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涼暮つき

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第三章 青野日南子の場合

青野日南子の場合④

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 夏休み第一弾のセールは、大賑わいだった。客層のほとんどは小学生で夏休みに課された宿題の類に必要な画用紙、画材、自由研究キットなどが飛ぶように売れて行った。
 夏休みのセールは毎週末行われ、このあと第二弾、第三弾が控えている。目の回るような忙しさの中、一日仕事をこなし日南子はようやく家路についた。
「あー、お腹すいた……」
 疲労困憊なこんな時、恋しくなるのが“くろかわ”の食事。思考が欲求に直結しているかのようにお腹がキュルルンと鳴る。日南子はバスを降りると、迷うことなくバス停前のお目当ての店“くろかわ”の暖簾をくぐった。
「こんばんはー」
「あ! 青野さんいらっしゃい」
「おー。おかえりー」
 いつもと変わらない日南子を迎えてくれる声。この声だけでほっとする。
「あら、青ちゃん。お久しぶりねぇー」
「わー! ふく子さんっ!」
 厨房からニコニコと笑いながら出て来た懐かしい顔に日南子は思わず飛び上がった。ふく子さんとは、巽の母親。いわゆるこの店の先代だ。日南子がこの店に通うようになったきっかけというのが、このふく子との出会いだった。
 初めて店を訪れた時から、何かと日南子を気遣ってくれたふく子は、日南子にとって第二の母のような存在だ。
「お久しぶりです! 元気でしたー?」
「ほほほ。元気よォー。久しぶりに顔出したけど、相変わらず通ってくれてるのねぇ」
「うわー、嬉しい! 会いたかったー!」
 店を巽に任せるようになってからも、先代夫婦は時折店を覗きにやって来る。昔からの常連客もそれを楽しみにしているところがある。長い間、この地でこの店を切り盛りしてきた二人が繋げて来た人と人との関わりは、今もこの店と客を繋いでいるのだ。
「ふふ。ちょくちょく来てはいるんだけどねぇ」
「今日、おじさんは?」
「タケさんとこ。調子に乗って飲んでそうだから、店閉めたら巽に迎えに行ってもらおうと思ってるのよ」
 そう言って笑ったふく子の言葉につられるように日南子も「ふふ」と笑い返した。

   *

 久しぶりに会ったふく子とお喋りをしながら日南子はとても楽しい食事の時間を過ごした。懐かしい時間。まだ巽が正式に店を譲り受ける前、見習い期間に親子三人で店を切り盛りしていた頃を思い出した。
 たった二年ほど前のことだが、もう随分昔のことのように感じるのは、巽が“くろかわ”の店主であることがいつの間にか日南子にとって当たり前の光景になっているからかもしれない。
「はー。お腹いっぱい。ご馳走様でした」
 日南子がそう言って満足げに小さく手を合わせると、ふく子が嬉しそうに笑う。
「いいわねぇ、青ちゃんのその顔」
「えー? どんな顔ですか」
「その。幸せそうな顔よ」
「ふふ。だって、ここのご飯、いつ食べても美味しいんですもん」
 何と言っても週に二度という頻度で顔を出しても飽きない味。幼いころから慣れ親しんだ母親の味に飽きないのと同じように、ここの食事は日南子の胃袋を温かく満たす。日曜の夜ということもあって、食事を終えた客が次々と店を後にするなか、日南子は少し時計を気にしながらも、腰を上げるのを躊躇していた。
 あともう少しだけここにいたい──。この店は日南子にとってそう思わずにはいられない場所だ。
「嬉しいわねぇ、そう言ってもらえると」
「私、ここん家の子になりたいくらいです」
 食後にふく子が淹れてくれた玄米茶を飲みながら言うと、ふく子が日南子を見て楽しそうに笑った。
「あら。なっちゃえばいいじゃない。ねぇ、巽」
「──は、」
 急に話を振られた巽が、その意味を測りかねてか眉を寄せる。
「なーに言ってんだ。こんなデカイ子供いらねーっつの」
「あら、やだ違うわよ! お嫁に来ちゃえば──、って話」
「──はぁっ?!」「──え、」
 冗談とも本気ともつかぬふく子の言葉に、巽と日南子の口から思わず漏れた驚きの声はほぼ同時だった。
「何言ってんだよ。そんなんありえねーっつの」
 巽が呆れたようにふく子に言った。日南子は言葉を挟むタイミングを逃し、ただ唖然としたまま二人のやりとりを見つめる。
「あら、なんでよ? 確かにちょっと歳離れてるけど、今どきひとまわりくらいの歳の差なんてことないでしょうに」
「……あのな。歳の問題じゃねぇだろ。そもそも結婚っつーのは、そう簡単なもんじゃねーだろ?」
「簡単じゃないけど、難しいこともないわよ? 昔は相手の顔も知らない人と結婚してたくらいだし」
「それこそ、いつの時代の話だっての」
「いいじゃないのよー。私、青ちゃんがお嫁に来てくれたら言うことないわぁ」
「ほら。あまりにもとんでもねーこと言うからこっち固まってんだろが」
 そう言った巽が日南子を見、そこからワンテンポ遅れる形でふく子がこちらを見る。
「あ、あのっ……」
 どう答えていいか分からず、おろおろする日南子に巽があっさりと言った。
「ああ。気にすんなよ? お袋の妄想だからな」
「あら。妄想とは失礼ねぇ。いつまでも一人身でいる息子の心配して何が悪いのよ」
「余計なお世話だっつーんだよ。子供じゃねぇんだから」
「何言ってんのよ。いい歳した大人だから心配してんのよ」
「そこは、ほっとけって」
 なんだか懐かしいやり取り。巽がまだこの店を継ぐ前、親子三人で店に出ていた頃を思い出す。昔からのやり方を守ろうとする親と、新しいことを取り入れようとする巽との間で、いつも賑やかな言い合いが繰り広げられていた。
 他人ながらいい親子関係だと、微笑ましく思ったものだ。
「青ちゃん。冗談抜きに、どぉ? ちょおーっと歳くってるけど性格は悪くないと思うわよ」
 再び訊ねられて日南子はまた言葉に詰まる。
 考えたこともなかった。巽とどうこうなどということ。恋しくて通いつめてしまうほど彼の料理や人柄を好ましく思っているのに。冷静に考えてみると、そういう対象として見たこともなかったことのほうが不自然にさえ思える。
「だから、しつけーんだよ。……だいたい青ちゃん彼氏いるしな」
「ええっ、そうなの⁉」
 ふく子が驚いて日南子を見た。
「……はい。一応」
「あらあらあら! それは残念……」
「そこは、ザンネンじゃなくて“おめでとう”だろ?」
 巽にたしなめられて、ふく子が日南子を見つめ、ふふ、と肩を竦めた。

「──っと! そろそろ親父迎えに行って来っかー」
 巽が店の壁に掛けられた時計を見ながら言った。日南子もつられる様に腕時計を確認しながら腰を上げたのは閉店時間をとっくに過ぎていたからだ。この店の居心地の良さは時に厄介だ。図らずもつい長居をしてしまう。
「じゃあ、私もそろそろ……」
「あらやだ、青ちゃん。お父さん来るまで居てやってよ。迎えって言ってもすぐ近所だから」
 そう言いながらふく子が何かを思い出したようにパン、と胸の前で手を打った。そのすきに巽がカラカラ……と格子戸を開けて外に出て行く。
「そぉだ! 青ちゃん、とうもろこし好き?」
「……え、あ、はい。好きですけど」
「うちで作ったやつがあんのよー! 少ないけど持ってってよ! ちょおっと待ってねー、裏から持ってくるから」
「あ、……はい」
 以前、巽から聞いたことがある。ふく子たちが隣町の共同農園で近所の人たちと野菜作りなどを楽しんでいるらしいと。店は巽に譲ったとはいえ、二人ともまだまだ若いし体力もある。別の楽しみを見つけ、それに時間を費やすことを巽も喜んでいるようだった。
「見て見て」
 いそいそと裏口から戻ってきたふく子がビニール袋に入ったとうもろこしを自慢げに日南子の目の前に差し出した。
「うわ。大きいー!」
「ミニトマトもちょっとあるから」
「これ、頂いちゃっていいんですか?」
「うん。少しで悪いけどお裾分けよ」
「ありがとうございます」
 そうこうしているうちに再びカラカラ……と格子戸が開き、巽が父親である繁さんの腕を引きながら戻ってきた。 そうしているのはたぶん繁が酒に酔っているから。顔の赤みの加減とテンション高めの声色からある程度の飲酒量であることが窺える。
しげるおじさん、こんばんは」
 日南子はほんの少し姿勢を正して繁に挨拶をした。
「おー! 青ちゃんかぁ! 元気かぁー?」
「ふふ、お久しぶりです。相変わらずですよ」
 久しぶりに見る懐かしい顔に、自然と日南子の表情も緩む。ほんの一瞬巽と目が合って、お互い小さく笑った。
「お父さん。だいぶ飲んだわねー?」
「んあー? ──んなこたねぇよ」
「これじゃお風呂は無理だわね。このまま二階連れてって寝かせるわ」
「部屋、布団敷いてある。……つか、上まで運ぶか?」
「平気よ、歩けないわけじゃなし。それよりあんた、青ちゃん送ってやんなさいよ」
「ああ。そうだな」
 ふく子の言葉にそう返事をした巽が日南子を見た。
「や、私はいいですよ? 家近いですし!」
 思わず遠慮したのは、ここのところ何かと巽に家まで送って貰うことが増えているから。近所に住む常連客というだけで巽にそこまでしてもらう理由はない。
「青ちゃん。遠慮しなくていいのよ。このあたり最近いろいろ物騒だっていうじゃない」
「──え?」
「知らねえの? ここ半年くらい、暗がりで女性が男に後ろから抱きつかれたり身体触られたりって事件多発してただろ? 最近、この近くでも被害者出たって聞いたぜ」
「……そうなんですか」
 確かにそれらについて全く知らなかったというわけではないが、市内でもここからは離れた場所であったためそこまで神経を尖らせていたわけではなかった。
「気をつけるに越したことねぇよ」
 巽に手間を掛けさせてしまうのは申し訳ないが、そんな話を聞いたあとではさすがにその申し出を断るわけにもいかない。
 そこでやっと気付いた。
 ここ最近、巽が日南子を送ってくれていたのにはきっとそうした理由があったのだ。自分の知り合いがそんな被害に遭う可能性があるのだとしたら、日南子だって最大限気を配りたいと思うし、巽がそうする理由も納得できる。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「だから、そんな申し訳なさそうな顔すんなって」
 巽が眼鏡のブリッジを押さえ、白い歯を見せて笑う。
「んじゃ、ちょい行ってくるわ」
「うん、お願い。青ちゃん、またね」
「はい。今日は楽しかったです。いろいろご馳走様でした」
「また、お裾分けするわねー」
「またな、青ちゃん」
 繁とふく子に小さく頭を下げ微笑んだ。
「おやすみなさい」
 仕事用のバックを肩に掛け、先程ふく子に貰った野菜の入ったビニール袋を提げ、日南子は一足先に店を出た巽の後を追うように慌てて店を出た。





  
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