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Third Chapter...7/21

幼年期の夢

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 ……まだ僕が幼い頃。
 世界の悪意さえ知らない、無垢な子供だった頃の思い出には、
 隣で微笑を絶やさずこちらを見つめる、やはり無垢な少女がいた。
 僕らはいつでも一緒だった。年も一つしか違わなくて、幼稚園も小学校も一緒に通った。
 休みの日には買い物についていったり、近くの公園に遊びにいったりした。
 互いの笑顔を見るのが、とても幸福なことだった。
 僕はその時分から、本が好きだった。本を読んで、知らない言葉や世界を知るのが好きだった。
 そして、それを伝えられることが好きだった。彼女の目が期待に輝くのを見れば、それで心が躍った。
 青い薔薇には不可能という花言葉があったこと、それが作られたことによって夢叶うという花言葉に変わったこと。カブトムシの箱という、不思議な思考実験のこと。円周率という無限に続く定数があり、その暗記でギネス記録をとった日本人がいること……。自分でもその意味を理解しきれない言葉も沢山あったけれど、それは関係のないことだった。ただ少女と話し、楽しいと感じられることだけが、その時間の持つ意味だった。
 でも、それはやはり幼さの上に成り立った儚い輝きであって、ほんの少しの衝撃で脆く崩れ去ってしまうような日々に違いなくて。
 今はもう、あの子のことを思うことは出来ない。それは、昏く淀んだ記憶の底に漂っている。
 思い出さなくて済むようにと、深く沈みこませた思い出だ。
 それでもたまに……夢の中でその名を口にしている自分がいる気がする。
 音の消えた世界の中で、僕は意味もなく名前を呼んでいる。

 ……理緒りおという名を。





「住民への最終説明会を、永射さんがやるらしい」

 リビングに入るなり、父さんがチラシを手にそう呟いていた。向かいに座っている母さんは、へえ、と小さく相槌を打っている。

「おはよう」

 僕が挨拶すると、二人は僅かに顔をこちらへ向けて、同じようにおはようと言ってくれた。

「最終かあ。今まで三回くらい、説明会開いてたよね。結局渋る人もいたけど、もう出来ちゃったもんなあ」

「だな。まあ、総まとめとして必要なことを全て話してくれそうだから、行ってみるか。あんまり関係ないと思って、これまでは行ってなかったし」

 父さんは、引っ越してきて日が浅い真智田家が首を突っ込むのもどうかということで、今までの説明会には参加してこなかった。今回だけでも行ってみようと思うのは、自然なことだろう。

「それ、いつあるのかしら」
「三日後の火曜日だと。永射さんの家の近くにある集会場で、いつも通りやる感じだな」
「じゃあ夜ね。分かったわ、早めにご飯、作っておくことにしましょう」
「そうしてもらえるか」

 この流れからすると、僕も行くことが決まってしまっているのだろうな。
 集会場は、村で何か行事を予定しているとき等に、人々が集まっていた場所で、何十年も前からあったらしいのだが、永射さんが街にやって来てから、全面改修に取り掛かって、それまで木造だったのが、綺麗な鉄骨造の建物に変わったという。永射さんが責任者に就任したのが、五年ほど前のことらしいから、比較的最近のことなんだな。
 それにしても、責任者ってどういう立場なんだろう。公の役職があるのかな。今更ながら、永射さんのことはよく分からない。偉いのには違いないんだろうけど。
 朝食の後、しばらくは自室でテレビを見たり、スマートフォンをいじったりしながら過ごした。チャットが出来るアプリには、虎牙と龍美がフレンドに登録されていて、グループチャットのルームも作ってあるので、たまに通知が来る。さっきは龍美が『遅刻厳禁よ!』と念押しし、虎牙が了解の意を示すスタンプを送っていた。僕も虎牙と同じように、適当なスタンプを送信している。
 満雀ちゃんが登録されていないのは、この時代に珍しく、スマートフォンを持たされていないからだ。そればかりか、テレビもあまり見られないとか。久礼家はそんなに厳しいのかと、僕らは満雀ちゃんに同情したものだ。現代っ子がスマートフォンとテレビを奪われたら、楽しみの大部分が奪われたようなもんじゃなかろうか。人にもよるだろうけど。
 満雀ちゃんも、いつでも連絡をとれるようになればなあ。それは、皆が共通して抱いている思いだ。
 皆にあれこれ思われてる率は、彼女が一番多い筈。流石はお姫様。

「これだけネットが生活に浸透してたら、永射さんの方針も否定は出来ないよなあ」

 電波塔の稼働に反対している人たちも、きっと決まってしまえば利用することになる。結局はそうやって、社会は進んできたわけだ。良かったのかどうかはさておき。
 ネットサーフィンをしていると、色んなニュースが目に飛び込んでくる。あと一週間もせずにロンドンオリンピックが始まるということで、テレビもネットも、その話題が出ない日はない。日本に希望を届けてほしい、という言葉が飛び交っていて、ささやかだけれど切実な思いを、人々が選手に託していることが分かる。昨年の奇禍が残した傷は、少しずつ、癒えていっているのだろうか。
 そういえば、満生台の近辺では、過去に何度も地震が起きているという話を何度か聞いている。そういう過去があるからだろう、山へ入ってしばらく進んだところに、小さな観測所があるのだが、そこでは毎日、地下で起きている揺れを計測、分析しているらしい。国から派遣されてきたらしい、八木優やぎまさる という人が、日夜そこで満生台を調査しているのだ。
 確か、観測しているのは地面だけじゃなくて、天体のデータか何かも取っているらしいけれど。難しいことは、流石に分からない。

「龍美って、年上の男好きだからなあ。八木さんともよく話してた気がする。……とか本人の前で言ったら投げられそうだな」

 怖い怖い。
 休みの日の時間は過ぎるのが早く、ごろごろしているうちに昼食になる。母さんの声でリビングへ下り、また三人揃ってご飯を食べる。テレビ番組の天気予報では、全国的に雨のところが多かったが、幸いにも満生台の空は晴れ模様だ。とは言え、周辺地域は確率が結構高いから、曇ってきたら早めに帰った方が良さそうだな。
 昼食を食べ終わり、僕は部屋で準備を整える。小さなショルダーバッグに、ティッシュやらハンカチやらを入れておくだけだが。とりあえず、そんな身支度をすぐに終わらせると、玄関に向かってゆっくり靴を履く。

「よし、じゃあ行ってきます」
「はーい、行ってらっしゃい」

 母の声を背にして、僕は家を出た。
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