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第五章 青野日南子の場合
青野日南子の場合①
しおりを挟む仕事を終えて職場から駅へと向かう。職場は駅から真っ直ぐ北へと伸びた大通り沿いにあり、通りは営業中の店舗が立ち並び、ある程度の時間帯まで人通りも多く女性の独り歩きも比較的安全だ。
駅の構内にあるコーヒーショップを目指し、コツコツとパンプスを鳴らす。腕時計を見ると七時を少し過ぎたところ。待ち合わせの時間を十分ほど過ぎていることもあり、少し意識してその歩調を早めた。
「ごめん。お待たせ!」
「あはは、全然いいよ。お疲れー」
親友の月岡緑が日南子に気づいて顔を上げた。今夜は緑と仕事帰りに食事の約束をしていた。
「ごめんね。帰り際ちょっとトラブルあって……」
「いいよいいよ。アタシもゆっくりコーヒー飲めたし。で? どこ行くー? お腹すいた」
「うん、私も」
「アタシ、ガッツリ焼き肉とか食べたいんだけどー」
「いいよ。行っちゃう? 焼肉!」
「決まり!」
そう言って一緒に向かったのは駅からすぐ近くの百貨店のレストラン街。女性をターゲットにしたお洒落な店構えで、最近では女性のお一人様客も増えているとか。
店内は混み合ってはいたが、十五分ほど待っただけで席に案内された。
「飲んでいいよ。今日、佑ちゃん休みでお迎え頼んであるから。帰りちゃんと送ったげるし」
「いいのっ!?」
「日南子、ただでさえホワッとしてるのに一人で帰すとか心配だから」
「もう。信用ないなぁ……」
「だって。この間もいろいろあったんでしょー? 犯人捕まったとはいえ、怖いじゃん」
緑にはこの間の事件の事も話してある。緑がメニューを広げて日南子の方へ差し出した。
「とりあえず、私ビール。日南子は?」
「私も。ついでだから、このへんも頼んじゃおっか」
「おおっ。相変わらず食べる気満々~!」
「いーの!」
頬を膨らませたところに、ちょうど店員が通りかかり、緑が笑いながらオーダーを済ませてくれた。
「はい、乾~杯!」
運ばれてきたビールのグラスを重ね、二人同時に喉を鳴らす。
「ふぁ、」
日南子が口に付いた泡を拭うと、それを待っていたかのように緑がニヤ、と笑った。この微笑みにすでに嫌な予感がするのはたぶん気のせいではない。
「でー、日南ちゃん? 優良物件山吹を振って“くろかわ”のオッサンが気になっちゃってるっていう話は、その後どうなったわけー?」
やはり突っ込まれることは覚悟していたものの、会って早々この話題になるとは。日南子は緑に苦笑いを返す。
「……オッサンとか言わないで」
「ふふ。悪く言われたくないって? 日南子かわいいー!」
「もーうー!」
緑にはいつもこんなふうに弄られてしまう。
「なーんか、そんな気してたのよねぇ?」
「何がよ?」
「日南子、あんまり自覚なかったかもだけど、けっこう巽さんの話ばっかしてたから」
「え?」
「もしかしたらな──、ってちょっと思ってた程度だけどね」
気付かなかった。自覚ナシにそんなに彼の話をしてたとは。
「で? どうなってんの?」
「……どうもこうも。ちょっと強引に押し掛けて嫌われてないかって自己嫌悪中」
「え、何したのよ?」
緑がなぜか、楽しそうに身を乗り出して訊ねた。
「この間。巽さん風邪ひいてお店休んだの。……滅多にお店休んだりしない人だから、気になって電話したのね。そしたら凄く体調悪そうで──、心配になって巽さんのとこ押し掛けたの。……すぐ、帰ろうって……思ったのよ? でも思ったより辛そうで、私も勢いで押し掛けちゃったから変なスイッチ入って、無理矢理食事作って食べさせたり、揚句朝まで巽さんとこに……」
いろいろ思い出したらキリがないが、自分でも信じられないくらい大胆な行動をとっていた気がする。体調が悪い時にただの常連客という接点しかない他人に押し掛けられて、勝手に世話焼かれて──、普通に考えたら迷惑以外の何ものでもない。
「……どうしよう緑。私、嫌われたかなぁ?」
「いやいや、日南子。あんたが、それしたの? マジで⁉」
「……うん、マジです」
人に迷惑を掛けてはいけない。傷つけてはいけない。自分を押し付けてはいけない。若いころ教師をしていた父親から言われてきた言葉。そういうことをひととおり守って、自分の意見より人に合わせることを無理にではなく自然と身につけて、控えめに生きて来たはずだった。
なのにあの夜の自分ときたら、巽に会いたい、傍にいたい、少しでも役に立ちたい、そういう気持ちが根底にあったのだとしても、結局は自分の為。
自分が、彼の傍にいたいという欲求を抑えることができずに、それを巽に押し付けてしまった感が否めない。
「それ、向こうが迷惑とか言ったの?」
緑が運ばれてきたサラダに箸を伸ばす。
「……ううん? 言われてはないけど」
日南子もつられるように箸を伸ばし、取り皿にそれを盛る。
「じゃあ、問題なくない? 逆に良かったのかもよ?」
「え?」
「だって。人間弱ってる時に優しくされたら、なんかキュンと来ちゃったりしない?」
「……私はそういうのアリだけど、巽さんがそうとは限んないもん。それにそういうのって何かあざとくない?」
「確かに、計算でやってたらあざといけどー。日南子、そういうの一切出来ないじゃん」
「……う、」
一切、とか言われると、全く考えナシだと言われているような気がしなくもないが、確かに自分はそういう事を先に考えて動けるようなタイプではない。
「日南子の場合。普段消極的でいろいろ抑えちゃうとこあんだから、ちょっと押し過ぎかなって思うくらいでちょうどいいと思うけど?」
「……」
「──なんか、意外ね。日南子がそういうことするなんて」
「……だって、好きになっちゃったんだもん。こういうの初めてなんだもん」
「お。はっきり言ったな?」
あの時、思ったのだ。
巽が夜中にうなされて、苦しそうに顔を歪めていたとき。必死に何かにすがろうと手を伸ばした彼の手を掴むのは自分でありたいと。
誰かを守りたいとか、傍を離れたくないとか、何かをしてあげたいとか、そんなことを本気で思ったのは生まれて初めての事だった。
「日南子真っ直ぐだから、そういうの自覚できたんなら強いと思うよ?」
緑がテーブルにセットされた網の上に、肉を乗せながら言った。ジュワワ、と網の上で肉が躍るとともに煙が上がる。
「真剣な想いは、きっと伝わるから」
「……そ、なのかな」
「本気で誰か好きになるってそういう事じゃん。人を想うって、相手の心を考えるって書いて“想う”でしょう?
結果がどうであれ、好きな人の為に何かしたいとか……そういう“想う”気持ちはちゃんと届くと思う」
「……うん」
「頑張んな、日南子。もし振られても、アタシが盛大に元気づけてあげるから」
「もう、酷いなぁ! 私、振られるの前提なの?」
「いや。前提ってわけじゃないけどー! ……ほら、巽さんあの歳まで一人だった人でしょう? 日南子とは歳の差もけっこうあるし、あんたがよくても向こうに何か事情あんのかなー、って」
緑の言うように、歳の差だけでなく、彼の部屋のチェストの上の伏せられた写真立て、彼にとっての忘れられない恋。気がかりな事は確かにある。
「うん。……でも、頑張る」
好きになってしまったから。
恋愛も結婚も、そこそこの条件が合えば誰でもいいってわけではない。本当に誰かを好きになったのなら、その人にしかアンテナは伸びて行かない。
他の誰かじゃダメなのだ。その人でなければ──。
「とりあえず、食べよ食べよー!」
「うん!」
「はい、日南子。たくさん食べな。食べないと恋愛パワーも出ないから、あんたの場合」
「……もう! 何でも食い気で成り立ってるみたいに言わないでー」
「え? 違ったの?」
「……そこは強く否定できないけど」
「日南子が巽さん好きなのも、結局は彼のご飯が好き、ってとこから来てんでしょ、どうせ」
何から何まで否定できないのがちょっと悔しい。と思いながら緑が焼いてくれた肉を口に入れる。
「んー! 美味しいっ!」
くーっ、と満足げに頬を緩めると緑がふっ、と小さく吹き出す。
「日南子が何でも美味しそうに食べるから、あんたとご飯食べてると、つられてこっちまで食べすぎちゃう」
「ふふ。いいことじゃない? 私も緑とご飯食べるの好きだよ」
緑も食べるのが好きで、わりと何でも美味しそうに食べるタイプだ。性格は正反対だけど、食べ物の好みや物の考え方なんかは似ていて、そういうところが気が合うところ。
「全く、その細っそい身体のどこに入るんだかねー」
「ふふ」
「なんか、アレよね……。踏み込むきっかけ作んないと、このまま店主と常連客で終わりそう」
的確かつ冷静な緑の言葉に、日南子は口の中いっぱいの肉をゴクンと飲み込んだ。
「それ、困る」
「何かアプローチしなよ。それこそ二人でどっか出かけるとか」
「……デートって事?」
「まぁ。なんか口実作って誘いだすとかできないの? ただあんたが店に通いつめてるだけで進展すると思う?」
「そりゃ、そうだけど」
「ていうかね! 食べてばっかいないで少しは考えな!」
「あ。このへん焼けてる。食べないと焦げちゃうよ?」
「──もう! あんたは……」
緑が呆れたように日南子を見る。でもその目は決して本気で怒っているふうではなくて、瞳の奥は優しい。
「いっそ、直球で好きって言っちゃえば? それ一番手っ取り早いんじゃない」
「それハードル高すぎるよ……」
「じゃあ、何か考えなよ」
「……う、」
学生時代の恋って、もっといろいろシンプルだった。好きだな、って思っても見てるだけで満足だったり、逆にストレートに好きって言えたり。
大人の恋はちょっと複雑。それなりにいろんな経験をしてきたからこそ、慎重になる。
好きだなんて言って迷惑がられたら? いままでみたいに付きあえなくなったら? それだけじゃない。もっと先の事まで考える。
ただ、傍にいたい。──気持ちだけならこんなにもシンプルなのに。
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