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032.
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馬車が星の別邸に着くなり、「どうしてあんなことをしたの!」とリーナはアディに詰め寄ってきた。しかし、アディはすぐにルーチェの腕から降りて、リーナの小言を聞く前にさっさと邸へと駆け出した。残されたのは、妹に振り回される理由がわかっていない兄と、彼にどう説明しようかと悩む婚約者だけだ。
「リーナ、あまりアディを叱らないであげてくれないかな」
「……ルーチェは理由を知っているのね?」
「まぁ、大体のところは」
リーナは大きく深い溜め息を吐き出したあとに「しょうがないわねぇ」と小さく呟く。そうして、二人は連れ立って星の別邸へと入っていく。
リーナに案内されたのは東屋だ。既に茶会の準備が整っているため、ルーチェは早速香茶を飲む。林檎の甘い香りが鼻を抜けていく。
「なるほど。緋色の魔獣を伴っているかはわからないけれど、黒髪の魔女は時折王都にやって来るのね」
「そうみたい。もしかして、国王陛下に会いに来ている、とか?」
「まさか。父と魔女は別れたはずでしょう? 王妃殿下と緋色の魔獣が二人のことを許すわけがないもの。密会しているとは思えないわ」
「魔女の目的が陛下ではないなら、何なのだろう? やっぱり食べ物かな? 魔女が王都を訪れる理由がわかれば、私たちが緋色の魔獣に会うこともできるし、オルテンシア様を紹介することができるのになぁ」
クリームがたっぷり入ったロールケーキを食べながら、二人は唸る。魔女が王都で目撃された日付をリーナに見せたが、心当たりはないと言う。国王の誕生日や、何かの記念日というわけでもないようだ。
「オルテンシアのほうが魔女の子だったとは……本当に驚いたわ」
「そうだね。コルヴォ様だと思っていたからね、私たちは」
そうね、とリーナは短く肯定する。
「ルーチェには言っておくけれど……わたくし、実はコルヴォは陛下と魔女の子なんじゃないかと考えていたのよ」
「えっ?」
「だから、変に対抗心を燃やしてしまって……ほら、あの役者とわたくしが兄弟なら、絶対に負けたくないじゃない? 本当に見苦しいところを見せてしまったわね」
ルーチェは苦笑する。コルヴォは国王には全く似ていないのだが、疑心暗鬼になっていたリーナにはそう見えていたらしい。
――リーナは可愛いなぁ。
婚約者にそんなことを言っても喜ばないだろうと知っているため、ルーチェは目を細めてリーナを見つめる。ついでに、リーナの口元についた白いクリームに手を伸ばし、「ついていたよ」と指ですくい取るのを忘れない。ペロリと指を舐めれば、リーナは「女たらし……!」と真っ赤になる。その反応が可愛く見えて、ルーチェは目を細める。
昼はリーナを可愛がり、夜はフィオとそれなりに楽しく過ごす。ルーチェにとってはたまらなく幸せな時間だ。
――そういえば、私、リーナからキスはされたけれど、フィオとはしたことがないなぁ。まぁ、二人は一人だから構わないのだけど。
初めてのキスはリーナが相手だったことを思い出し、今さらながらルーチェは頬を赤らめる。リーナの唇が柔らかかったことは覚えているが、フィオのものがどうなのか、確かめてはいないのだ。
「ねぇ、ルーチェ。ところで、アディの様子がおかしかったのは」
「あぁ、それは――んぐっ」
ヴァレリオのことをリーナに話そうとした瞬間に、金色の毛玉がルーチェに体当りしてきた。アディが口止めをしてきたのかとルーチェは思ったが、そうではないらしい。アディはルーチェの膝の上に乗り、ぶるぶると震えている。
「アディ?」
「お邪魔するわねー、二人とも」
妙に明るい声が邸のほうから聞こえてくる。リーナは「お母様?」と訝しげにクリスティーナを見やる。ジータに伴われて東屋にやって来たのは、クリスティーナ第二妃、フィオリーノとアデリーナの母親だ。
「アディがそっちに逃げたでしょう? んもう、逃げ足だけは速いんだから」
「どうかなさったのですか?」
「うふふ。アディにすごくいいお話があってね」
ルーチェはアディの金色の毛を撫でながら、「ヴァレリオのことかな?」と呟く。ラルゴーゾラ侯爵の子息との結婚なら、王家にとってもアディにとっても「いい話」に違いない。
クリスティーナはそれはもう嬉しそうに笑っている。
「さっき、陛下から報せが届いたの。何でも、ガトレッタ王国の第二王子が猫好きで」
「ナーアアァァァ」
「アディとの結婚に乗り気なんですって」
ルーチェはアディを撫でる手を止める。アディが逃げ出した理由をようやく理解する。
「アディさえよければ、とりなして」
「ニャーアァァァ」
「もーう、さっきからうるさいわねぇ、アディ。いいお話じゃないの」
「クリスティーナ妃殿下、残念ながら、それはアディにとっては悪い話のようです」
クリスティーナはルーチェとアディの顔を見比べ、「あら?」と小首を傾げる。
「やだ、アディには想い人なんていないものだと思っていたけれど、好きな人がいるの? まぁ、どうしましょう」
「そうよ、ルーチェ。アディは本当は一体誰と結婚したがっているの?」
アディはルーチェを見上げ「ニャ」と短く鳴く。「言ってもいいわよ」という意味のようだ。大役を任されたルーチェは苦笑する。
「……ラルゴーゾラ侯爵家の長男ヴァレリオです」
リーナとクリスティーナは、二人して目を丸くする。どうやら予想外の人物だったらしい。
「ラルゴーゾラ侯爵の、あの、声の大きい?」
「体の大きい? 態度も大きい? あのヴァレリオ?」
「声と体と態度が大きいヴァレリオです。何でも、昔助けてもらったことがあるとかで」
リーナとクリスティーナは顔を見合わせる。「我が娘のことながら好みが理解できない」「彼が義弟になるのも想像できない」などとひそひそ話し合っていたが、渋々といった表情でアディを見つめる。
「アディは、ヴァレリオがいいのね?」
「ニャ」
「本当に? 確かに彼は猫好きのようだったけれど、本当にヴァレリオでいいの?」
「ニャ!」
アディはルーチェの胸のあたりを叩く。ルーチェは懐から、預かっていたアディの手紙を取り出す。
「こちらは国王陛下宛ての手紙、こちらはラルゴーゾラ侯爵、それからヴァレリオへの手紙です。昨夜、アデリーナが書いたものです」
「あらあらあら。アディったら」
受け取ったクリスティーナは大変嬉しそうだ。それもそのはず。アディは今まで、人間としてではなく猫として生きていくことを覚悟していたため、「あれがやりたい、これがやりたい」などと強く主張したことがなかったのだ。しかし、ずっと想っていたヴァレリオへの気持ちをしたため、遠方の国の王子との結婚は拒絶するまでに至った。
娘の、人間としての幸せを願っている母親にとっては、嬉しい誤算に違いない。
「わかったわ、アディ。いえ、アデリーナ。陛下にはわたくしからお断りをするように報せておきます」
「ニャ」
「その代わり、陛下がお戻りになられたら、きちんと自分の口でお伝えするのですよ」
「ニャ!」
クリスティーナは封筒を見つめてニコニコと微笑んでいる。リーナはまだアディの好みを理解できていない様子だ。
「あら、この日付はなぁに? 去年の花中月、一昨年の雪果月、その前は花初月」
「心当たりがおありですか?」
黒髪の魔女が王都で目撃された日付を見下ろし、クリスティーナは「そうねぇ」と眉間に皺を寄せる。
「おそらく、だけれど……この時期は『王と精霊の恋物語』の上演中でしょう? もしかしたら、上演最終日ではないかしら?」
クリスティーナによると、議会の終了に合わせて春と夏の間頃に『王と精霊の恋物語』は上演されることが多いそうだ。王都での思い出作りという意味合いがあるらしい。ルーチェもリーナも初めて知った。
「最終日……ということは」
「もちろん、看板役者同士の共演……!」
「そうねぇ。コルヴォ様とオルテンシア様の共演が見られる日ね」
ルーチェとリーナは顔を見合わせ、頷く。
黒髪の魔女は、毎年『王と精霊の恋物語』を観に来ている。オルテンシアは魔女にも魔獣にも会ったことがないというような口ぶりだった。魔女は舞台に立つ自分の子どもを、遠くから眺めているだけなのだ。
「つまり、『王と精霊の恋物語』最終日に魔女が現れる……! わたくしの呪いが解けるかもしれない!」
「あら、そうなのー? 今年の最終日まで、あと十日ほどねぇ」
リーナとクリスティーナは喜ぶが、ルーチェは一瞬だけ魔女の気持ちを推し図り、気の毒に思う。毎年、母親だと名乗ることもせず、ただ、子どもの活躍を眺めるだけ。その胸中はいかほどのものなのか。
「お母様! 『王と精霊の恋物語』最終日、わたくしたちも同席して構わないかしら?」
「もちろん、そういうことなら構わなくてよ。王妃殿下が戻られたら、皆で観劇いたしましょうね」
――魔女は、どんな気持ちでオルテンシア様を見つめているんだろう?
ルーチェには到底結論の出ない疑問であった。
「リーナ、あまりアディを叱らないであげてくれないかな」
「……ルーチェは理由を知っているのね?」
「まぁ、大体のところは」
リーナは大きく深い溜め息を吐き出したあとに「しょうがないわねぇ」と小さく呟く。そうして、二人は連れ立って星の別邸へと入っていく。
リーナに案内されたのは東屋だ。既に茶会の準備が整っているため、ルーチェは早速香茶を飲む。林檎の甘い香りが鼻を抜けていく。
「なるほど。緋色の魔獣を伴っているかはわからないけれど、黒髪の魔女は時折王都にやって来るのね」
「そうみたい。もしかして、国王陛下に会いに来ている、とか?」
「まさか。父と魔女は別れたはずでしょう? 王妃殿下と緋色の魔獣が二人のことを許すわけがないもの。密会しているとは思えないわ」
「魔女の目的が陛下ではないなら、何なのだろう? やっぱり食べ物かな? 魔女が王都を訪れる理由がわかれば、私たちが緋色の魔獣に会うこともできるし、オルテンシア様を紹介することができるのになぁ」
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「オルテンシアのほうが魔女の子だったとは……本当に驚いたわ」
「そうだね。コルヴォ様だと思っていたからね、私たちは」
そうね、とリーナは短く肯定する。
「ルーチェには言っておくけれど……わたくし、実はコルヴォは陛下と魔女の子なんじゃないかと考えていたのよ」
「えっ?」
「だから、変に対抗心を燃やしてしまって……ほら、あの役者とわたくしが兄弟なら、絶対に負けたくないじゃない? 本当に見苦しいところを見せてしまったわね」
ルーチェは苦笑する。コルヴォは国王には全く似ていないのだが、疑心暗鬼になっていたリーナにはそう見えていたらしい。
――リーナは可愛いなぁ。
婚約者にそんなことを言っても喜ばないだろうと知っているため、ルーチェは目を細めてリーナを見つめる。ついでに、リーナの口元についた白いクリームに手を伸ばし、「ついていたよ」と指ですくい取るのを忘れない。ペロリと指を舐めれば、リーナは「女たらし……!」と真っ赤になる。その反応が可愛く見えて、ルーチェは目を細める。
昼はリーナを可愛がり、夜はフィオとそれなりに楽しく過ごす。ルーチェにとってはたまらなく幸せな時間だ。
――そういえば、私、リーナからキスはされたけれど、フィオとはしたことがないなぁ。まぁ、二人は一人だから構わないのだけど。
初めてのキスはリーナが相手だったことを思い出し、今さらながらルーチェは頬を赤らめる。リーナの唇が柔らかかったことは覚えているが、フィオのものがどうなのか、確かめてはいないのだ。
「ねぇ、ルーチェ。ところで、アディの様子がおかしかったのは」
「あぁ、それは――んぐっ」
ヴァレリオのことをリーナに話そうとした瞬間に、金色の毛玉がルーチェに体当りしてきた。アディが口止めをしてきたのかとルーチェは思ったが、そうではないらしい。アディはルーチェの膝の上に乗り、ぶるぶると震えている。
「アディ?」
「お邪魔するわねー、二人とも」
妙に明るい声が邸のほうから聞こえてくる。リーナは「お母様?」と訝しげにクリスティーナを見やる。ジータに伴われて東屋にやって来たのは、クリスティーナ第二妃、フィオリーノとアデリーナの母親だ。
「アディがそっちに逃げたでしょう? んもう、逃げ足だけは速いんだから」
「どうかなさったのですか?」
「うふふ。アディにすごくいいお話があってね」
ルーチェはアディの金色の毛を撫でながら、「ヴァレリオのことかな?」と呟く。ラルゴーゾラ侯爵の子息との結婚なら、王家にとってもアディにとっても「いい話」に違いない。
クリスティーナはそれはもう嬉しそうに笑っている。
「さっき、陛下から報せが届いたの。何でも、ガトレッタ王国の第二王子が猫好きで」
「ナーアアァァァ」
「アディとの結婚に乗り気なんですって」
ルーチェはアディを撫でる手を止める。アディが逃げ出した理由をようやく理解する。
「アディさえよければ、とりなして」
「ニャーアァァァ」
「もーう、さっきからうるさいわねぇ、アディ。いいお話じゃないの」
「クリスティーナ妃殿下、残念ながら、それはアディにとっては悪い話のようです」
クリスティーナはルーチェとアディの顔を見比べ、「あら?」と小首を傾げる。
「やだ、アディには想い人なんていないものだと思っていたけれど、好きな人がいるの? まぁ、どうしましょう」
「そうよ、ルーチェ。アディは本当は一体誰と結婚したがっているの?」
アディはルーチェを見上げ「ニャ」と短く鳴く。「言ってもいいわよ」という意味のようだ。大役を任されたルーチェは苦笑する。
「……ラルゴーゾラ侯爵家の長男ヴァレリオです」
リーナとクリスティーナは、二人して目を丸くする。どうやら予想外の人物だったらしい。
「ラルゴーゾラ侯爵の、あの、声の大きい?」
「体の大きい? 態度も大きい? あのヴァレリオ?」
「声と体と態度が大きいヴァレリオです。何でも、昔助けてもらったことがあるとかで」
リーナとクリスティーナは顔を見合わせる。「我が娘のことながら好みが理解できない」「彼が義弟になるのも想像できない」などとひそひそ話し合っていたが、渋々といった表情でアディを見つめる。
「アディは、ヴァレリオがいいのね?」
「ニャ」
「本当に? 確かに彼は猫好きのようだったけれど、本当にヴァレリオでいいの?」
「ニャ!」
アディはルーチェの胸のあたりを叩く。ルーチェは懐から、預かっていたアディの手紙を取り出す。
「こちらは国王陛下宛ての手紙、こちらはラルゴーゾラ侯爵、それからヴァレリオへの手紙です。昨夜、アデリーナが書いたものです」
「あらあらあら。アディったら」
受け取ったクリスティーナは大変嬉しそうだ。それもそのはず。アディは今まで、人間としてではなく猫として生きていくことを覚悟していたため、「あれがやりたい、これがやりたい」などと強く主張したことがなかったのだ。しかし、ずっと想っていたヴァレリオへの気持ちをしたため、遠方の国の王子との結婚は拒絶するまでに至った。
娘の、人間としての幸せを願っている母親にとっては、嬉しい誤算に違いない。
「わかったわ、アディ。いえ、アデリーナ。陛下にはわたくしからお断りをするように報せておきます」
「ニャ」
「その代わり、陛下がお戻りになられたら、きちんと自分の口でお伝えするのですよ」
「ニャ!」
クリスティーナは封筒を見つめてニコニコと微笑んでいる。リーナはまだアディの好みを理解できていない様子だ。
「あら、この日付はなぁに? 去年の花中月、一昨年の雪果月、その前は花初月」
「心当たりがおありですか?」
黒髪の魔女が王都で目撃された日付を見下ろし、クリスティーナは「そうねぇ」と眉間に皺を寄せる。
「おそらく、だけれど……この時期は『王と精霊の恋物語』の上演中でしょう? もしかしたら、上演最終日ではないかしら?」
クリスティーナによると、議会の終了に合わせて春と夏の間頃に『王と精霊の恋物語』は上演されることが多いそうだ。王都での思い出作りという意味合いがあるらしい。ルーチェもリーナも初めて知った。
「最終日……ということは」
「もちろん、看板役者同士の共演……!」
「そうねぇ。コルヴォ様とオルテンシア様の共演が見られる日ね」
ルーチェとリーナは顔を見合わせ、頷く。
黒髪の魔女は、毎年『王と精霊の恋物語』を観に来ている。オルテンシアは魔女にも魔獣にも会ったことがないというような口ぶりだった。魔女は舞台に立つ自分の子どもを、遠くから眺めているだけなのだ。
「つまり、『王と精霊の恋物語』最終日に魔女が現れる……! わたくしの呪いが解けるかもしれない!」
「あら、そうなのー? 今年の最終日まで、あと十日ほどねぇ」
リーナとクリスティーナは喜ぶが、ルーチェは一瞬だけ魔女の気持ちを推し図り、気の毒に思う。毎年、母親だと名乗ることもせず、ただ、子どもの活躍を眺めるだけ。その胸中はいかほどのものなのか。
「お母様! 『王と精霊の恋物語』最終日、わたくしたちも同席して構わないかしら?」
「もちろん、そういうことなら構わなくてよ。王妃殿下が戻られたら、皆で観劇いたしましょうね」
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