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#1 メランコリック・ハートビート

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「お前、またやらかしたのか」
 不躾にもノックもなく入ってきた声に起こされて、ベッドから身体を起こす。聞きなれた兄の声は、いささか呆れた声をしていた。
「…………ゲオルク」
 一年前に使っていた、年代もののアンティーク家具が揃った私室は、もう使っていないのにそれでも忘れられずに手入れがされているようだった。
 久しぶりに訪れた城で、居所がなくて、私室に籠って、ベッドに突っ伏しているエレノアを見つけたのは、実の兄ゲオルク・ブラウンシュヴァイクだ。
 緑色の瞳が呆れたようにこちらを見ている。
 綺麗にまとめられて、乱れ一つない金髪は、ゲオルクの気真面目さを表しているようだった。
「エレノア、いい加減にしないと捨てられるぞ」
「…………わかってるってば」
 そんなのは、自分が一番わかってる。
(わかってるけど、上手く行かないから、こうなってんだろ)
 ベッドから身体を起こして、乱れた黒髪を直して立ち上がると、目元を隠すほど伸びた前髪が気になったのか、ゲオルクがエレノアの前髪を掬って丁寧に耳にかけてくれた。
 相変わらずエレノアに甘い。兄と同じ緑色の瞳は、エレノアの方が少し明るくてペリドットに似た光を帯びている。その瞳で怪訝な表情を作って、睨みつけるように見上げると苦笑された。そのまま頭を撫でられて、まるで子ども扱いだ。
 コンコン、と部屋の扉がノックされて、ゲオルクの執事が声を掛けてくる。どうやらもう仕事の時間らしい。
「ほら、仕事してくれ。エレノア、お前が頼りだ」
「……うん」
 そっと背中を柔らかく押されて、エレノアは立ち上がる。
 重厚な扉がゆっくりと開けられて、空気の重い廊下へ進むようにと視線で誘導される。 ため息をつきながらその視線に従って、廊下へ向かって歩き始める。早く家に帰りたい、と思うのと同時に、帰りたくない、とも思う。
 きっと家に帰ったって、エレノアはあの男を相手に上手く振舞えない。
「エレノア様、こちらでございます」
 深々と頭を下げた執事に従って、長い廊下を進んでいく。
 ゲオルクに呼ばれて、久しぶりに訪れたのは、昔エレノアが住んでいた王城だ。
 エレノアは、もう百年も続くのだという嘘みたいに歴史の長い王族の、第二王子だ。
 王位を継ぐ王太子がゲオルクで、ちょうど昨年その事が民に発表された。王位継承権だけは、ゲオルクに何か会った時の為に残されて第二位となっているが、それは形式的なものだ。ゲオルクに子どもが出来ればお役御免になる。
 エレノアが王位を継がないことは随分と前から決まっていたし、自身が王位に向いていないことは、幼い頃からわかっていた。
 涼しい秋の風が廊下の開いた窓から吹きこんで来る。 
 黒い髪がさらさらと首筋を撫でる。エレノアの白い肌に黒い髪は、この国では異質だ。 母親が遠くの東の国出身だったらしい。瞳だけは父親の緑色を継いだようだが、それにしては少し明るい。
 光を多く採り入れる性質の瞳は母譲りだ。母親はエレノアを産んですぐに亡くなってしまったので、実質育て親となったのはゲオルクの母親だった。

「おや、エレノア様もご同席されるのですか? 本日の議題は我が国にとっても重要で難題となるものですので、かなり時間が掛かりますし、それより庭の鑑賞でもされていた方がよほど有意義かと……」
「重要で難題で、我らの手に余るからエレノアを呼んでいる。始めるぞ」
 執務室を開けた途端、エレノアを部屋に入らせまいと出てきた大臣は、古い時代から父王に仕えてきた腹心だと言う事だが、未だに何故この男が国の中心にいるのかわからない。重そうな腹をこれでもかというほど突き出して、偉そうな態度を取る男は、いつだって見苦しい。大臣という肩書きに縋って、権力を振りかざし、顔にも態度にもその浅ましさが表れていて、昔から関わり合いたくない相手だった。
 ゲオルクの一言で押し退けられた大臣は、慌てて自席へと戻ったが、それでもまだ何かを言いたげだった。
(…………俺だって、別にこんなところに来たいわけじゃない)
 
 エレノア・ブラウンシュヴァイクは、幼き頃より天才だった。

 幼い頃から誰よりも早く文字を、言葉を理解して、学生過程は通常9年で卒業となるところを、5年で卒業した。一を教えられれば、五十を理解し、自身の考えで百にすることが出来るような、そんな人間だった。
 そのせいで同世代とは会話がかみ合わず、大人と話しても、誰もエレノアの説明を理解できなかった。大人がなぜエレノアの話を理解できないのかがわからなくて、苛立って、そのうちコミュニケーションを諦めてしまった。
 話す事を、理解して貰う事を諦めて、最低限の言葉で会話するようになってしまったのが悪かった。
 兄ゲオルクは、エレノアほど頭が良い人間では無かったが、賢い人間で、人の話をよく聞き、人が理解できるまで説明ができる人だった。
 王の素質がある人間を体現したような人物で、誰からも信頼され、誰からも愛されて、誰をも従えることが出来た。
 一方で弟のエレノアはと言えば、人と接する度に相手を怒らせるような有様だった。
 エレノアの考えを誰もが理解出来ず、エレノア自身も伝えようとしなかったせいで、その亀裂は深まるばかりで、随分と家族に心配をさせている。
 幸いなことに父王も、兄も、養母も、エレノアの賢さをよく理解してくれている。
 理解のある家族のおかげで、何とかやれているが、正直なところエレノアを理解出来る人間はごく少数だった。理解出来ない、と離れていく人間の方が多い。
 それでもこの国で、エレノアほど、知識があり、頭の良い人間はいなかった。
 そのおかげで、ここ数年はこの国の行く末を決める会議には、必ずエレノアの見解を求められるようになていた。議会で進んでいた話をエレノアに聞かせて、エレノアが論点を整理して、その議案を進めるべきかどうか、『個人的な見解』を述べるのだ。
 それを参考に国の重要議題の行く末が判断される。
 その事が、中央議会のメンバーにとってはそれはそれは気に食わないらしい。
(…………ああ、ダメだ)
 席に案内されて、配布された資料に記載された議題のテーマを見た瞬間に思わず顔を顰めてしまった。ぱらり、と数ページめくって、思わずため息が出た。
 きっと時間を掛けて議論されただろう議案だと理解しているが、あまりに目の前の、その場だけの問題に向き合いすぎていて、全体を見られていない。
「では、始め……」
「ゲオルク、この議案は進められない。解決していない問題が多すぎる」
「……申してみよ」
 始めよう、と言われる前に、エレノアはゲオルクを見上げた。
「子どもたちの貧困を解決、というテーマに対して解決策が記載されていない。ここに記載されているのは目先の一時的な対策だ。これではただの選挙対策で、解決したとしても数日、数週間、程度のことだろう。根本的な解決にはならない。まずは子どもたちの貧困をどの程度解決したいのか教えてくれ、それから貧困層にいて掬い上げるべき子どもたちの正確な数、そこに充てられる予算、なぜ彼らが貧困層にいるのかの調査、貧困層の根本的な課題、それらが無いのにこの議論は進められない。この資料からは子どもたちが貧困で困っている事はわかるが具体的ではない。貴族の妻らが配給を定期的にする事、一時的なまとまった資金を教会へ与えることで、ではそれが何名子どもを助けて、どれだけ大人にさせることが出来て、将来的にどれだけ労働力にできるのかが伝わってこない。議論のそもそものデータが無い状態では、ただ感想を言い合うだけの場となって効果のない議論になる」
 そこまで一息で言い切ったあとで、ふと顔をあげると、テーブルについている十名の大人の顔が歪んでいた。みんな一様にエレノアを睨んでいる。
(ああ、まただ……)
 これだから、自身は王位を継ぐのに向いていない。
 王の血が流れているとは思えない、ゲオルクと似ても似つかない、と言われるのだ。
「…………話は終わりだ。あとは好きにしてくれ。私の意見は聞かなかった事にしてくれても問題はない」
「いや、エレノアの意見はもっともだ。データを揃えさせるから、それからもう一度、議論をゼロから始めよう。確かに、この資料では我々は施しをやった気分になるだけで、現実的な効果を算出する事が難しい。ヘルゲ、エレノアからもう一度議論に必要なポイントを聞いて書き留めておいてくれ」
「承知しました」
 ヘルゲ、と名乗る青年はゆくゆくはこの国の宰相になると言われている男だ。
 軽やかな栗毛色の髪は、パーマが掛かっていて、ヘーゼルの瞳は丸く、愛嬌がある。 人当たりの良さそうな顔をしている。気真面目で、リーダーシップのある王の隣で、数々の調整をこなす有能な人物だ。
「エレノア様、行きましょう」
 この場の空気を察してか、部屋を出るように促されて、ホッとする。ヘルゲについて部屋を出ると、重すぎた空気が突然軽くなったかのように感じた。
「みなさん怒ってましたね」
「…………ヘルゲ、ならもう俺を呼ばないで」
「ははっ、そんな訳にはいかないのも貴方ならわかってるでしょ」
「…………」
 ヘルゲは幼馴染みのようなものだった。現宰相の息子と言う事もあって、顔を会わせることも多かったし、ゲオルクか、エレノアが王位を継いだ時に側にいる者として、近い関係で信頼を築くことを期待されていた。
「俺は、エレノアが王でも良かったと思ってるよ」
「嘘だろ、やめろ」
 隣で笑っているヘルゲの足を蹴飛ばして一歩前を歩く。
 王として率いる器が無い事は誰よりもエレノアがわかってる。理解してる。
「すぐに家に帰るんだろ、アベル様と仲良くしろよ」
「…………わかってる」
 ゲオルクと同じ事をいう幼馴染みに悪態をついて、それからヘルゲと別れる。 
 案内係に連れられて馬車に乗ると、一度大きく揺れた馬車は、その後は安定してゆっくりとエレノアの住む邸宅への道を進み始めた。
(…………憂鬱だ)
 ゲオルクのように、愛想がよく人の話をよく聞いて、相手を喜ばせられるような事を言える人間だったら良かった。そうでなくとも、ヘルゲのように何事も当たり障りなくこなせるだけの、身のこなしがあれば良かった。
「……サイアク」
 頭なんて良くなくて良かった。
 この世界の何もかもをわかった気になんて、なれなくて良かった。それよりももっと、人ととして大事なものが、もっと自分に備わっていれば良かったのに。
(……アイツは、俺の何が良かったんだろう)

 エレノアは、昨年アベル・グランクヴィスと結婚をした。
 アベルは若くして騎士団長を務める男だった。
 ゲオルクが王位を継ぐと発表したと同時に、アベルとエレノアの結婚が発表された。
 王家には代々、王位を継ぐ男が決まれば、それ以外の男兄弟は生涯結婚をしないか、それとも子を遺さない男との結婚のみが許される。
 馬鹿げたしきたりだが、争いを産まない為のもので、それで百年も続く王家が出来たのであればそれが正解なのだろう。
 エレノアは生涯独身でいるつもりだった。
 ゲオルクの跡継ぎがいない場合、もしくは産まれた子どもがまだ幼い場合、ゲオルクが病に倒れたり、何かある場合に、一時的に王を務める為のスペアとして生きるつもりでいたのだ。
 ゲオルクとエレノアの下には妹たちが四人もいる。けれど彼女たちはいずれ他家へ嫁ぐし、この家はゲオルグとエレノアで支えていくのだと思っていた。
 






『王様、それでは、褒章として、我が伴侶にエレノア様をください!』

 あの男が、アベルが、そんな事を言わなければ、エレノアは生涯ひとりで過ごすつもりだったのだ。誰にも迷惑をかけずに、ちゃんとわきまえて暮らすつもりだったのに。







「エレノア様……!」
 自宅に馬車が到着すると、御者が手を差し伸べるよりも先に、アベルが家から走ってきてエレノアを馬車から降ろして、抱え上げた。太陽の光がアベルの金色の髪を照らして、眩しくて目を眇めてしまう。キラキラと陽の光を十分に取り込んだエメラルドグリーンは、いつもより色鮮やかに輝いている。
 柔らかいアベルの髪が風で揺れている。
「……アベルッ……」
 急に抱き上げられてバランスを崩したので、慌ててアベルの肩に両手をつく。
「おかえりなさい、エレノア様。今回は早く帰れました!」
 とても自分よりも二つ年が上の二十七歳の男の行動とは思えない。
 騎士団で若き団長を務める男は体力が有り余っているのか、そのままエレノアを腕で抱えて家に入って行こうとしたので、すぐに身体を引き離すように手でアベルの胸を押し返した。
「アベル、降ろせ」
「部屋までお連れしますよ」
「嫌だ……!」
 もうすでに御者と出迎えの執事に生温かい笑顔で見守られている。
 これから家の扉をくぐればもっと大勢の使用人たちに見られてしまうだろう。それだけは何としても避けたかった。
「では今日の夕食はご一緒して頂けますか」
「……断ったって、一緒になるだろ」
 一緒に食べてくれるなら降ろします、と頑(かたく)なに言うので、ため息をつきながら「わかった」と言えば、すぐに地面へと降ろされた。どうせ食事なんか使用人たちの手間を考えれば家にいる主人はふたりで一緒に食べたほうがいいのだ。
 断るような理由もないのに、毎度毎度聞かれて、その度に仕方なく頷くエレノアを見て、アベルが嬉しそうにする。
 アベルはずっとこんな調子だった。
 ずっと、エレノアを見つければ一目散に側に来て、あのエメラルドグリーンの瞳がまるで輝く星くらい煌めいて、心からエレノアといるのが嬉しい、喜んでいる、と伝えてくるのだ。
「ゲオルク様はお元気でしたか」
「兄様はいつも通り、お変わりなかった」
 家に入ればエレノアの一歩後ろにアベルが下がってついてくる。
 この家の主人はアベルだし、エレノアはこの国の第二王子とは言え、アベルのもとに降嫁したのだから、立場としては同じであるはずなのに、未だに敬語は直らない。
 まるで夫ではなく、側に仕える騎士のようだった。
(『遠くまでの遠征、疲れただろう』『遠征、お疲れさま』……いや、違う、そうじゃなくて、もっと、こう……)
「では、私は一度部屋へ戻りますね」
「…………ああ」
 部屋の前まで送り届けられて、エレノアは私室へと入って扉を閉じる。
 そのままベッドまでまっすぐ行って、身体ごと倒れ込んだ。
「……………………やっぱり無理だった」
 アベルはずっと優しい。ずっとエレノアを好きで、結婚してからだってずっと大事にしてくれている。だから、エレノアも少しくらい、優しくしてやりたいと思っている。
 せめて、遠征を労うことくらいはしたかったのに、結局うまい言葉が出てこなかった。 王族として貴族を労うような言葉じゃなくて、もっと、優しく労うようなことを言ってやりたかったのに。
 城に住んでいた頃は、父と兄と、養母は優しかったが、それ以外の人間は皆等しく、エレノアに冷たかった。そうなった理由が自分にある事もわかっている。
 言葉を尽くしてもどうせわかって貰えないなら、最低限の単語を話して、それで理解出来ないやつは突き放せばいいと、思いあがったせいだ。
 そうやって周りを突き放して、家族を心配させて、そんなエレノアを奇特にも伴侶として迎えたいと言ったアベルを、周りは可哀想だという目で見ていた。

『いい加減にしないと捨てられるぞ』

 兄の言葉は的を得ている。あれは、エレノアがいつまで経っても、アベルに素直になれずに、不遜な態度を取ってる事を言っているのだ。
 誰からも腫れものに触るような扱いをされている自分を、引き取ってくれたのだから、せめて優しくしてやりたいと思うのに、結婚して一年も経つのに、未だにうまく出来ていない。
(……本当に、いい加減にしないと)

 アベルに初めて会ったのは、アベルが父に連れられて城に来た時だった。
 エレノアはまだ8歳で、王に挨拶に来たアベルの父の横で、やたらでかい声で挨拶する子どもがいる、と思ったのが初対面だ。
 それからアベルが12歳になって、社交界デビューをしたときに、退屈で庭にいたエレノアを見つけて話しかけてきたのが次の再会だ。
 俺も退屈で逃げて来たから一緒に話そう、と言われて、面倒で断ろうとしたのに腕を引かれて有無を言わさずにベンチに座らさせられたのだ。その時すでに、自分が他人よりも頭が良くて、自分の言う言葉を他人はすぐに理解できないのだとわかり始めていた頃で、他人と話すことに抵抗があったのに、アベルはそんなエレノアを無視して勝手に色々と話し始めた。
 最近学校であったこと、父親に言われて嬉しかったこと、兄を見習って騎士団に入って活躍することにした事、それから身体を鍛える事にした事。
『強くなったら、エレノア様をお護りしますね』
 そう言ってにっこり笑う少年を見て、酷く腹が立ったのを覚えている。
 無邪気にそんな勝手な事を言って、どうせそのうちエレノアの本性を知って離れていくくせに、と思ったのだ。それに騎士団に入って強くなるなんて、騎士団がどんなことをしているかも知らないくせに、と、世間知らずなおぼっちゃんにイライラしたのだ。
『アベルは人を殺すのか?』
 そう聞いたら、アベルは驚いた顔をしていた。
『……いや、……』
『お前が強くなって、誰かを護るって事は、襲ってくる相手を殺すと言う事もあるんだぞ。その相手には家族もいて、お前みたいに護りたい相手もいるけど、それでもお前は相手から命を奪う覚悟があって、騎士になるのか?』
 意地の悪い言い方をした、と、言い終わってから思ったけれどもう取り消せない。
 どうせすぐに自分から離れていくなら、今、ここで、離れて行けばいいと、突き放すように睨みつける。怯んで目の前から逃げていくのかと思ったのに、アベルは、驚いた顔もせず、ただエレノアをじっと見つめていた。
『…………エレノア様は、人を殺さずに人を護れると思いますか?』
 十分に時間を置いてから、アベルがそんな事を聞いてきたから、逆にこちらが驚かされたのをまるで昨日のように覚えている。大抵エレノアが強い言葉で、相手を突き放すようなことを言えば、みんな離れていくのに、アベルだけが、エレノアの言葉を繋いだのだ。
『……………………そうだな、お前がよく戦術を学んで、情報を取れたらあるいは』
『なるほど』
 そのまま話をしなくなったアベルは、その日父親が庭に迎えに来るまで、何かを考えたままずっと地面を見つめていた。
 会話をしても無駄だ、と誰かと会話をする事すら億劫に思っていた、あの頃。
 唯一、アベルだけが話し相手だった。話し相手だと言っても、アベルは城に住んでいるわけではなかったから、社交パーティーで城に来た時に、少し話すくらいのものだ。
『エレノア様』
 いつだってパーティーが始まると同時に、会場から姿を消すエレノアを追って、アベルは毎回話しかけてきた。エレノアの言葉を理解していない癖に、何度も繰り返し質問をしてきて、何度もこれはこういう意味かと聞いてくるせいで、まるで会話が成立しているようだった。
 いつアベルを突き放したって良かったし、質問に答えなければそれで会話は終わるのに、あの頃の自分はたぶん、周りの人間に見放されて少し寂しかったのかもしれない。
 ふたりきりの秘密の会は、社交パーティーのたびに、ひっそりと城の庭で開催されて、アベルが騎士団に入る頃までそれは続いた。
 いつだったかアベルに言った『人を殺さずに人を護る方法』というのが、おおよそのテーマだったおかげで、その数年の間にエレノアはありとあらゆる過去の軍法書を読むことになってしまった。アベルが次々質問をしてくるので、それに答えられない自分に腹が立って、こっそり勉強をしていたのだ。
 この国の兵士として戦うと言う事は、他国との戦争や、武装勢力との抗争などもあり得る話だった。戦いは情報戦だ。相手がどこにいるかがわかれば、先手を取って有利になるし、相手よりも戦略を持っていれば、相手の計画を潰すことが出来る。
 相手を知るためには周辺国の歴史や、地理、価値観を知る事も大事だし、武器の知識や身体を鍛えること以外にも色々あると説明してやったのが、アベルを刺激したらしい。
 その話をして以来、毎回次に会う時までに、アベルはこんな本を読んだとか、この場合だとエレノアはどう判断するだとか、この国はこういう国だと書いてあるが本当か、など、まるで物を覚えたての子どものように、何もかもを質問するようになっていた。
 最初はアベルの聞いてくる質問なんて、鼻で笑って答えられるような物ばかりだったのに、結局最後の方はエレノアがアベルの質問に答える為に必死で勉強をしていた。
『エレノア様、騎士団に入る事になりました』
 16歳になって、これでしばらく会えることが無くなると言うことで、初めて社交パーティーの日以外の、昼の時間帯にアベルが尋ねてきた。わざわざ執事に予定を聞いて、
空いてる時間に正式に面会依頼をして会いに来たらしい。
 来賓室で騎士団の正装に身を包んだアベルは、まるで別人のようだった。
 いつだって薄暗い、月明りの中で見ていた姿とは違って、昼の陽を浴びてきらきら輝く金色の髪に、透けるようなエメラルドグリーンの瞳はまるで、そう、物語に出てくる王子様のようだった。
『…………そう、頑張って。わざわざ挨拶になんて来なくても……』
 騎士団に入る、と言う事はきっと、もう会えなくなるのだろう。
 次に社交の場に出るアベルを見る時はきっと、隣に婚約者がいるに違いない。婚約者がいるのであれば、今までのように会場から抜け出して、ふたりきりで話すなんて言う事は出来なくなるのだ。
 何だってこんな、わざわざ挨拶なんかしにくるのだろうか。
『それで、あの、騎士団に入ったら、必ず武功をあげるので、……あの、もし、もし、俺が、王にも認められる武勲を頂けたら、……エレノア様を、頂けますか』
『……は?』
『俺の伴侶になって下さいませんか』
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