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記憶編
満生台に生きた魂魄の軌跡⑫
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久礼羊子――旧姓、大宮羊子と久礼貴獅との出会いは存外何もメロドラマ染みたところのない、いわゆるお見合いの場でのことだった。現代ではもうあまりお目にかからない形式ではあるものの、両家とも見合い相手を探し、親の決定によって引き合わされたのが羊子と貴獅だったのである。
大宮家は、父親が有名商社の部長を務めており、郊外に総工費一億円超の邸宅を構えるような、裕福な一家であった。母と父、兄と羊子の四人暮らしであり、幼い頃から羊子は家族に可愛がられて育った。
ただ、基本的に勉強も運動事も、兄の羊大の方が得意であり、羊子も決して成績が悪いというわけではなかったのだが、羊大はお前と同じ歳でもっと成績が良かったんだぞと比べられることがしばしばだった。
兄妹間で比較されてしまうことを、同じ経験のある者は苦い思い出だと感じることだろうが、羊子の場合それはエールなのだと純粋に受け止められていた。基本的に彼女は楽観的というかポジティブシンキングであり、多少の嫌味ならそうと感じずにやり過ごせる性格をしていたのだ。彼女にとって、それは幸いなことだっただろう。
また、兄も妹のことを決して悪し様にはしなかった。羊子は羊子で、自分にしか出来ないことがちゃんとある。人とはそういうものだからと、いつもそう言い聞かせてくれていた。良き人格者だったのだ。
そんな兄は、苦労の末に父と同じ商社へ無事就職し、出世街道を進んでいくことになる。一方の羊子はと言うと、兄が大宮家で求められる役割を果たしてくれたため、自由でいられることが出来、では自分のやりたいことは何なのだろうと色々なことに挑戦していた。
高校を卒業した羊子は、大学には行かなかった。ある時は英会話を習い、ある時は名の知れた料理店で食を学び……そして気が向けば日本の名所、或いは海外にも足を向けて観光したりということもあった。
旅行の資金は全て自身の稼ぎで賄っていたが、実のところ羊子の生活は両親に保証されているといっても過言ではなく、彼女は成人した際に両親から定期預金をポンとプレゼントされていた。通帳に記載された金額を見た洋子は、そのときばかりは流石に驚いた。一千万円という大金が羊子名義で預けられていたのだから。
こうした事情もあって彼女は経済的に大きな余裕があったわけだが、なるべくならばそのお金には手を付けず、自分で生き、自分でやりたいことを見つけたい、という意思を持って暮らしていたのである。両親も、幾分心配はしていたものの、悩んだ末にちゃんと自分なりの生き方を見つけられるならばとしばらくは羊子の好きなようにさせようと考えていた。
ただ、両親はいつまでも放浪を認めるわけではなく、期限を決めていた。卒業してから三年間でやりたいことを見つけなさいと。若さもまたステータスなのだから、やりたいことが見つからずにただ歳を重ねていくのは勿体ないのだと。
その言いつけは覚えていたものの、結局のところ羊子は、三年の間にこれだと思う生き方を見つけられなかった。広く浅く知識や技術を身に付けたとはいえ、それらを活かす道を行こうとまでは思えなかったのである。
というわけで、自分で道を選べなかった羊子は、両親から道を提示されたのだ。
つまり、見合い相手を紹介されたのだった。
この見合いも、始めから貴獅と出会えたわけではない。幾度か見合いの場を設け、気になった相手と話はしてみたものの、羊子の琴線に触れるような人物は現れなかった。
貴獅の番がやって来たのは、四度目の見合いのときだ。
第一印象としては、他に会ってきた男性と変わらない――むしろ少し物静かで地味な人と感じるような程度だった。
ただ、ややぎこちない会話の中で、貴獅の持つ朴訥さというか、静かな中にもしっかりと芯の通った考え方をする人だというのが伝わってきて、彼のことが何となく気になり始めたのだ。
決して職業が医師だからとか、家系もそうだったとかは関係なく、久礼貴獅という男が純粋に気になった。
二度目を約束したのは貴獅が初めてだった。
以降、二人は時折約束をして、夕食を共にするようになった。相変わらず口数は少なく、いつもくたびれた様子の貴獅だったが、それは仕事の疲れからくるもののようで、疲労を押して食事を一緒にとってくれる彼の誠実さを羊子は嬉しく思ったし、支えられたらと思うようにもなっていった。
貴獅の方も、裏表がなく朗らかな羊子の性格にどこか救われるような気持ちを持ったというのは、後で聞いた話なのだが。
違うようでどこか波長の合う、そんな二人はゆっくりとしたスピードで歩み寄り、そして一年の交際を経て結婚することになった。見合いがきっかけだったため互いの両親はもちろん反対などしなかったし、式などのイベントを順調にこなし、二人は晴れて一緒に暮らし始めた。時に、一九八九年のことだった。
家計は貴獅の稼ぎだけで十分だったので、羊子は身に付けた技術で貴獅を献身的にサポートした。家事はきっちりこなしたし、食事は栄養バランスの良いものを毎日考えて用意した。どれだけ帰りが遅くなろうとも貴獅を待っていたし、別にそれらは羊子にとって苦ではなかった。
ここに至って彼女は、夫を支える専業主婦というのが一番自分に合っていたのかもしれない、と思うのであった。
結婚してから、二人は子どもについて考えるようになった。実のところ、貴獅も羊子も結婚自体を親の勧めがきっかけでしているために自主性がなく、子を持つかどうかについて今まで考えたことがなかったのだ。とは言え、ずっと二人で生きていくのも寂しくなるかもしれないし、せめて一人くらいは育てたい……ということで最終的に二人の意見は一致したのだった。
二人の両親も子どもの誕生には期待していた。早く孫の顔が見たいというのが二人と会うときの口癖だった。然しながら、どちらに問題があったのかは追及しなかったものの、二人の間には中々子どもが出来ず、そのまま六年以上の歳月が経過してしまったのである。
不妊治療を、という考えも過った一九九五年、彼らはようやく子宝に恵まれほっと胸を撫で下ろした。こうして翌年、二人の間に生まれたのが満雀なのだった。
お互い子どもがとても好きだというわけでは無かったし、始めのうちは戸惑いながらの子育てであった。けれども、やはり親というのはなっていくものであり、二人とも次第に満雀を可愛がるようになっていった。日々が忙しくとも愛娘のために時間を作り、一緒に遊んだり外出してあげたりと、彼女の笑顔のために奮闘するのだった。
「……まさか自分がこんなに子煩悩だとは」
貴獅がいつか、そんなことを羊子に零したことがある。
それに対し羊子は、
「私も同じ気持ちですよ。やっぱり、似てるんですかね」
「さて……まあ、上手く行っているのは確かか」
「ええ、そうですね」
幸せに生きられている……羊子は心からそう思っていた。
そしてそれが、夫も娘も同じであるようにと、願っていた。
満雀が小学校へ入学するまでの六年間、久礼家には特に大きな問題は起きなかった。順風満帆に全てが進み、満ち足りた暮らしが出来ていたといっていいだろう。
それが変調の兆しを見せたのは、満雀が八歳のとき……ちょうど貴獅が杜村双太、早乙女優亜の二人と出会う直前のことだった。
満雀の身体機能の低下。彼女はいつの間にか、何をするにも体が重く、思ったように動けないようになってきているのだと両親に訴えた。それから何日か娘を休ませ、体調の回復がみられないため近場の病院で検査をしてもらい……それでも原因がハッキリ分からないということで、貴獅が自分の勤める大病院で診てもらおうと提案するに至った。奇しくもこの流れは、牛牧高成が息子の病気について知ったときと全く同じ展開なのだった。
ALSという病名を聞き、貴獅も羊子も一瞬にして絶望のどん底に突き落とされた。現代医療では治療不可能、どれだけ足掻こうとも病の進行を遅らせることくらいしか出来ないという、希望無き宣告であった。
まだ八歳の娘には真実を語るべきかどうか。悲しみの中二人は、その選択についても悩まねばならなかった。ただ、満雀はあまりにも若すぎる。今はまだ到底自身に降りかかった病について受け止め切れないだろうと思い、曖昧なままにしておくことを決めたのだった。
ALSの宣告を受けてから、貴獅は人が変わったようにこの病について調べ、医師として出来ることはないかとあらゆる方法を検討した。しかし、それが実を結ぶようなことは無く、全てが徒労に終わる虚しさが彼を更に苦しめるだけだった。
羊子は、そんな夫をサポートするしかない自分にもどかしさを感じてばかりいた。けれども、彼女にはそれくらいしか出来なかった。医学という世界は流石の彼女にも未知の分野だったのだから。
満雀を蝕むALSは、二人の努力とは裏腹に、着実に進行していった。
一年が経つ頃にはもう、彼女は自力で車椅子に乗ることも難しくなっていた。
これ以上の隠し立ても困難であり、このときに羊子は貴獅と相談の上、病について満雀へ伝えたのだった。
その全てを九歳に過ぎない満雀が全て理解できたかは、分からなかったが。
羊子が貴獅へ違和感を抱き始めたのは、その後すぐのことだった。
夜遅くまで部屋に引きこもり、何やら調べものをしているのは以前からだったが、それに加えて帰りが遅くなることが増えた。満雀のために勤務時間を短縮させてもらったり、見舞の時間を作ってもらったりと、病院側が配慮してくれていたのでそれまで帰宅は早めだったのだ。それとなく理由を聞いても忙しくなったからだとしか答えてくれず、互いの気持ちがすれ違ってきていると感じるようになっていた。
この間、貴獅はGHOSTについて知り、組織へ入ることで満雀の病に光明を与えたいと考えていたことは、既に知るところだろう。羊子は、彼のそんな思いを知らなかった。否、知らされなかったのだ。こんな世界のことを彼女が知る必要はない、という貴獅なりの優しさだった。
そして――二〇〇八年。WAWプログラムに沿って、久礼家は満生台へと移住することになる。何も知らされていなかった羊子、それに満雀も驚いたが、貴獅の決定に異を唱えるわけにもいかず、大人しくついて行くしかなかった。
……結局羊子は、この後計画が完遂を迎える二〇一二八月二日まで、貴獅からその詳細について何ら知らされることはなく。
満雀に対する奇怪とも思える貴獅の処置に、困惑するばかりの日々を送ったのだが。
最後の二週間、彼女は狂いゆく世界に反抗するように、或いは流されてばかりいたこれまでの人生に反抗するように、己の奥底にあるものに突き動かされるまま戦った。
母として、満雀を守る……その意思によって、虎牙の元へWAWプログラムの計画書を託すことに成功したのである。
自身がどこかで、貴獅の計画に気付いて彼が悪しき道に足を踏み入れるのを止められていたらと、彼女は今でも思う。
けれど、誰にも譲れないものはあり、夫の――貴獅の思いはやはり強かったのだろうとも思っている。
己の力不足を情けなくは感じつつも。
彼女は何もかもが過ぎ去ってしまった今、これだけを切に願っていた。
私たちの愛しい娘。
どうか満雀よ、せめて貴方だけは、幸せな道を歩んでおくれ――。
大宮家は、父親が有名商社の部長を務めており、郊外に総工費一億円超の邸宅を構えるような、裕福な一家であった。母と父、兄と羊子の四人暮らしであり、幼い頃から羊子は家族に可愛がられて育った。
ただ、基本的に勉強も運動事も、兄の羊大の方が得意であり、羊子も決して成績が悪いというわけではなかったのだが、羊大はお前と同じ歳でもっと成績が良かったんだぞと比べられることがしばしばだった。
兄妹間で比較されてしまうことを、同じ経験のある者は苦い思い出だと感じることだろうが、羊子の場合それはエールなのだと純粋に受け止められていた。基本的に彼女は楽観的というかポジティブシンキングであり、多少の嫌味ならそうと感じずにやり過ごせる性格をしていたのだ。彼女にとって、それは幸いなことだっただろう。
また、兄も妹のことを決して悪し様にはしなかった。羊子は羊子で、自分にしか出来ないことがちゃんとある。人とはそういうものだからと、いつもそう言い聞かせてくれていた。良き人格者だったのだ。
そんな兄は、苦労の末に父と同じ商社へ無事就職し、出世街道を進んでいくことになる。一方の羊子はと言うと、兄が大宮家で求められる役割を果たしてくれたため、自由でいられることが出来、では自分のやりたいことは何なのだろうと色々なことに挑戦していた。
高校を卒業した羊子は、大学には行かなかった。ある時は英会話を習い、ある時は名の知れた料理店で食を学び……そして気が向けば日本の名所、或いは海外にも足を向けて観光したりということもあった。
旅行の資金は全て自身の稼ぎで賄っていたが、実のところ羊子の生活は両親に保証されているといっても過言ではなく、彼女は成人した際に両親から定期預金をポンとプレゼントされていた。通帳に記載された金額を見た洋子は、そのときばかりは流石に驚いた。一千万円という大金が羊子名義で預けられていたのだから。
こうした事情もあって彼女は経済的に大きな余裕があったわけだが、なるべくならばそのお金には手を付けず、自分で生き、自分でやりたいことを見つけたい、という意思を持って暮らしていたのである。両親も、幾分心配はしていたものの、悩んだ末にちゃんと自分なりの生き方を見つけられるならばとしばらくは羊子の好きなようにさせようと考えていた。
ただ、両親はいつまでも放浪を認めるわけではなく、期限を決めていた。卒業してから三年間でやりたいことを見つけなさいと。若さもまたステータスなのだから、やりたいことが見つからずにただ歳を重ねていくのは勿体ないのだと。
その言いつけは覚えていたものの、結局のところ羊子は、三年の間にこれだと思う生き方を見つけられなかった。広く浅く知識や技術を身に付けたとはいえ、それらを活かす道を行こうとまでは思えなかったのである。
というわけで、自分で道を選べなかった羊子は、両親から道を提示されたのだ。
つまり、見合い相手を紹介されたのだった。
この見合いも、始めから貴獅と出会えたわけではない。幾度か見合いの場を設け、気になった相手と話はしてみたものの、羊子の琴線に触れるような人物は現れなかった。
貴獅の番がやって来たのは、四度目の見合いのときだ。
第一印象としては、他に会ってきた男性と変わらない――むしろ少し物静かで地味な人と感じるような程度だった。
ただ、ややぎこちない会話の中で、貴獅の持つ朴訥さというか、静かな中にもしっかりと芯の通った考え方をする人だというのが伝わってきて、彼のことが何となく気になり始めたのだ。
決して職業が医師だからとか、家系もそうだったとかは関係なく、久礼貴獅という男が純粋に気になった。
二度目を約束したのは貴獅が初めてだった。
以降、二人は時折約束をして、夕食を共にするようになった。相変わらず口数は少なく、いつもくたびれた様子の貴獅だったが、それは仕事の疲れからくるもののようで、疲労を押して食事を一緒にとってくれる彼の誠実さを羊子は嬉しく思ったし、支えられたらと思うようにもなっていった。
貴獅の方も、裏表がなく朗らかな羊子の性格にどこか救われるような気持ちを持ったというのは、後で聞いた話なのだが。
違うようでどこか波長の合う、そんな二人はゆっくりとしたスピードで歩み寄り、そして一年の交際を経て結婚することになった。見合いがきっかけだったため互いの両親はもちろん反対などしなかったし、式などのイベントを順調にこなし、二人は晴れて一緒に暮らし始めた。時に、一九八九年のことだった。
家計は貴獅の稼ぎだけで十分だったので、羊子は身に付けた技術で貴獅を献身的にサポートした。家事はきっちりこなしたし、食事は栄養バランスの良いものを毎日考えて用意した。どれだけ帰りが遅くなろうとも貴獅を待っていたし、別にそれらは羊子にとって苦ではなかった。
ここに至って彼女は、夫を支える専業主婦というのが一番自分に合っていたのかもしれない、と思うのであった。
結婚してから、二人は子どもについて考えるようになった。実のところ、貴獅も羊子も結婚自体を親の勧めがきっかけでしているために自主性がなく、子を持つかどうかについて今まで考えたことがなかったのだ。とは言え、ずっと二人で生きていくのも寂しくなるかもしれないし、せめて一人くらいは育てたい……ということで最終的に二人の意見は一致したのだった。
二人の両親も子どもの誕生には期待していた。早く孫の顔が見たいというのが二人と会うときの口癖だった。然しながら、どちらに問題があったのかは追及しなかったものの、二人の間には中々子どもが出来ず、そのまま六年以上の歳月が経過してしまったのである。
不妊治療を、という考えも過った一九九五年、彼らはようやく子宝に恵まれほっと胸を撫で下ろした。こうして翌年、二人の間に生まれたのが満雀なのだった。
お互い子どもがとても好きだというわけでは無かったし、始めのうちは戸惑いながらの子育てであった。けれども、やはり親というのはなっていくものであり、二人とも次第に満雀を可愛がるようになっていった。日々が忙しくとも愛娘のために時間を作り、一緒に遊んだり外出してあげたりと、彼女の笑顔のために奮闘するのだった。
「……まさか自分がこんなに子煩悩だとは」
貴獅がいつか、そんなことを羊子に零したことがある。
それに対し羊子は、
「私も同じ気持ちですよ。やっぱり、似てるんですかね」
「さて……まあ、上手く行っているのは確かか」
「ええ、そうですね」
幸せに生きられている……羊子は心からそう思っていた。
そしてそれが、夫も娘も同じであるようにと、願っていた。
満雀が小学校へ入学するまでの六年間、久礼家には特に大きな問題は起きなかった。順風満帆に全てが進み、満ち足りた暮らしが出来ていたといっていいだろう。
それが変調の兆しを見せたのは、満雀が八歳のとき……ちょうど貴獅が杜村双太、早乙女優亜の二人と出会う直前のことだった。
満雀の身体機能の低下。彼女はいつの間にか、何をするにも体が重く、思ったように動けないようになってきているのだと両親に訴えた。それから何日か娘を休ませ、体調の回復がみられないため近場の病院で検査をしてもらい……それでも原因がハッキリ分からないということで、貴獅が自分の勤める大病院で診てもらおうと提案するに至った。奇しくもこの流れは、牛牧高成が息子の病気について知ったときと全く同じ展開なのだった。
ALSという病名を聞き、貴獅も羊子も一瞬にして絶望のどん底に突き落とされた。現代医療では治療不可能、どれだけ足掻こうとも病の進行を遅らせることくらいしか出来ないという、希望無き宣告であった。
まだ八歳の娘には真実を語るべきかどうか。悲しみの中二人は、その選択についても悩まねばならなかった。ただ、満雀はあまりにも若すぎる。今はまだ到底自身に降りかかった病について受け止め切れないだろうと思い、曖昧なままにしておくことを決めたのだった。
ALSの宣告を受けてから、貴獅は人が変わったようにこの病について調べ、医師として出来ることはないかとあらゆる方法を検討した。しかし、それが実を結ぶようなことは無く、全てが徒労に終わる虚しさが彼を更に苦しめるだけだった。
羊子は、そんな夫をサポートするしかない自分にもどかしさを感じてばかりいた。けれども、彼女にはそれくらいしか出来なかった。医学という世界は流石の彼女にも未知の分野だったのだから。
満雀を蝕むALSは、二人の努力とは裏腹に、着実に進行していった。
一年が経つ頃にはもう、彼女は自力で車椅子に乗ることも難しくなっていた。
これ以上の隠し立ても困難であり、このときに羊子は貴獅と相談の上、病について満雀へ伝えたのだった。
その全てを九歳に過ぎない満雀が全て理解できたかは、分からなかったが。
羊子が貴獅へ違和感を抱き始めたのは、その後すぐのことだった。
夜遅くまで部屋に引きこもり、何やら調べものをしているのは以前からだったが、それに加えて帰りが遅くなることが増えた。満雀のために勤務時間を短縮させてもらったり、見舞の時間を作ってもらったりと、病院側が配慮してくれていたのでそれまで帰宅は早めだったのだ。それとなく理由を聞いても忙しくなったからだとしか答えてくれず、互いの気持ちがすれ違ってきていると感じるようになっていた。
この間、貴獅はGHOSTについて知り、組織へ入ることで満雀の病に光明を与えたいと考えていたことは、既に知るところだろう。羊子は、彼のそんな思いを知らなかった。否、知らされなかったのだ。こんな世界のことを彼女が知る必要はない、という貴獅なりの優しさだった。
そして――二〇〇八年。WAWプログラムに沿って、久礼家は満生台へと移住することになる。何も知らされていなかった羊子、それに満雀も驚いたが、貴獅の決定に異を唱えるわけにもいかず、大人しくついて行くしかなかった。
……結局羊子は、この後計画が完遂を迎える二〇一二八月二日まで、貴獅からその詳細について何ら知らされることはなく。
満雀に対する奇怪とも思える貴獅の処置に、困惑するばかりの日々を送ったのだが。
最後の二週間、彼女は狂いゆく世界に反抗するように、或いは流されてばかりいたこれまでの人生に反抗するように、己の奥底にあるものに突き動かされるまま戦った。
母として、満雀を守る……その意思によって、虎牙の元へWAWプログラムの計画書を託すことに成功したのである。
自身がどこかで、貴獅の計画に気付いて彼が悪しき道に足を踏み入れるのを止められていたらと、彼女は今でも思う。
けれど、誰にも譲れないものはあり、夫の――貴獅の思いはやはり強かったのだろうとも思っている。
己の力不足を情けなくは感じつつも。
彼女は何もかもが過ぎ去ってしまった今、これだけを切に願っていた。
私たちの愛しい娘。
どうか満雀よ、せめて貴方だけは、幸せな道を歩んでおくれ――。
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