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第九章 二人の場合
二人の場合①
しおりを挟むいつの間にか──サクラの花が散り、満開のピンク色だった景色が、新しい芽吹きとともに鮮やかな緑色に変わりゆく季節。昼間はだいぶ気温が高くなったが、夜はまだ少し肌寒さを感じる。
「それじゃ、日南子またねー!」
「うん、またね!」
久しぶりの休日、日南子は高校時代の友人と会い、その帰り迎えに来ると言った巽の車を駅のロータリーで待つ。
こうして彼が日南子を迎えに来てくれるのも今ではすっかり当たり前の事になった。
見慣れた車体に“くろかわ”の文字の入ったバンが、角を曲がってこちらにやって来るのを見つけて日南子はその車に駆け寄った。
「ごめん。遅れた」
「ううん? 私もいま着いたとこ」
巽がいつものように運転席から助手席のドアに手を伸ばし、日南子はそこに乗り込んでドアを閉める。
「二次会会場、決まったのか?」
「あ、うん。まだ。いくつか候補は上がったんだけど……」
再来月に迫った親友の緑の結婚式の為、久しぶりに仲の良かった高校の同級生たちと打ち合わせ。緑から余興その他諸々を頼まれ、親友として出来る限りの事をしてあげたいと思っている。
「いっそ。ウチでやるか? ──あ、でも狭いか流石に」
巽の言葉に、日南子は頭の中で考えを巡らせる。
「……いいかも」
「ん?」
「巽さんのほうで迷惑じゃなければ、それいいかも! 二次会は、本当に仲のいい友人だけでーってのが緑の理想で。人数的にもたぶん二十人ちょっと……多くても三十人行くかどうかって感じだと思うから」
「ああ。緑ちゃんが、いいってんならウチでも全然。そしたら、会場費とかかかんねー分、安く済むし、料理なんかも色つけてやれっけど」
「そしたら私もいろいろお手伝いできるし!」
「ああ。悪くないかもな」
低コストで、なおかつ手作り感満載の心のこもったお祝。日南子は巽の提案に目を輝かせた。
「ふふ。巽さんのお料理なら絶対美味しいし。みんなにも喜んで貰える!」
「ははっ。そこまで言ってくれんの日南子くらいだけどな」
「なんでー? 巽さんのお料理、本当に美味しいのに」
付き合い始めて早半年。相変わらずの頻度で“くろかわ”に通っているのは、何も巽が恋人だからだけではない。元々巽に惹かれたのは、彼の料理のほうが先だった。
「楽しみだなー」
日南子がふふ、と笑うと、巽がそれにつられたように微笑む。
「楽しそうだな、ホント」
「そりゃあもう! 親友の結婚式だもの! 長いことつきあってやっと、って感じだし」
これまでも、何人か友人の結婚式に出席したことはあったが、どこか他人事で、これほどまでに何かしたい、とか喜んで貰いたいとか考えることはあまりなかった。
「そんな長く付き合ってんのか? 緑ちゃんと彼」
「高校からだから、何年? もう十年近いかも」
「へぇ」
「ずっと見てたから。嬉しいの、本当に」
緑の結婚にここまで思い入れがあるのは、もちろん親友の幸せだからということもあるが、そこに自分と巽を重ねているからというのもある。
親友に幸せな結婚を望むのは、自分にもそれをしたいと思える巽の存在があるから。けれど、焦りはない。
巽が過去の事件から、そういう事に臆病になっているのは分かっているつもりだし、こうして傍にいることを許してくれている。それだけで満たされてもいる。
「そっか。んじゃ、頑張んねーとな」
「うん」
そうこうしているうちに、車は巽の店の裏側に停まった。車を降りると、巽が車のキーを弄びながら日南子を見た。明日は仕事が休みだ。ここで巽が「泊まってく?」と言ってくれるのを期待しながら彼を見つめ返す。
「──寄ってくか?」
「うん! 黙って帰されたら拗ねてやろうと思ってた」
そう言って悪戯な笑顔を向けると、巽が日南子の額にそっと触れた。
「それくらいで拗ねんな」
「だって。一緒にいたいって意志表示欲しいもん」
いまだ、自分ばかりが想いが強いようで、時折不安になることがある。元々、好きだなんだと、頻繁にその愛情を言葉にしてくれる相手でないだけに、信じていても不安にはなる。
言葉でなくても態度で示してくれてはいるが、こちらが好きになればなるほど、その想いが強くなればなるほど、相手にもそれを望んでしまう。
風呂上がりに髪を乾かし巽の部屋に上がると、階下からパタンと風呂場の扉を閉める音が聞こえた。日南子が出るのと入れ替わりに、巽が風呂に入った音だ。
こうして彼の部屋に泊まることにも最初の頃に比べれば随分慣れた気がする。
最初にこの部屋を訪れたときに、チェストの上に不自然に伏せられた写真立て。今思えば、それが誰の写真だったのか──聞くまでもないが、いつの間にかそれが片付けられていることに気づいたのはまだ付き合い始めて間もないころだったように思う。
巽にとって彼女はたぶん一生忘れることのできない存在。
たとえどんなに時が流れようとも。
だからこそ、彼をまるごと受け止めていきたい。ただ、そう思う。
巽のベッドに腰掛け、そのままゴロンと身体を横たえた。
彼の匂いのするベッドにこうしていると、まるでその身体を彼に包まれているようで幸せな気持ちになる。こんなにも心満たされるのは、日南子の心が身体がそれを求めているから。
ピロリン♪──ピロリン、ピロリン♪
部屋に響くLINEの着信音。ついさっき、友人たちに“くろかわ”での二次会案の提案をしたところ。たぶんその返信なのだろう、立て続けに鳴る着信音につい笑いが漏れる。
日南子はスマホを手に取り、そのメッセージを確認した。グループラインに友人たちからのメッセージやスタンプが賑やかに表示されている。
何人かでメッセージのやりとりをしていると、その都度着信音が鳴るので慌ただしいが、皆の会話をみているだけで笑ってしまう。
「──ふ」
「なーに、にやにやしてんだ?」
いつの間にか風呂から上がった巽が、部屋の襖を開けて笑っていた。
「もう。黙って見てないで声掛けて。恥ずかしいから」
「や。いま掛けたじゃん」
巽がこちらにやって来るとベッドに背中をあてて床に座った。ふわりと香るせっけんの香り。巽の髪がまだ濡れているが、最近髪を切ったばかり。じきに乾くだろう。
「さっきからLINEすげー鳴ってんじゃん」
「うん。友達にさっきの送ったら、みんないいよーって言ってくれて」
「はは、そっか。それなら良かったな」
「うん」
返事をすると巽がじっとこちらを見た。
「ん? なぁに?」
日南子が小首をかしげると、巽がまだ濡れた髪をワシワシと掻きながらボソッと何か呟いた。
「───だな」
そう言った巽の耳が気のせいか少し赤い。
「え? なぁに?」
「だーかーらー」
「ん?」
「……次は俺らだな、っつったんだよ」
次は──?
日南子はその言葉の意味を瞬時に理解して、ベッドの上に前かがみに座りなおして、巽の肩に手を置き、彼の顔を覗き込んだ。照れくさそうに顔を歪めた彼と視線を合わせると、彼の目が心なしか泳いだのに胸がギュッとなる。
「巽さん、今の……」
「───うん」
「……私、夢みてる?」
「何言ってんだよ。んなわけねぇだろ」
巽の言葉に頭が混乱する。
もちろん、それは日南子が一番望んでいたこと。彼を好きだと自覚して、一番初めに伝えた言葉が彼と「結婚したい」だった。なのにそれがリアルな響きを伴うとにわかに信じられないような気持ちになる。
「俺らも、しよ。結婚」
「……」
「なんつう顔してんだよ。──嫌か?」
自分は今どんな顔をしているのだろう。胸がギュウウとなり、身体の中に得体のしれない感情が湧きあがると同時に目頭が熱くなる。
「……嫌なわけない」
その言葉を待っていた。いつか、言ってもらえたらいいな。そう思っていた言葉がいま現実に。
巽がそっと日南子の手を取った。温かな手。もうずっと前から知っている。彼の手が温かいことは。この手があるだけで自分がどれだけ幸せな気持ちになれるのかも。
「……いいの? 私で」
「今更そこ?」
「だって」
本当に良かったのだろうか。巽の傍にいたいとその気持ちを伝え、一度は拒絶されながらも食い下がったのは日南子だ。いままで自分の気持ちばかりを押し付けて、無理に巽の気もちを動かしたのではないかと、心のどこかに不安があった。
巽は日南子を大事にしてくれているし、その気持ちがすべて偽りだとは思わない。けれど、本当に自分で良かったのか心のどこかに引っかかっていたのも事実。
「日南子じゃねぇとダメなんだっつうの。……他の誰でもなくさ」
巽が腕を伸ばして日南子を引き寄せた。
引き寄せられるままストンとベッドから落ちた日南子の身体を巽がふわりと受け止める。目の前で照れくさそうに笑う巽の顔をもっと見ていたいのに、それを込み上げてくる涙が邪魔をする。
「──結婚しよ。一生大事にするよ。誓う」
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