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第一夜

001.ラルスの受難

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「ラルス様!」

 呼ばれて振り向いた男の目の下にはクマができている。髪もゴワゴワ、髭も伸びっぱなし、どことなく臭ってくる。呼び止めたトマスは、そんな上司の姿を見て「おいたわしい」と嘆く。

「ラルス様、聖女召喚の準備が終わりました。今から儀式が始まります」
「あぁ、そうか。聖女宮の準備は万端か?」
「はい、滞りなく」

 トマスの答えに安堵の笑みを浮かべたのも束の間、ラルスはすぐに他の懸案事項を思い出す。

「七国の要人は?」
「間もなく到着なさるかと。緑の国は遅れるようですが」
「ではいつも通りだな」

 ラルスは二階の窓から中庭に建てられた東屋を見やる。あの木製の東屋で、三十数年ぶりの聖女召喚の儀式が行なわれるのだ。その準備で、聖樹殿せいじゅでんは上へ下への大わらわ。聖女宮付きの聖文官――宮文官たるラルスも大忙しなのだ。

「新しい聖女様が早く命をもたらしてくださると良いのですが」
「そうだな、トマス」

 二人が中庭とは反対側の窓から空を見上げると、巨大な木がそびえ立っている。この巨木が七聖教しちせいきょうの神木なのだが、聖女が倒れ、実をつけなくなって早二年がたった。
 聖樹せいじゅは世界の命の源だ。聖樹が命の実をつけなくなったり枯れたりするときは、世界の終わりを意味する。だからこそ、新たな聖女を召喚する必要があったのだが、聖女宮付きの女官――宮女官の選定、夫の選定などの準備に二年も要してしまった。

「さて、私は宮の様子を見に行っておこう。トマスは要人の世話を頼む」
「かしこまりました」

 東屋へ白い装束を着た総主教や副主教たちが入って行くのをラルスは見下ろし、列の中に同期の姿を見つけて溜め息をつく。あとで聖女召喚の自慢話を聞かされるだろう。ラルスは彼と反りが合わないため、それを想像しただけで吐き気がするのだ。
 ラルスは一礼をしたあと足早に聖女宮へと向かう。聖樹の南の根元に新たに建立された広大な聖女宮、彼の職場へと。



「ラルス様、酷い顔をしておいでですよ」
「聖女様より先にラルス様のほうが湯に入るべきなのではありませんか」

 宮女官たちにからかわれ、ラルスは苦笑する。三日三晩不休で働いていたら酷い顔にもなるだろう、とわざわざ口には出さない。
 新たに搬入した調度品、衣服、宝飾品、すべてに欠品がないか目視する。広大な聖女宮を一部屋ずつ見回る時間はない。聖女がすぐに使う部屋と物品だけを確認していく。

「ラルス様、あとはわたくしたちが確認いたしますから」
「そうです、別室でお休みくださいませ」

 宮女官たちからそう言われても、真面目が取り柄のラルスは休まない。木綿布や浴布は十分か、部屋の温度は最適か、最終確認をする。

「次の聖女様はどんな子かしら」
「前の聖女様は大変うぶで、ご夫君と口づけをなさるのに三ヶ月もかかったものですから、新しい聖女様はもう少し積極的だと良いのですけれど」
「もう二年も命の実がなりませんもの、早く実をつけてもらいたいものですわね。どの国も赤子を待っているでしょう」
「ラルス様もきっと赤子が欲しいでしょうね。結婚して一年がたつもの」

 宮女官たちは好きなように噂話をしている。ラルスは寝室を確認し終え、ようやく一息をついた。
 赤子が欲しい、というのはラルスの妻の口癖だ。彼女は聖女召喚を心待ちにしている。聖樹が実をつけたら一番に食べたいとまで言っているくらいだ。ラルスはそれなりに夫婦二人だけの生活を楽しんでいたのだが、妻はそうではないらしい。
「二年……そんな夫婦も増えただろうな」とラルスは独りごちる。子どもが欲しい夫婦を二年も待たせてしまっている。遅かれ早かれ自分にも子ができるかもしれないという状況に、不思議とラルスの気持ちが高揚するのだった。

 しばらくすると聖樹の葉がざわざわと騒ぎ始める。強い風でもないのに、と宮女官たちが不思議そうに聖樹を見上げる。風もないのに葉が揺れる――ラルスはすぐに意味を悟り、宮女官たちに指示を出す。

「聖女様がいらしたようだ。すぐに湯の用意を!」

 宮女官たちは慌てて湯殿へと駆けていく。ラルスは聖樹殿と聖女宮を結ぶ廊下へと向かい、聖女の到着を待つ。
 三十数年前に召喚された聖女は内向的で、夫たちにもあまり心を許さず、命の実を多く実らせることはなかった。世界中で緩やかに人口が減少したため「恥ずかしがり屋の聖女」だと揶揄されてきたものだ。
 しかし、宮文官のラルスは知っている。聖女は召喚される前の世界に未練があり、いつも帰りたがっていたことを。老いた瞳は常に、元の世界に残してきた家族や友人、そして恋人を思っていたことを。
 聖女は聖樹と共にある。この世界に住む者はそれを当然のことと考えているが、違う世界から喚び出された娘には彼女なりの考えや思いがあるはずなのだ。そんな娘の自由を奪い、聖女宮に幽閉し、聖女としてまつり上げることを是とする風習に、ラルスは密かに疑念を抱いている。もちろん、他の聖職者にも妻にも自らの考えを伝えたことはない。世界を敵に回す考え方を吹聴するわけにはいかない。
 ゆえに、ラルスがやるべきことはただ一つ。

「新たな聖女を不幸にしてなるものか」

 ラルスは真面目な男だ。前の聖女の不幸を目の当たりにしてきたからこそ、次の聖女にとって心地好い場所を提供したいと思っている。もちろん、自分の子を見たいという気持ちも、多少はあるのだが。

 やがて、聖騎士の腕に抱かれてやって来た黒髪の娘は、ぐっすりと眠っていた。彼女が新しい聖女だ。ラルスは最敬礼をして聖女と他の聖職者に頭を下げる。同期の姿はないため、心置きなく礼をすることができた。

「黒髪の聖女だ。珍しくはなかろう」
「前の聖女様も白髪になる前は黒髪でございました。文献にも記載があります。総主教様の仰る通り、珍しくはございません。起こしますか?」
「いや、寝かせておけ。儀式は明日執り行なう」

 総主教がそう命じたため、湯浴みは中止、聖女はすぐに寝室へと運ばれることになった。その間、聖女が目を覚ますことはなかった。

 ラルスの苦難はこの日から始まることとなる。前の聖女とはすべてが異なる娘を召喚したことを、身をもって理解することになるのだ。


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