鬼熊・警部補熊谷芳樹

大森健人

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 熊谷は上野署から抜け出て上野駅へ向かうと山手線を利用し、新宿へと向かった。

 鈴木組の事務所は、新宿駅東口から四谷方面に向かう映画館やデパートが密集する新宿三丁目の裏路地にあった。雑居ビルの二階で、外から見上げると窓に〔鈴木金融〕と黄色いゴシック文字で大きく書かれていた。
 熊谷は駆け足で階段を上ると、ガラス張りのドアが見え、その先に受付があった。

「いらっしゃいませ」
 熊谷が入って来ると、受付嬢である女性が気づき、話しかけてきた。

「本日は、どのようなご用件で?」
「これだよ」
 熊谷は警察手帳バツジを見せ、
「上野署の熊谷だ。社長に会わせてくれ」
 と、言った。

「は、はい……」
 受付嬢の女性は警察手帳を見て、一瞬にして緊張したのか、慌てて内線をかけた。

「社長。ただいま、警察の方が……」
 何度か頷きながら、小声で話しをしていた。

 熊谷は返事を待っている間、ふと、受付の奥にあるデスクへ視線を向けた。
 働いている堅気のOLやサラリーマンに混じり、鈴木組の構成員らが数人、接客用のソファーに集まり、携帯を操作していた。熊谷のことに気づいたらしく、互いに小声で囁き合っていた。

「どうぞ、こちらへ」
 熊谷は促されるように通路の先へ案内された。

「失礼します」
 受付嬢の女性と共に熊谷は、社長室とある部屋のなかへ入った。

「これは、これは。さあ、どうぞ」
 組長の鈴木隆弘は、さも親しき仲の客であるかのように熊谷を迎え、接客用のソファーへ座るように促した。
 案内してきた女性は一旦、下がるとすぐに茶を運んできた。

「ありがとう。もう、いいよ。仕事に戻りなさい」
「はい、失礼いたします」
 女性が部屋から完全に立ち去ると、熊谷の正面に座った鈴木はそれまでの優し気な表情から一変し、険しい顔で睨んだ。

「熊谷さんですか。お噂はかねがね……」
「噂か。まあ、どういう噂か、聞かなくても分かるがな」
「それで、本日はどのようなご用件で?」
「俺が訪ねてきたんだ。大方、察しはついているんじゃねえのか」
「さて、何のことやら」
「先日のことだ。捜査の過程で訊きたいことがあり、お宅のところにいる清水って野郎と会った」
「清水……、ああ、アルバイトの清水君のことですか」
「アルバイト、ね。要は、言い方の問題だな。お宅じゃ構成員をアルバイトとして雇っているのか」
「構成員? ウチはまともな金融業ですよ」

 熊谷は薄ら笑いを浮かべた。

「おいおい、まさか堅気のつもりか。笑わすな。第一、俺のことを知っているなら、テメエらが自ら極道だと名乗ったのと同じだぞ」
「もし、私らが暴力団だとしたら、熊谷さんは余程、度胸のある御方ですね」
「どういう意味だ?」
「考えてみれば分かることです。命知らず、ということですよ」
「何だ? ここを出て行った後、そこのデスクにいた連中に俺を襲わせるつもりか」
「ウチの社員が襲うなんて、とんでもない」
「刑事である俺は襲わねえ代わり、六十過ぎたピンサロの店長している爺さんは、襲えるってか……」

 熊谷は、夏目のことについて、カマをかけてみた。鈴木は何のことを言われているのか、分からないという表情になった。

「はて、それこそ覚えがありませんな」
「清水は話したぞ。今言った爺さん一人を誘拐するように、渡辺という男から指示され、その報酬として大金を貰えるはずだったと」
「ほう、そうでしたか……」
「大して、驚かねえな」
「いえ、驚いていますよ。彼が、ね……」

 鈴木は困惑な表情をした。が、熊谷はそれが演技であることを分かっていた。

「そういや、清水の姿が見えねえな。あの野郎は今、どこだ?」
「彼は昨日から、休んでいますよ」
「休みだと。何故だ?」
「風邪にかかったと、私は聞いています」
「だとしたら、奴は自宅にいるはずだ。後で向かうとするか」
「ご勝手に。ただ、行かれたとしても、会話は出来ないと思いますよ」
「どうしてだ?」
「倦怠感が酷く、食欲も無い。気持ち悪くて、何度も吐くのだと……」
「随分と詳しく知っているな」
「電話を受けた社員によれば、そう語っていたのだと……」

 熊谷は目の前に置かれた茶を一口飲むと、煙草のパッケージを取り出した。吸おうとしたが切れていたらしく、わざとらしいほどの舌打ちをした。

「どうぞ」
 鈴木は上着の内ポケットから、自分の煙草を取り出し、熊谷へ差し出した。

「何の真似だ?」
「吸われるのでしょ。まさか煙草一本ぐらいで、賄賂とか言わないですよね」
「言ったら、どうする?」
「ならば、引っ込めるだけですよ」

 熊谷は鈴木から視線を外さずに受け取ると、吸いだした。

「ところで、鈴木さんよ。アンタら、村山とは今でも揉めているらしいな」
「村山……?」
「下手くそな芝居もそれまでにしな。アンタが、虫唾が走るほど毛嫌いしている村山大義のことだよ」
「村山さん……、ああ、ムラヤマコーポレーションの社長さんですね」
「惚けるのもいい加減にしろよ。清水が誘拐するように指示された対象の爺さんが店長をしている風俗店を、運営しているのがその村山の会社なんだよ」
「なるほど。なかなか難しい事情のようだ」
「清水と共に指示された村山組の若い奴を問い詰め、その爺さんを誘拐しようとしたら、すでに自宅はもぬけの殻。神隠しにでも遭ったのか、以降は消息不明のままだ」
「誰かが、先回りして誘拐した。と、熊谷さんはお考えのようだ」
「なあ、鈴木さんよ。互いに、腹の探り合いは止めねえか」
「どういうことですかな?」
「アンタが他の部下に指示して、夏目の爺さんを誘拐させたのじゃねえのか」
「私が? まさか、とんでもない」
「否定するなら、否定すればいい。だがな、堅気の人間を誘拐して、挙句の果てに殺したとなれば、どうなるかアンタも理解しているはずだ」

 鈴木は表情をさらに険しくなり、前のめりに熊谷へ顔を近づけた。

「熊谷さん。それ以上、変な言いがかりをつけるのは止してもらいたい」
「おや、ようやく、本性を現したか」
「私らは何も知らない。いくら尋問されたとしても、そうとか答えられない」
「だろうな。否定することぐらい、想定していた」
「でしたら、何で?」
「さっきも言ったが、清水に指示したのは渡辺という男だ。その渡辺は村山組の構成員で、他にも清水同様に指示された野郎は何人かいる」
「だとしたら、何だと?」
「テメエの配下の人間が、まさか敵対している組織の人間と繋がりがあったとは、思ってもいないことだろ」
「まさか、熊谷さん。私が清水君を手にかけたと……」
「違うのか?」
「全く持って違います。とんだ濡れ衣だ」
「だとしたら、やはり奴の自宅に行って、生きているか確認しねえとな」
「熊谷さん。それは無駄です」
「何故だ?」
「奴は、自宅にはいません」

 熊谷はまだ火が付いたままの吸殻をガラスの灰皿へ捨てると、
「自宅にいねえだと。奴は、清水はどこだ……?」
 と、イラつくように問い詰めた。

「消えました」
「消えた、だと? 全く、どいつもこいつもクソみてえな嘘吐きやがって」
「本当です。私は清水が、去年の冬辺りから陰でウチの人間ではない別の誰かと動いているのを感づいていた。私は上納金さえ納めれば何をしても文句は言わなかったが、村山組と繋がりがあることだとは全く考えてもいないことだった」
「どうして奴が消えたことを知った?」
「昨日、奴のことを見かけたという情報提供タレコミがあり、急いで表にいる奴らに自宅へ向かわせたが、すでに消えていたんだ」
「風邪ひいたと、俺に嘘をついた理由は?」
「この会社には、貴方をここまで案内してきた受付の女の子のように、堅気の方々も働いており、彼らには怪しまれないように、そう伝えています」
「その嘘もたかが、三日か四日ぐらいしか持たねえだろうな」
「次には辞職をしたと伝えることにしています」
「最後に会ったのは、いつだ?」
「去年の年末。形だけだが、忘年会を開いた際、その場にいたことは憶えている。今年になってからは、一度も会っていないはずだ」
「表の連中は、どうだ?」
「さあ、そこまでは私も分からない。個人的に一人ずつ訊けばいい」
「いいだろ。そうさせてもらう」
「熊谷さん。申し訳ないが、そろそろ……」
「何だ、帰れってか。刑事相手に、偉そうじゃねえか」
「こう見えても、私は忙しい身なのでね」
「だとしたら、最後に聞かせてもらおう」
「何を、です?」
「村山組の渡辺に会ったことは、ねえのか」
「ありません。名前も先ほど初めて聞き、顔すら知らない相手だ」
「清水から渡辺の名前が出たことも?」
「恐らく、無いと思いますけどね」

 鈴木の態度から、渡辺と会ったことは本当に無いのだろうと熊谷は感じ取った。

「さあ、熊谷さん。これでお引き取りを……」
 無言で熊谷は立ちあがると、社長室のドアへ向かった。

「熊谷さん」
 鈴木から声をかけられ振り返ると、
「貴方に忠告は不要だと思うが、背中には気をつけたほうがいいですよ」
 と、言ってきた。

「お前、やはり俺を背後から襲う気か」
「私ではなく、別の誰かが……」
「フンッ。有難いご忠告だが、俺はいつでも死ぬ覚悟を持っている」
「そうですか。なら、いいですけどね……」

 鈴木の奥歯に物が挟まった口ぶりに、微かに苛立ちを覚えたが熊谷だが、返答することなく出て行った。

「失礼します」
 熊谷が立ち去ったのを見計らって、数人の配下の構成員たちが社長室に入ってきた。

「野郎、何か……?」
「清水のことを訊いてきた」
「何を探っているのでしょうか?」
「奴が村山組と繋がっていると、ほざいていった」
「村山と……」
「お前ら、あのクソデカよりも先に清水を探し出して、ここに連れて来い」
「へぇい」
「言っておくが連れて来るとき、殺すなよ」
「それは……」

 鈴木は先を言うことなく睨むと、
「失礼しました」
 と、配下の構成員たちは一礼して去った。その様子を見て、鈴木は苦虫を嚙み潰したような表情になった。
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