15 / 55
篠宮小夜の受難(十三)
しおりを挟む
「酷い」
「……すみません」
「痛いです」
「……でも、あれは里見くんが悪いと思います」
玄関に置いてあった傘を取る。カーキの、かわいらしくも何ともない傘だ。
智子先生のかわいらしいブルーの傘はなかったので、先に帰宅したのだろう。いつ飲みに誘おうかな、どこに連れていこうかな、と初めて彼女とデートに行くような男の子の心境で、隣に立ってまだ顎を撫でている里見くんを睨みつける。
里見くんが足を掴んだりしなければ、蹴り上げることもなかったのに。
「まぁ、そうですけど。蹴ることはないと思います」
「……すみません」
「次は唇を狙うので」
「ねらっ……死守します。でも、そうなったら、殴りますよ」
「望むところです」
ふふん、と里見くんが笑う。その得意気な顔がムカつく。
雨は上がっている。成り行きと流れで玄関まで里見くんと来てしまったけれど、もしかして、もしかしなくても、彼は。
「送っていきます。俺の家は方向が違いますが、変質者には気をつけないといけませんから」
やっぱり、そうなるよなぁ。がくりと肩を落とす。
里見くんは稲垣くんに対抗心を燃やす子だ。絶対にこうなると思っていたから、今日は遅くに帰りたかったのに、アクシデントもあったし、仕事が早くに終わってしまったので仕方がない。早くお風呂に入りたい。
と。足音が聞こえてくる。他の先生も帰るタイミングだったのだろう。ひょこりと顔をのぞかせたのは――。
「しのちゃん、今帰り?」
まさか、まさかの、このタイミングで!?
「あれ、宗介。お前も帰り? しのちゃん、今日も送ってくよ」
「いいよ、稲垣は。今日は俺が送っていくから」
「は? 俺が先にしのちゃんと約束したし」
「今日は先に俺がアポ取ったから、諦めて」
バチバチと火花が飛び散るくらいに睨み合っている二人の実習生の間で、私は途方に暮れる。なのに、私のために争わないで、なんて馬鹿みたいな台詞が頭に浮かんで、思わず笑ってしまう。
「なに、笑っているんですか」
「しのちゃん、俺ら本気なのに」
「じゃあ、仲良く一緒に帰りましょう?」
私のために争わないで。なんてとてもじゃないけど、言えるわけがない。だからと言って、争いをじっと見ているようなこともしたくない。私って罪な女、などと陶酔するなんてこと、できるわけがない。
ならば、妥協案を提示すればよいのだ。この場合の選択肢は多くない。
「里見くん、稲垣くん、送っていってください」
二人は顔を見合わせて、頷くしかないのだ。
◆◇◆◇◆
「なんでお前サッカー部来ねえの? やってたじゃん、サッカー」
「やってたけど、特に好きだったわけじゃないし、今は他の部のほうが楽しいから」
「何だよ、つまんねえの。高校生に混じってるとなんか若くなった気がするぜ?」
「四歳くらい若返っても仕方ないだろ。てか、それは非科学的な事象じゃねえの? 化学の先生が言っていい台詞なの?」
「それとこれは話が別だろ」
男の子の会話だ。うちのクラスの生徒たちとそう変わらない会話だ。二人とも、実習生じゃなくて、ただの大学生の顔をしている。
それが、楽しくて仕方ない。
背は里見くんのほうが少し高い。稲垣くんのほうが、筋肉質。里見くんが色白で、稲垣くんは六月なのに既に日焼けしている。比較してみると面白い。
私は二人の邪魔をしないように、大人しく後ろを歩いていく。ちょっとだけ傘を揺らしたりしながら。
たぶん、里見くんと稲垣くんは、仲が良い。進学した大学は違うけれど、高校時代はずっと同じクラスだったと言っていた。それに、同じサッカー部だったようだし。
里見くんがサッカー部だったとは、知らなかった。私は、受験生だった頃の、国語準備室での彼しか知らないのだと、改めて気づく。
それはとても、不思議な感じだ。
「化学の指導案進んでる?」
「宗介こそ、数学と総合大丈夫か?」
「俺を誰だと思ってんだよ」
お互いの実習の話を聞いていたら、いつの間にか独身寮の前にたどり着いていた。二人の会話は終わりそうにない。稲垣くんは昨日来たのに、会話に夢中でマンションを素通りしている。
ちなみに、校門を出てから私が二人の会話に加わった回数は、ゼロだ。それだけ、話すことが楽しかったんだなと笑う。
「じゃあ、送ってもらってありがとうございました」
ペコリと頭を下げた瞬間に、二人は「えっ?」と叫んで振り向いた。そのタイミングまで同じとは、本当に仲がいい。
「え、あ、ほんとだ、着いてた」
「へぇ、先生はここに住んでいるんですか」
「もう大丈夫なので、二人とも気をつけて帰宅してくださいね。では、おやすみなさい」
再度頭を下げて笑顔を浮かべる。二人は「しまったなぁ」という表情で私を見つめてきたけれど、まぁ、十五分仲良く話していたのだから仕方がないでしょう。
「では、また明日」
「おやすみ、しのちゃん」
「おやすみなさい、小夜先生」
手を振ったあと、マンションのエントランスへ向かう。たぶん、私が部屋に着くまで二人は帰らないだろうなと思ったので、さっさとマンションに入る。後ろは振り向かない。
さぁ、帰ろう。真っ暗な三〇二号室に。
今日は何の豆を挽こうかな、と考えながら真っ暗な部屋に足を踏み入れた。
「……すみません」
「痛いです」
「……でも、あれは里見くんが悪いと思います」
玄関に置いてあった傘を取る。カーキの、かわいらしくも何ともない傘だ。
智子先生のかわいらしいブルーの傘はなかったので、先に帰宅したのだろう。いつ飲みに誘おうかな、どこに連れていこうかな、と初めて彼女とデートに行くような男の子の心境で、隣に立ってまだ顎を撫でている里見くんを睨みつける。
里見くんが足を掴んだりしなければ、蹴り上げることもなかったのに。
「まぁ、そうですけど。蹴ることはないと思います」
「……すみません」
「次は唇を狙うので」
「ねらっ……死守します。でも、そうなったら、殴りますよ」
「望むところです」
ふふん、と里見くんが笑う。その得意気な顔がムカつく。
雨は上がっている。成り行きと流れで玄関まで里見くんと来てしまったけれど、もしかして、もしかしなくても、彼は。
「送っていきます。俺の家は方向が違いますが、変質者には気をつけないといけませんから」
やっぱり、そうなるよなぁ。がくりと肩を落とす。
里見くんは稲垣くんに対抗心を燃やす子だ。絶対にこうなると思っていたから、今日は遅くに帰りたかったのに、アクシデントもあったし、仕事が早くに終わってしまったので仕方がない。早くお風呂に入りたい。
と。足音が聞こえてくる。他の先生も帰るタイミングだったのだろう。ひょこりと顔をのぞかせたのは――。
「しのちゃん、今帰り?」
まさか、まさかの、このタイミングで!?
「あれ、宗介。お前も帰り? しのちゃん、今日も送ってくよ」
「いいよ、稲垣は。今日は俺が送っていくから」
「は? 俺が先にしのちゃんと約束したし」
「今日は先に俺がアポ取ったから、諦めて」
バチバチと火花が飛び散るくらいに睨み合っている二人の実習生の間で、私は途方に暮れる。なのに、私のために争わないで、なんて馬鹿みたいな台詞が頭に浮かんで、思わず笑ってしまう。
「なに、笑っているんですか」
「しのちゃん、俺ら本気なのに」
「じゃあ、仲良く一緒に帰りましょう?」
私のために争わないで。なんてとてもじゃないけど、言えるわけがない。だからと言って、争いをじっと見ているようなこともしたくない。私って罪な女、などと陶酔するなんてこと、できるわけがない。
ならば、妥協案を提示すればよいのだ。この場合の選択肢は多くない。
「里見くん、稲垣くん、送っていってください」
二人は顔を見合わせて、頷くしかないのだ。
◆◇◆◇◆
「なんでお前サッカー部来ねえの? やってたじゃん、サッカー」
「やってたけど、特に好きだったわけじゃないし、今は他の部のほうが楽しいから」
「何だよ、つまんねえの。高校生に混じってるとなんか若くなった気がするぜ?」
「四歳くらい若返っても仕方ないだろ。てか、それは非科学的な事象じゃねえの? 化学の先生が言っていい台詞なの?」
「それとこれは話が別だろ」
男の子の会話だ。うちのクラスの生徒たちとそう変わらない会話だ。二人とも、実習生じゃなくて、ただの大学生の顔をしている。
それが、楽しくて仕方ない。
背は里見くんのほうが少し高い。稲垣くんのほうが、筋肉質。里見くんが色白で、稲垣くんは六月なのに既に日焼けしている。比較してみると面白い。
私は二人の邪魔をしないように、大人しく後ろを歩いていく。ちょっとだけ傘を揺らしたりしながら。
たぶん、里見くんと稲垣くんは、仲が良い。進学した大学は違うけれど、高校時代はずっと同じクラスだったと言っていた。それに、同じサッカー部だったようだし。
里見くんがサッカー部だったとは、知らなかった。私は、受験生だった頃の、国語準備室での彼しか知らないのだと、改めて気づく。
それはとても、不思議な感じだ。
「化学の指導案進んでる?」
「宗介こそ、数学と総合大丈夫か?」
「俺を誰だと思ってんだよ」
お互いの実習の話を聞いていたら、いつの間にか独身寮の前にたどり着いていた。二人の会話は終わりそうにない。稲垣くんは昨日来たのに、会話に夢中でマンションを素通りしている。
ちなみに、校門を出てから私が二人の会話に加わった回数は、ゼロだ。それだけ、話すことが楽しかったんだなと笑う。
「じゃあ、送ってもらってありがとうございました」
ペコリと頭を下げた瞬間に、二人は「えっ?」と叫んで振り向いた。そのタイミングまで同じとは、本当に仲がいい。
「え、あ、ほんとだ、着いてた」
「へぇ、先生はここに住んでいるんですか」
「もう大丈夫なので、二人とも気をつけて帰宅してくださいね。では、おやすみなさい」
再度頭を下げて笑顔を浮かべる。二人は「しまったなぁ」という表情で私を見つめてきたけれど、まぁ、十五分仲良く話していたのだから仕方がないでしょう。
「では、また明日」
「おやすみ、しのちゃん」
「おやすみなさい、小夜先生」
手を振ったあと、マンションのエントランスへ向かう。たぶん、私が部屋に着くまで二人は帰らないだろうなと思ったので、さっさとマンションに入る。後ろは振り向かない。
さぁ、帰ろう。真っ暗な三〇二号室に。
今日は何の豆を挽こうかな、と考えながら真っ暗な部屋に足を踏み入れた。
0
お気に入りに追加
359
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
小野寺社長のお気に入り
茜色
恋愛
朝岡渚(あさおかなぎさ)、28歳。小さなイベント企画会社に転職して以来、社長のアシスタント兼お守り役として振り回される毎日。34歳の社長・小野寺貢(おのでらみつぐ)は、ルックスは良いが生活態度はいい加減、デリカシーに欠ける困った男。
悪天候の夜、残業で家に帰れなくなった渚は小野寺と応接室で仮眠をとることに。思いがけず緊張する渚に、「おまえ、あんまり男を知らないだろう」と小野寺が突然迫ってきて・・・。
☆全19話です。「オフィスラブ」と謳っていますが、あまりオフィスっぽくありません。
☆「ムーンライトノベルズ」様にも掲載しています。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
なし崩しの夜
春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。
さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。
彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。
信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。
つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる