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第五部 第二章 リップルウェーブ
第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第二章 3
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「……なんだ?」
何かが焦げているような臭いに、近藤誠は目を醒ました。
掛け布団も被らずに横たわっていたベッドから身体を起こすと、薄いカーテン越しに見える外は暗く、部屋は肌寒い。
そして何故か、電灯が点いていた。
灯理を駅まで送り、その足で誠を受け入れてくれ、稽古もつけてくれる先輩の家の道場に行き、ちびっ子の空手教室の手伝いをしてきた。
その後先輩と、その父親である師範に稽古をつけてもらってからマンションの部屋に帰り、身体と精神の両方の疲れからベッドに横になって、そのまま眠ってしまったらしい。
まだ部屋はある程度明るかったから灯りは点けてなかったはずだが、寝起きで頭が回ってないためよく思い出せない。
さっきより薄れたが、まだ残っている焦げ臭さにベッドから出て部屋を見回すと、人影があった。
部屋にあるのはクローゼットとチェスト、少し広めだからか対面式のキッチンと、トレーニング器具、それから勉強机にも使っているふたり用の狭いテーブル。
キッチンとの仕切りに寄せてあるテーブルには椅子が二脚。
人を招いたことはないので使ったことのない片方の椅子には、座っている人影があった。
人影よりも先に、誠の目を釘付けにしたもの。
「……これは?」
テーブルに置かれた皿の上には、黒と黄色が入り交じる物体が乗っている。
誠はそれに、見覚えがあった。
よろよろとした足取りでテーブルに近づき、誠は素手でその物体をひと切れ取る。
焼き色というにはあまりに黒い、黄色よりも黒の面積が大きいそれは、卵焼き。
震える唇に焦げた卵焼きを運び、口に含んだ。
「――ちゃんと塩の分量は量れっていつも言ってただろ」
「適量はちゃんと計ったんだよ? ただちょっと、さじ加減を間違えただけだよ!」
不貞腐れた声を出している人物に目を向ける。
ガーベラ。
椅子に座って唇を尖らせているのは、アライズしている、身長一二〇センチのガーベラだった。
「前も……、同じこと言ってた、だろ」
「そうだっけ? あ、ほら。どうせなら思い出してもらいたくってさ、わたしだってわかるように。それにこの身体じゃキッチン使いにくくってさぁ」
「どうせまた、つくってる途中で、別のこと考え始めて、そっちに気を取られてたんだろ」
「うっ……。そ、そんなことはない、よ?」
「相変わらず嘘がヘタだな、――梨里香」
言って誠は、ガーベラの身体に両腕を回し、抱き寄せた。
「やっぱり、わかっちゃうんだね」
「そりゃ、そうだろ。梨里香は、――梨里香が、平常運転だから、な」
疑う余地などなかった。
その姿はエリキシルドールのガーベラ。
けれどもその中身は、亡くなってしまったかつての恋人、椎名梨里香。
どんな姿をしていても、梨里香が梨里香である限り、誠が間違えるはずがない。そして彼女も、もう亡くなっているのに、一緒に過ごしていたときと何も変わっていなかった。
想いとともにこみ上げてくる嗚咽を漏らしながら、誠は梨里香が顕現しているガーベラを強く抱き締める。
エリキシルバトルに参加すると決めてから、願いが叶うまで泣かないと決めていて、克樹に負けたとき以降は泣かなかったのに、あふれ出る涙がガーベラの黒いセミロングの髪を濡らしていた。
そんな誠の背中を、梨里香は優しく撫でてくれる。
「何にも食べずに寝ちゃったみたいだから、夕食くらいつくって上げようと思ったんだけどね」
「いつもこんなくらいしかできなかっただろ、梨里香は」
「むぅ。たまには成功してたでしょう?」
「そうだったな」
身体を撫でてもらっている間に、衝動的な気持ちは収まり、誠は身体を少し離してガーベラのことを見る。
ワインレッドのハードアーマーと黒いソフトアーマーを纏うパワー寄りのバランスタイプのボディは、身体が弱くて痩せていた彼女とは似ているとは言い難い。
しかしクセのない髪と、顔つきは似ていて、何よりいまガーベラが浮かべている優しい笑みは、誠の記憶にある梨里香そのものだった。
「久しぶりだね、まこっちゃん」
「あぁ」
「わたしを復活させるために、頑張ってるみたいだね」
「……なんで、それを知ってるんだ?」
病院で息を引き取って二年以上が経っているのに、柔和な笑みでそんなことを言う梨里香に驚くことしかできない。
「だって、残ってるから。――ここに」
言って梨里香は自分の、ガーベラの頭を指さす。
「そこって……」
「スフィアだよ。エリキシルスフィアには、まこっちゃんの戦いも、まこっちゃんの願いも、まこっちゃんの想いも、全部残ってるんだ。……何て言うかさ、恥ずかしくなるよ。まこっちゃんって、わたしのことそんなに好きだったんだ?」
「うっ……」
全部知られているという事実に、誠は恥ずかしくなって思わず後退る。
何よりもガーベラをアライズさせるときにいつも込めていた想いは、本人に伝えたことがないほど強いものだったから。
火を吹きそうなほど熱い顔を隠して逃げ出したくなったが、伸ばされたガーベラの右手に右手をつかまれ、それ以上離れられない。
離れたくない。
――あぁ、やっぱりオレは、いまでも梨里香のことが好きだ。
椅子に座っている梨里香の膝に膝が触れるほどの距離まで引っ張られて、誠は改めてそう思う。
いまの誠がいるのは、すべて梨里香のおかげだった。
出会いは不幸な事故で、誠は梨里香に怪我をさせてしまったが、彼女は許してくれた。
悪い道に行きかけていた誠を半ば無理矢理に正してくれたのも彼女だったし、空手に真面目に打ち込むよう言ってくれたのも彼女だった。
冷え込んだ家から出ていまの高校に行くのを勧めてくれたのも彼女で、スフィアドールの趣味に巻き込まれたりもしたが、彼女と一緒ならば楽しかった。
高校に通う体力はなく、虚弱な体質を改善するために東京の病院に転院することが決まった直後、梨里香は風邪をこじらせて体調を崩し、そのままあっけなく逝ってしまった。
調子がいいときは秋葉原まで遠出もできたが、一度体調を崩すと入院では済まない身体であることがわかっていたため、恋人としてつき合うようになっても、誠は梨里香と未来について話すことはほとんどなかった。
ずっと一緒にいたくて、一生側にいるつもりだった彼女の死は、一瞬だった。
死に目にも会えなかった。
「梨里香」
「うん」
名を呼んだだけなのに、彼女は誠の意図を理解する。
両腕を伸ばした彼女の身体に腕を回し、また抱き締める。
ガーベラの身体をした、小さな梨里香は誠の首にすがりつく。
もう二度と、会えないと思っていた。
もう一度、会いたくて仕方がなかった。
強く、強く想い焦がれていた梨里香は、いま誠の腕の中にいた。
――オレは願いを、諦められない。
克樹や猛臣、夏姫にはまともに戦っても勝てないのはわかっている。
それでも恋人の復活を願う誠は、手段を選んではいられない。
そんなことを思うくらい、誠は梨里香のことが好きだった。
――オレは、梨里香が好きだ。梨里香と一緒に生きていきたい。
細くも柔らかくもない、エリキシルドールの梨里香をかき抱きながら、誠はそう思う。
だからそれを、言葉にする。
「オレは絶対、お前を生き返らせるから」
「ヤダよ」
即答だった。
梨里香の意外な言葉に硬直し、零れていた涙も止まった。
押し退けるように身体を離されて見た梨里香の顔は、不満そうに唇を尖らせていた。
「まこっちゃんじゃ克樹君とか槙島さんには勝てないでしょ? また最初のときみたいに、エリキシルバトルじゃなくて、腕力を使うつもり?」
「それは……」
「わたしは、そういうまこっちゃんは嫌い。わたしが悲しくなるようなこと、もうしないって誓ってくれたよね?」
「うぅ……」
「必死だったのはわかってる。反省してるのも知ってる。だから最初のときは許す。でも、もう二度とやらないで」
悲しげに瞳を揺らす梨里香に、誠は何も言えなくなる。
けれど、勝てない敵に勝つための手段を封じられては、彼女を復活させることができない。
「オレは――」
「それにね、まこっちゃん」
何とかして説得しようと口を開いた誠の唇を人差し指でふさいで、泣きそうな顔の梨里香は言う。
「わたしは、復活なんてしたくない」
エリキシルドールの身体である梨里香は、その瞳に涙を溜める。
「だってさ、願いはひとつしか叶わないんでしょ? わたしだって、まこっちゃんと一緒にいたいよ。一緒に生きたいよ。でもね、願いはひとつなんだ。生き返っただけじゃ、わたしの身体は弱いままなんだよ」
言われて誠は気がついた。
復活しただけでは梨里香の生活は変わらない。いつ体調を崩して逝ってしまうのか、わからない生活に戻るだけだ。
「生き返って、まこっちゃんと一緒に生きて、大人になって、結婚して、ふたりの子供つくって、一緒に歳を取っていけたなら、って思う。わたしもまこっちゃんに負けないくらい、まこっちゃんのことが好き。大好き。愛してる」
目尻から涙を零しながら、笑顔で梨里香は続ける。
「でもそのためには、叶う願いがひとつじゃ足りないんだ。そりゃわたしだって、生き返りたいと思うけど――」
「だったら!」
唇をふさぐ手をつかんで、誠は叫ぶ。
それに対して涙を散らしながら首を横に振り、梨里香は悲しげに笑んだ。
「たぶん、わたしは我慢できないと思うんだ。長く生きるのが難しいのはわかってる。生まれついてのことだからね。だから最初は覚悟できたんだ。まこっちゃんと長くは一緒にいられないこと」
梨里香の言いたいことを、誠は徐々に理解する。
頭でわかっていても、納得はできない。
だからと言って、ひとつしか叶わない願いでは、たとえその権利を得たとしても、どうしようもない。
「復活して、もう一度まこっちゃんより早く死ぬなんて、わたしは堪えられない。笑ってまこっちゃんの側にいられない。わたしはわがままだから、生き返るなら、一緒にお爺さんお婆さんになるまで生きていけないのはイヤなんだ」
もう笑顔でいることもできず、梨里香は小さな顔をくしゃくしゃに歪ませる。
誠もまた、同じように顔を歪ませて泣いていた。
「それができないなら、生き返られない方がマシ。こうしてまた会えた。それだけで充分。だから、わたしを生き返らせようとなんて、しないで」
涙を指で拭った梨里香は、笑った。
満面の笑みを、誠に見せる。
――死んだ後も、梨里香は変わらないな。
そう感じた誠も笑う。
止まらない涙を流しながら、ふたりで笑む。
梨里香の言葉が強がりであることは、誠にはわかっていた。
苦しかったり、痛かったりするのを見せるのが嫌いな梨里香は、いつも誠にそれを隠して笑っていた。
それと同時に、彼女の言葉が本心であることも、理解していた。
だから誠は、もう彼女の想いに口を挟むことはできない。
「いまはまこっちゃんにはいい友達もいて、まこっちゃんのことを気にかけてくれる女(ひと)もいるよね?」
「そっ、それは……」
「まこっちゃんは強いよ。でも敵になる人はもっと強い。それに、この戦いの後ろにいる人は、本当に恐ろしい人なんだ」
「魔女のことか?」
「うん……。わたしのこともさ、忘れてほしくないけど、まこっちゃんはいま側にいる人のことも見て上げて。まこっちゃんは、いまに生きてる人なんだから」
「……あぁ」
「死んだ後だけど、一生のお願い。わたしが愛した人には、幸せでいてほしいの。だから、笑って。笑って、いまを生きて」
「わかった」
頷くことしかできなかった。
梨里香の願いを、誠は胸に刻む。
ガーベラに宿った瞳の輝きが、失われつつあるのに気がついていた。
時間切れが近づいている。
「好きだよ。愛してるよ、誠。貴方の出会えて、わたしは幸せだった」
「オレもだ。お前に出会えて、オレは幸せを見つけられた。愛してる、梨里香」
頬に添えられた手に、誠は梨里香の身体を抱き寄せ、顔を近づけた。
目を閉じた梨里香の唇に、唇を重ねた。
「さよなら、誠」
「さよなら、梨里香」
最期に梨里香が見せたのは、最高の、幸せがあふれ出る笑顔。
そして、アライズが解除された。
「梨里香……。梨里香!」
一二〇センチのエリキシルドールから、二〇センチのピクシードールに戻り、力なく椅子の上に転がったガーベラを、誠は胸に抱く。
「梨里香っ」
あふれ出る暖かい気持ちと、冷たい寂しさに、誠はただ、愛する者の名を呼び続けた。
*
「お前はこんなものと戦うつもりか」
不機嫌な声とともに机の上に書類の束を投げ出した老人は、平泉夫人を射貫くように睨みつける。
その言葉に応えることなく、涼しい顔で散らばった書類をまとめ、艶やかな模様がありながらも黒く沈んだ印象のある和服に身を包む夫人は、手に取りめくっていく。
広く取られた窓の前に据えられた大きな机。
壁に沿って置かれたキャビネットには、分厚い本とともに様々な賞状や盾などが並ぶ。
金細工や絵画、趣味のひとつである狩猟で打ち倒した熊の毛皮など、少々華美に揃えられた執務室の主は、装飾性より実用性を重視したオフィスチェアから平泉夫人を睨みつける。
安原家の現当主。
平泉夫人、旧姓安原敦子の父親。
齢は六〇を超え、すっかり白くなった髪を綺麗に整え、少しばかり恰幅の良すぎる身体を和装に包み、シワが刻まれつつも張りのある肌をした彼は、書類に目を通している夫人の様子に、眉間のシワを深くする。
すでに法律上でも絶縁されている実家を夫人が訪れたのは、頭首に呼び出されたからだった。
夏にあった夏姫の父親に関わる事件。
手回しの時間と手間を短縮するために、もう何年も接触すらなかった父親に連絡を取った。
古くから有力者として日本を支えてきた家柄のひとつである安原家の力を借りるためであり、同時に安原家にも利益のあることだったからだ。
それにより平泉夫人は望んだ形で事件を決着させ、連絡ひとつで安原家は直接的にではないが、未来に影響のある利益を得た。
そうした家の力を利用するためだけでなく、生きている間は二度と会うことはないだろうと思っていた父親に連絡を入れたのは、そうするべきタイミングでもあったからだった。
「さすがの調査能力ですね」
「必要ならば必要な分だけ調べる。金と時間はかかろうと、充分と言えるまではな。……しかしこいつはいったい何だ? 本当に人間なのか?」
安原頭首が投げ出した書類は、モルガーナに関する調査報告。
おそらく可能な限り慎重に、細心の注意を払って行われただろう調査結果は、平泉夫人が把握しているよりも広く、深い情報だった。
その内容は、すでにモルガーナの存在を知っている平泉夫人であっても、驚くものが少なからずある。
「魔女ですよ。最初に言ったでしょう」
そう言い放った平泉夫人に、安原頭首はさらにシワを深くして顔を歪ませた。
人間社会を左右できる個人や集団は、世界に少なからずいるが、モルガーナの影響力は常識の範囲を超えていた。
その気になれば、本当に人間社会をひっくり返せるほどの人脈と影響力が、彼女にはある。
人間社会を掌握していると言っても過言ではない。
それほどの力を持った人物は世の中に複数いるが、安原家の当主であっても名前すら知られず、微かにいることが臭うだけで存在を確認できていなかったのは、モルガーナくらいのものだろう。
――本当によく調べたものね。
平泉夫人でも存在の把握と実態の片鱗しかつかめなかったモルガーナのことを、安原家の当主はほんの数ヶ月で調べ上げていた。
ただ、書類の内容ですら彼女の活動の一部でしかない。
ここ半世紀分までしか遡れていない調査結果よりさらに以前がある。彼女が日本に影響を及ぼし始めたのは、おそらく一世紀より前からのはずだった。
いまでこそ日本を拠点にしているようだが、魔女の影響力が最も強いのは、欧州であり米国であろう。
「魔女か……。こうしたものは度々世の中に現れるが、しばらくすれば消える。手を出さずに放っておくのが賢明だろうよ」
「けれどもう、先制攻撃の後ですよ」
「お前は安原を巻き込むつもりか!」
先端業界には明るくない安原頭首は、最近の平泉夫人の動向までは確認していなかったらしい。
怒りで顔を赤くする彼に、夫人は涼しい笑みを返す。
「あの魔女に世界を動かす力があり、実際いま動いている以上、すでに我々は影響を受けているわ」
「だからと言って、わざわざ直接手を出す必要はなかろうっ」
「彼女の本質のひとつは、人間への憎しみですよ」
燃え上がるような瞳で睨んでくる父親に微笑みを向ける平泉夫人は、机に手を着き、彼の瞳を覗き込む。
「今回の事件の後、魔女は人間を見放す可能性があるわ」
「あちらから去ってくれるなら、それこそ放っておけばよかろう」
「彼女は人間を憎んでいる。心の底から。人間を見放すというのが、彼女が去るだけで済むのならいいのだけれどね」
エリキシルバトルについては、参加者である克樹たちのことを伏せて、持てる情報のすべてを頭首に渡してある。公にしないことを約束させた上で。
バトルのこと、魔女の実体を把握していながら手を出さずに静観するというのは、臆病とも、慎重とも言える彼らしい判断だと、夫人は思った。
けれど、平泉夫人自身はそうはできなかった。
「たとえ魔女が人間を見捨てるとしても、お前が奴の矢面に立つ必要はあるまい」
「そうはいかないのよ。魔女は人類にとって敵ではあるけれど、私個人にとっても敵なのよ」
言って夫人は、頭首に対してではない、悲しげな笑みを口元に浮かべる。
夫人がただひとり愛した男は、ありきたりな病気で死んだ。
しかしその病気は初期に発見できていれば治療が充分に間に合うもので、身体の変調を訴えた彼は何度か病院に赴いている。
若くして彼は亡くなり、それから何年も経ってから現れ、彼の復活を口にしてバトルに誘ってきたエイナと、その裏にいる魔女。
エリキシルバトルと、魔女のことを知ってから改めて調べた結果、彼を診断した病院は、少なからず魔女の影響を受けていることを知った。
魔女は直接手を下すことなく、自分の障害となり得る人物の排除をするために、診断結果を操作した。その痕跡も発見していた。
「私にとって、魔女は仇なのよ」
復讐を願いとする克樹には言えないが、平泉夫人が魔女と敵対する理由のひとつは、確実に復讐だった。
ため息を漏らし、夫人から顔を背けた頭首は言う。
「もしお前があの男のことを忘れると言うなら、いまならもう一度安原を名乗ることを許す」
「それは無理ですよ」
彼の元に向かうために家を出るときに言われたことに、夫人は同じ返事をした。
「もうこの家はお兄様が継ぐことが決まったのでしょう? あの人なら大きな問題はないでしょう」
「奴はワシ以上に慎重だからな。しかしこれからは変革の大きい時代だ。守るだけでは身を削られるだけだ。多少無茶でも、前に出る者が率いるべきだ」
「そうは言っても、私はこの家に帰ることはありませんよ」
自分の兄が思慮深く、いまの頭首よりもさらに慎重な性格であることは知っている。それは確実に、臆病さから来るものだ。
その性格が、この後の時代では有利にならないことも理解している。
巨大と言える力を持ちながら、いまなお様々な勢力と貪欲に争っている安原家の良心である兄は、同時に弱点でもあった。
それがわかっていても、夫人はこの家に帰ろうとは思えない。
「私にとってあの人と過ごした時間だけが幸せであったから。あの人と過ごした時間を忘れることは、私に死ねと言っているのと変わらないわ」
笑みを浮かべて答える平泉夫人に、安原の頭首はさらに顔を歪めていた。
「しかし、魔女に手を出すならば、お前の命とて危ういだろう。あれはそういう存在だろうに」
「目的のためならば手段など選ばないでしょうね、あの人は」
苦々しげな表情で、しかし窺うような瞳を平泉夫人に向ける頭首。
机から一歩離れ、爽やかな笑顔を見せた夫人は言う。
「けれどもし、私の命ひとつであの人の排除が叶うならば、自分の命など惜しいとは思わないわ。その程度には、あの魔女は危険なのよ」
「危険なのはわかるが、お前は何を言っている!」
拳を机に叩きつけた頭首は、身につけた和装の模様よりもあでやかな笑みを唇の端に浮かべる夫人を、強い視線で睨みつける。
「私は彼と生きて、彼と一緒に死ぬつもりだったのよ。彼が死んでから、少し長く生き過ぎてしまったわ」
「敦子、お前は……」
声を上げずともその気配だけで人を恐れさせる安原家頭首の怒りは、娘には通じない。
これから先に起こり得るものを想像し、受け入れて笑む夫人に、父親は言葉もなく叩きつけた拳を震わせていた。
「ただ、後のことだけはお願いできるかしら?」
「それは、つまり――」
「えぇ。魔女との戦いは個人的な復讐だから、できるだけ安原には迷惑をかけないつもりだけれど、もし近いうちにわたしが死ぬことになったら、後処理だけはお願いしたいのよ」
「……」
自分の死の先を笑みを浮かべて語る夫人に、頭首は奥歯を噛みしめるだけだった。
「私の持ち物はすべて処分してくださって構わないわ」
「……お前が拾った娘はどうする」
「あの子は、大丈夫よ。もう子供ではないし、いまなら自分の道を自分で選ぶこともできるわ。もし頼ってきたときは、能力を見るくらいはして上げてほしいかしらね。あの子にはいろいろと教え込んであるけれど、仕事関係の人づき合いなんかは、まだひとりでは処理できないでしょうから」
「……わかった」
頷きを返した頭首は、微笑む平泉夫人の瞳を見つめる。
黒真珠に例えられるその輝かしいばかりの瞳は、その奥底に闇を宿しているのが見て取れた。
頭首は、ただ深く、ため息を漏らした。
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