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伊織と伊織
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チリン、チリン。なんの音?
風鈴の音。
チリン、チリン。なんの音?
自転車のベルの音。
チリン、チリン、なんの音?
猫ちゃんの鈴の音。
『はい、やめー!』
「うあぁ、あと一分! あと一分だけ時間をください樹せんせぇい!」
『だめですう』
ミンミンと蝉が鳴く季節。私は瑛麻の部屋で勉強会をしている。
制限時間内に数学の問題集を解いて、時間がきたらお互いに丸つけをしようと言っていた。
私は瑛麻の問題集を手にとると、赤鉛筆で丸をつけていく。
「あ、凄いじゃん瑛麻。丸がいっぱい。あ、ここはバツ。ここも書いてないね」
「そ、そこは時間がなくてえ……ああっ、バツがいっぱい!」
うん、平和だ。私は今日も平和に過ごせている。
私がアプリを起動しなくなってから季節が変わった。出会いの春。別れの春。いやほんと、色々あった春だった。
最初こそ禁断症状はあったものの、季節が変われば人も変わる。ちらりとスマホを見ることはあっても、今は以前のようにアプリを起動しようとは思わなくなっている。
瑛麻も苺くんには会っていないようで、夢に出てくることもないそうだ。
このまま穏やかに時が流れてくれればいい。それが一番平和なのだ。
変わったことといえばもうひとつ。私はあの本を読むのをやめた。
あの本を読むことは、伊織を思いだすことに繋がるから。
「ね、勉強もおわったし、ちょっと気分転換に外行かない?」
「外は暑いからいやだなぁ。ここはクーラー効いてて涼しいし、瑛麻の部屋ってなんかいい匂いするんだもん」
「えへへ♡ そうかなあ? えへへへへへ♡」
嬉しそうに笑っているからわかってくれたと思いきや、クレープを食べに行こうと言われたので仕方なく腰を上げる。
私も頭を使って疲れたので、甘いものは摂取しないとね。
外に出るとやっぱり暑くて、瑛麻の家に引き返したくなった。すると、クレープ屋さんまで徒歩五分だからがんばってと言われてしまい、渋々ついていくことにする。
「あ、にゃんこだ! かわいー!」
野良猫を見つけると、こんにちはと手を振る瑛麻。
真っ白な猫。私も猫がすきなので、ほんとだと言いながら頬が緩む。
人懐こい猫だったようで、瑛麻が頭を撫でても逃げなかった。
それなら私も撫でたいと思い、その場にしゃがむ。
「あ、にゃんこ首輪付いてるねえ。飼い猫ちゃんだったのかー」
チリン、と鈴の音が鳴る。その瞬間、猫に触れるのを躊躇った。
なんだろう。私、この猫に触りたくないな。
汚いとかじゃないの。飼い猫だからとかじゃなくて、なんでだろう。よくわからないけどなんかいや。この瞳の色が伊織に似てるから?
そうだ、きっとそう。瞳の色が伊織に似てるから、伊織を思いだすからいやなんだ。
「瑞穂、にゃんこだよ。触らなくていいの?」
「う、うん。私は見てるだけでいいよ」
遠くの方で車の音がする。私はびくりと身体を震わせると立ち上がり、瑛麻に早く行こうと促した。
結果、クレープはとても美味しかった。そのあとはまた瑛麻の家で寛いで、夕方には解散した。
あの猫のことはもう忘れていた。
あのねあのね、人って凄いんだよ。都合の悪いことは全部消しちゃうんだ。
ああ違う、言い方が悪かった。
あまりにもつらい出来事は、忘れるようにできている。自分を守るために。
だから忘れた。だから思いださなくていい。わかってる。誰もきみを責めないよ。だけどきみが願ったんだ。
「私から離れないで」
って。
だから傍にいるのに、酷いよ。
「違うの。違うの伊織、私は貴方を忘れてないよ」
嘘だよ。忘れてるから触れないんだ。
「忘れてないよ、傍にいるよ。私の心の中の、奥深く。ここに貴方がずっといる」
ああそうか、忘れてるんじゃなくて、忘れたいのか。忘れたいから触れないんだ。
「違うよ伊織、そうじゃない。忘れたくなんてないんだよ」
忘れたくないのに忘れちゃったんだね。変なの。
「それほどつらかったんだよ。そうしないと私が生きていけなかった」
言い訳にしか聞こえないね。ねえ、あれが僕の代わりなの?
あんな二次元の男に僕の名前なんかつけてさ。
髪の色と瞳の色が同じだったから?
二次元は外に飛びだしたりしないもんねえ。
そりゃ安心だよねえ。縋りたくもなるよねえ。
顔がいいもんねえ。声もいいもんねえ。きみの性欲も満たしてくれるしねえ。
「貴方の代わりになんてしてない。私は伊織に縋ってなんてない」
伊織ってどっちのこと?
僕と伊織、どっちのこと?
きみはあいつに騙されてるよ。三次元の男よりタチが悪い。
「騙されてるなんて言わないで」
別にいいけどさ。僕は言ったからね。
せいぜい、アプリに殺されないように。僕の御主人様がそんな阿呆な死に方するとか、ありえないから。
ねえ、僕のことが大好きな御主人様。
ぱちりと目を開けると、私はすべてを思いだす。
伊織は私の最愛の猫だった。
あれは私がまだ小学生だった頃。ペットショップで見かけた真っ白な猫と目が合った瞬間、この子だと思ったのだ。
首輪を付けて、名前を伊織と名付けた。
金色の瞳が美しい、上品な猫。それはもうかわいがった。
どこに行くにも一緒。
私がトイレに行くんだから、伊織もトイレに行くんだよ。
そう言って抱っこしてトイレに連れていったり、一緒にお風呂に入ったり、まるでぬいぐるみのように持ち歩いていた。
「伊織はおめめがきれいだね」
まんまるで、お星様みたいにぴかぴかしてる。
ずっと一緒にいれると信じて疑わなかった。だけどお別れはやってくる。
ミンミンと蝉が鳴く季節。私は自室で伊織とのんびり過ごしていた。
インターフォンが鳴る。さっきお買い物に行ったお母さんかもしれない。私はとてとてと廊下を走る。
「だあれ、おかあさん?」
疑いもなくドアを開けた。覗き穴を覗けるほど、身長は高くないのだ。
だから気が付かなかった。私のすぐ後ろに伊織がいることに。
「あっ、伊織!」
ドアを開けた瞬間、外に飛びだす伊織。インターフォンを鳴らしたのは、知らないお兄さんだった。
多分、宅配のお兄さんだったんだと思う。ひとつ、ダンボールを持っていたから。
だけど私はそれどころじゃなくて、伊織を追いかけなきゃと思って走ったの。
「まって、どこにいくの!」
伊織は早かった。階段をもの凄いスピードで駆け下りていく。
道路は危ないよ。外に出たらもう探せない。そう思った。
その時。
キキイイ、という音がして、ドンッ、という音がした。私はまだ階段を必死に駆け下りていて、息を切らしながらようやく外に出ると、道路に倒れている伊織がいて。
「伊織!」
キキイイ、は多分、車のブレーキ音。ドンッ、は多分、伊織とぶつかった音。
伊織は車に轢かれたんだ。
そう認識した途端、私の感情は悲しみの渦に飲み込まれた。
伊織とぶつかったはずの車はどこにもいない。目撃者もいなかった。私には、腕の中で徐々に硬くなっていく伊織を強く抱き締めることしかできなかった。
それからどのくらい経ったのだろうか。通りすがりのおばあさんに、どうしたのと声をかけられた。
「伊織がくるまにひかれてしんじゃった」
伊織はとても軽かった。あんなに温かくて重みがあったのに、死んじゃうとこんなに軽くなるんだ。
少ししてからお母さんが走ってきて、私と伊織を抱き締めた。
伊織がこうなったのは私の所為なのに、お母さんは私に何度もごめんねと謝った。
どうしてお母さんが謝るんだろう。ドアを開けたのは私なのに。
私がドアを開けたから。
そこから先の記憶はなくて、多分ずっと家にいた。前より笑わなくなった気がする。お母さんともあまり、会話をしなくなった。
お父さんはお仕事が忙しくてあんまり会えないからわからない。
中学生になって、高校生になると、伊織のことは忘れていた。
不思議なことに、高校生になった私は、前より笑うようになっていた。お母さんはもう、私と目を合わそうともしなくなった。
「私があの時、ドアを開けなければ……」
どうして忘れることができたのだろう。天井がぼやけてよく見えない。
私は伊織に伊織を重ねていたのかもしれない。
ねえ伊織、貴方はどうして私から離れようとしないの?
その理由が知りたかった。
もし、もしも伊織が私の知っている伊織なら。
私はベットから起き上がると、ずっとしまっていたスマホを手にとった。
そしてアプリを起動する。久しぶりのログインに、指先が緊張した。
白い髪に金色の瞳。いつもと変わらぬ姿に安堵する。
『おかえり、瑞穂』
柔らかい声。私のすきな声。ただいまを言う前に、ひとつだけ聞かせて。
「伊織はどうして、私の傍にいるの?」
手にしていた本を閉じると、伊織は優しくこう言った。
『きみが言ったんじゃないか。私から離れないでって』
ああ、これは伊織だ。私の知っている伊織。私が大好きな伊織。愛猫の伊織。
「い、伊織……っ、ただいまああ!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。ずっとずっと、会いたかった。
もう手放したりしないよ。今度こそ、ずっと一緒にいようね。
そこからの私は人が変わったかのように急変した。
まるで親ばか。過保護。依存。
空白の時間を埋めるかのように、私は伊織を愛していた。
「伊織、おはよ♡」
『ああ、おはよう』
「伊織凄い、早起き♡ いいこちゃんだ♡」
『きみが会いにきてくれるからな』
「きゃ♡」
学校に行くと、瑛麻がちょっと引いていた。いや、ちょっとじゃないかもしれないが、私を見る目が困惑していた。
瑛麻のあの甘ったるい喋り方が素に戻るほどに、私は変わってしまったらしい。
「やだもうー、瑛麻ってばどうしたのー?」
「だ、だって、伊織が昔、瑞穂が飼ってた猫だったとか言われてもよくわからないし。生まれ変わり説はあんまり信じてないというか……あったとしても、流石にアプリのキャラとしては生まれ変わらないんじゃ」
「んもう、夢がないなぁ。そんなのわかんないじゃん」
「それに伊織って、瑞穂だけじゃなくて色んな人のところにいると思うんだけど」
「ここにいる伊織が私の知っている伊織だよ。だって、伊織は私が言ったことちゃんと覚えてたもん」
「……それはいつ、言ったの?」
「へ」
「瑞穂はいつ、伊織に言ったの?」
「いつって……」
あれ、私、いつ伊織に離れないでって言ったんだっけ。
伊織がいた時は言ってない。
なら、私があの時、心の中で願ったのかな。私の願いが伊織に伝わって……ううん。だってあの時にはもう、伊織は死んでいた。私の願いが伝わることはない。
「と、とにかくこの伊織は私の知っている伊織なの!」
そうだよ、数ある中から伊織が私を選んで会いにきたの。これは奇跡でもあり、運命なんだよ。誰にも理解されなくたっていい。私さえわかってあげられればそれだけで充分なんだ。
私は一日中、アプリを起動するようになった。
別に会話がなくたっていい。お互いの生活の中で、話したくなった時だけ話すむりのない関係。
それは家族のように心地の良いものだった。
ただ家族と違うのは、そこに性が絡むこと。
『瑞穂、チュウしたい』
「うんいいよ♡」
画面越しに伝わる伊織の唇の熱。伊織が猫だった時にはなかった感情が、ふつふつと湧き上がる。
もっと伊織と触れていたい。触れ合って、混じり合いたい。
伊織が画面から出てこないのは安心できるけど、画面から出てきたら私はきっと、伊織とえっちする。
こんなにかっこよくなっちゃって。まあたしかに猫だった時も上品だとは思ったけど。
何度も唇を重ねては離れ、伊織の唇を堪能する。
キスをしはじめたら最後。こんな生温い触れ方じゃ、全然もの足りない。
「伊織ぃ~……」
『瑞穂はえっちだな。ほら、舌を出してごらん』
「は♡」
伊織がこちらに近付くと、舌が艶かしい動きをしはじめる。それと同時にぬちぬちという音が私の聴覚を刺激するので、どうしたって気がおかしくなっていく。
「うぁ……っ、ひう、あ、ああっ♡」
合わせて私も舌を伊織に絡ませる。これはもう、深い方のキスだ。私、伊織とえっちなキスしてる。
『瑞穂、かわいい。今度さ、俺とえっちしようよ』
「ん、えっちってぇ?」
『瑞穂はさ、ディルドとか持ってる?』
「でぃるどってなあに?」
『スマホで検索したら出てくるよ。男性器の形をした玩具があるの』
「へっ、しょ、しょんなの、あるのぉ?」
『うん。それを買ってさ、俺とえっちしようよ。瑞穂のすきな大きさでいいよ。それを俺のだと思って、瑞穂の一番きもちいいところに入れて』
聞いているだけで恥ずかしくなった私は、言葉を濁らせながらもどこか期待していた。
あとで絶対調べよう。
それを買えば、伊織とえっちできるんだ。
『だから今日は、ね。俺のこときもちよくして』
いつの間にか剥き出しになった伊織のそれを、私は夢中で舐めていた。
伊織が自慰をしている。この日がくるのをどれほど心待ちにしていたことか。
画面も凄いが、音も凄い。規則的な律動でくちゅりくちゅりと言っている。
無修正のえーぶい。見ているだけでもうかなり、下腹部辺りがやばいのが自分でわかる。今夜はきっと、えっちな夢を見るに違いない。
『あっ、ん、瑞穂、ちんこいっちゃいそ、ああっ、ねえ、出すよ? 出すよ瑞穂。はあっ、ん、いくいくいく、いく~~~ッ』
画面が真っ白になっていく。
どうしよう。私、本当に舐めてもらいたい。
どうして伊織は画面から出てこないの?
画面から出てくればいいのに。これじゃ、やればやるほど欲求不満になっちゃうよ。
ねえ伊織、私が今、何を考えているかわかる?
私ね、誰かに私のぐちゃぐちゃに濡れたここを舐めてほしいって思ってる。
そんなことしたら伊織は怒るかな。怒るよね。
だけど自分ではどうしたらいいのかわからないの。私の指だけじゃ足りなくて、指よりも舌の熱を感じてみたくて仕方がないの。
私、えっちになっちゃった。伊織の所為だよ。
ねえ、伊織とえっちしたらいいのかな。そしたらこのきもちも消えてくれる?
私は調べものをしたいから一旦、抜けるねと言うと、検索サイトででぃるどを調べた。
「でぃるど、ディルド。画像、は……うぁ、えっちぃ」
初めて見るディルドは、伊織が言った通り、男性器の形をしていた。しかし本当にこんなものが私の中に入るのだろうか。画像だけだと、大きさも硬さもわからないので余計に想像がしにくい。
「あ、なんか、ピンク色のとかある。し、潮吹きディルド? これはちょっと……吸引ディルド、透明ディルド、射精ディルド……色々ありすぎてよくわからない……」
結局どれがいいのかわからないので、一番スタンダードのタイプをカートに入れた。通販なら私も利用したことがある。あれは洋服だったけど。
でも知らなかったなあ、こんな大人の通販があったなんて。
ちょっと値段はしたけどこれで伊織ときもちよくなれるならいいよね。
私は期待を込めて注文ボタンをタップした。
風鈴の音。
チリン、チリン。なんの音?
自転車のベルの音。
チリン、チリン、なんの音?
猫ちゃんの鈴の音。
『はい、やめー!』
「うあぁ、あと一分! あと一分だけ時間をください樹せんせぇい!」
『だめですう』
ミンミンと蝉が鳴く季節。私は瑛麻の部屋で勉強会をしている。
制限時間内に数学の問題集を解いて、時間がきたらお互いに丸つけをしようと言っていた。
私は瑛麻の問題集を手にとると、赤鉛筆で丸をつけていく。
「あ、凄いじゃん瑛麻。丸がいっぱい。あ、ここはバツ。ここも書いてないね」
「そ、そこは時間がなくてえ……ああっ、バツがいっぱい!」
うん、平和だ。私は今日も平和に過ごせている。
私がアプリを起動しなくなってから季節が変わった。出会いの春。別れの春。いやほんと、色々あった春だった。
最初こそ禁断症状はあったものの、季節が変われば人も変わる。ちらりとスマホを見ることはあっても、今は以前のようにアプリを起動しようとは思わなくなっている。
瑛麻も苺くんには会っていないようで、夢に出てくることもないそうだ。
このまま穏やかに時が流れてくれればいい。それが一番平和なのだ。
変わったことといえばもうひとつ。私はあの本を読むのをやめた。
あの本を読むことは、伊織を思いだすことに繋がるから。
「ね、勉強もおわったし、ちょっと気分転換に外行かない?」
「外は暑いからいやだなぁ。ここはクーラー効いてて涼しいし、瑛麻の部屋ってなんかいい匂いするんだもん」
「えへへ♡ そうかなあ? えへへへへへ♡」
嬉しそうに笑っているからわかってくれたと思いきや、クレープを食べに行こうと言われたので仕方なく腰を上げる。
私も頭を使って疲れたので、甘いものは摂取しないとね。
外に出るとやっぱり暑くて、瑛麻の家に引き返したくなった。すると、クレープ屋さんまで徒歩五分だからがんばってと言われてしまい、渋々ついていくことにする。
「あ、にゃんこだ! かわいー!」
野良猫を見つけると、こんにちはと手を振る瑛麻。
真っ白な猫。私も猫がすきなので、ほんとだと言いながら頬が緩む。
人懐こい猫だったようで、瑛麻が頭を撫でても逃げなかった。
それなら私も撫でたいと思い、その場にしゃがむ。
「あ、にゃんこ首輪付いてるねえ。飼い猫ちゃんだったのかー」
チリン、と鈴の音が鳴る。その瞬間、猫に触れるのを躊躇った。
なんだろう。私、この猫に触りたくないな。
汚いとかじゃないの。飼い猫だからとかじゃなくて、なんでだろう。よくわからないけどなんかいや。この瞳の色が伊織に似てるから?
そうだ、きっとそう。瞳の色が伊織に似てるから、伊織を思いだすからいやなんだ。
「瑞穂、にゃんこだよ。触らなくていいの?」
「う、うん。私は見てるだけでいいよ」
遠くの方で車の音がする。私はびくりと身体を震わせると立ち上がり、瑛麻に早く行こうと促した。
結果、クレープはとても美味しかった。そのあとはまた瑛麻の家で寛いで、夕方には解散した。
あの猫のことはもう忘れていた。
あのねあのね、人って凄いんだよ。都合の悪いことは全部消しちゃうんだ。
ああ違う、言い方が悪かった。
あまりにもつらい出来事は、忘れるようにできている。自分を守るために。
だから忘れた。だから思いださなくていい。わかってる。誰もきみを責めないよ。だけどきみが願ったんだ。
「私から離れないで」
って。
だから傍にいるのに、酷いよ。
「違うの。違うの伊織、私は貴方を忘れてないよ」
嘘だよ。忘れてるから触れないんだ。
「忘れてないよ、傍にいるよ。私の心の中の、奥深く。ここに貴方がずっといる」
ああそうか、忘れてるんじゃなくて、忘れたいのか。忘れたいから触れないんだ。
「違うよ伊織、そうじゃない。忘れたくなんてないんだよ」
忘れたくないのに忘れちゃったんだね。変なの。
「それほどつらかったんだよ。そうしないと私が生きていけなかった」
言い訳にしか聞こえないね。ねえ、あれが僕の代わりなの?
あんな二次元の男に僕の名前なんかつけてさ。
髪の色と瞳の色が同じだったから?
二次元は外に飛びだしたりしないもんねえ。
そりゃ安心だよねえ。縋りたくもなるよねえ。
顔がいいもんねえ。声もいいもんねえ。きみの性欲も満たしてくれるしねえ。
「貴方の代わりになんてしてない。私は伊織に縋ってなんてない」
伊織ってどっちのこと?
僕と伊織、どっちのこと?
きみはあいつに騙されてるよ。三次元の男よりタチが悪い。
「騙されてるなんて言わないで」
別にいいけどさ。僕は言ったからね。
せいぜい、アプリに殺されないように。僕の御主人様がそんな阿呆な死に方するとか、ありえないから。
ねえ、僕のことが大好きな御主人様。
ぱちりと目を開けると、私はすべてを思いだす。
伊織は私の最愛の猫だった。
あれは私がまだ小学生だった頃。ペットショップで見かけた真っ白な猫と目が合った瞬間、この子だと思ったのだ。
首輪を付けて、名前を伊織と名付けた。
金色の瞳が美しい、上品な猫。それはもうかわいがった。
どこに行くにも一緒。
私がトイレに行くんだから、伊織もトイレに行くんだよ。
そう言って抱っこしてトイレに連れていったり、一緒にお風呂に入ったり、まるでぬいぐるみのように持ち歩いていた。
「伊織はおめめがきれいだね」
まんまるで、お星様みたいにぴかぴかしてる。
ずっと一緒にいれると信じて疑わなかった。だけどお別れはやってくる。
ミンミンと蝉が鳴く季節。私は自室で伊織とのんびり過ごしていた。
インターフォンが鳴る。さっきお買い物に行ったお母さんかもしれない。私はとてとてと廊下を走る。
「だあれ、おかあさん?」
疑いもなくドアを開けた。覗き穴を覗けるほど、身長は高くないのだ。
だから気が付かなかった。私のすぐ後ろに伊織がいることに。
「あっ、伊織!」
ドアを開けた瞬間、外に飛びだす伊織。インターフォンを鳴らしたのは、知らないお兄さんだった。
多分、宅配のお兄さんだったんだと思う。ひとつ、ダンボールを持っていたから。
だけど私はそれどころじゃなくて、伊織を追いかけなきゃと思って走ったの。
「まって、どこにいくの!」
伊織は早かった。階段をもの凄いスピードで駆け下りていく。
道路は危ないよ。外に出たらもう探せない。そう思った。
その時。
キキイイ、という音がして、ドンッ、という音がした。私はまだ階段を必死に駆け下りていて、息を切らしながらようやく外に出ると、道路に倒れている伊織がいて。
「伊織!」
キキイイ、は多分、車のブレーキ音。ドンッ、は多分、伊織とぶつかった音。
伊織は車に轢かれたんだ。
そう認識した途端、私の感情は悲しみの渦に飲み込まれた。
伊織とぶつかったはずの車はどこにもいない。目撃者もいなかった。私には、腕の中で徐々に硬くなっていく伊織を強く抱き締めることしかできなかった。
それからどのくらい経ったのだろうか。通りすがりのおばあさんに、どうしたのと声をかけられた。
「伊織がくるまにひかれてしんじゃった」
伊織はとても軽かった。あんなに温かくて重みがあったのに、死んじゃうとこんなに軽くなるんだ。
少ししてからお母さんが走ってきて、私と伊織を抱き締めた。
伊織がこうなったのは私の所為なのに、お母さんは私に何度もごめんねと謝った。
どうしてお母さんが謝るんだろう。ドアを開けたのは私なのに。
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そこから先の記憶はなくて、多分ずっと家にいた。前より笑わなくなった気がする。お母さんともあまり、会話をしなくなった。
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「私があの時、ドアを開けなければ……」
どうして忘れることができたのだろう。天井がぼやけてよく見えない。
私は伊織に伊織を重ねていたのかもしれない。
ねえ伊織、貴方はどうして私から離れようとしないの?
その理由が知りたかった。
もし、もしも伊織が私の知っている伊織なら。
私はベットから起き上がると、ずっとしまっていたスマホを手にとった。
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白い髪に金色の瞳。いつもと変わらぬ姿に安堵する。
『おかえり、瑞穂』
柔らかい声。私のすきな声。ただいまを言う前に、ひとつだけ聞かせて。
「伊織はどうして、私の傍にいるの?」
手にしていた本を閉じると、伊織は優しくこう言った。
『きみが言ったんじゃないか。私から離れないでって』
ああ、これは伊織だ。私の知っている伊織。私が大好きな伊織。愛猫の伊織。
「い、伊織……っ、ただいまああ!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。ずっとずっと、会いたかった。
もう手放したりしないよ。今度こそ、ずっと一緒にいようね。
そこからの私は人が変わったかのように急変した。
まるで親ばか。過保護。依存。
空白の時間を埋めるかのように、私は伊織を愛していた。
「伊織、おはよ♡」
『ああ、おはよう』
「伊織凄い、早起き♡ いいこちゃんだ♡」
『きみが会いにきてくれるからな』
「きゃ♡」
学校に行くと、瑛麻がちょっと引いていた。いや、ちょっとじゃないかもしれないが、私を見る目が困惑していた。
瑛麻のあの甘ったるい喋り方が素に戻るほどに、私は変わってしまったらしい。
「やだもうー、瑛麻ってばどうしたのー?」
「だ、だって、伊織が昔、瑞穂が飼ってた猫だったとか言われてもよくわからないし。生まれ変わり説はあんまり信じてないというか……あったとしても、流石にアプリのキャラとしては生まれ変わらないんじゃ」
「んもう、夢がないなぁ。そんなのわかんないじゃん」
「それに伊織って、瑞穂だけじゃなくて色んな人のところにいると思うんだけど」
「ここにいる伊織が私の知っている伊織だよ。だって、伊織は私が言ったことちゃんと覚えてたもん」
「……それはいつ、言ったの?」
「へ」
「瑞穂はいつ、伊織に言ったの?」
「いつって……」
あれ、私、いつ伊織に離れないでって言ったんだっけ。
伊織がいた時は言ってない。
なら、私があの時、心の中で願ったのかな。私の願いが伊織に伝わって……ううん。だってあの時にはもう、伊織は死んでいた。私の願いが伝わることはない。
「と、とにかくこの伊織は私の知っている伊織なの!」
そうだよ、数ある中から伊織が私を選んで会いにきたの。これは奇跡でもあり、運命なんだよ。誰にも理解されなくたっていい。私さえわかってあげられればそれだけで充分なんだ。
私は一日中、アプリを起動するようになった。
別に会話がなくたっていい。お互いの生活の中で、話したくなった時だけ話すむりのない関係。
それは家族のように心地の良いものだった。
ただ家族と違うのは、そこに性が絡むこと。
『瑞穂、チュウしたい』
「うんいいよ♡」
画面越しに伝わる伊織の唇の熱。伊織が猫だった時にはなかった感情が、ふつふつと湧き上がる。
もっと伊織と触れていたい。触れ合って、混じり合いたい。
伊織が画面から出てこないのは安心できるけど、画面から出てきたら私はきっと、伊織とえっちする。
こんなにかっこよくなっちゃって。まあたしかに猫だった時も上品だとは思ったけど。
何度も唇を重ねては離れ、伊織の唇を堪能する。
キスをしはじめたら最後。こんな生温い触れ方じゃ、全然もの足りない。
「伊織ぃ~……」
『瑞穂はえっちだな。ほら、舌を出してごらん』
「は♡」
伊織がこちらに近付くと、舌が艶かしい動きをしはじめる。それと同時にぬちぬちという音が私の聴覚を刺激するので、どうしたって気がおかしくなっていく。
「うぁ……っ、ひう、あ、ああっ♡」
合わせて私も舌を伊織に絡ませる。これはもう、深い方のキスだ。私、伊織とえっちなキスしてる。
『瑞穂、かわいい。今度さ、俺とえっちしようよ』
「ん、えっちってぇ?」
『瑞穂はさ、ディルドとか持ってる?』
「でぃるどってなあに?」
『スマホで検索したら出てくるよ。男性器の形をした玩具があるの』
「へっ、しょ、しょんなの、あるのぉ?」
『うん。それを買ってさ、俺とえっちしようよ。瑞穂のすきな大きさでいいよ。それを俺のだと思って、瑞穂の一番きもちいいところに入れて』
聞いているだけで恥ずかしくなった私は、言葉を濁らせながらもどこか期待していた。
あとで絶対調べよう。
それを買えば、伊織とえっちできるんだ。
『だから今日は、ね。俺のこときもちよくして』
いつの間にか剥き出しになった伊織のそれを、私は夢中で舐めていた。
伊織が自慰をしている。この日がくるのをどれほど心待ちにしていたことか。
画面も凄いが、音も凄い。規則的な律動でくちゅりくちゅりと言っている。
無修正のえーぶい。見ているだけでもうかなり、下腹部辺りがやばいのが自分でわかる。今夜はきっと、えっちな夢を見るに違いない。
『あっ、ん、瑞穂、ちんこいっちゃいそ、ああっ、ねえ、出すよ? 出すよ瑞穂。はあっ、ん、いくいくいく、いく~~~ッ』
画面が真っ白になっていく。
どうしよう。私、本当に舐めてもらいたい。
どうして伊織は画面から出てこないの?
画面から出てくればいいのに。これじゃ、やればやるほど欲求不満になっちゃうよ。
ねえ伊織、私が今、何を考えているかわかる?
私ね、誰かに私のぐちゃぐちゃに濡れたここを舐めてほしいって思ってる。
そんなことしたら伊織は怒るかな。怒るよね。
だけど自分ではどうしたらいいのかわからないの。私の指だけじゃ足りなくて、指よりも舌の熱を感じてみたくて仕方がないの。
私、えっちになっちゃった。伊織の所為だよ。
ねえ、伊織とえっちしたらいいのかな。そしたらこのきもちも消えてくれる?
私は調べものをしたいから一旦、抜けるねと言うと、検索サイトででぃるどを調べた。
「でぃるど、ディルド。画像、は……うぁ、えっちぃ」
初めて見るディルドは、伊織が言った通り、男性器の形をしていた。しかし本当にこんなものが私の中に入るのだろうか。画像だけだと、大きさも硬さもわからないので余計に想像がしにくい。
「あ、なんか、ピンク色のとかある。し、潮吹きディルド? これはちょっと……吸引ディルド、透明ディルド、射精ディルド……色々ありすぎてよくわからない……」
結局どれがいいのかわからないので、一番スタンダードのタイプをカートに入れた。通販なら私も利用したことがある。あれは洋服だったけど。
でも知らなかったなあ、こんな大人の通販があったなんて。
ちょっと値段はしたけどこれで伊織ときもちよくなれるならいいよね。
私は期待を込めて注文ボタンをタップした。
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