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七章 ワタル四日目

天地 ①

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 俺はいつもより早めに起きていた。午前六時。まだ父親も起きてはいない。
 さっさと着替えを済ませ、俺はなるべく音を立てないようにして家を出た。
 昨日と同じような曇り空。六月ともなればもう雨期なのだし、雨が降り続くようになってもおかしくない。まだ降ってこないのが幸い、といったところか。
 森までの道を歩くも、誰一人としてすれ違わない。まるで村全体が死んでしまったかのような、静かな朝だ。
 少し、物悲しい。
 俺は一人、森の奥へと入っていく。すると何故だか、村よりも森の方が騒がしい感じがした。
 鳥の羽音が、鳴き声が、幾つか聞こえてくる。それは、随分大きな鳥のもののようだった。
 少し怖くなってきたが、今更退くわけにもいかない。俺はぶるぶると首を振ると、ゆっくりと森の奥へ歩を進めていった。
 森の中腹辺りで、三日前にツバサとおまじないを刻んだ大樹が姿を現す。懐かしくなって、近づいてみる。二人で刻んだ文字は、少しも色褪せてはなかった。
 そのまま通り過ぎようとしたのだが、別の部分にも何かが刻まれたような痕跡を見つけて、俺は立ち止まる。

「これは……」

 ヒカル。
 クウ。
 その二人の名前が、俺たちの名前と同じように、相合鳥の下に刻まれている。それは、どうやらつい最近刻まれたもののようだった。
 きっと、これは俺たちの相合鳥を見て、真似するように書いたものなのだろう。
 なんだ、そこまで関係が進んでいたのか、と俺は思った。
 少しだけ、ほんの少しだけ息の詰まるような緊張感が、解れた。

「……あいつらめ。後で、問い質してやろうか」

 ニヤリと笑ってから、俺は再び森の奥へ向かって歩き始める。分岐路を、左へ。その方向は、墓地への道だ。
 道は既に獣道になっている。木々の枝葉も日光を遮り、朝だというのに周囲は薄暗い。鬱蒼とした森、というのはこういうところを言うのだろうな、と俺は一人納得した。
 墓地に近づいていくほど、羽音や鳴き声は大きくなってきている気がする。どうもそのほとんどは、カラスの鳴き声らしい。カアカアと、耳につく声が繰り返されている。
 三分ほど歩くと、またも分岐路が現れた。だが、右側は下り道のあと、行き止まりになっているようだ。……よく見ると、小さな洞穴のようなものはあるものの、まさかそちらが墓地なはずもない。迷うことなく俺は、左の道を進んだ。
 墓地への道は、緩やかな坂道になっていた。だから、辿り着くギリギリまで、その場所に広がっている光景が、俺の視界には入らなかった。
 だから、俺は何も警戒せずに進んでいた。タロウはどこにいるんだろうとか思いながら。カラスがやけにうるさいなとか思いながら。
 そして……。
 俺は鴇村の、墓地に辿り着く。
 俺は鴇村の、墓地を知る。
 そこに待ち受けていたのは、
 隠されてきた役割と、
 隠されてきた歴史。

「……」

 瞬間、息が止まり。

「う、……あ、ああ……」

 うわ言のような、そんな声しか、出てこなくなった。
 目の前に広がる光景。
 黒いカラスの群れと、その中心に捧げられた、
 それは、
 
 

「ああああああああああぁぁぁ!!」

 俺の悲鳴に、クチバシを血で濡らしたカラスたちは、一斉に飛び去っていった。





 情けなく、尻餅をついて、俺は動けなくなってしまう。
 だって、だってそんなの、仕方ないじゃないか?
 俺の眼前に、あまりにも凄惨な光景が、広がっている。
 数多の鳥たちに、その身を食い千切られた――ジロウくんの、死体が。
 骨だけになった、死体が……。

「ひっ……」

 思わず、後じさりする。
 目の前の光景を、受け入れられず。
 なんだこれは?
 ジロウくんが死んだという現実以上に、こんな光景は受け入れられない。

「何だよ……何なんだよ、これ……!」

 体が震えだす。その震えを止めようと、自分の体を掻き抱く。
 それでも、震えは止まらない。



 そんな声が聞こえた。冷たい、刃物のような声。
 声のした方を見る。すると、遠くにあるあばら屋から、彼がこちらへ歩いてきていた。
 そう――タロウが。

「ちょう……そう……?」
「それが……それが、この村の葬儀なんだ」

 無機質な声で言うタロウの目は、クマで黒くなり、泣いていたせいなのか、赤く腫れ上がっていた。

「鳥に死体を食わせることで、その死体を骨だけにして、埋葬する。……それが、鴇村で行われている死者の葬儀。ずっと昔から続いてきた、方法なんだ」
「う、……嘘、だ……」
「嘘じゃないんだ、ワタル」

 そうとも。嘘なわけがない。
 だって、ジロウくんは。
 こうしてここで、鳥たちにその体をついばまれて。

「う、……」
 押し寄せる吐き気を、懸命に堪える。
 代わりに涙が出た。

「……鳥葬とは、チベット仏教が行うことで有名な葬儀の方法だ。遺体をできるだけ自然の処理に任せるという考えの下、鳥に遺体を食べさせる。現地では、遺体を解体、粉砕し、骨まで食べさせるのだが、この村ではそこまではしないらしい。こうして鳥葬台……何とも悪趣味に思えてしまうが、これに遺体を磔にして、鳥……主に森に棲むカラスに食べさせているんだ。古くからこの森のカラスは人を襲うカラスだったそうだから」

 淡々と、タロウは俺に説明する。そんな彼は、無残に食い尽くされた弟の死体を前にして、落ち着いていられる冷徹な人間――というわけでは決してない。彼はきっと、心を擦り切らせすぎて、ボロボロになり果ててしまっているのだ……。

「こんな、……こんな、鳥に食わせるなんて、恐ろしいこと……」
「確かにほとんどの人は思うだろう。だが、現実に鳥葬という文化は世界の一部地域で存在している。もちろん、日本でこんなことをしてしまえば、死体損壊の罪に問われるだろうが、この村では昔から行われてきた、とても自然な葬儀なんだ。鳥とともに生きる村の、自然な葬儀」
「でも、でもさ……」
「分かってる。……俺たちにしてみれば、これは恐ろしい方法だ」
「……タロウ……」
「分かってるんだ……」

 目の前に、磔にされたジロウくんの白骨死体。
 それを見つめながらタロウは、一筋涙を零した。

「……これが、墓地への侵入を制限していた理由。死者の葬儀の真実だ。そして、……古くからの言い伝えの真実」
「……あ……」

 ――人は死んだら、鳥になるのよ。
 母さんの言葉が、脳裡に浮ぶ。
 幼い頃。何度も聞かされた鳥に関する知識。
 そしてまた、鴇村の鳥に関する言い伝え。
 言葉の数々が、溢れてくる。

 ――アカハラはね。おなかが赤いからそういう名前がついたそうよ。

 ――コマドリはあんなに小さいのに、声が馬の鳴き声みたいに大きいの。それで、駒鳥っていうのよ。

 ――トキはね、真白な鳥のイメージだけど、繁殖期だけは、翼が黒くなるの。それに、羽の裏側は綺麗なピンク色をしてるのよ。

 ――そうそう、トキはカラスを打ち払う存在ということで、昔から信仰の対象になっているの。とはいっても、色や性格が正反対ってだけみたいだけどね。

 ――相合鳥って知ってる? この村に伝わる相合傘みたいなもので、鳥のマークの下に恋人同士の名前を書くとね。二人は永遠に結ばれるんだって。お母さんも実はね、書いたことあるんだ。

 ――人は死んだら、鳥になるのよ。鳥になって、大空へ羽ばたいていくの。お母さんはトキになりたいかな。やっぱり、トキは綺麗で、象徴的だものね――

 。それは、とても素敵なファンタジーだと、思い込んでいた。
 母さんの優しい声色とともに記憶された、単なる言い伝え。昔話。
 それが、まさか。
 そういう意味を持つだなんて。

「鳥になるってさ……鳥に生まれ変わって、空に飛び立っていけるんだって、そんな素敵な意味を持つ言い伝えなんだって、……思ってたのに」

 強烈な眩暈。信じてきたものの崩壊。それに怒りが沸きあがり。

「何なんだよこれは!」

 鳥の血肉になる。言い伝えの持つ、本当の意味。
 多くの人が知らない、死後に待つ儀式。

「何なんだよこれ……これを、……父さんが……赤井家が、ずっと続けてきたって、いうのかよ……」

 そう。
 これを担うのは、赤井家だ。
 村で葬儀を任されている赤井家の、役目。
 だから、
 ここにジロウくんの遺体を磔にしたのは、
 俺の父親。

「……お前にとっても、辛い現実だろうな。……だからこそ、知っておいてほしかったんだ。この慣習を。いずれは伝えられることだろうが、それよりも前に、見ておいてほしかった」

 タロウはこちらを真剣な表情で見つめている。俺はそれを見つめ返す気力もない。

「古くから伝わる村の慣習だ。首を突っ込まない方がいいという思いも、いくらかはある。だが……俺は考えるべきなんじゃないかと思っている。果たして村の慣習というものが、このままでいいのかどうかを。それは、鳥葬であれ、他のことであれそうだ」
「他のこと……?」
「ああ。例えば、知っているか? 緑川家にはもう、医者はいないということを」
「え……?」

 タロウは、こともなげにとんでもないことを口にする。

「医者であり続けることを強制されても、実際には狭き門だ。取れなくてもおかしくはない。そうだろう? それでも慣習だからと、その家に医者を続けさせる。……完全に悪習でしかないはずだ」
「……マジかよ……」

 それが本当なら、まさに悪習だ。それに、今タロウが口にしたことは、そのまま今回のジロウくんの死の原因にもつながるのではないだろうか?

「……ジロウくんの治療が遅れたのも、じゃあ……」
「……緑川家が知識不足で、ジロウの病を特定できていなかったという理由も……ある」
「……そんな……」

 あまりにも、酷い。その慣習のせいで、一人の少年の命が零れ落ちていってしまったなんて。
 救えたかもしれない、尊い命が。

「……そんなの、おかしい」
「……そう、思うか」
「だって、だってさ……そんなの、あんまりじゃねえか……。ジロウくんは、村に殺されたようなもんじゃねえか……殺されてからも、こんな……こんな方法で……」

 もう、堪えきれなかった。
 半ば倒れるようにして、俺は座り込む。

「……俺も、そう思う」

 タロウは、相変わらず悲しげな瞳を潤ませて、そう言った。

「……立てるか、ワタル」
「……」

 タロウは、手を差し伸べてくる。

「もう一つだけ、案内するところがある」
「……どこへ……?」

 情けなく上ずった声で、俺が尋ねると、タロウは囁くように告げた。

「何故赤井家と真白家が、天の家、地の家と呼ばれているか……それが、分かる場所だ」
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