめ返すと、「どうしてでしょう」と何度目か苦笑を浮かべる。
「父上は僕らを引き離して育てたけれど、兄弟仲は悪くなかった。そうでしょう? 少なくとも僕は兄上が大好きで、兄上も、僕が森で迷子になれば駆けつけてくれるくらいには愛してくれていた。なのにどうして、双子がお互いの部屋を行き来する想い出すらないのでしょうね」
弟の、こういうところが苦手だとクロヴィスは思う。
好きとか愛してるとかいう言葉の薄っぺらさは、両親を見て学んだろうに。
それに――
(どうしてお前は、そんなに俺に執着するんだ)
こぼしかけた言葉を呑み込んだ。
わかっている。弟が自分にこだわる理由は。
弟の目にはいつも、父と同じ種の“飢え”が宿っているから。
クロヴィスのぶっきらぼうなプロポーズを聞いた途端、震えながら対座していたリーゼロッテは、堤防が決壊したごとく泣き出した。とめどなく溢れる涙で大きな緑の瞳が溶けてしまいそうだ。
あいにくハンカチの持ち合わせがなく袖口で涙を吸収していたら、何度も感謝の言葉を繰り返したあと、彼女はきっぱりと言い切った。
「わたし、あなたの妻にはなれません。……いえ、なりません。今、ようやく目がさめました」
親たちの取り決めではなく、クロヴィスの口から求婚される日のことを、ずっと夢見てきたと彼女は言った。
そしてそれは現実になった。夢は叶ったのだから、もう充分だと。
「ずっとあなたを見てきたから、あなたは自由になりたいのだとわかっています。情けにすがって縛りつけたところで、『愛される幸せな妻』にはなれません」
だがそれでは腹の子は、どうするつもりなのか。
らしくもなく口ごもると、少女はピンクの薔薇が咲くように笑った。
「きっとコンラートが引き受けてくれますわ。わたし、こう見えて図太いのです。あの人はわたしを利用して、あなたをこの家に留めようとしました。だから今度はわたしが、あの人を利用します。きっと上手くやれます。わたしたち、似た者同士ですもの」
膝の上でぎゅっと組んだ細い指が震えていたが、笑顔に曇りはない。
ただ、リーゼロッテのその言葉に、クロヴィスは違和感を抱いた。
胸に湧いたモヤモヤを直接確かめたかったが、おそらく薄氷を履む思いで保たれている彼女の精神に、迂闊な言葉を投げ込むことはできなかった。
★ ★ ★
「やっぱり彼女では、兄上を引きとめることはできませんか」
その日の就寝前に弟の部屋を訪ね、リーゼロッテの言葉を伝えると、すべて予想していたというような苦笑が返ってきた。まるで「やっぱり雨が降ってきましたか」と言うみたいに淡々と。
「いいですよ。そうなると思っていましたし、リーゼロッテのことは僕が引き受けます。さあ、どうぞ入って。今後のことをゆっくり話し合いましょう」
いらないと言うのに嬉しそうに「おもてなしをさせてください」と茶など淹れて、すぐに引き揚げようとしていた思惑を阻止された。
促され、向かい合わせに腰をおろした椅子は座り心地がよかったが、歓談とはほど遠い。
「……引き受けるって、どうするつもりだ。そもそもお前は」
「ああ、無償というわけにはいきませんよ? 僕が真実、何があっても彼女を守り、妻として幸せにするという約束をしたなら、代わりに兄上は何をくれますか」
「……なんだと?」
言っていることが無茶苦茶だ。
クロヴィスには二人の結婚に負い目を感じる理由がない。なのに何を要求しようというのか。睨みつけても、返ってくるのは意味不明の薄笑いばかり。
二人のあいだに沈黙が落ちると、窓を打つ雨の音と、薪が爆ぜる音ばかりが耳を打つ。
暖炉の炎とあちらこちらに置かれた燭台が、不規則に踊る明かりで夜闇の室内を照らしていた。
「兄上が僕の部屋に来てくれたのは、これが初めてですね」
ぽつりとコンラートが言った。
クロヴィスが無言で見つめ返すと、「どうしてでしょう」と何度目か苦笑を浮かべる。
「父上は僕らを引き離して育てたけれど、兄弟仲は悪くなかった。そうでしょう? 少なくとも僕は兄上が大好きで、兄上も、僕が森で迷子になれば駆けつけてくれるくらいには愛してくれていた。なのにどうして、双子がお互いの部屋を行き来する想い出すらないのでしょうね」
弟の、こういうところが苦手だとクロヴィスは思う。
好きとか愛してるとかいう言葉の薄っぺらさは、両親を見て学んだろうに。
それに――
(どうしてお前は、そんなに俺に執着するんだ)
こぼしかけた言葉を呑み込んだ。
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弟の目にはいつも、父と同じ種の“飢え”が宿っているから。
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