神水戦姫の妖精譚

小峰史乃

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第七部 第一章 サイレントレベリオン

第七部 無色透明(クリアカラー)の喜び 第一章 1

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   第一章 サイレントレベリオン


          * 1 *


「なぁ音山。昨日のこと、詳しく知らないか?」
 担任がホームルームを終えて教室を出た途端、クラスメイトの男子三人が、僕の机にやってきた。
「昨日のことって?」
「知らないわけないだろ? お前って、えぇっとソーサラーって言うんだっけ? やってるんだろ」
「そうそう。昔やってたのは知ってるんだよ。お前のドールも動かなくなったのか?」
「ここんとこずっと休んでたのはお前が関わってたからって噂になってるぜ。すげーよなっ。スフィアが一斉に停止するなんて、魔法でも使ったみたいだよなっ」
「テロって噂がネットで出てたぜ」
「タイマー仕込んであって、一斉に止まるようになってたとかって話もあったなっ」
 ――本当に、魔法なんだけどね。
 帰りの準備を止めて、指摘の言葉を心の中だけに留めた僕は小さく息を吐いた。
 わざわざ僕の席まで来て、目の前で楽しそうに話し始めた三人には、悪意は感じない。ただ話題のことを興味本位で楽しんでるだけみたいだ。
 あまり品が良くないのは、性格の問題だろう。
 すべては昨日のことだ。
 モルガーナと対面し、逃げ帰ってきてから、まだ一日と経っていない。昨日の今日だから学校は休みたいところだったけど、そうもいかなかった。
 百合乃に、行けと言われたから。
 昨日、エイナとの決着をつけるためにひとりで向かったリーリエを追ってスフィアロボティクス総本社ビルに行き、足りないエリクサーを使ってあいつが願いを叶える場所に僕は立ち会った。そしてアリシアのボディに百合乃が復活し、リーリエは消滅した。
 その中で、モルガーナが無理矢理エイナをフォースステージに上げるため、すべてのスフィアから微かに貯まったエリクサーを抜き取り、その機能を停止させた。
 全世界のスフィアがほぼ一斉に機能を失った事実は、今日の朝のニュースでも取り上げられ、大きな事件としてこれまでスフィアドールに触れたことがない人にまで話題が広がっている。
 世間での取り扱い方は、オカルト染みた怪事件というのが主だ。
 ショージさんや猛臣のような業界人は対応に追われたり調査をしたりで大変みたいだけど、関係者以外は真夏に雪が降った、みたいな面白可笑しい事件として受け取られている様子だ。
 ――情報操作、なんだろうな。
 モルガーナ自身がやっているのか、あいつの周囲にいる人がやっているのかはわからないが、ロボット業界の一分野とは言え、一番盛況なスフィアドール市場が一瞬にして消滅した状況だというのに、世間での取り扱いが軽すぎるのは何らかの情報操作による誘導だろうと推測できた。
「それで、音山はなんか知らないのか? 確か前にやってたスフィアカップ? とかって大会の優勝者なんだろ?」
 僕のことなんて放っておいて自分たちだけで盛り上がってくれていればいいのに、三人のうちのひとりがそう質問してきた。
 ふと周りに注意を向けると、帰り支度をする時間だというのに、教室内は妙に静まり返ってる。
 三人の他のクラスメイトたちも、スフィア一斉停止事件には興味津々のようだ。目を向けてきてる奴、手を止めて耳を傾けてきてる奴と、反応は様々だが。
 ひとつため息を吐いた僕は、呆れた表情を浮かべて答える。
「スフィアをつくってる会社の人間でもないのに、僕に何がわかると思うんだ? 休んでたのは身内が入院してたりしたからだよ」
「……そりゃそうか」
「まぁそうだよな」
「ちぇっ、つまんねぇ」
 僕に対して怒ってるわけじゃなく、それぞれに悪態を吐きながら、三人は離れていった。他のクラスメイトたちも帰り支度を再開する。
 ――たぶんみんな、不安なんだ。
 鞄にタブレット端末なんかを押し込みながら、僕は思う。
 面白可笑しく報道され、提供された情報しか受け取れず、その雰囲気に飲まれていても、スフィアの一斉停止が異常な事態だということはみんなもわかってる。
 頭には入ってきてなくても、感覚的な恐怖が拭えないんだ。
 明確でなくても、魔女の気配を感じてる。
 モルガーナの存在を知ってる僕にはわからない感覚だったけれど、なんとなくそうなんじゃないかと思えていた。
 ――すぐでなくても、モルガーナは具体的に動いてくるだろうからな。
 百合乃が言った通り、モルガーナはすぐに追跡してこなかったし、いまはたぶんあいつもスフィアの停止に関する対応に追われてるはずだ。
 でもエイナをフォースステージに上げ、スフィアドール業界を捨てたことで、あいつはもうすぐ最終行動に出てくる。
 その気配はエリキシルバトルの参加者や、業界関係者だけでなく、これまで関係なかった人にも感じられるほどになっていた。
 ――僕は、どうするか……。
 これからどうするのかまだ考えられていない僕は、残っていた夏姫と近藤に軽く目配せをしてから、教室を出ようと歩き始める。
「克樹」
 そんな僕に立ち塞がったのは、遠坂明美(とおさかあけみ)。
 両手を腰に当てて睨みつけてくる彼女の目の下には、微かな隈が見えた。
「今日、このあと集まるんでしょ?」
「……お前には――」
「ワタシには関係ない、なんて言うつもり?」
「うっ……」
 鋭い視線とともに言おうとした言葉を制されて、僕は喉を詰まらせていた。
 昨日は、もう時間が遅かったこともあって、あの後すぐに解散していた。
 夏姫や灯理、近藤の三人だったら最悪泊まってもらってもよかった気がするが、遠坂を追い返す理由が必要だった。
 それに、情報の整理と、気持ちを落ち着かせるための時間もほしかった。
 いまでもまだ気持ちが落ち着いたとは言い難いし、いろいろと思うところがあったのに布団に入った途端寝てしまって、百合乃とは充分に話せてない。
 だから今日、このあと僕の家に集まって、情報共有する予定だった。
 ――本当に、遠坂は勘が鋭いどころじゃないな。
 アリシアの姿をしていたのに百合乃を言い当てたことも凄かったが、相変わらず遠坂には隠し事はできない。
「家の手伝いあるから帰ってすぐってわけにはいかないけど、必ず後で行くから待ってて」
「……わかったよ」
「ん」
 沈黙でやり過ごすこともできなくて、僕は仕方なくそう答え、少し寂しげな笑みを浮かべてる遠坂に頷きを返していた。


            *


 家で落ち合う約束をしている夏姫と近藤とは別に、僕はひとりで校門を出た。
 下校する生徒の波に揉まれながら国道沿いの歩道を歩き、最寄り駅から離れる方向の路地に入ると、一気に人の気配が減った。
 少し視線を上に向けると、もうすっかりくすみのない十一月半ばの冬空が広がっていた。
 空は晴れ渡っていて、雲ひとつなく、空っぽだ。
 まるで僕の心の中みたいに。
 ――まだ、信じられないな。
 ゆっくりと家に向かって歩きながら、僕はそんなことを考えていた。
 モルガーナと対峙し、エイナと戦ったのは昨日の晩のこと。
 記憶にも、感覚にもそのことに間違いはない。
 でもなんとなく、それはもうすっかり遠い時間に起きたことのように思えていた。
 いまも耳につけてるイヤホンマイク。
 携帯端末経由で家のシステムと接続しているそこからは、何の音もしない。
 昨日までは、リーリエがいた。
 アリシアを自分の身体とした後も、彼女は家のシステムとリンクして、僕に話しかけることができていた。
 いまはもう、リーリエが話しかけてくることはない。呼びかけても返事はない。
 リーリエは、消滅してしまった。
 ――僕はまた、間に合わなかったんだな。
 リーリエに裏切られたんだと思った。
 リーリエのことが信じられなくなった。
 リーリエと向き合うことができなくなった。
 でもみんなに言われて、これまでリーリエと過ごした時間を思い返して、あいつが裏切るはずなんてないと、やっと思い起こすことができた。話し合う決意ができた。
 そしてリーリエが叶えた願いは、百合乃の復活。
 知ったときには手遅れだった。やっと向かい合おうと思えたときには、間に合わなかった。
 ――僕はいつも、一歩遅いんだ。
 右手を強く握り締め、奥歯を噛みしめる。
 後悔したところで意味はない。百合乃の復活でエリクサーは消費され、もう大きな奇跡は起こせない。
 僕は大切なものを、手放してしまったんだ。
 角を曲がると、僕の家が見える。
 うつむいてしまっていた顔を上げ、僕は歩調を上げる。
 立ち止まってはいられない。いつまでも悔いてはいられない。
 ――僕にはまだ、守りたいものがある。
 門を開けて玄関まで歩き、携帯端末をポケットから取り出した僕は、ひとつ深呼吸してから、解除パネルに手を近づける。
 端末認証で解除するよりも先に、ガチャリと鍵が開く音がした。
 空色の、笑顔。
 玄関の扉を開けた先に立っていたのは、空色のツインテールを左右に垂らし、白いワンピースを身につけた、アリシア。
 ――本当に、リーリエと百合乃は、似ているな。
 玄関に待っていた笑顔を見て、固まってしまった僕はそんなことを思う。
 同じアリシアのボディを使っていても、違いのあるリーリエと百合乃。
 それでもやっぱり、ボディが同じという以上に、ふたりは似ていた。
「お帰り、おにぃちゃん」
「うん。ただいま、百合乃」
 笑顔で返して、僕は靴を脱ぐ。
 ――次は絶対に、失敗しない。
 百合乃とともにLDKに入りながら、僕はその思いを胸の中に強く抱く。
 ほんの少しの油断で、百合乃は掠われ、死なせることになってしまった。
 向き合うと決めたときには、リーリエと話す時間は残っていなかった。
 いま、スフィアドールの身体で復活した百合乃だけは、そんな後悔をするようなことはしないと、僕は誓う。
 ――リーリエの願いのためにもっ。
 ニコニコと笑っている百合乃に笑顔を返しながらも、僕は強く強く、拳を握りしめていた。


            *


 ゆくりとした歩調で病院の廊下を歩き、周囲に不穏な気配も、それを感知したという情報もないことを携帯端末で確認してから、病室の扉を開く。
「お帰りなさい」
 ベッドで半身を起こした体勢でそう声をかけてきたのは、平泉夫人。
 声をかけてきながらも、煌びやかな装飾が施された愛用のスマートギアを被る夫人は、芳野の方に注意を向けている様子はない。
 ベッドの周りにはいくつかの棚が置かれ、そこには屋敷から持ち込んだり新たに購入したりした、書籍や機材が詰め込まれている。病院とは言ってもVIP用であるこの病室は、すでに平泉夫人の城と化しつつあった。
 淡い水色の入院服を着ながらも、長い髪にはツヤが戻り、顔色も健康そのもの。
 まだ検査や経過観察は必要であるが、平泉夫人がすっかり元気である様子に、芳野は表情は変えないものの、こっそりと安堵を覚えていた。
「お連れしました」
「えぇ」
 応えてスマートギアを脱ぎ、黒真珠のような瞳を露わにした夫人は、芳野の後ろに着いて病室に入ってきた人物に目を向ける。
 安原家現当主、平泉夫人の実父。
 和装に身を包む彼に病院の粗末な椅子を勧めた芳野は、屋敷から持ち込んだワゴンに近寄り、お茶の準備を進める。
「思いのほか元気なようではないか」
「おかげさまで。と言いたいところですが、先日までは死にかけていましたからね。まだ完調というわけではありませんよ」
 眉根にシワを寄せている頭首に、夫人は涼やかな笑みを返していた。
 完調ではないと言うが、あり得ないほどの回復を見せた夫人は、もうすぐ退院の予定となっている。体調も入院する以前よりも良くなっているほどで、若返った印象すらあった。
「本当にあのまま目を覚まさないくらいのつもりだったのですけどね」
「お前――」
「奥様!!」
 頭首が文句を言うよりも大きな声で、芳野は平泉夫人の言葉に反応してしまっていた。
 紅茶の準備を終えて運んで行ったワゴンに乗せた芳野の手に自分の手を重ね、夫人は優しげな笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。言ったでしょう? 私は助けられた、って。助けられたからには、あの子たちから託されたことはキッチリこなすつもりよ」
「……いったい誰に助けられて、何を託されたというのだ」
「この件の一番の被害者の子たちに、人間の未来を、ですよ。私にできることは、あの人に小さな針を突き立てる程度がせいぜいだけれど」
 そう言って笑う平泉夫人に、ワゴンに手を伸ばしてカップを手に取った頭首はひと口紅茶を飲み、渋みではあり得ないほど目元に深いシワを刻んでいた。
「殺されかけたというのに、まだ続けるつもりか」
「えぇ、もちろん。やられっぱなしで黙っていないのは、貴方が一番ご存じでしょう?」
 唇の端をつり上げて笑う平泉夫人に、頭首は大きなため息を吐いた。
「それにいま、まだ私の生存が知られていないからこそ、反撃のチャンスと言えますからね」
 平泉夫人が生存し、目を覚ましていることは、公には発表していない。
 すでに反撃のための準備を始めている夫人は、ごく身近な人物とだけ連絡を取り、その人々を経由して行動をしている。芳野もそれを手伝って、様々な場所を訪ね回っていた。
「確かにそうだろうな。お前が倒れてからこっち、儂のところに魔女に関する問い合わせや結束の呼びかけが届いている。それに加えて、昨晩のスフィア一斉停止だ。儂の領分ではないと言うのに、今日は朝からいろんなところから発破をかけられている」
 紅茶を飲み干しカップをワゴンに置いた頭首は、身体をわずかに前に乗り出し、凄みのある視線で夫人を見つめる。
「こちらが動かずとも、すでに魔女に対抗する勢力は出来上がっているし、包囲網も完成しつつある」
 懐から取り出したカードケースに入ったメモリーカードを頭首から差し出され、芳野はそれを受け取って平泉夫人にタブレット端末とともに渡した。
 中身を読み取って端末に表示した夫人は目配せの後、芳野にも見えるようタブレットを傾ける。
「……っ!」
 ベッド脇に立って表示された情報を見た芳野は、声にならない声を上げてしまっていた。
 参加者のリストと思われる人物名の一覧には、国内だけでなく国外の人物の名前もあった。そしてそのどの名前も見覚えがあり、スフィアドールやロボット業界に留まらない、広い分野の人物が掲載されていた。
「彼らは別に大きな集団をつくって連携しているわけではない。放っておいてもそれぞれに動く。だが、お前の生存というきっかけで、一気に魔女排斥に動き出すはずだ」
 鋭いのとは違う、厳しい視線を夫人に向ける頭首。
「しかしそのとき、お前はその先頭で旗振り役として祭り上げられかねない。そうなってしまえば、お前はお前の意図しない形で偶像として扱われるかも知れないぞ」
「この件で英雄になる覚悟くらいならばありますよ。それくらいにはあの魔女のことは嫌いですし、あの人の排除は必要なことですからね」
 頭首の視線に怯むことなく微笑みを浮かべている夫人は言う。
「ですけど、そうね……。事態が落ち着いたら、隠居生活でも始めたいわね。まだそれほどの歳ではないけれど、あんまり騒がしいのもイヤなんですよ」
「……静かに暮らすことなんて、できやしないクセに」
 ニコニコと笑っている夫人に、頭首は息を吐くとともに苦笑いを浮かべていた。
「お前の意図はわかった。儂はお前に全面的に協力しよう。――ただし、条件がある」
 タブレット端末を夫人から渡され、内容を改めていた芳野はその声に顔を上げた。
 不満なのかどうなのか微妙な表情を浮かべている頭首に対し、何を言われるのかわかっているのか、夫人は目を細めながら微笑んでいた。
「なんでしょう?」
「今回のことで身に染みただろう。お前に関わる業界は決して大きいとは言えないが、その分お前程度の規模で動いている者でも、突然倒れてしまえば影響はかなり大きくなる」
「そうですね。もう少し独立性が高いと思っていたのですが、想像以上に影響が大きかったようです」
「それはお前がそれだけ深く関わり、育ててきたからだ。投資金額には依存しない影響力を持っている。……それで、本題だが」
 なぜかちらりと芳野の方を見てから、頭首は言った。
「いまのうちに、後継者を指名しろ」
「まだ、私はそれほどの歳ではないと思っていますけど」
「それはもちろんわかっている。だが、今回のようなこともある」
「今後はおそらく、私はただの裏方ですよ。あまり気分の良いものではないですけど、戦いはあの子たちが行うことです。彼らの支援とわずかばかりあの魔女を追い立てる仕事。それが私の役割です」
「だとしても、いつ何があるかわからない。子供のいないお前には後継者が必要だ。それはお前だけでなく、お前に関わる人間たちにとっても必要で、安心に繋がる要素でもある」
 苦々しい顔をして言う頭首に対し、平泉夫人は何を考えているのか、涼しい顔で応えていた。
 芳野が思い出す限り、スフィアドール業界やロボット業界に、平泉夫人の後継者になれそうな人物はいない。
 後継者とは仕事や理念を引き継ぐというだけでなく、夫人の死後にその資産をも引き継ぐということ。身内と呼べるほどに身近か、そうなれるほど気の合う人物でなければ、後継者にはなり得ないだろう。
「人というのは突然に死ぬ。できる限りの対策を取っていても、絶対はない。お前には、自分が死んだ後も遺していきたいものがあるのだろう?」
 目を逸らし、顔を伏せて話す頭首は、そう言って夫人の目を真っ直ぐに見つめた。
 表情を引き締め、細めた目で見つめ返していた夫人は、ゆっくりと瞼を閉じ、口元に笑みを浮かべてから答えた。
「そうね……。その通りね」
 目を開け、優しげな色を瞳に浮かべた夫人は、芳野を見る。
「そのときはお願いね」
「――え?」
 言われたことの意味がわからなくて、芳野は反応できず呆然としてしまう。
 ――わたくしが、奥様の後継者?
 じっと見つめてくる夫人の様子に、その意味を理解するが、納得はできない。
 どう言葉を返していいのかわからなくて、芳野が安原家頭首の方に目を向けると、厳しい表情を浮かべていることの多い彼は、目元にシワを刻みながら笑んでいた。
「わ、わたくしには、奥様のようなことは……。奥様と同じことはできませんっ」
「同じでなくていいのよ。貴女は、貴女のやりたいようにやればいい。やり方自体は、私の側にいたのですから、充分理解しているでしょう?」
「それは……、そうですが……」
「大丈夫よ。いままでやってこなかったことは、これから経験していけばいいのだから。それは私がこれから教えるわ」
 真っ直ぐな瞳で見つめてくる平泉夫人に、芳野は言葉を失っていた。
 おそらく、夫人が自分を拾ったのはただの気まぐれだった。
 本人もそう言っていたし、最愛の人を亡くし、道を失っていたときに見つけた芳野を、代替行為として保護しただけだ。
 そのことには感謝してもしきれないし、多少人間の生活としてはおかしなところはあったとしても、いまの生活ができているのは平泉夫人のおかげだった。
 それ以上のことを望む気は、芳野にはなかった。
 けれど同時に、いまの平泉夫人がなんのために自分を側に置き、この先どうしていくのかを考えることはあった。
 まさか後継者などという役割を言われるとは、想像したこともなかったが。
 ――そんなこと、できるだろうか。
 後じさって逃げ出したい気持ちを抑え、どこまでも黒く、吸い込まれそうな平泉夫人の瞳を、芳野はじっと見つめる。
 自分が、少し前と変わってきていることを感じる。
 いまだけで充分で、いまが変わらなければいいと思っていた自分が、いまより先を考えるようになっていた。
 その想いは、彰次と出会ったことで生まれた。
 どうしてそんなことを思うようになったのかと、どうして彼なのかということは、考えてもよくわからない。
 でも、平泉夫人の後ろに着いて歩くだけでなく、彰次と肩を並べて歩いていきたいと、そう考えるようになった自分がいることには気づいていた。
 ひとりの人間として、歩いていきたかった。
 平泉夫人が言っているのは、そうできる機会を与えてくれるということ。その貴重な機会を大切にしたい、大切にすべきだと芳野は思った。
「わたくしに、できるでしょうか?」
「できるかどうかなんてわからないわ」
「え……」
 唇の端にイタズラな笑みを浮かべて言う平泉夫人に、芳野はいよいよ本格的に逃げ出したくなる。
「でもそんなものよ。自分ができることを、できる限りやる。それ以外のことはできないの。私にもね」
 ちらりと安原家頭首の方を見て見ると、夫人の言葉に彼も頷いていた。
「考える必要はあるけれど、悩む必要なんてない。自分の持っている力で、自分のできることをすればいい。それだけよ。――それにね」
 ベッドに座ったまま平泉夫人が手を伸ばしてきて、芳野の胸元を指さす。
「貴女のここには、やりたいことも、夢もあるでしょう?」
「……はい」
 平泉夫人の指先が、服の上から触れているだけなのに、暖かかった。
 拾われたときには、やらなければならないことしかなくて、やりたいことなど考えたこともなかった。
 けれどいまは、やりたいと思えることが、胸の中にある。
 ――ひとりではできない。でも、奥様がいるのならば……。
 指先から伝わる暖かさが、胸の奥に熱をくれているようだった。
 想いを抱き、芳野は平泉夫人の目を見つめ返す。
「力だけあっても意味はないのよ。善しにつけ悪しにつけ、行き先を持たなければ、何もできないの。それがある貴女は、大丈夫よ」
「はい。けれどわたくしには――」
 平泉夫人が大丈夫と言ってくれるなら、自分にもできるような気がした。
 それでも芳野のわだかまりは拭えない。
 一度は絶縁したと言っても、いまは関係を取り戻しつつある安原本家には、夫人の兄弟もいれば、親戚もいる。資産を運用する会社をつくるほどの規模である平泉夫人の資産は、個人としては巨大だ。
 後継者になるということは、夫人がこれまで築いてきた人脈をも引き継ぐことになるはず。それは金銭的な資産よりも大きな価値があるものだった。
 そんなものをこれまでそう短くなく仕えてきたとは言え、血縁でもない他人に過ぎない自分が受け継ぐことに不安を覚える。
 表情を曇らせている芳野の心を読んだかのように、平泉夫人が言った。
「そうそう。後継者になってもらうに当たって、貴女には私の娘になってもらうわ」
「……え?」
 思わぬことを言われて、思考が止まる。
「最初から考えていたのよ。出会った頃の貴女では、私を信用できなかったでしょうし、心の準備もできていなかったから言わなかった。けれど貴女の望むものを与え、育ててきたのは、そのつもりが最初からあったからよ」
「奥様……」
「それでも不安なのはわかるけれど、貴女はもうひとりで立っているわけではないでしょう? 誰よりも頼りになって、支えてくれる人がいる。支えたいと思える人がいる」
「うっ……」
 こんなところで名前を出さずとも彰次のことを言われて、芳野は顔が熱くなるのを止められない。
「娘と言っても、それほど年齢が離れているわけではないから、私もすぐには引退するつもりはないけれどね。それでもこれから実行する魔女との戦いについては、後継者として着いてきてもらうから」
「――わかりました」
 火照ってしまっている顔をひとつ深呼吸して抑え、芳野は夫人の言葉にはっきりと返事をした。
 覚悟が充分とは言い難い。
 不安も恐怖も抱いている。
 それでも芳野ができる限りの視線で見つめると、夫人は黒い瞳に嬉しそうな色を浮かべて笑んだ。
「いろいろと準備をしなければならないな。それに、魔女との対決はもう始まっている。こんなところで寝てばかりいないで、さっさと出てこいよ」
「えぇ、わかっていますよ」
 いままでの緊張も、これまでの確執もほぐれた夫人と頭首は、そんな軽いやりとりをしつつ、見つめ合っていた。
 ――あの人は、どうされるのでしょう。
 ふたりに新しい紅茶を淹れるべく準備を進めながら、芳野は彰次のことを想う。
 時間が足りなくてまだ充分な返事はできていないが、昨晩リーリエとエイナが戦い、リーリエが消滅して百合乃が復活したことについては、克樹からのメッセージで把握していた。
 その過程で、エイナの意思が封じられたことも、克樹から教えられていた。
 世界中のスフィアが一斉に停止したことも含め、とんでもないことになっているのはわかっていた。
 そんな中で、東雲映奈(しののめえいな)との過去に決着をつけると宣言した彰次が、どう動くかが芳野にはわからない。
 ――危険なことは、していないと良いのですが。
 決着をつけてほしいと願ったのは芳野だったが、彰次の命の危険があるような渦中に飛び込んでほしいわけではなかった。
 新たな紅茶を淹れたカップをワゴンの上でふたりに振る舞った後、芳野は窓から見える青空を仰いでいた。


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