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八章 ヒカル四日目

天地 ②'

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 ――これは、とても昔の、私の友達の話。

 その子は、とても温かい家庭に生まれてね。お父さんもお母さんもとても優しい人で、毎日幸せに暮らしていたの。幼心に、こういう暮らしがずっと続いていくなら、私って世界一幸せ者だなと、そう思ったりしていた……みたい。
 成長するにつれ、その子はいつか、自分の方が両親を幸せにしたい。何か一つでも恩返しがしたいと思うようになっていった。そのために、早く大人になりたいと、そう思うようになっていった。
 けれど、その子が十九歳の時。もう少し、あと何月かで成人するというとき。
 両親は、死んでしまった。

 その時代、村では伝染病にかかってしまった人が何人かいたみたいでね。両親も運悪く、伝染病に感染してしまった。現代の医療レベルなら、治せる病のはずなんだけど、その時代には治す手立ても、……そもそも治そうという考えもなかった。それは不治の病であり、拡がる病だった。両親はただ隔離され、死んでいった。その子は……両親の最期を看取ることすらできずに、わずか二週間の間に、失ってしまったのよ。幸せだった家庭を、伝染病によって。
 その子は一人ぼっちになってしまった。与えられた仕事を始めるようになったけれど、その仕事ぶりを見てくれる両親はもういない。恩返しする対象はもういない。それは、その子にとってはあまりにも寂しいものだったと思う。きっと、生きる意味を失ったまま、ただ動き続けていた、そんな表現がぴったりなのかもしれない。

 そんなときだった。彼女は偶然にも、良く似た境遇の人を見つけたの。そしてその人に、手を差し伸べられたの。それは彼女にとって、暗闇に射した一筋の光みたいに見えたんじゃないかな、きっと。
 その人は、同じ伝染病で最愛の女性を亡くした男の人だった。失意のどん底にある中で、その人もまた、彼女の境遇を知って手を差し伸べたみたい。彼女に触れることで、彼女を救うのと同時に、自分も救われるんじゃないかという希望を持って。もちろんそれは恋愛ではなかった。ただ互いのことを打ち明けて、励ましあう。それだけの関係だったけれど、やっぱりそれは一筋の光だったはずよ。
 二人は同じ悲しい過去を共有し、そして立ち直った。いや、立ち直ることに決めた。そのために、区切りをつけることにしたのね。過去に区切りをつける。二人は難しいことだけれど、そうすることを決心したのよ。この村において、過去を切り離すというのは、本当に難しいことだとしても。

 でも、その矢先。
 彼は血を吐いて倒れた。
 伝染病ではなかった。ただ、彼の家系はもともとガンに侵されやすい血筋だったらしく、不運なことに、彼も例外ではなかったの。どうしてもっと早く見つけられなかったのかと私も思ったけれど、その人は自分の体のことよりも、亡くなった妻のことを考えていた。だから自分の不調なんて、ほとんど気にかからなかったんでしょうね。ある意味すごい人だわ。
 その子は泣いた。男の人のためにも泣いたし、自分のためにも泣いた。また寂しくなるのは嫌だと。あなたと交わした約束のために生きてこれているんだと。きっとそのとき、もう彼女は愛を感じていたんじゃないかな、男の人に。彼は当然、それに気付くこともなかったでしょうけど。
 男の人は言ったわ。その約束を果たすときには、どうせもう全部終わっているんだと。だから、悲しむことはないんだと。決して寂しくはさせない。彼の言葉で、彼女は苦しみながらも、何とか現実を受け入れることができた。だから、最期の日までを楽しく生きようと、そう思うことにした。

 結局、彼女は芽生えてしまった愛を伝えることもできず。男の人は、妻のことだけを思ったままで、全てが終わってしまった。幸せだったのか、それとも不幸せだったのか。奇妙な関係はそこで終わりを迎えた。それが、その子のお話。





 そうして長い物語を話し終えると、カナエさんは感想を求めるように、こちらを見つめてきた。

「……どうだったかしら」
「……ええと」

 これは、きっとカナエさんのお話。
 友達という身代わりを以って語られた、カナエさん自身のお話なのだ。
 だから、僕らはカナエさんの知られざる過去を知ったのだ。
 毎日見せてくれる笑顔の裏に隠された、悲しい過去を。

「歪んだ関係なのかもしれませんね。でも、そうして続く関係は、その人にとっては掛け替えのない、拠り所だったんだろうと思います」
「……ええ。私もそう思う」
「少なくとも、二人でいる間は幸せだったんじゃないですかね。きっと」
「二人で……何もかもを忘れている時間は、きっとね」

 過去を懐かしむように、カナエさんは言う。
 彼女が懐かしむその男とは、一体誰だったのだろうか。

「クウは……どう思った?」

 僕は隣にいたクウに、そう聞いてみた。

「え? ……うん、切ない話だったなって」

 そう答えたクウは、どこか呆けていたようにも思えた。

「どうかした?」
「ううん、なんでもない」

 クウは照れたように笑う。

「でも、どうして突然、僕たちにそんな話を」

 純粋に抱いた疑問を、僕は口にしてみる。するとカナエさんは、やはり微笑みながら、

「だから、二人がワタルくんたちの邪魔者にならないように。ほら、もうこんな時間」

 見ると確かに、あれから三十分ほどは経っている。始めはなんとなく聞いていただけだったが、いつのまにか聞き入っていたようだ。

「それに」

 カナエさんは続ける。

「その子みたいな恋じゃなくて。素敵な恋をしてほしいなって、思ったりもしたから」
「あの、それは……」

 途端に居心地の悪さに襲われる。そんなに見透かされているものなのだろうか。ワタルたちの関係ではなく、僕らの関係も。隣をもう一度見ると、クウも目を逸らすようにして頬を赤らめている。……それを見て更に居心地が悪くなった。

「ん、私の話はこれでおしまい。二人とも、その……いい青春をね?」
「も、……もちろんですよ!」

 無駄に元気よく言うクウに、

「はあ……まあ」

 と、僕は曖昧に答えた。
 じゃあ今度こそ、と僕らは席を立つ。そして別れの挨拶をして、教室を出ようとしたとき。

「……ねえ、最後に一つだけいいかしら」
「はい?」

 僕らは立ち止まり、振り返る。

「もし、大事な人が悲しい選択をしようとしていたら……そのとき二人は、止める? それとも付き合う?」

 冗談で聞いているのではないようだった。
 その目には、真剣な光が宿っていた。
 だから、僕はよく考え、それでも自分の思うままの答えを言う。

「その選択に、自分が本当に共感できるかどうか……じゃないですかね」





「ねえ、あのときクウ、なんかぼうっとしてたけど。カナエさんの話聞いてた?」

 帰り道、僕はクウと話しながら歩いていた。

「うん。……実は、ちょっと女のカンというやつが働きまして」

 口調は軽薄なものの、その表情はどことなく暗い。

「カンって?」
「カナエさんの相手。それが……誰なのかなって」
「え……分かったの、クウ?」
「うん。多分、だけどね」

 思わず僕は立ち止まってしまう。少しずつ陽が沈んでいく朱色の空の下、僕らの影は次第に長くなっていく。

「大事な人を病気で亡くした男の人。ガンに侵されてしまっている男の人。この村では、多分一人しかいないよ」
「……それって、一体」
「ごめん、ヒカルは知らないもんね。実はさ、たまにウチに来て、薬だけ持って帰ってるんだ、その人。自分のことは自分が一番知っているって言いながら、私の親が医者じゃないことを知ってるから、ただ薬だけをいつも持って帰る。それは」

 川の向こうに目をやりながら、彼女は言った。


「げ、……ゲンキさんって、ワタルの」
「うん。お父さんだよ。奥さんを病気で亡くした」
「……あ、そうだ……」

 八年前。カナエさんは二十八歳だから、時期的にも重なる。そしてクウの言う通り、ゲンキさんが薬を毎回持って帰っているというのなら。
 ほぼ間違いなく、カナエさんが話していたのはゲンキさんのことなのだろう。

「じゃあ、ゲンキさんは……」
「私もそれは知らなかった。……ガン、だなんて……」

 確かに普段、僕らはゲンキさんと関わることなんて殆どないから、ゲンキさんが健康かどうかなんて分かるはずもない。だけどまさか、あの屈強そうな人が、ガンに侵されて危険な状態だなんて、予想もしなかった。

「ワタルは、知ってるのかな」
「知らないような気がする。ジロウくんの死であんなに悲しんでるのに、父親のことをもし知ったとしたら、そのときは……もっと悲しむだろうから」

 今以上に、長いこと落ち込み、学校を休んだということは一度もない。だから、ワタルはまだ知らないはずだ。自分の父親のことを。その体が、病に侵されていることを。

「……なんか、私たちの知らないところで、悲しいことがいっぱい起きてるんだなあ……」
「そう、だね……」

 本当に、その通りだ。

「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」

 クウを見送って、僕は帰ろうとする。
 ちょうどそのとき。
 森から、二つの人影が出てくるのが見えた。
 咄嗟に僕は身を隠す。疚しいわけではないのだけれど、なぜか癖になってしまった。
 物陰から目を凝らしてみると。
 その人影は……ゲンキさんと、カエデさんだった。

「……なんだ、あの組み合わせ……」

 考えられない組み合わせだ。
 犬猿の仲と言ってもいいあの二人が。
 何故森から……。
 そう思っていると、ゲンキさんは突然、カエデさんの肩を掴んだ。
 カエデさんは、しかしぼんやりとしたままだ。

「俺は、お前に必ず思い出させる」

 ゲンキさんの表情は、どこか思い詰めたような、激しい感情を押し殺したもので。

「あの頃の……ことを」

 それは、とても複雑なものに見えた。
 そして、それを受け止めるカエデさんの目に。
 光は感じられなかった。





 この数日で、僕らの日常は目まぐるしく展開し、いつのまにやら非日常に落ち込んでいた。
 知らなかったことが次々と僕の目の前に提示され、その意味を僕に考えさせた。
 昨日、タロウくんは空っぽの棺を前にして、僕に言った。
 ――お前には、この場所をもっと知ってほしい。そして……できれば、抗ってほしいんだ。
 その言葉がどういうものなのかすら、考えなくてはならないけれど。
 少なくとも僕は、タロウの言うように。
 今この村のことを、もっと知らなくてはならない。そう思う。
 それは、青野家の次期当主として、というよりかは。
 純粋に、ここでどんな思いが渦巻いているのかを知りたいという、思いからだろう。
 鴇祭の日は、もう三日後に迫っている。

 そして、僕の六月六日が終わった。
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