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篠宮小夜の受難(八)
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浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど
あまりてなどか 人の恋しき
丈の低い茅(チガヤ)がまばらに生えた野辺の「しの」ではないけれど、私は恋しさを忍んでいた。ずっと我慢していたのに、どうして、こんなにもあなたのことが、恋しいのだろう――。
◆◇◆◇◆
「浅茅生の 俺の篠宮 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき」
背後から聞こえた里見くんの低い声に、全身がざわりと粟立つ。
あぁ、駄目だ。振り向いてはいけない。私の本能を信じたい。振り向いては、駄目だ。とらわれてしまう。
「小夜先生」
深呼吸をしよう。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。心臓を落ち着かせて。
ストレートに愛を語ってくる実習生を何とかやり過ごそう。いや、ストレートではなく、今日は変化球か? カーブか? ナックルか?
「小夜先生、耳真っ赤ですよ」
「なっ」
あ。
振り向いちゃっ、た。
目の前に、目を細めて嬉しそうに微笑む里見くん。
「小夜先生、かわいい」
ぎしりと椅子が軋む。古い椅子だけど、この軋む音が「仕事頑張れ!」と応援してくれるような音に聞こえて、好きだった。決して、里見くんから逃げるために、身を捩って鳴らせるような音じゃない。のに。
「や、駄目、来ないでください」
「駄目ですか?」
「駄目です」
私は手を突っ張って、里見くんの体がこれ以上近づかないようにしている。ジャケットを脱いだ薄いシャツから、じわりと熱が伝わる。椅子がコロコロと動き、机に当たってギシギシと軋む。
手を離したら、里見くんは、きっと私を抱きしめるだろう。それは、駄目だ。駄目なのだ。昨日は油断しただけなのだ。隙があるようでは、駄目なのだ。
「顔、上げてくださいよ、小夜先生」
「駄目です」
「なぜ?」
「……真っ赤なので」
そうだ、真っ赤だ。自分でも不思議なくらい、熱が顔に集まっている。そんな、茹でダコみたいな顔を、見られたくない。恥ずかしすぎる。
「じゃあ、ずっとこうしていましょうか? 俺は構いませんけど。先生は困りますよね。仕事、できないですよね」
「……」
「仕事ができないどころか、生徒や先生が入ってきたら大変ですよね。一応、ここは入口から死角にはなっていますけど」
「……」
「あー……その椅子、なんか、ベッドが軋んでいるみたいでエロいですね」
「っえ?」
思わず立ち上がってしまう。
瞬間、私の体はまた、里見くんの腕の中。
私は馬鹿なのか?
ずるい。なに、この緩急のつけ方。なに、この攻略方法。
逃げようともがいても、里見くんの腕はビクともしない。
シャツ、薄くて、厚い胸板だなとか、意外とがっしりした体格なんだなとか、ちょっと汗臭いなとか、ダイレクトに伝わってきてしまう。
「……小夜先生、もう少しこのままで」
「駄目、です」
「『淫乱という言葉は、大人の女性にとっては褒め言葉になるのか』と、五組の子から聞かれました」
真っ赤だった顔が一気に青ざめていくかのような、体温の変化があった。血の気が引いていく。逃げようとしていた体が、仕事を放棄する。力が抜けそうになる。
「……なんて、答えたんですか?」
「『そんなわけあるか。それは年齢関係なく、すべての女性を傷つける言葉だ』と答えておきましたが、間違っていましたか?」
「……いえ」
大丈夫、だと言い聞かせる。私は大丈夫。なんて言われても、大丈夫。
「五組の生徒は幼稚ですね」
里見くんは、ぎゅうと私をきつく抱きしめる。私の体が震えているのに気づいたのかもしれない。
「俺よりも、孝乃ちゃんがものすごく怒っていました。ちょっと意外でしょう?」
「内藤さんが?」
「すごい形相で、誰が言ったのか問い詰めていましたよ。犯人がわかったら、殺しに行きそうな剣幕でした」
明日にでも内藤さんにフォロー入れておかないと。そこまで怒ってくれるなんて、本当に意外だ。
「すみません、俺のせいですね」
「……本当に」
「責任、取りますよ。小夜先生をお嫁にもらいます」
「あの」
「お嫁に来てくれませんか?」
そこで「じゃあ責任取って嫁にもらってください」と言うほうが、淫乱ではないの? 見境なしに手を出す教師の図、ではないの?
「行きません」
「残念です。こんなに好きなのに」
あまり残念ではなさそうに、里見くんは笑った。吐息が耳にかかってくすぐったい。
あぁ、駄目だ。
他人の体温を気持ちいいと思えてしまう、この時間が、怖い。
「好きだ」「かわいい」なんて、長らく言われていなかった言葉。「嫁に来てくれ」なんて、初めて言われた言葉。
こんなふうに、慈しむように抱きしめられたのは、何年ぶりだろう。少なくとも、最近ではない。
里見くんは、一体、何なの。
私をどうしたいの。
「小夜先生」
「……何ですか?」
「俺とどうにかなるのが嫌なら、ずっと拒否してください。それが小夜先生の考えなら、尊重します」
え、あ、はい。わかりました。
「でも、覚えていてください。俺は」
背中を滑る指の感触。
吐息に混じる熱。
苦しいほどに早鐘を打つ心臓は、私のものか、彼のものか、それすらも定かではない。
逃れたいのに、逃れられない。
聞いちゃ駄目だとわかっているのに。
「――俺は小夜先生が欲しい」
あまりてなどか 人の恋しき
丈の低い茅(チガヤ)がまばらに生えた野辺の「しの」ではないけれど、私は恋しさを忍んでいた。ずっと我慢していたのに、どうして、こんなにもあなたのことが、恋しいのだろう――。
◆◇◆◇◆
「浅茅生の 俺の篠宮 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき」
背後から聞こえた里見くんの低い声に、全身がざわりと粟立つ。
あぁ、駄目だ。振り向いてはいけない。私の本能を信じたい。振り向いては、駄目だ。とらわれてしまう。
「小夜先生」
深呼吸をしよう。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。心臓を落ち着かせて。
ストレートに愛を語ってくる実習生を何とかやり過ごそう。いや、ストレートではなく、今日は変化球か? カーブか? ナックルか?
「小夜先生、耳真っ赤ですよ」
「なっ」
あ。
振り向いちゃっ、た。
目の前に、目を細めて嬉しそうに微笑む里見くん。
「小夜先生、かわいい」
ぎしりと椅子が軋む。古い椅子だけど、この軋む音が「仕事頑張れ!」と応援してくれるような音に聞こえて、好きだった。決して、里見くんから逃げるために、身を捩って鳴らせるような音じゃない。のに。
「や、駄目、来ないでください」
「駄目ですか?」
「駄目です」
私は手を突っ張って、里見くんの体がこれ以上近づかないようにしている。ジャケットを脱いだ薄いシャツから、じわりと熱が伝わる。椅子がコロコロと動き、机に当たってギシギシと軋む。
手を離したら、里見くんは、きっと私を抱きしめるだろう。それは、駄目だ。駄目なのだ。昨日は油断しただけなのだ。隙があるようでは、駄目なのだ。
「顔、上げてくださいよ、小夜先生」
「駄目です」
「なぜ?」
「……真っ赤なので」
そうだ、真っ赤だ。自分でも不思議なくらい、熱が顔に集まっている。そんな、茹でダコみたいな顔を、見られたくない。恥ずかしすぎる。
「じゃあ、ずっとこうしていましょうか? 俺は構いませんけど。先生は困りますよね。仕事、できないですよね」
「……」
「仕事ができないどころか、生徒や先生が入ってきたら大変ですよね。一応、ここは入口から死角にはなっていますけど」
「……」
「あー……その椅子、なんか、ベッドが軋んでいるみたいでエロいですね」
「っえ?」
思わず立ち上がってしまう。
瞬間、私の体はまた、里見くんの腕の中。
私は馬鹿なのか?
ずるい。なに、この緩急のつけ方。なに、この攻略方法。
逃げようともがいても、里見くんの腕はビクともしない。
シャツ、薄くて、厚い胸板だなとか、意外とがっしりした体格なんだなとか、ちょっと汗臭いなとか、ダイレクトに伝わってきてしまう。
「……小夜先生、もう少しこのままで」
「駄目、です」
「『淫乱という言葉は、大人の女性にとっては褒め言葉になるのか』と、五組の子から聞かれました」
真っ赤だった顔が一気に青ざめていくかのような、体温の変化があった。血の気が引いていく。逃げようとしていた体が、仕事を放棄する。力が抜けそうになる。
「……なんて、答えたんですか?」
「『そんなわけあるか。それは年齢関係なく、すべての女性を傷つける言葉だ』と答えておきましたが、間違っていましたか?」
「……いえ」
大丈夫、だと言い聞かせる。私は大丈夫。なんて言われても、大丈夫。
「五組の生徒は幼稚ですね」
里見くんは、ぎゅうと私をきつく抱きしめる。私の体が震えているのに気づいたのかもしれない。
「俺よりも、孝乃ちゃんがものすごく怒っていました。ちょっと意外でしょう?」
「内藤さんが?」
「すごい形相で、誰が言ったのか問い詰めていましたよ。犯人がわかったら、殺しに行きそうな剣幕でした」
明日にでも内藤さんにフォロー入れておかないと。そこまで怒ってくれるなんて、本当に意外だ。
「すみません、俺のせいですね」
「……本当に」
「責任、取りますよ。小夜先生をお嫁にもらいます」
「あの」
「お嫁に来てくれませんか?」
そこで「じゃあ責任取って嫁にもらってください」と言うほうが、淫乱ではないの? 見境なしに手を出す教師の図、ではないの?
「行きません」
「残念です。こんなに好きなのに」
あまり残念ではなさそうに、里見くんは笑った。吐息が耳にかかってくすぐったい。
あぁ、駄目だ。
他人の体温を気持ちいいと思えてしまう、この時間が、怖い。
「好きだ」「かわいい」なんて、長らく言われていなかった言葉。「嫁に来てくれ」なんて、初めて言われた言葉。
こんなふうに、慈しむように抱きしめられたのは、何年ぶりだろう。少なくとも、最近ではない。
里見くんは、一体、何なの。
私をどうしたいの。
「小夜先生」
「……何ですか?」
「俺とどうにかなるのが嫌なら、ずっと拒否してください。それが小夜先生の考えなら、尊重します」
え、あ、はい。わかりました。
「でも、覚えていてください。俺は」
背中を滑る指の感触。
吐息に混じる熱。
苦しいほどに早鐘を打つ心臓は、私のものか、彼のものか、それすらも定かではない。
逃れたいのに、逃れられない。
聞いちゃ駄目だとわかっているのに。
「――俺は小夜先生が欲しい」
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