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第四部 第二章 黒白(グラデーション)の奇跡
第四部 鋼灰色(スティールグレイ)の嘲り 第二章 1
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第二章 黒白(グラデーション)の奇跡
* 1 *
「よぉ、克樹。よく来たな」
PCWに足を踏み入れると、僕が挨拶するよりも先に、カウンターに出ていた親父に声をかけられた。
「注文してたもの、全部届いてる?」
「ったく、盆休み明けでまだ流通がごたついてるってのに、急ぎとか言いやがって。どうにか全部集まったがな。お前がどうしてもって言うから、ツテで回してもらったものまであるんだぜ? 感謝しろよ」
相変わらず陳列棚と言わず、床のボックスと言わず、スフィアドールから旧式ロボットのパーツやら意味不明な部品やコードが雑多に置かれた店内を気をつけながら歩いて、カウンターまでたどり着いた。
「感謝してるよ。本当に今回は急ぎだったしね」
渡された納品書の紙を見つつ、僕はプラボックスに入った注文の品が全部揃っているかを確認する。
「しかし今回はいったい何するつもりなんだ? あんまり特殊なパーツはなかったからどうにかなったけどよ」
「んー」
全部のパーツが指定メーカーで揃ってるのを確認して、僕は納品書に書かれた金額通りに携帯端末を使って決済を終えた。
今回買ったのは予備のバッテリや人工筋なんかが主で、アリシアやシンシア用の新規パーツはない。
前回の猛臣戦の後、アリシアはパーツを見直して風林火山に適したものに交換してテストも済んでいたし、シンシアについても同様にバージョンアップを終えていた。
交換部品が主だから、お盆明けでなければ入手しやすいものばかりだ。
「明後日、天堂翔機に会いに行くんだ」
「翔機の爺に? また妙な奴に会いに行くもんだな。お前は直接面識はないだろ?」
「まぁね。今回はちょっと事情があって」
肩を竦めて見せた僕に、いつも難しい顔をしている親父は、いつにも増して難しそうに顔を歪めていた。
スフィアドールなんてものがこの世に生まれる前からロボット専門店を営んでいる親父は、まだスフィアロボティクスが零細企業だった頃から天堂翔機とは知り合いなんだそうだ。
さすがにスフィアロボティクスがいまは桁違いの規模だし、現役を引退して表に出てこなくなった彼とはしばらく会っていないそうだけど、時々連絡くらいは取ってるそうだ。
僕もスフィアロボティクス創立者、親父の友人として以外にも彼のことは知ってはいるが、直接会ったことはない。
それ以上天堂翔機の件について訊いてくることはなかった親父は、無精髭の生えた顎をなでつけながら口を開く。
「なぁ、克樹。お前たちのやってることはもうすぐ終わるのか?」
僕や夏姫たちがエリキシルバトルに参加してることを、親父が気づいてるのはわかってる。
どんなことをやってるのか具体的なところまではたどり着いていない様子だけど、独自にいろいろ調べて、割といい線まで来ているのも知ってる。
でも、モルガーナの存在までは見出してるのかどうかわからない。
こちらからヘタに情報を出してモルガーナの存在に気づいてしまったら、それで親父が何かを思い行動を開始してしまったら、さらにそれをモルガーナが邪魔だと感じてしまったら、と思うと、僕は何も話すことができない。
かも知れないことを、かも知れないことのまま、話せる範囲で話すだけだ。
「僕もよくわかってないけど、たぶんそう遠くないうちに終わると思うよ」
「そうか」
珍しく不機嫌にも見える仏頂面に考え込んでるような表情を浮かべ、親父はしばらく黙り込む。
「克樹はよ、高校を卒業したらどうするつもりだ?」
「一応進路希望は工学系の大学に進学で出してるよ。まだはっきりと決めてないけど、機械工学かロボット工学、将来性を考えたらソフトウェア方面に進むかも」
「その後は?」
「その後?」
「大学を出た後だよ」
親父の問いに、購入した商品をデイパックに詰める手が止まってしまっていた。
僕はいま高校二年の後半に差しかかるところ。進路の方向性はそろそろ決めなくちゃいけないけど、進路先を決めるにはあと一年の猶予がある。
さらにその先、大学を出た後のことなんて、まだまともに想像したこともない。
いや、本当は想像することをやめてしまっていた。
……百合乃が、死んでしまったときから。
だからそんなことを突然問われても返せる答えがない。
「……ぜんぜん、考えてないけど」
「そうか。だったら少し考えてみないか? この店を始めてもうかなりになるが、いい歳どころじゃなくなってるからな。まだ何年かは大丈夫だが、あと十年は続けられない。そのうち店を閉めるか、後継者を探すかで悩んでるところなんだよ」
「え……」
親父は確か、もう六十歳を越えていたはずだ。
会社法人になってる店は親父しかいないわけだから定年なんてものはなく、引退したくなったときに引退することになる。
そんなことわかってたわけだけど、突然後継の話なんてされても頭が追いつかない。
『どうするの? おにぃちゃん。おにぃちゃんは、将来どんな風になりたいの? ……どんな夢が、あるの?』
イヤホンマイクのスピーカーから、親父にも聞こえる声でリーリエの促す言葉が発せられる。
でもまだ高校二年の僕に、そんなことを考えることなんて無理だ。
「いや、まだぜんぜん、考えられないんだけど」
「そりゃそうだよな。別にいますぐ答えろって話じゃない。ただ来年でも、大学に入ってからでも、大学卒業する頃でもいい、答えをくれ。……答えを、直接ここに来て、言ってくれ」
真っ直ぐに僕を見つめてくる親父の視線は、たぶん後継者の心配をしてるものじゃない。
親父はエリキシルバトルのことはたぶん知らない。けれど僕たちがやってることが、命懸けの戦いであることに、気がついているような感じがあった。
「わかった。いつになると約束はできないけど、必ず答えを言いに来るよ」
「あぁ、頼むぜ」
ニヤリと笑って見せた親父の瞳には、夏姫たちや、ショージさんが浮かべるそれとは違う、暖かい色があるように、僕には思えていた。
*
市場は生き物だ、なんて話を聞くことはあるけど、その最小構成が人間である以上、それを相手にするのに一番重要なのは、最新だったり便利だったりする道具や環境よりも、立ち向かう人の資質なんじゃないだろうか。
そんなことを僕が思うのは、いつだって煉瓦造りの、古びているがしっかり手入れされている外観のお屋敷の前に立つときだ。
PCWを逃げるように出た僕は直接家には帰らず、遠回りをして平泉夫人のお屋敷に来ていた。
そろそろ日が傾いているとは言え、駅からけっこう歩かないといけないここまで、げっそりするような暑さを潜り抜けてきた僕は、深呼吸をして気分と一緒に視線を正し、玄関の大扉の脇にある呼び鈴を鳴らした。
「ようこそいらっしゃいました、克樹様」
平泉夫人は多忙だから事前にアポイントメントは取っておいたし、僕が玄関の前に立ったことには気づいていたんだろう、呼び鈴を鳴らして一拍置いた後、扉が開かれて芳野さんが姿を見せた。
――あれ?
いつも無表情か愛想笑いを浮かべているのが普通の芳野さん。
若干生地が薄くなったように思える他は変化のないヴィクトリアンスタイルなメイド服で「どうぞこちらへ」と招き入れてくれた彼女の笑顔が、なんとなくいつもと違うように感じられたのは、なんでだろうか。
「いらっしゃい、克樹君」
「今日はお時間を取っていただいてありがとうございます」
いつも通り執務室に通してもらって、この屋敷の中では簡易だけど、一般家庭には高級な応接セットのソファで紅茶のカップを傾けてる平泉夫人に挨拶をする。
「今日は少し、お訊きしたいことがあって」
芳野さんに勧められ、平泉夫人に手で促された僕はソファに座り、前置きもなしに本題に入る。
「次のバトルの相手のこととかかしら? 私でわかることなの?」
直感なのか適当なのかわからないけど、これから話そうと思ったことをズバリと言い当てられて、淹れてもらった紅茶で唇を濡らそうとしていた僕は一瞬噴き出しそうになっていた。
瞳に楽しそうな色を浮かべている平泉夫人に、僕は軽く深呼吸をしてから、話を始める。
「天堂翔機について、教えてください」
「あの人が、エリキシルソーサラーなの?」
「たぶん。バトルの招待を受けました」
「そう……。可能性なら誰よりも高い人物だけど、意外ね」
僕から視線を外し、少し困惑したような表情を浮かべている平泉夫人。
モルガーナに一番近いだろう彼は、エリキシルスフィアを手に入れられる可能性は高いと思う。
詳しい情報はなかったけど体調不良というのもあるし、年齢的には棺桶に片足を突っ込んでるくらいなんだ。エリクサーを求める理由は充分なように思えた。
平泉夫人の言う「意外ね」という言葉の真意は測りかねた。
「まぁいいわ。会いに行くというなら、エリキシルソーサラーになった理由を訊いてきてちょうだい。訊けたらで良いけれど。もし話しづらいことだったら、すべてが終わった後でもいいから」
考えるのをやめたらしい夫人は、笑顔に戻ってそう提案してくる。
いつも通りにしているようなのに、その瞳に鋭いものと、さっきPCWの親父が見せたのと同じ暖かいものが浮かんでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
「スフィアロボティクスを立ち上げてからの翔機さんについては、だいたい表に出ているから、貴方も調べた通りよ。たぶん克樹君が知りたいのは裏側や、見えていることより以前のことでしょう。私の知ってる限りのことを教えてあげるわ」
そう言って表情を引き締めた平泉夫人は、初っぱなから衝撃的なことを教えてくれた。
「あまり知られていないけれど、翔機さんは孤児だったのよ」
「え?」
夫人にも言われた通り僕も調べてみたし、リーリエにも調査を頼んでいたけど、海外の大学から日本に戻ってきた辺りまでしか彼の過去を遡ることはできなかった。
天才というのは割合としては少ないものの、世の中にはけっこういるもので、どうやら十六歳でアメリカの大学に入って、後にスフィアドール関係のことをほとんど独力で生み出した天堂翔機は、天才と言うにふさわしい人物だ。
いま認知されてる天才の他にも、実際にはその数倍の天才が世の中にはいる可能性がある、なんて話を聞いたことがある。
天才と呼ばれる人がその才能を開花させるには、家族の理解や、知人友人に恵まれることが必要だと言われ、それを持っていないばかりに開花が遅れたり、才能を眠らせたまま過ごす人もいるということらしい。
孤児であった天堂翔機が天才としてその能力を開花させられたのは、奇跡にも近い驚くべきことだと僕は思う。
「ずいぶん昔、まだスフィアロボティクスが新興企業だった頃から注目してたから、一応創立者の身上調査はできる限りしたんだけど、実の両親については全くの不明。養父や養母についても調べはつかなかったわ」
「痕跡が消されているとか、ですか?」
「おそらくはね。ただ、半世紀以上昔のことだもの、特殊な生い立ちの人でもあるし、追い切れなくても仕方のないことね」
そこで言葉を一度切って、平泉夫人は側で気配もなく控えている芳野さんに、カップを上げてお茶を要求する。
温くなってる紅茶に口をつけた僕は、考え込んでしまっていた。
天堂翔機を施設か何かから引き取り、彼の才能を開花させた人物。
それを僕は、ただひとりしか思いつけない。
「モルガーナ、ですか?」
「おそらくはね。確認は取れていないけれど」
新しい紅茶で艶めかしい唇を濡らした夫人は話を続ける。
「中学までは日本で過ごした後、一六歳で渡米して大学に入学。機械工学やロボット工学の分野で頭角を現した彼は、一八歳のときにロボットの大手企業に開発者として登録されているわ。二〇代半ばで日本に舞い戻ってきて、こちらの企業に入社。まだスフィアドールはもちろん、スマートギアもない時代だから、主に工場用のロボットアームなどの開発に携わりながら、営業としても活躍して人脈を広げていたようよ」
「人付き合いが上手い人なんですね」
「いいえ、むしろ逆よ。彼の人嫌いはけっこう有名なのよ。仕事に関することだけは弁が立つという話で、仕事に関わらないパーソナルな方面はほとんど不明。浮いた話もなかったようだし、いまの年齢になるまで未婚なのよ」
「現役時代は仕事一筋ですか……」
「それもまた違うようなのよ。ロボットやスフィアドールは好きなようなんだけど、何回か会ったことがある私の印象だと、仕事自体は嫌いなんじゃないかと思うのよ」
「んん?」
天才で、仕事もできて、ロボット好きで、でも仕事も人付き合いも嫌い。
うなり声を上げてしまった僕は、天堂翔機の人物像をつかめないでいた。
『んー。おにぃちゃんに似てる人なんだねっ』
「どういう意味だよ、リーリエ」
『なんとなぁくそう思っただけだよー』
「ふふふっ。確かに少し似ているかも知れないわね」
唐突にイヤホンマイクから発せられたリーリエの突っ込みに、夫人は身体を折り曲げながら笑っている。
「まぁ、それは半分冗談として」
半分は本気なんだ、という言葉が喉まで出かかったけど飲み込んでおく。
「彼のことについては私もよくわからないの。私も早くからスフィアロボティクスに注目はしていたけれど、見つけた頃には多くの支援者が集まっていて、スフィアドールの成功は既定路線になっていた感じがあるからね」
「それにもモルガーナが?」
「いいえ、それは違うでしょう。人脈のある人物が立ち上げる新しい市場に、最初から多くの支援者がついていることは割とあることよ。ただ、その顔ぶれには若干魔女の痕跡を感じはしたけれどね」
平泉夫人にしては珍しく、迷っているように目を細めている。いまひとつ確信がないんだろう。
「おそらく、彼が機械やロボットの勉強をし、会社に入って、スフィアロボティクスを創立したのは、あの魔女の意向よ。そしてそれ以前、彼を引き取って育てたのも、魔女の仕業だと思うのよ。これまでの彼の行動と、その周辺には、魔女の痕跡が大なり小なり見つかるわ」
「じゃあ天堂翔機は、モルガーナの操り人形なんですね」
「……それは、どうかしら?」
頬に手を添え、小首を傾げている平泉夫人。
その目は僕に向けられていながら、昔のことを思い出しているように遠くを見つめている。
「彼は、彼の意志ですべてのことをやっていたように思うの。幾度か話をしたことはあるのだけど、私にはそういう印象が残っているわ。ただし、その行動をするよう考え方から魔女に仕込まれていた可能性もあるから、何とも言えないのだけど」
「……そうですか。でも、天堂翔機が子供の頃からロボットに興味を持つよう誘導してきたんだとしたら、モルガーナはその頃からエリキシルバトルを仕込んでたんだ」
少し考えてみると、自分で口にした言葉なのに、いまひとつ現実感がない。
モルガーナが魔女で、長く生きてきたんだろうってのはわかってるけど、半世紀以上も前から、いまのエリキシルバトルを仕込んでいたなんてのは、さすがに現実感がなさ過ぎだ。
でもエリキシルバトルのためのスフィアドールで、そのための天堂翔機なのだとしたら、そういうことになる。
いったいモルガーナがどれほど生きてきたのか、僕には想像もできなかった。
「それはそうだと思うけれど、スフィアドールはおそらく彼女にとって目的を達成するための手段のひとつ、仕込みのひとつに過ぎないと思うのよ」
「仕込みの、ひとつ?」
「えぇ。私はあまり広い世界のことはわからないけれど、少し人を頼って調べてもらったの。そしたら、魔女の痕跡はスフィアドール業界だけでなく、もっと広い世界に分布している様子があるということだったわ。政界や財界が主だけど、彼女の痕跡は薄く広く、そして深く、世界中に広がってるようなのよ。だから、エリキシルバトルは彼女にとって重要ではあるけれど、目的のための手段のひとつなんじゃないかしら」
芳野さんが注いでくれた新しい紅茶をひと口飲んで、僕はソファに背中を預ける。
はっきり言って、想像もできない事柄だった。
僕にはもう、モルガーナの力と影響力のすべてを、把握することができそうにない。
「彼女は非常に巧妙よ。たいていの場合は姿を見せないまま、人や場を誘導してる。ただ他と違って、スフィアドールとエリキシルバトルに関しては、表に出てくることは極一部に限っている彼女が表に近い場所にまで出てきてる。例えば克樹君。貴方もそうした表層に現れた魔女に誘導された人のひとりよ」
「僕が?」
確かに僕はこれまでに二度、モルガーナと直接会って話をしてるけど、誘導されたと感じるようなことはなかった。
睨みつけるように見つめてくる平泉夫人の視線を、僕は理解しない。
「彼女は魔女と呼ばれているけれど、杖を振るって魔法を使うわけではないの。様々なところに種を蒔き、自分の思う方向に物事が動くようにしてる。芽吹かない種もあるでしょうし、芽吹いても触れずに遠くから観察しているだけのときもある。すべてが思う通りにならないこともあるでしょうし、時には手厚く世話をすることもある」
「平泉夫人には、どうしてそこまでモルガーナのことがわかるんです?」
「彼女の痕跡から見えてくることから推測しているのがほとんどよ。……気分を悪くしないで聞いてほしいのだけど、百合乃ちゃんのことは、百合乃ちゃん自身が彼女に重要な人物であったのと同時に、貴方にわざわざ姿を見せたのは、貴方へのアプローチでもあったと思うのよ」
「――そんな、ことっ」
『おにぃちゃん! 興奮しないでっ。最後まで聞こ?』
思わず立ち上がりかけた僕を止めたのは、リーリエの鋭い声。
『あたしにとっても重要なことだから、お願い』
「……わかった」
いつになく真剣な口調のリーリエに、僕は上げていた腰をソファに下ろす。
「ごめんなさい、克樹君。これは天堂翔機と、あの魔女のことを知るためには、把握しなければならないことだから」
「いいえ、僕こそすみません。続けてください」
悲しそうに、苦しそうに、顔を歪めている平泉夫人から視線を逸らして、でも僕は先を促した。
『そういうことなんだったとしたら、あたしのこともずいぶん前から計画に入ってたってことなのかな?』
いつもの、少し間延びしたような感じは変わらないのに、でも微かに震えてるような、人間のように身体はないのにまるで人間のように、リーリエはイヤホンマイクのスピーカーから平泉夫人に問う。
「可能性があるという意味では、リーリエちゃんのことも魔女の計画のうちでしょうね。おそらく百合乃ちゃんのことがあったときから、実際にはスフィアカップのとき、もしかしかしたらそれ以前の、スフィアロボティクス創立の頃にはエリキシルバトルの開催を彼女は決めていたのかも知れない」
苦いものを噛みしめきれずに逸らしていた視線を上げると、僕のことを真っ直ぐに射抜くような、でも僕のことを心配しているような平泉夫人の視線とぶつかった。
「特別なスフィアの持ち主だった克樹君は、あの時点でエリキシルソーサラーの有力候補のひとりだったのでしょうね。そして貴方の叔父、彰次さんのことも考慮されていたはずよ。だから貴方に百合乃ちゃんの脳情報が入ったディスクを渡し、エリキシルバトルに参加するようし向けた。魔女の期待通りかどうかまでは、わからないけれどね」
モルガーナという存在の全貌が僕には見えないのと同様に、平泉夫人がどこまで見通せているのかがわからなかった。
印象や憶測からの言葉も多分に含んでるんだろうけど、僕がたどり着けていない場所から、僕の見えていないものを見ていることだけは確かだった。
それから浮かんでくるひとつの疑問。
紅茶を飲み干してひと息吐いた後、僕は質問してみる。
「どうして平泉夫人は、そこまでモルガーナのことを調べているんです?」
「そうね。単純に彼女のことが許せない、というのはあるかしら?」
それまであったピリピリとした雰囲気を紅茶と一緒に飲み干し、微笑みを浮かべた夫人は答えてくれる。
「でもそれだけじゃないわね。はっきりとはわからないけど、彼女の望む方向と、私の望む方向が競合してしまうから、かしらね。私にとって魔女は敵なのよ。それは魔女にとってもそうでしょうけれど、力の総量で考えたら、私はあの人の足下にも及ばないわ。それでも私の望みを通せるように道を造らなければ、次の世代が、さらにその次の世代が失われてしまう。私が魔女と戦っている理由は、そんなところよ」
楽しげに笑っている平泉夫人が、僕のためとか、百合乃のためというだけで動いているわけじゃないのはわかった。
彼女の見ている世界は、僕には遠くて見通すのが難しそうだけど、それでも浮かんでくる疑問がある。
「……モルガーナは、いったいどんなことを望んでエリキシルバトルを開催したんだと思いますか?」
「それが私にもわからないのよ。あの人が魔女と呼ばれるにふさわしい時間と力を持っているのはほぼ確実。望みを持って動いているのも確実なのだけど、彼女の目指す終着点は私にも見えない。ピースが足りないのね。それと同じように、翔機さんの望みも、私にはわからないわ」
「天堂翔機の望みも?」
「えぇ」
話の最初でも首を傾げていた夫人だけど、僕にとってはちょっと意外だった。
僕なんかよりよっぽど広い視野を持ち、深く考えることができる頭を持ってる平泉夫人が、天堂翔機の望みがわからないというのは想像できなかった。
可能性だけなら僕でもいくつか思い浮かぶ。
それと同じものを想像してるだろう平泉夫人は、でもその想像が答えに見えていないんだろう。
「彼は確実に、スフィアロボティクスの会長を辞するまでは魔女の傀儡だったのよ。自分の意志で動いていたとしてもね。でもいま、育った家で過ごしてる彼が何を考えて、何を望んでいるのか、エリクサーでどんな願いを叶えたいかは、私には想像できないわ」
そこまで言って、平泉夫人は何とも言えない、微妙な表情を浮かべる。
僕にとって母親というのは、声をかけるとそのときなって僕の存在に気づいたように見下ろしてくる人物のことしか知らない。
もし、一般的な意味での母親というのが僕にいるとしたら、いまの夫人のように僕のことを揺れる瞳に写して、唇を微かに震わせてる人のことかも知れない、と思う。
「充分に気をつけなさい、克樹君」
「わかりました」
『だぁいじょうぶだよっ。おにぃちゃんのことはあたしが絶対守るからね!』
「わかった。頼りにしてるよ」
「えぇ、克樹君のことをお願いね、リーリエちゃん」
『うんっ』
リーリエの元気の良い声に、僕と平泉夫人は笑みを見せ合っていた。
* 1 *
「よぉ、克樹。よく来たな」
PCWに足を踏み入れると、僕が挨拶するよりも先に、カウンターに出ていた親父に声をかけられた。
「注文してたもの、全部届いてる?」
「ったく、盆休み明けでまだ流通がごたついてるってのに、急ぎとか言いやがって。どうにか全部集まったがな。お前がどうしてもって言うから、ツテで回してもらったものまであるんだぜ? 感謝しろよ」
相変わらず陳列棚と言わず、床のボックスと言わず、スフィアドールから旧式ロボットのパーツやら意味不明な部品やコードが雑多に置かれた店内を気をつけながら歩いて、カウンターまでたどり着いた。
「感謝してるよ。本当に今回は急ぎだったしね」
渡された納品書の紙を見つつ、僕はプラボックスに入った注文の品が全部揃っているかを確認する。
「しかし今回はいったい何するつもりなんだ? あんまり特殊なパーツはなかったからどうにかなったけどよ」
「んー」
全部のパーツが指定メーカーで揃ってるのを確認して、僕は納品書に書かれた金額通りに携帯端末を使って決済を終えた。
今回買ったのは予備のバッテリや人工筋なんかが主で、アリシアやシンシア用の新規パーツはない。
前回の猛臣戦の後、アリシアはパーツを見直して風林火山に適したものに交換してテストも済んでいたし、シンシアについても同様にバージョンアップを終えていた。
交換部品が主だから、お盆明けでなければ入手しやすいものばかりだ。
「明後日、天堂翔機に会いに行くんだ」
「翔機の爺に? また妙な奴に会いに行くもんだな。お前は直接面識はないだろ?」
「まぁね。今回はちょっと事情があって」
肩を竦めて見せた僕に、いつも難しい顔をしている親父は、いつにも増して難しそうに顔を歪めていた。
スフィアドールなんてものがこの世に生まれる前からロボット専門店を営んでいる親父は、まだスフィアロボティクスが零細企業だった頃から天堂翔機とは知り合いなんだそうだ。
さすがにスフィアロボティクスがいまは桁違いの規模だし、現役を引退して表に出てこなくなった彼とはしばらく会っていないそうだけど、時々連絡くらいは取ってるそうだ。
僕もスフィアロボティクス創立者、親父の友人として以外にも彼のことは知ってはいるが、直接会ったことはない。
それ以上天堂翔機の件について訊いてくることはなかった親父は、無精髭の生えた顎をなでつけながら口を開く。
「なぁ、克樹。お前たちのやってることはもうすぐ終わるのか?」
僕や夏姫たちがエリキシルバトルに参加してることを、親父が気づいてるのはわかってる。
どんなことをやってるのか具体的なところまではたどり着いていない様子だけど、独自にいろいろ調べて、割といい線まで来ているのも知ってる。
でも、モルガーナの存在までは見出してるのかどうかわからない。
こちらからヘタに情報を出してモルガーナの存在に気づいてしまったら、それで親父が何かを思い行動を開始してしまったら、さらにそれをモルガーナが邪魔だと感じてしまったら、と思うと、僕は何も話すことができない。
かも知れないことを、かも知れないことのまま、話せる範囲で話すだけだ。
「僕もよくわかってないけど、たぶんそう遠くないうちに終わると思うよ」
「そうか」
珍しく不機嫌にも見える仏頂面に考え込んでるような表情を浮かべ、親父はしばらく黙り込む。
「克樹はよ、高校を卒業したらどうするつもりだ?」
「一応進路希望は工学系の大学に進学で出してるよ。まだはっきりと決めてないけど、機械工学かロボット工学、将来性を考えたらソフトウェア方面に進むかも」
「その後は?」
「その後?」
「大学を出た後だよ」
親父の問いに、購入した商品をデイパックに詰める手が止まってしまっていた。
僕はいま高校二年の後半に差しかかるところ。進路の方向性はそろそろ決めなくちゃいけないけど、進路先を決めるにはあと一年の猶予がある。
さらにその先、大学を出た後のことなんて、まだまともに想像したこともない。
いや、本当は想像することをやめてしまっていた。
……百合乃が、死んでしまったときから。
だからそんなことを突然問われても返せる答えがない。
「……ぜんぜん、考えてないけど」
「そうか。だったら少し考えてみないか? この店を始めてもうかなりになるが、いい歳どころじゃなくなってるからな。まだ何年かは大丈夫だが、あと十年は続けられない。そのうち店を閉めるか、後継者を探すかで悩んでるところなんだよ」
「え……」
親父は確か、もう六十歳を越えていたはずだ。
会社法人になってる店は親父しかいないわけだから定年なんてものはなく、引退したくなったときに引退することになる。
そんなことわかってたわけだけど、突然後継の話なんてされても頭が追いつかない。
『どうするの? おにぃちゃん。おにぃちゃんは、将来どんな風になりたいの? ……どんな夢が、あるの?』
イヤホンマイクのスピーカーから、親父にも聞こえる声でリーリエの促す言葉が発せられる。
でもまだ高校二年の僕に、そんなことを考えることなんて無理だ。
「いや、まだぜんぜん、考えられないんだけど」
「そりゃそうだよな。別にいますぐ答えろって話じゃない。ただ来年でも、大学に入ってからでも、大学卒業する頃でもいい、答えをくれ。……答えを、直接ここに来て、言ってくれ」
真っ直ぐに僕を見つめてくる親父の視線は、たぶん後継者の心配をしてるものじゃない。
親父はエリキシルバトルのことはたぶん知らない。けれど僕たちがやってることが、命懸けの戦いであることに、気がついているような感じがあった。
「わかった。いつになると約束はできないけど、必ず答えを言いに来るよ」
「あぁ、頼むぜ」
ニヤリと笑って見せた親父の瞳には、夏姫たちや、ショージさんが浮かべるそれとは違う、暖かい色があるように、僕には思えていた。
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市場は生き物だ、なんて話を聞くことはあるけど、その最小構成が人間である以上、それを相手にするのに一番重要なのは、最新だったり便利だったりする道具や環境よりも、立ち向かう人の資質なんじゃないだろうか。
そんなことを僕が思うのは、いつだって煉瓦造りの、古びているがしっかり手入れされている外観のお屋敷の前に立つときだ。
PCWを逃げるように出た僕は直接家には帰らず、遠回りをして平泉夫人のお屋敷に来ていた。
そろそろ日が傾いているとは言え、駅からけっこう歩かないといけないここまで、げっそりするような暑さを潜り抜けてきた僕は、深呼吸をして気分と一緒に視線を正し、玄関の大扉の脇にある呼び鈴を鳴らした。
「ようこそいらっしゃいました、克樹様」
平泉夫人は多忙だから事前にアポイントメントは取っておいたし、僕が玄関の前に立ったことには気づいていたんだろう、呼び鈴を鳴らして一拍置いた後、扉が開かれて芳野さんが姿を見せた。
――あれ?
いつも無表情か愛想笑いを浮かべているのが普通の芳野さん。
若干生地が薄くなったように思える他は変化のないヴィクトリアンスタイルなメイド服で「どうぞこちらへ」と招き入れてくれた彼女の笑顔が、なんとなくいつもと違うように感じられたのは、なんでだろうか。
「いらっしゃい、克樹君」
「今日はお時間を取っていただいてありがとうございます」
いつも通り執務室に通してもらって、この屋敷の中では簡易だけど、一般家庭には高級な応接セットのソファで紅茶のカップを傾けてる平泉夫人に挨拶をする。
「今日は少し、お訊きしたいことがあって」
芳野さんに勧められ、平泉夫人に手で促された僕はソファに座り、前置きもなしに本題に入る。
「次のバトルの相手のこととかかしら? 私でわかることなの?」
直感なのか適当なのかわからないけど、これから話そうと思ったことをズバリと言い当てられて、淹れてもらった紅茶で唇を濡らそうとしていた僕は一瞬噴き出しそうになっていた。
瞳に楽しそうな色を浮かべている平泉夫人に、僕は軽く深呼吸をしてから、話を始める。
「天堂翔機について、教えてください」
「あの人が、エリキシルソーサラーなの?」
「たぶん。バトルの招待を受けました」
「そう……。可能性なら誰よりも高い人物だけど、意外ね」
僕から視線を外し、少し困惑したような表情を浮かべている平泉夫人。
モルガーナに一番近いだろう彼は、エリキシルスフィアを手に入れられる可能性は高いと思う。
詳しい情報はなかったけど体調不良というのもあるし、年齢的には棺桶に片足を突っ込んでるくらいなんだ。エリクサーを求める理由は充分なように思えた。
平泉夫人の言う「意外ね」という言葉の真意は測りかねた。
「まぁいいわ。会いに行くというなら、エリキシルソーサラーになった理由を訊いてきてちょうだい。訊けたらで良いけれど。もし話しづらいことだったら、すべてが終わった後でもいいから」
考えるのをやめたらしい夫人は、笑顔に戻ってそう提案してくる。
いつも通りにしているようなのに、その瞳に鋭いものと、さっきPCWの親父が見せたのと同じ暖かいものが浮かんでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
「スフィアロボティクスを立ち上げてからの翔機さんについては、だいたい表に出ているから、貴方も調べた通りよ。たぶん克樹君が知りたいのは裏側や、見えていることより以前のことでしょう。私の知ってる限りのことを教えてあげるわ」
そう言って表情を引き締めた平泉夫人は、初っぱなから衝撃的なことを教えてくれた。
「あまり知られていないけれど、翔機さんは孤児だったのよ」
「え?」
夫人にも言われた通り僕も調べてみたし、リーリエにも調査を頼んでいたけど、海外の大学から日本に戻ってきた辺りまでしか彼の過去を遡ることはできなかった。
天才というのは割合としては少ないものの、世の中にはけっこういるもので、どうやら十六歳でアメリカの大学に入って、後にスフィアドール関係のことをほとんど独力で生み出した天堂翔機は、天才と言うにふさわしい人物だ。
いま認知されてる天才の他にも、実際にはその数倍の天才が世の中にはいる可能性がある、なんて話を聞いたことがある。
天才と呼ばれる人がその才能を開花させるには、家族の理解や、知人友人に恵まれることが必要だと言われ、それを持っていないばかりに開花が遅れたり、才能を眠らせたまま過ごす人もいるということらしい。
孤児であった天堂翔機が天才としてその能力を開花させられたのは、奇跡にも近い驚くべきことだと僕は思う。
「ずいぶん昔、まだスフィアロボティクスが新興企業だった頃から注目してたから、一応創立者の身上調査はできる限りしたんだけど、実の両親については全くの不明。養父や養母についても調べはつかなかったわ」
「痕跡が消されているとか、ですか?」
「おそらくはね。ただ、半世紀以上昔のことだもの、特殊な生い立ちの人でもあるし、追い切れなくても仕方のないことね」
そこで言葉を一度切って、平泉夫人は側で気配もなく控えている芳野さんに、カップを上げてお茶を要求する。
温くなってる紅茶に口をつけた僕は、考え込んでしまっていた。
天堂翔機を施設か何かから引き取り、彼の才能を開花させた人物。
それを僕は、ただひとりしか思いつけない。
「モルガーナ、ですか?」
「おそらくはね。確認は取れていないけれど」
新しい紅茶で艶めかしい唇を濡らした夫人は話を続ける。
「中学までは日本で過ごした後、一六歳で渡米して大学に入学。機械工学やロボット工学の分野で頭角を現した彼は、一八歳のときにロボットの大手企業に開発者として登録されているわ。二〇代半ばで日本に舞い戻ってきて、こちらの企業に入社。まだスフィアドールはもちろん、スマートギアもない時代だから、主に工場用のロボットアームなどの開発に携わりながら、営業としても活躍して人脈を広げていたようよ」
「人付き合いが上手い人なんですね」
「いいえ、むしろ逆よ。彼の人嫌いはけっこう有名なのよ。仕事に関することだけは弁が立つという話で、仕事に関わらないパーソナルな方面はほとんど不明。浮いた話もなかったようだし、いまの年齢になるまで未婚なのよ」
「現役時代は仕事一筋ですか……」
「それもまた違うようなのよ。ロボットやスフィアドールは好きなようなんだけど、何回か会ったことがある私の印象だと、仕事自体は嫌いなんじゃないかと思うのよ」
「んん?」
天才で、仕事もできて、ロボット好きで、でも仕事も人付き合いも嫌い。
うなり声を上げてしまった僕は、天堂翔機の人物像をつかめないでいた。
『んー。おにぃちゃんに似てる人なんだねっ』
「どういう意味だよ、リーリエ」
『なんとなぁくそう思っただけだよー』
「ふふふっ。確かに少し似ているかも知れないわね」
唐突にイヤホンマイクから発せられたリーリエの突っ込みに、夫人は身体を折り曲げながら笑っている。
「まぁ、それは半分冗談として」
半分は本気なんだ、という言葉が喉まで出かかったけど飲み込んでおく。
「彼のことについては私もよくわからないの。私も早くからスフィアロボティクスに注目はしていたけれど、見つけた頃には多くの支援者が集まっていて、スフィアドールの成功は既定路線になっていた感じがあるからね」
「それにもモルガーナが?」
「いいえ、それは違うでしょう。人脈のある人物が立ち上げる新しい市場に、最初から多くの支援者がついていることは割とあることよ。ただ、その顔ぶれには若干魔女の痕跡を感じはしたけれどね」
平泉夫人にしては珍しく、迷っているように目を細めている。いまひとつ確信がないんだろう。
「おそらく、彼が機械やロボットの勉強をし、会社に入って、スフィアロボティクスを創立したのは、あの魔女の意向よ。そしてそれ以前、彼を引き取って育てたのも、魔女の仕業だと思うのよ。これまでの彼の行動と、その周辺には、魔女の痕跡が大なり小なり見つかるわ」
「じゃあ天堂翔機は、モルガーナの操り人形なんですね」
「……それは、どうかしら?」
頬に手を添え、小首を傾げている平泉夫人。
その目は僕に向けられていながら、昔のことを思い出しているように遠くを見つめている。
「彼は、彼の意志ですべてのことをやっていたように思うの。幾度か話をしたことはあるのだけど、私にはそういう印象が残っているわ。ただし、その行動をするよう考え方から魔女に仕込まれていた可能性もあるから、何とも言えないのだけど」
「……そうですか。でも、天堂翔機が子供の頃からロボットに興味を持つよう誘導してきたんだとしたら、モルガーナはその頃からエリキシルバトルを仕込んでたんだ」
少し考えてみると、自分で口にした言葉なのに、いまひとつ現実感がない。
モルガーナが魔女で、長く生きてきたんだろうってのはわかってるけど、半世紀以上も前から、いまのエリキシルバトルを仕込んでいたなんてのは、さすがに現実感がなさ過ぎだ。
でもエリキシルバトルのためのスフィアドールで、そのための天堂翔機なのだとしたら、そういうことになる。
いったいモルガーナがどれほど生きてきたのか、僕には想像もできなかった。
「それはそうだと思うけれど、スフィアドールはおそらく彼女にとって目的を達成するための手段のひとつ、仕込みのひとつに過ぎないと思うのよ」
「仕込みの、ひとつ?」
「えぇ。私はあまり広い世界のことはわからないけれど、少し人を頼って調べてもらったの。そしたら、魔女の痕跡はスフィアドール業界だけでなく、もっと広い世界に分布している様子があるということだったわ。政界や財界が主だけど、彼女の痕跡は薄く広く、そして深く、世界中に広がってるようなのよ。だから、エリキシルバトルは彼女にとって重要ではあるけれど、目的のための手段のひとつなんじゃないかしら」
芳野さんが注いでくれた新しい紅茶をひと口飲んで、僕はソファに背中を預ける。
はっきり言って、想像もできない事柄だった。
僕にはもう、モルガーナの力と影響力のすべてを、把握することができそうにない。
「彼女は非常に巧妙よ。たいていの場合は姿を見せないまま、人や場を誘導してる。ただ他と違って、スフィアドールとエリキシルバトルに関しては、表に出てくることは極一部に限っている彼女が表に近い場所にまで出てきてる。例えば克樹君。貴方もそうした表層に現れた魔女に誘導された人のひとりよ」
「僕が?」
確かに僕はこれまでに二度、モルガーナと直接会って話をしてるけど、誘導されたと感じるようなことはなかった。
睨みつけるように見つめてくる平泉夫人の視線を、僕は理解しない。
「彼女は魔女と呼ばれているけれど、杖を振るって魔法を使うわけではないの。様々なところに種を蒔き、自分の思う方向に物事が動くようにしてる。芽吹かない種もあるでしょうし、芽吹いても触れずに遠くから観察しているだけのときもある。すべてが思う通りにならないこともあるでしょうし、時には手厚く世話をすることもある」
「平泉夫人には、どうしてそこまでモルガーナのことがわかるんです?」
「彼女の痕跡から見えてくることから推測しているのがほとんどよ。……気分を悪くしないで聞いてほしいのだけど、百合乃ちゃんのことは、百合乃ちゃん自身が彼女に重要な人物であったのと同時に、貴方にわざわざ姿を見せたのは、貴方へのアプローチでもあったと思うのよ」
「――そんな、ことっ」
『おにぃちゃん! 興奮しないでっ。最後まで聞こ?』
思わず立ち上がりかけた僕を止めたのは、リーリエの鋭い声。
『あたしにとっても重要なことだから、お願い』
「……わかった」
いつになく真剣な口調のリーリエに、僕は上げていた腰をソファに下ろす。
「ごめんなさい、克樹君。これは天堂翔機と、あの魔女のことを知るためには、把握しなければならないことだから」
「いいえ、僕こそすみません。続けてください」
悲しそうに、苦しそうに、顔を歪めている平泉夫人から視線を逸らして、でも僕は先を促した。
『そういうことなんだったとしたら、あたしのこともずいぶん前から計画に入ってたってことなのかな?』
いつもの、少し間延びしたような感じは変わらないのに、でも微かに震えてるような、人間のように身体はないのにまるで人間のように、リーリエはイヤホンマイクのスピーカーから平泉夫人に問う。
「可能性があるという意味では、リーリエちゃんのことも魔女の計画のうちでしょうね。おそらく百合乃ちゃんのことがあったときから、実際にはスフィアカップのとき、もしかしかしたらそれ以前の、スフィアロボティクス創立の頃にはエリキシルバトルの開催を彼女は決めていたのかも知れない」
苦いものを噛みしめきれずに逸らしていた視線を上げると、僕のことを真っ直ぐに射抜くような、でも僕のことを心配しているような平泉夫人の視線とぶつかった。
「特別なスフィアの持ち主だった克樹君は、あの時点でエリキシルソーサラーの有力候補のひとりだったのでしょうね。そして貴方の叔父、彰次さんのことも考慮されていたはずよ。だから貴方に百合乃ちゃんの脳情報が入ったディスクを渡し、エリキシルバトルに参加するようし向けた。魔女の期待通りかどうかまでは、わからないけれどね」
モルガーナという存在の全貌が僕には見えないのと同様に、平泉夫人がどこまで見通せているのかがわからなかった。
印象や憶測からの言葉も多分に含んでるんだろうけど、僕がたどり着けていない場所から、僕の見えていないものを見ていることだけは確かだった。
それから浮かんでくるひとつの疑問。
紅茶を飲み干してひと息吐いた後、僕は質問してみる。
「どうして平泉夫人は、そこまでモルガーナのことを調べているんです?」
「そうね。単純に彼女のことが許せない、というのはあるかしら?」
それまであったピリピリとした雰囲気を紅茶と一緒に飲み干し、微笑みを浮かべた夫人は答えてくれる。
「でもそれだけじゃないわね。はっきりとはわからないけど、彼女の望む方向と、私の望む方向が競合してしまうから、かしらね。私にとって魔女は敵なのよ。それは魔女にとってもそうでしょうけれど、力の総量で考えたら、私はあの人の足下にも及ばないわ。それでも私の望みを通せるように道を造らなければ、次の世代が、さらにその次の世代が失われてしまう。私が魔女と戦っている理由は、そんなところよ」
楽しげに笑っている平泉夫人が、僕のためとか、百合乃のためというだけで動いているわけじゃないのはわかった。
彼女の見ている世界は、僕には遠くて見通すのが難しそうだけど、それでも浮かんでくる疑問がある。
「……モルガーナは、いったいどんなことを望んでエリキシルバトルを開催したんだと思いますか?」
「それが私にもわからないのよ。あの人が魔女と呼ばれるにふさわしい時間と力を持っているのはほぼ確実。望みを持って動いているのも確実なのだけど、彼女の目指す終着点は私にも見えない。ピースが足りないのね。それと同じように、翔機さんの望みも、私にはわからないわ」
「天堂翔機の望みも?」
「えぇ」
話の最初でも首を傾げていた夫人だけど、僕にとってはちょっと意外だった。
僕なんかよりよっぽど広い視野を持ち、深く考えることができる頭を持ってる平泉夫人が、天堂翔機の望みがわからないというのは想像できなかった。
可能性だけなら僕でもいくつか思い浮かぶ。
それと同じものを想像してるだろう平泉夫人は、でもその想像が答えに見えていないんだろう。
「彼は確実に、スフィアロボティクスの会長を辞するまでは魔女の傀儡だったのよ。自分の意志で動いていたとしてもね。でもいま、育った家で過ごしてる彼が何を考えて、何を望んでいるのか、エリクサーでどんな願いを叶えたいかは、私には想像できないわ」
そこまで言って、平泉夫人は何とも言えない、微妙な表情を浮かべる。
僕にとって母親というのは、声をかけるとそのときなって僕の存在に気づいたように見下ろしてくる人物のことしか知らない。
もし、一般的な意味での母親というのが僕にいるとしたら、いまの夫人のように僕のことを揺れる瞳に写して、唇を微かに震わせてる人のことかも知れない、と思う。
「充分に気をつけなさい、克樹君」
「わかりました」
『だぁいじょうぶだよっ。おにぃちゃんのことはあたしが絶対守るからね!』
「わかった。頼りにしてるよ」
「えぇ、克樹君のことをお願いね、リーリエちゃん」
『うんっ』
リーリエの元気の良い声に、僕と平泉夫人は笑みを見せ合っていた。
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