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第四章 異世界でも、借りた貸しはきちんと返しましょう
9.彼の望みと私の言い分
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檻のすぐ外にギィがその半身をあらわして立っている。
首を傾けて見上げると、アブドロの首が光った。いくつかの針がそのうなじに刺さっている。
「動くなよ。これをあと少し押し込めば、あんたは終わりだ」
まあ、動けないだろうが。ギィはあくまで淡々と告げる。それから私をちらりと見下ろし、ほんの少しだけ眉をしかめた。どんな心情も、そこからは汲み取ることはできなかった。
「ま、まて。長年仕えた主人を、手にかける気か?」
身体だけは硬直させたまま、焦ったように言い募るアブドロは滑稽だった。ギィは私のそばへ回り込んでしゃがんだ。壁に吊られていた手錠に針を差し込んで、器用に動かす。するとこきりと錠が回る。重力にしたがって落下した腕は、まるで私のものではないような重みを感じさせた。ギィは羽織っていた外套を脱ぎ、渡してくれる。
私は無意識に手錠されていたところをさする。それからそっと彼の横顔を見上げる。ギィがどうするつもりなのか、私にはまったく想像がつかない。
ほとんどだますように奴隷にされ、十年以上も支配された相手が、まな板の上の鯉状態なのだ。
「わっ、私を殺せば! 私の一族、私の血族がおまえを探すぞ。そこに安寧の日々があるとは思うな」
アブドロは私をいたぶっていたときとは別人のような形相で、あらゆることを話し始めた。命乞い、脅しにすかし、高圧的な物言い。なだめるように下手にも出た。さめざめと、ほとんど泣くようにして、ギィの名前を口にしている。
アブドロは私にとって美しい。つまりこの世界では醜い異端ということだ。もしかしたらギィへの耽溺の一端は、そこにあるのかもしれない。歪んだ自己愛のような何か。
それはある意味、純粋に「人間」としてのありようのそのもののようで、私はくらりとめまいがした。彼のような心根は多かれ少なかれ、私の中にもあるものだから。
ギィはしなびた野菜のようなアブドロをじっと見ている。それからゆっくりと、もう一本の針を取り出した。
私はとっさにその腕をつかむ。
ギィは私を見る。その目にあるのは。憤怒、怨恨、悲哀、渇望、蹂躙――それから、歓喜に似た何かだろうか。そういうものを鍋でぐつぐつ煮詰めてひとつのかたまりにしたような、すさまじいものだった。
私に向けられたものではないが、その視線を受けるだけで、私はみぞおちのあたりがひゅうっと冷たくなる。
それでもぐっとおなかに力をいれて、ゆるゆると首を振った。
「殺すなと、そう言いたいのか。なんの関係もない、あんたが」
そのとおりだ。部外者の私の言い分なんて、塵ほどの価値もない。でも。
「ギィのやわらかいところを。これ以上、すり減らさないで」
冷たく昏いその瞳。こんな男ですら殺してしまえばギィは苦しむ。もう苦しまないでほしいのだ。
するとギィは初めて、素直にその激情をあらわした。眉を吊り上げ、ぎりと歯軋りする音が耳に届く。
「あんたは知らないだけだ! この男はな、本物の屑なんだ。救いようのない男。取り返しのつかない男。人間の中には、そういうやつがときどきいるんだ。殺すことでしか、終わらせられない!」
「でも! そうしたら、ギィが」
私は気づく。もしギィがアブドロを殺せば、彼の血族は、きっとギィを許さない。先ほどアブドロが言ったばかりではないか。文字通り一族の面子(めんつ)にかけてどこまでも追い、体面を保とうとするに違いない。
ギィはそれすらも知っているのだ。自分がアブドロを殺し、そして殺されることで、幕を引こうとしているのでは?
ギィの瞳に浮かぶのは、その幕切れへの焦がれではないか。
妹を救った。頼りになる恋人もいる。自分の役割は、そこに負の連鎖を持ち込まないことだと。
冗談じゃない。
「嫌です。ギィは私の恩人なの。生きて、幸せになってほしい人の、一人なの!」
死ぬのはだめ、そう呟く。
ギィへのこの感情はなんだろう。
恋ではない。愛でもない。わからない。もしかしたら、そのどちらもなのだろうか?
ただ笑っていてほしいだけだ。幸せでいてほしいのだ。
四人への気持ちにも似て、あるいは拓斗への気持ちにも近いものかもしれない。
「あんた……」
ギィが呆然と私を見ている。気づけば私は泣いていた。自分の思い通りにならないからって泣くだなんて、赤子のようではないか。なんだかふらふらもしている。熱があるのかもしれなかったが、どうでもよかった。
ひたすらにギィを見つめ続ける。私が心の底からそう思っているのだと伝えるまでは、倒れるわけにはいかないのだ。
ギィはおそるおそるというように、私のあごに手を当てた。あふれる涙は川となり、頬を伝って、ギィの指をしっとりと濡らした。
「泣いているのか」
ギィは呟く。信じられないというような驚きは、まるで無防備な子どものようで、私はその素直な顔がとても魅力的だと、そう思った。
「俺の、ために……?」
私は首を振る。ギィのためじゃない。あくまで私のための涙なのだ。頭に熱が集まって、目がかすんでいる。ずびりと鼻をすする。
「アブドロから、証文を取り返して。そして燃やして。それから新しく、アブドロに証文を書かせて」
二度と手出しをさせないような内容で。彼らが証文にこだわっているのは、文字こそがこの地で強い拘束力を持っているかhttps://www.alphapolis.co.jp/img/component/icon/editor-ruby.pngらだ。
権力者といえども、正式な場を設けて書類を作ってさえしまえば、このビエチアマンでは覆せない証拠となるのだろう。それゆえにギィは十数年を失ったのだから。
そうして帰ればいい。ニグラさんとジウォマさんと一緒に。ニグラさんへの伝言にもあったではないか。#__けながうし__#が草を食み、夜渡花が揺れる、青い空、稜線の輝く山岳の故郷へ。
限界だった。頭が重くて支えられない。視界に靄がかり、暗くなった。
首を傾けて見上げると、アブドロの首が光った。いくつかの針がそのうなじに刺さっている。
「動くなよ。これをあと少し押し込めば、あんたは終わりだ」
まあ、動けないだろうが。ギィはあくまで淡々と告げる。それから私をちらりと見下ろし、ほんの少しだけ眉をしかめた。どんな心情も、そこからは汲み取ることはできなかった。
「ま、まて。長年仕えた主人を、手にかける気か?」
身体だけは硬直させたまま、焦ったように言い募るアブドロは滑稽だった。ギィは私のそばへ回り込んでしゃがんだ。壁に吊られていた手錠に針を差し込んで、器用に動かす。するとこきりと錠が回る。重力にしたがって落下した腕は、まるで私のものではないような重みを感じさせた。ギィは羽織っていた外套を脱ぎ、渡してくれる。
私は無意識に手錠されていたところをさする。それからそっと彼の横顔を見上げる。ギィがどうするつもりなのか、私にはまったく想像がつかない。
ほとんどだますように奴隷にされ、十年以上も支配された相手が、まな板の上の鯉状態なのだ。
「わっ、私を殺せば! 私の一族、私の血族がおまえを探すぞ。そこに安寧の日々があるとは思うな」
アブドロは私をいたぶっていたときとは別人のような形相で、あらゆることを話し始めた。命乞い、脅しにすかし、高圧的な物言い。なだめるように下手にも出た。さめざめと、ほとんど泣くようにして、ギィの名前を口にしている。
アブドロは私にとって美しい。つまりこの世界では醜い異端ということだ。もしかしたらギィへの耽溺の一端は、そこにあるのかもしれない。歪んだ自己愛のような何か。
それはある意味、純粋に「人間」としてのありようのそのもののようで、私はくらりとめまいがした。彼のような心根は多かれ少なかれ、私の中にもあるものだから。
ギィはしなびた野菜のようなアブドロをじっと見ている。それからゆっくりと、もう一本の針を取り出した。
私はとっさにその腕をつかむ。
ギィは私を見る。その目にあるのは。憤怒、怨恨、悲哀、渇望、蹂躙――それから、歓喜に似た何かだろうか。そういうものを鍋でぐつぐつ煮詰めてひとつのかたまりにしたような、すさまじいものだった。
私に向けられたものではないが、その視線を受けるだけで、私はみぞおちのあたりがひゅうっと冷たくなる。
それでもぐっとおなかに力をいれて、ゆるゆると首を振った。
「殺すなと、そう言いたいのか。なんの関係もない、あんたが」
そのとおりだ。部外者の私の言い分なんて、塵ほどの価値もない。でも。
「ギィのやわらかいところを。これ以上、すり減らさないで」
冷たく昏いその瞳。こんな男ですら殺してしまえばギィは苦しむ。もう苦しまないでほしいのだ。
するとギィは初めて、素直にその激情をあらわした。眉を吊り上げ、ぎりと歯軋りする音が耳に届く。
「あんたは知らないだけだ! この男はな、本物の屑なんだ。救いようのない男。取り返しのつかない男。人間の中には、そういうやつがときどきいるんだ。殺すことでしか、終わらせられない!」
「でも! そうしたら、ギィが」
私は気づく。もしギィがアブドロを殺せば、彼の血族は、きっとギィを許さない。先ほどアブドロが言ったばかりではないか。文字通り一族の面子(めんつ)にかけてどこまでも追い、体面を保とうとするに違いない。
ギィはそれすらも知っているのだ。自分がアブドロを殺し、そして殺されることで、幕を引こうとしているのでは?
ギィの瞳に浮かぶのは、その幕切れへの焦がれではないか。
妹を救った。頼りになる恋人もいる。自分の役割は、そこに負の連鎖を持ち込まないことだと。
冗談じゃない。
「嫌です。ギィは私の恩人なの。生きて、幸せになってほしい人の、一人なの!」
死ぬのはだめ、そう呟く。
ギィへのこの感情はなんだろう。
恋ではない。愛でもない。わからない。もしかしたら、そのどちらもなのだろうか?
ただ笑っていてほしいだけだ。幸せでいてほしいのだ。
四人への気持ちにも似て、あるいは拓斗への気持ちにも近いものかもしれない。
「あんた……」
ギィが呆然と私を見ている。気づけば私は泣いていた。自分の思い通りにならないからって泣くだなんて、赤子のようではないか。なんだかふらふらもしている。熱があるのかもしれなかったが、どうでもよかった。
ひたすらにギィを見つめ続ける。私が心の底からそう思っているのだと伝えるまでは、倒れるわけにはいかないのだ。
ギィはおそるおそるというように、私のあごに手を当てた。あふれる涙は川となり、頬を伝って、ギィの指をしっとりと濡らした。
「泣いているのか」
ギィは呟く。信じられないというような驚きは、まるで無防備な子どものようで、私はその素直な顔がとても魅力的だと、そう思った。
「俺の、ために……?」
私は首を振る。ギィのためじゃない。あくまで私のための涙なのだ。頭に熱が集まって、目がかすんでいる。ずびりと鼻をすする。
「アブドロから、証文を取り返して。そして燃やして。それから新しく、アブドロに証文を書かせて」
二度と手出しをさせないような内容で。彼らが証文にこだわっているのは、文字こそがこの地で強い拘束力を持っているかhttps://www.alphapolis.co.jp/img/component/icon/editor-ruby.pngらだ。
権力者といえども、正式な場を設けて書類を作ってさえしまえば、このビエチアマンでは覆せない証拠となるのだろう。それゆえにギィは十数年を失ったのだから。
そうして帰ればいい。ニグラさんとジウォマさんと一緒に。ニグラさんへの伝言にもあったではないか。#__けながうし__#が草を食み、夜渡花が揺れる、青い空、稜線の輝く山岳の故郷へ。
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