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——春。
思わず微睡んでしまいそうになる暖かな陽気の中を、真新しい制服に身を包んだ新入生が期待と不安を顔に滲ませながら、正門と昇降口を繋ぐアプローチを通っていく。
俺はその様子を校庭にある桜の樹の下でジッと眺めていた。頭上に咲く満開の桜の白い花弁が、彼らの入学を祝うかのように柔らかな春の風に乗って飛んでいく。
思えば2年前、俺も今の彼らと同じような表情でこの場所を訪れた。
あの頃は、右を見ても左を見ても知らない顔がほとんどで、俺の場合、期待よりも不安の方がずっと大きかったことをよく覚えている。
あれからもう2年が経った。
俺はいつの間にか3年生へと進級していて、高校生活最後の1年はすでに始まっている。
……全く、時が経つ早さにはつくづく驚かされる。
そんなことを考えながら、目の前に舞い落ちて来た桜の花弁に手を伸ばしていると、明け方の空気のようによく澄んだ声で呼びかけられた。
「こんなところにいたのね。そろそろ入学式始まるわよ」
掴み損ねた桜の花弁から声のする方に目を向けると、そこには雪のような白い肌とは対照的に、いくつもの夜を集めて染めた長い黒髪の少女が佇んでいた。
そんな、御伽噺にでも出てくるかのような現実感のない風貌に見惚れていた俺は、少し遅れて言葉を返す。
「分かってる。ちょうど今、戻ろうと思ってたところだ」
「本当かしら? 私には、飢えたハイエナみたいな目で新入生をジロジロと眺めるのに夢中になっていたように見えたけれど」
「変に脚色すんな。誰もそんな目で見てねぇよ。それに、入学式の時間くらいちゃんと把握してる」
明らかに悪意のある歪んだ捉え方をきちんと訂正してやると彼女は、
「なら、いいけど」
そう呟いてから桜の樹の影へと入り、俺の隣にやってきて、太い幹に背を預けながら再び口を開いた。
「……去年の今頃は、こうして2人で桜を見るだなんて、考えもしなかったわね」
「正直、今でも違和感を感じるときはある」
「奇遇ね。私もよ」
そう言って、クスクスと小さな笑い声をあげる彼女の方を向くと、俺と彼女の瞳がパチリと合った。
それから少しして、お互い慌てるように視線を逸らす。
昇降口からは、新入生同士で交わされる色とりどりの会話と、そんな新入生に向けて案内を呼びかける生徒会役員の大きな声が聞こえてくる。
この賑やかさも春らしくてなかなか良い。
そんなことを思いながら耳を傾けていると、隣から「ねぇ」と声が飛んできた。俺は無言でそちらを向く。
「……まだ、私に勝ちたいっていうあの気持ちは残ってる?」
躊躇うように言葉を発する彼女の双眸は、足元に落ちている桜の花弁に向いていた。
俺は少し考えてから、それに答える。
「完全に無くなったと言えば、嘘になるだろうな」
確かに1年前に比べれば、天才に対する嫌悪感も、勝利に対する執着もだいぶ薄れた。
……けれど……それでもまだ、心の隅の方にはそれらの小さなカケラが残っている。
きっとこのカケラは、あと何年経ったとしても、完全に取り除くことは出来ないんだろう。
そんなことを考えながら、俺は言葉を続ける。
「まぁ……だけど今は、そんなことどうでもいいと思ってるけどな。俺には、もっと俺に合った生き方があるってことを知ったから」
「晴人くんに合った生き方……?」
「あぁ」
『天才』に対する嫌悪感も、『勝利』に対する執着も、俺を構成する大切な要素であることに変わりはない。
ただ、それに加えてもう一つ大きな感情が俺の中に生まれた。
それから静かに顔を隣に向けると、再び彼女と目が合った。
俺はそんな彼女の透き通った瞳を見つめながら、言うべき言葉を口にする。
……今度は逸らさずに、しっかりと。
「蒼子」
「うん」
「……俺は————」
その瞬間、風が強く吹いた。
枝は大きく揺れ動き、空から舞い落ちる桜の花弁が俺たちをそっと包み込む。
そんな、一瞬だけ世界から切り離された空間の中で、俺の瞳には満足そうに微笑む蒼子の姿だけが映っていた。
その後、俺たちを包んでいた桜の花弁は重力に従いながらゆっくりと地面へ落ち、次第に周りの景色や音も戻ってきた。
そうして気がつけば、昇降口にはもう新入生の姿は無く、外に出ているのは俺たち2人のみとなっていた。
「……さて。それじゃあ、夕さんも待っていることだし、早く行きましょうか」
まるで、何事もなかったかのように笑みを浮かべて蒼子が言う。
……全く。なかなか思い通りの反応を見せてくれないところが、いかにもこいつらしい。
そんなことを思いながら、俺は短く息を吐いて答える。
「そうだな。あんまり葉原を1人にしておくのも心配だ」
「なんだか、本当にお父さんみたいね。晴人くんは」
「冗談はよせ。それより、入学式後の部活動紹介、大丈夫か? 緊張して、ぶっ倒れないようにな」
「誰に向かって言ってるのよ。今更人前に出て、緊張なんてするわけがないでしょう?」
それから蒼子は、自信に満ち溢れた表情をこちらに向けて笑ってみせた。
「だって私は、あなたのような『凡人』とは違って『天才』なんだから——」
そう言って、したり顔の自称『天才』は昇降口へ向かって歩き出す。
俺はそんな彼女を見て、思わず笑い声を溢した。
……あぁやっぱり、こいつを心の底から好きだと思えるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
そうして俺は口元に笑みを携えながら、彼女の背中を追いかける。
決して交わることはないと思っていた『天才』と『凡人』。
そんな2人の距離を縮める4月の風からは、桜のように甘く、空のように澄んだ青い春の始まりの香りが、仄かに漂っていた——。
思わず微睡んでしまいそうになる暖かな陽気の中を、真新しい制服に身を包んだ新入生が期待と不安を顔に滲ませながら、正門と昇降口を繋ぐアプローチを通っていく。
俺はその様子を校庭にある桜の樹の下でジッと眺めていた。頭上に咲く満開の桜の白い花弁が、彼らの入学を祝うかのように柔らかな春の風に乗って飛んでいく。
思えば2年前、俺も今の彼らと同じような表情でこの場所を訪れた。
あの頃は、右を見ても左を見ても知らない顔がほとんどで、俺の場合、期待よりも不安の方がずっと大きかったことをよく覚えている。
あれからもう2年が経った。
俺はいつの間にか3年生へと進級していて、高校生活最後の1年はすでに始まっている。
……全く、時が経つ早さにはつくづく驚かされる。
そんなことを考えながら、目の前に舞い落ちて来た桜の花弁に手を伸ばしていると、明け方の空気のようによく澄んだ声で呼びかけられた。
「こんなところにいたのね。そろそろ入学式始まるわよ」
掴み損ねた桜の花弁から声のする方に目を向けると、そこには雪のような白い肌とは対照的に、いくつもの夜を集めて染めた長い黒髪の少女が佇んでいた。
そんな、御伽噺にでも出てくるかのような現実感のない風貌に見惚れていた俺は、少し遅れて言葉を返す。
「分かってる。ちょうど今、戻ろうと思ってたところだ」
「本当かしら? 私には、飢えたハイエナみたいな目で新入生をジロジロと眺めるのに夢中になっていたように見えたけれど」
「変に脚色すんな。誰もそんな目で見てねぇよ。それに、入学式の時間くらいちゃんと把握してる」
明らかに悪意のある歪んだ捉え方をきちんと訂正してやると彼女は、
「なら、いいけど」
そう呟いてから桜の樹の影へと入り、俺の隣にやってきて、太い幹に背を預けながら再び口を開いた。
「……去年の今頃は、こうして2人で桜を見るだなんて、考えもしなかったわね」
「正直、今でも違和感を感じるときはある」
「奇遇ね。私もよ」
そう言って、クスクスと小さな笑い声をあげる彼女の方を向くと、俺と彼女の瞳がパチリと合った。
それから少しして、お互い慌てるように視線を逸らす。
昇降口からは、新入生同士で交わされる色とりどりの会話と、そんな新入生に向けて案内を呼びかける生徒会役員の大きな声が聞こえてくる。
この賑やかさも春らしくてなかなか良い。
そんなことを思いながら耳を傾けていると、隣から「ねぇ」と声が飛んできた。俺は無言でそちらを向く。
「……まだ、私に勝ちたいっていうあの気持ちは残ってる?」
躊躇うように言葉を発する彼女の双眸は、足元に落ちている桜の花弁に向いていた。
俺は少し考えてから、それに答える。
「完全に無くなったと言えば、嘘になるだろうな」
確かに1年前に比べれば、天才に対する嫌悪感も、勝利に対する執着もだいぶ薄れた。
……けれど……それでもまだ、心の隅の方にはそれらの小さなカケラが残っている。
きっとこのカケラは、あと何年経ったとしても、完全に取り除くことは出来ないんだろう。
そんなことを考えながら、俺は言葉を続ける。
「まぁ……だけど今は、そんなことどうでもいいと思ってるけどな。俺には、もっと俺に合った生き方があるってことを知ったから」
「晴人くんに合った生き方……?」
「あぁ」
『天才』に対する嫌悪感も、『勝利』に対する執着も、俺を構成する大切な要素であることに変わりはない。
ただ、それに加えてもう一つ大きな感情が俺の中に生まれた。
それから静かに顔を隣に向けると、再び彼女と目が合った。
俺はそんな彼女の透き通った瞳を見つめながら、言うべき言葉を口にする。
……今度は逸らさずに、しっかりと。
「蒼子」
「うん」
「……俺は————」
その瞬間、風が強く吹いた。
枝は大きく揺れ動き、空から舞い落ちる桜の花弁が俺たちをそっと包み込む。
そんな、一瞬だけ世界から切り離された空間の中で、俺の瞳には満足そうに微笑む蒼子の姿だけが映っていた。
その後、俺たちを包んでいた桜の花弁は重力に従いながらゆっくりと地面へ落ち、次第に周りの景色や音も戻ってきた。
そうして気がつけば、昇降口にはもう新入生の姿は無く、外に出ているのは俺たち2人のみとなっていた。
「……さて。それじゃあ、夕さんも待っていることだし、早く行きましょうか」
まるで、何事もなかったかのように笑みを浮かべて蒼子が言う。
……全く。なかなか思い通りの反応を見せてくれないところが、いかにもこいつらしい。
そんなことを思いながら、俺は短く息を吐いて答える。
「そうだな。あんまり葉原を1人にしておくのも心配だ」
「なんだか、本当にお父さんみたいね。晴人くんは」
「冗談はよせ。それより、入学式後の部活動紹介、大丈夫か? 緊張して、ぶっ倒れないようにな」
「誰に向かって言ってるのよ。今更人前に出て、緊張なんてするわけがないでしょう?」
それから蒼子は、自信に満ち溢れた表情をこちらに向けて笑ってみせた。
「だって私は、あなたのような『凡人』とは違って『天才』なんだから——」
そう言って、したり顔の自称『天才』は昇降口へ向かって歩き出す。
俺はそんな彼女を見て、思わず笑い声を溢した。
……あぁやっぱり、こいつを心の底から好きだと思えるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
そうして俺は口元に笑みを携えながら、彼女の背中を追いかける。
決して交わることはないと思っていた『天才』と『凡人』。
そんな2人の距離を縮める4月の風からは、桜のように甘く、空のように澄んだ青い春の始まりの香りが、仄かに漂っていた——。
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