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【幻影綺館 ―Institution of GHOST-】

-2.日下敏郎②

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 ――調子はどうかな、レイジくん。

 ヒカゲさんの優しい声色は、今でも鮮明に覚えている。
 思えばそれは、あの頃が最初の記憶だったからなのだろう。
 俺は、喪われた自分を取り戻そうと藻掻く中で。
 なるべく多くの記憶を留めたくて、彼との思い出もまた深く刻み込んだのだ。
 結局その思い出が、積み重なっていくことはなかったけれど。

 ヒカゲさんは、時折俺のお見舞いというか、様子見のために桜井家を訪れてくれた。
 そこには多分、彼自身の責任感もあったのだと思う。
 具体的な経緯を、当事者であるはずの俺はまるで知らないが。
 親父もヒカゲさんも、知ろうとする必要はないと俺を諭したものだ。

「……まあ、普通に生活はできてますよ。全然問題ありません」
「そっか。……それならよかった」

 親父が外出中だったので、俺はリビングでヒカゲさんと話していた。
 ヒカゲさんは日中に訊ねてくることが多かったので、どんな仕事に就いているのかといつも疑問に思っていた。

「今日、お父さんは?」
「出かけてます。……供養にとか言ってたけど、母さんのことでもないだろうしな」
「……そうなんだね」

 そこでヒカゲさんは、一瞬だけ悲しげな表情を浮かべたような気がしたが、すぐに取り繕うように笑い、

「はは、中々会えないなあ。毎度、タイミングが悪いことだ」
「静かでいいでしょう」
「こらこら」

 と、また二人で笑った。
 それから、一瞬の沈黙。
 冷たい麦茶を一口飲んでから、俺はヒカゲさんに訊ねる。

「……ヒカゲさん」
「うん?」
「もう、一年になります。俺は……元に戻るんですかね」

 カランと、グラスの中の氷が音を立てた。

「それらしい生活はできていても、昔のことは、まだ。本当に戻れたとは……まだ」
「……そろそろ、一年だったね」

 ほう、とヒカゲさんは小さく溜め息を吐く。そのまま言葉を選ぶように、手を組んでゆっくりと瞼を閉じた。

「私はただの科学者だから、君の記憶については何も言えない。でも、君のお父さんが昔と同じように過ごしてるのを見て、ほっとしているよ。だから……無理に戻さなきゃと思う必要はないと思う」
「……ですかね」
「不安だろうけど、ね」

 今から一年前。
 俺の人生の転換点……いや、分断点と言うべきか。
 俺は事故により、それまでの記憶を全て喪った。
 日常生活ができる程度の知識はそのままに、俺は桜井令士としての拠り所を全て手放してしまったのだ。
 そして、俺は自身に起きた事故の詳細を知らない。
 さっきも言った通り、親父もヒカゲさんも、知ろうとする必要はないと言うばかりだったからだ。

「……ねえ、ヒカゲさん」
「何だい」
「俺を助けてくれたのは、ヒカゲさんだって親父から聞いたけど……何も知らないんですよ。俺はどんな事故にあって、ヒカゲさんはそこからどう俺を助けてくれたんですか」

 欠落した記憶。
 自分が自分で無くなった瞬間。
 後で後悔するかもしれないけれど……やっぱり、知りたいと思う気持ちは強かった。
 親父は話さなくても、ヒカゲさんなら……そう考えることもあった。
 それに。

「あなたは……俺が目覚めたとき、何て言ったんですか」

 唯一、酷く曖昧な記憶。
 意識が覚醒する最初の瞬間に聞こえた声。
 ヒカゲさんの優しく、けれど寂しげな声……。

「今は駄目でも、いつか……教えてください」

 半ば諦め気味に投げかけた言葉。
 ヒカゲさんはそれを受け止めると、遠い目をしながらこう返した。

「……そうだね。きっといつか、分かるはずだよ」

 きっと、そうなるはず。
 その言葉は、自分に言い聞かせるようなものにも感じられたのだった。
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