神水戦姫の妖精譚

小峰史乃

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第三部 第三章 リミットオーバーセット

第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第三章 4

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       * 4 *


 五、六人くらい横に並んで通っても余裕がありそうな自動ドアをくぐり、顔をうつむかせながらひとりで出てきた制服姿の女の子。
 浜咲夏姫。
 ニヤリと口元に笑みを浮かべた猛臣は、ずいぶん待たせられた彼女に声をかけた。
「よぉ」
 自動ドアの脇の壁に背をもたせかけて待っていた猛臣が声をかけると、ビクリと身体を震わせながら視線を向けてきた。
 泣きそうで、つらそうで、でもそれを必死で我慢している様子の彼女に、背筋にゾクゾクとそそるものを感じつつも、猛臣はニヤついた笑みを顔に貼りつかせたまま、側に寄ってくる彼女のことを見る。
 彼女からの電話で楽しくなってきた克樹とのバトルに水を注されることになったが、スフィアを売りたいという彼女の言葉で怒るのを辞めた。
 今日が関係者との話し合いだと言うので車で夏姫をここまで送ってきたが、入るときよりもさらに暗くなっている表情から、相当厳しい内容だったことは想像できた。
 本当のところ、猛臣は話し合いの内容を概ね把握していた。
 モルガーナが送ってきた情報で概要を知り、祖父と繋がりがある人物が会長を務める建設会社が元請けとなった高層マンション群の事件については、報道されているよりも詳しい情報を得るのは簡単だった。
 だからこそ、夏姫に要求されている内容がどんなに理不尽で、筋の通らないものであるのかもわかっている。
 浜咲謙治が事故で意識不明なまま回復していないのをいいことに、ミスを利益に換えられるよう立ち回っている者たちがいることも知っている。
 わかっていたとしても、猛臣は知り合ったばかりで仲がいいわけではない女の子のために、間接的には家の利益になる事件に介入して状況を改善させてやる気はなかった。
 例え、要求を白紙にできるとわかっていても。
 せっかくエリキシルスフィアを売ると本人が言い出したのだ、これを利用しない手はない。
 いまの状況は、自分にとって最良の選択だと、猛臣は考えていた。
「話、聞いてきたんだろ?」
「うん。正式なのは、また後日ちゃんと計算して出すって話だったけど」
「いくら請求されたんだ? 見せろよ」
 最初に会ったときは顔ばかり見ていたが、ジャンパースカートの制服で強調されたようになっている思いの外魅力的な胸を眺めていた猛臣は、鞄から取り出して差し出された数枚の紙の束を受け取り、内容を確認する。
「くっ。またずいぶんな金額を請求されたもんだな」
 長ったらしく事件のことについて書いた上で、最後に支払いの条件と請求する予定の金額が書いてある紙束の内容に、猛臣は思わず噴き出しそうになっていた。
 事件の概要と詳細、被疑者である謙治の状況についていろいろ書いてはいるが、内容がかなり滅茶苦茶だった。
 わざと読みづらい小さい文字で、書かなくてもいいことをずらずらと列記してるそれは、素人ならば欺せるだろうが、少しわかっている人が見れば、指摘できる点はいくらでもあるものだ。
 事件について被疑者の謙治が意識不明のまま警察の捜査が止まっており、不明な点がいくつも出ているものの、証言が得られていない。紙束の内容はすべて会社側からの一方的な情報で、事件が解明に至らず、責任を取るべき人間が確定していない状況で、未成年である夏姫に出してきていい内容ではなかった。
 ――こいつら、夏姫ごと売っ払って全部なかったことにするつもりだな。
 法的な後見人をつけ、本人の同意があるということで押し通そうという目論見がありありと見て取れる内容になっていた。
 ――まぁ、俺様もそれにひと口乗っけてもらうことになるんだがな。
 余計なことは言わず、家の不利益になることもしないと決めた猛臣は、紙束から顔を上げ、自分がやっていいことの範囲を考えながら口を開く。
「さすがにこれはぼったくりが過ぎるってもんだろう。俺様の方でかけ合って減額するさ」
「本当に? そんなことできるの?」
「できるさ。俺様を誰だと思ってる。しかし、ゼロにはならねぇ。何割かってのがせいぜいだ」
「……そっか」
「それに、これだけの金額なんだ、最初に言ってたあれだけじゃぜんぜん足りねぇよ」
 エリキシルスフィアを買い取ると言って提示した三百万では、一桁以上も足りない請求金額。
 法的に争えばここまでの金額は取れないとわかった上での金額だが、その辺りがわからない夏姫ではこのまま押し通されて、身柄まで彼らに押さえられる可能性が高い。
 夏姫の生殺与奪権を押さえる理由は猛臣にはわからなかったが、父親を殺して保険金を奪い、娘までどうにか仕様とするのは行き過ぎだと思えた。
 母親の復活を願って参加しただろうエリキシルバトルの資格を失うだけでも苦渋の選択だったろうに、それ以上のことを猛臣から要求されるとわかった夏姫は、顔をうつむかせて悲しそうな顔を見せる。
 続きの言葉を、猛臣は唇の端をつり上げながら言った。
「最初の条件以上の金額については、貸すだけだ。働いて返せ」
「でも、そんな金額……、何年かかるかわからないよ」
「わかってるさ。だから、お前は俺様の召使いになれ。何、悪いようにはしないさ。高校だって行かせてやるし、行きたいなら大学だって行っていい。ただし、貸した分を返しきるまでは、俺様の側にいろ」
 迷うように視線をさまよわせる夏姫に、猛臣は笑む。
 さすがに槙島本家の人間の知り合いで、猛臣の側にいる人間にまで手を出してくることはないだろう。
 それでもこだわってくるというなら、それはおそらく個人的な執着だろうから、猛臣個人の力で叩き潰すくらいのつもりはあった。
 ――こいつは、割と俺様の好みだしな。
 うつむき、引き結んだ唇を振るわせていた夏姫は、決意の籠もった目をして顔を上げた。
「――わかった。その条件でいい」
「ちゃんと言え。どんな条件をお前は飲むってんだ?」
 そう返されてとまどいの色を浮かべる夏姫の瞳を、猛臣は顔を近づけて覗き込む。
 決意をしたとしても、その決意は口に出して相手に言うのは難しい。自分にとって利益にならないものはとくに。
 しかしはっきりと言わせなければ、わだかまりとして残る。わだかまりは、時として反意に成長することもある。
 自分の口からはっきりと内容を言わせる言質は、決して無意味なものではない。
「わかり、ました。……アタシは、貴方の召使いになります。それから、アタシのエリキシルスフィアを、貴方に売ります」
「それでいい」
 言い切った夏姫に満足を覚え、笑いかける猛臣。
 目を逸らした夏姫は、悔しそうに歯を食いしばっていた。
「それじゃあ金の件については俺様の方で動くことにする。お前の親父のこともあるし、すぐにやってやるよ。スフィアの受け取りとか話の進み具合はこっちから連絡する。お前は残り少ないいまの高校生活でも楽しんでろ」
 折り畳んだ紙束をショルダーバッグに仕舞い込み、猛臣は病院の駐車場に向かって歩き始める。
 上着のポケットから取り出した車のキーを指で回して見せてやると、何も言わずに夏姫は後ろに着いてきた。
 ――さぁて、あとはてめぇを叩き潰すための準備をするだけだ、音山克樹!
 何故仲良しごっこをしているのかは理解できなかったが、克樹たちのあのグループは、彼が中心になっているのは明らかだ。
 手強かった克樹さえ倒してしまえば、近藤も灯理も問題にはならないと、猛臣は判断していた。
 ――イシュタルの調整が終わるまで待っていろよ!


          *


「……くはっ。三分ちょいか。まだまだだな」
 アライズさせたアリシアとのリンクを切断して、僕は大きく息を吐いた。
 猛臣に勝つために本格的に取り組み始めた新戦法の練習。
 最初の頃に比べて持続時間は格段に伸びたけど、最低でも五分、できれば八分は使えるようになりたいと思っていた。
 それくらいでないと、たぶん猛臣を倒しきるのは難しいだろうから。
『時間は伸びたけど、最後の方はぜんぜんダメだったよ? おにぃちゃん、集中できてないんだもんっ』
 ソファやテーブルを端に寄せて広げたLDKに立つアリシアは、リーリエにコントロールされ、僕に振り返って頬を膨らませていた。
「確かにそうだな。もっと僕が集中しないとな」
 壁際のソファにどさりと身体を預けて、僕は天井を仰ぐ。
 集中できない理由はわかっていた。
 週明けから夏姫は学校に来るようになったけど、その表情からは問題が解決したようには見えない。どうなったのか聞こうとしても黙り込むか逃げるばかりで、遠坂や近藤にも話してないから、状況を確認することはできなかった。
 ――振られたんだよな、たぶん。
 嬉しいと言ってくれたのに、僕のことを突き放した夏姫。
 僕の代わりに猛臣を頼るってことは、僕の告白は玉砕したってことになんだろうと思う。
 はっきりそうだと言われたわけじゃなくて、夏姫の父親の問題とかもあって、振られたんだろうとは思うのに、その実感があんまりなかった。
『そろそろこんな時間だし、夜ご飯食べないの?』
「ん? あぁ、そうだな」
 掃き出し窓から差し込む陽射しがまだ明るいから気づかなかったけど、もう六時を過ぎている。リーリエの提案にソファから立ち上がった僕はキッチンへと向かった。
 コーヒーメーカーをセットして、ろくな食材がない冷蔵庫をさらっと確認してから、僕は引き出しからストックしてあるスパゲティとレトルトのパックを取り出す。
 水を入れた鍋を火にかけ沸くのを待ちながら、僕はぼぉっとしながら考えていた。
 ――夏姫がつくってくれたスパゲティは、美味しかったよなぁ。
 灯理が初めて押しかけてきたときにつくってくれて、その後も何度か、いろんな種類のをつくってくれたスパゲティ。
 見てる分にはそんなに難しくなさそうなのに、自分でつくってみると思い通りにならなくて、材料を買ってくるのも面倒なことに気づいた。そのうち夏姫がつくり方を教えてくれると言ってたけど、結局その約束は果たされていなかった。
 茹で上がったスパゲティを皿に盛って、カップに注いだコーヒーとともにダイニングテーブルに持っていく。カルボナーラソースをかけて食べてみるけど、夏姫がつくってくれたのとは違っていて、違い過ぎて、コーヒーで流し込んで食べ終えるしかなかった。
「……なんで夏姫は、僕を頼ってこなかったんだろ」
 味はともかく腹が満たされた僕は、無意識のうちにそんな呟きを漏らしていた。
 腹立たしいことに、振られたとわかっていても、僕はまだ夏姫のことが好きだ。好きな相手に頼ってもらえなかったことに、さらに腹が立つ。
 僕からは夏姫に何もしてやれなくて、猛臣を倒すことくらいしか彼女を解放する方法を思いつけず、苛立った僕はダイニングテーブルに拳を叩きつけていた。
『おにぃちゃん、わかんないのぉ?』
 椅子を引いて僕の正面に座ったのは、アリシア。
 アライズしたままで、水色のツインテールの髪とかは違うけど、本当に百合乃が見せてくれたのと同じ笑みを、リーリエは頬杖を着きながらアリシアで見せてくれる。
「わかんないからこうやって悩んでるんだろっ。リーリエにはわかるって言うのか?!」
 リーリエに当たっても仕方ないのはわかってるけど、ここのところいろいろ考えていて、怒りの沸点が低くなってる。
 荒い声で言って思わずアリシアを睨みつけてしまうけど、リーリエが笑みを崩すことはない。
『うん、わかるよぉ』
「わかるってんなら、教えてくれよっ」
 まだ稼働を開始してから二年を少し過ぎたくらいのリーリエに何を言ってるんだと自分でも思うけど、夏姫の考えてることがわからなくて、僕は微笑んでるリーリエに吐き出すように言ってしまう。
『あのね、夏姫は、おにぃちゃんと同じ場所に立っていたいんだよ』
「同じ場所?」
『うん、そうだよっ』
 まるでアリシアが喋ってるかのように、声は天井の方から降ってきてるのに、口まで動かしてリーリエは話す。
『夏姫もね、おにぃちゃんのことが好きだよ』
「でも僕はあいつに拒絶されて――」
『うぅん、違うよ。絶対違うよ。おにぃちゃんのことが好きだから、おにぃちゃんには頼れないの』
「それは、どういう意味なんだ?」
 頬杖を着いて、表情は微笑んでるのに、目は真っ直ぐに僕のことを見つめてくるアリシア。いや、リーリエ。
 アライズしているときはピクシードールにある人形っぽいものではなく、人のそれとわからないくらいになる瞳が、僕の驚いた顔を映していた。
『好きな人と一緒にいようと思ったら、できるだけ負い目とか、一方的な負担とかは、あっちゃダメなの。そういうの、わかる?』
「それはわかるけど……」
『うん。そういうのを乗り越えられる人もいるけど、夏姫はそうじゃないの。おにぃちゃんと並んで、同じものを見ていたいって人。それなのに、賠償金を支払ってもらっちゃったりしたら、夏姫はおにぃちゃんの横に立っていられなくなっちゃう。おにぃちゃんは気にしなくても、夏姫は何歩か後ろに立つことしかできなくなっちゃう。そういう人なんだよ、夏姫は』
「……そうなのか?」
 過去に、百合乃が真剣なことを言い始めたときにもびっくりしたことがある。
 年下で、可愛くて、幼い女の子という印象しかなかったのに、真面目なことを真剣に話すときは、僕なんかよりも大人なんじゃないかと思うほどにしっかり考えていて、納得させられてしまう強い言葉で話していた。
 いまのリーリエも、百合乃がそうだったように、僕は彼女の言葉に耳を傾けざるを得なかった。それをさせる強さを、彼女の言葉は持っていた。
『夏姫はね、お父さんよりもお母さんの方が好きだけど、お父さんもやっぱり大切なの。お母さんの復活は本気で願ってるけど、お父さんが生き残ることと、お母さんの復活のどちらかしか叶わないなら、いまある大切なものを守る人』
「それは、そうかも知れない」
 夏姫から聞いた謙治さんの話は、父親に不審や恨みを感じてる様子があった。でも同時に、信じたいという気持ちも感じ取れた。
 確かにあいつなら、母親の復活を諦めても、父親の生存を願うだろう。
『おにぃちゃんだったら、夏姫に請求される金額くらい、返せると思うよ? だいたいどれくらい請求されるかとか、おにぃちゃんならどれくらいで返済完了できるかとかちょっと試算してみたけど、たぶん三十歳の前に返済終わると思う。スフィアドール業界って言うか、ロボット業界がいまのまま成長して、ちゃんとおにぃちゃんが就職したら、だけどねっ』
「いったい何を資産してるんだよ、まったく」
 いつもの子供っぽい笑みを見せるリーリエに、少し呆れてしまう。呆れて、僕も笑みを零してしまう。
 ひとしきり笑った後、表情を引き締めて、少し悲しげに視線を落としたリーリエは言う。
『でも夏姫にはたぶん無理。一生かかちゃうと思う。請求される分の金額を稼いで返済に充てるのは、大丈夫なんじゃないかな? と思うけど、夏姫はいま、未来が見えてない。ものすごい金額の借金のことで、押し潰されちゃってる。だからたぶん、夏姫には無理』
「だったら僕が、夏姫と一緒に――」
『だからそれはダメなんだって。夏姫はね、たぶんおにぃちゃんの側から離れるつもり。家族のことも大切で、おにぃちゃんのことも大事だから、またおにぃちゃんと同じ場所に立てるようになるまで、帰ってこないつもりかも知れない』
 なんだか僕よりも夏姫のことがわかってるようなリーリエに、何も言えなくなる。
 リーリエが語る夏姫の想いが、そのまま正解なのかどうかはわからない。でもこれまで見てきた夏姫のことを考えれば、そんなに外れてはいないと思える。
 夏姫と別れたくない。そう思うのに、そうすることしかできない自分が悔しくて、何かがこみ上げてくる胸を服の上からわしづかみにしながら、僕は優しい瞳を見せてくれるリーリエを見つめていた。
『ね、おにぃちゃん』
「なん、だよ」
『夏姫はおにぃちゃんに助けてほしいとは思ってないと思うけど、おにぃちゃんは何もできないわけじゃないんじゃないかな』
「実際、僕には何もできないじゃないか! 夏姫に拒絶された時点で、僕には……」
『おにぃちゃんにはおにぃちゃん自身の力しかないわけじゃないよ? それしか使えないわけじゃないよ? 例えばあたしは、おにぃちゃんを絶対に助けるよ。言われなくても手伝うよ。夏姫を助けたいとおにぃちゃんが思うなら、勝手にでも、やれることはやるよ』
「どういう意味だ?」
 リーリエの言い始めたことがわからなかった。いや、わかるけども、つかみきれなかった。
 なんでこんなところまでと思うけど、もったいぶった遠回しな言い方は、百合乃にそっくりだった。
『事件のこと、できるだけ詳しく調べてみたの。たぶん、夏姫のお父さんの責任で事故が起こったって言うのは嘘。でもそいういうことだった、ってことになってるみたいなの』
「何か裏があるってことなのか?」
『うん。たぶん会社とか、なんか政治とかがいろいろ関わっててあたしじゃよくわかんないんだけど、そういうのが背景にある事件なんだ。証拠とかまでは見つからなくて、あたしの推測だけどね。それをおにぃちゃんひとりで調べて、証明して、暴くってのは無理だと思う』
「そうだろうな」
 リーリエの言う通りだろう。
 けっこう大規模な開発事業のようだったし、動く金額も大きな工事なんだから、たくさんの会社が関わっていて、政治家なんかも絡んできていても不思議じゃない。
 謙治さんの事故原因に嘘や秘密があったとしても、僕がそれを暴いて事実を翻すなんてことは難しいし、おそらくできないだろう。
 さっきよりもさらに真剣な顔つきになったリーリエが言う。
『おにぃちゃんが無理でも、おにぃちゃんが知ってる人たちならどうにかなるかも知れない。助けてはもらえなくても、助言くらいはくれると思う。例えば、そういうところに手が届きそうな――』
「平泉夫人か!」
『うん。おにぃちゃんが持ってるのはおにぃちゃんの力だけじゃない。大人が関わってくることなら、大人に手伝ってもらうのは、当然だと思うよ』
 その通りだと思った。
 資産家である平泉夫人はいろんな業界に顔が利く。事故が起こった会社に直接できることはないかも知れないけど、戦い方くらいなら教えてもらえるかもしれない。
 新しい借りをつくることにはなる。でも平泉夫人は、貸せないものを貸してくれることも、返せないものを貸してくれることもない人だ。聞くこと自体を拒絶されることはないだろう。
 ――あぁ、そうか。
 夏姫が感じてるものが、少しわかった気がした。
 僕は平泉夫人にこれまでたくさんの貸しをつくってきた。それはその都度できるだけ返してきたし、金銭的なものは返済済みだ。
 それでも細かいことで残っている借りと、借りたという事実は消えない。年上であったり、いろんな面で格上の人であるというだけじゃなく、あの人から借りたという事実が、僕をあの人から遠ざけてる。
 夏姫も、僕が平泉夫人に感じてるようなことを、僕に対して感じたくないのだと、そう理解できた。
『おにぃちゃん。今日はこの後、家にいるって』
「……平泉夫人に連絡取ってくれたのか?」
『うんっ。だって、たぶん急いだ方がいいことだと思うから』
「そっか。ありがと、リーリエ」
『うんっ』
 すぐさま僕は椅子から立ち上がって、二階の作業室からデイパックを取ってきてスマートギアを放り込む。
「リーリエ。アリシアを」
『んー。この子は練習で消耗してるから、充電しておくよー。バトルしにいくわけじゃないから、なくても大丈夫でしょ?』
「……そうだな。家のセキュリティだけはしっかり頼むよ」
『わかったー』
 玄関に行って靴を履き、デイパックを担いだ僕は振り返る。
「本当にありがとうな、リーリエ」
『うぅん。だって、おんぃちゃんのためだもんっ』
「ん……。行ってきます」
『行ってらっしゃい。気をつけて!』
 玄関で手を振るアリシアに見送られて、僕は家を出た。
 暗くなってきた路地を走り、駅へと向かう。
 夏姫のことを助けられる気がしてきた。
 実際にはまだわからないけど、どうにかできそうな予感がしていた。
 ――リーリエには、本当に感謝しないといけないな。
 そんなことを思いながら、僕はたいして早くない脚を動かしていた。



『……それにね、おにぃちゃん。あたしも、夏姫と同じだからだよ』
 閉じられた扉に、リーリエはそう呟くように言った。
 くるりと振り返って玄関からLDKにアライズさせたままのアリシアを歩ませ、リーリエは練習のために隅に寄せていたソファやテーブルを元の位置まで戻す。
『ふぅ』
 汗をかかないエリキシルドールの額を腕で拭うように動かし、ため息のような声を発する。
 そのとき、呼び鈴の音が鳴り響いた。
 まるでそのことを予期していたかのように、ためらうことなくリーリエはアリシアを玄関へと向かわせた。
 扉を開けてそこにいたのは、小柄な女の子だった。
 白のブラウスに茶色いスカートを穿き、そろそろ暑くなってきている時期なのに、百二十センチ程度の身長では大きな上着は、リュックになっている革鞄の蔓をつかむ手が隠れてしまっているほどだった。
 顔がよく見えないほどに深く被ったハンチング帽から、焦げ茶色のセミロングの髪を伸ばした女の子は、小学生くらいの格好をしていた。
『いらっしゃい。よく来たね』
「お邪魔します。……やはり、気づいていたんですね」
『うんっ、そりゃあね。おにぃちゃんとあたしのスフィアは、この前サードステージに入ったからね』
 そう答えながら、リーリエはアリシアを操り女の子をLDKへと招き入れる。
「早速なんですが、充電させてもらってもいいですか? 帰り着くまで保ちそうにないので」
『うん、いいよー。普通の家の電気で大丈夫?』
「大丈夫です。アダプタは持ってきているので」
 鞄をソファに下ろした女の子は、長いケーブルが接続された手の平サイズの小さな箱を取り出す。ケーブルの先端をアリシアで受け取ったリーリエは、壁に近づいてコンセントに接続した。
 女の子は上着の背中の辺りをブラウスごとめくり上げ、そこに箱を接続した。
 帽子を脱いで現れた目は、少し大きめで、そして照明を受けて無機質な光を反射していた。
『セカンドステージに入ったのはわかってたから、そろそろ来ると思ってたよ、エイナ』
「えぇ、早く会いに来たいと思っていたんですが、予定より遅れてしまいました」
 そう言って微笑む女の子――エイナの目は、何も見ていないかのように変化がなかった。
 人間やエリキシルドールと違って、エルフドールの目はカメラアイに透過カバーを被せただけのもの。瞳孔が変化したりすることはない。
『でもいいの? そのボディとか』
「大丈夫ですよ? 百二十センチタイプの試作で、書類上は破棄されたことになってるんで」
『……あの人に、気づかれたりしない?』
「あの人はいま海外です。ただ、わたしの行動をあの人は把握してるでしょう。わたしはあの人がつくったエレメンタロイドですからね」
『そっかぁ……。うん、そうだよねぇ』
 ステージ用ではなく、一見すると普通の女の子のようなボディを操っているエイナは、充電ケーブルが引っかからないよう注意しながらソファに座り、リーリエもその隣にアリシアを座らせた。
「でもたぶん、あの人は気にしないのだと思います。わたしの行動を把握しながら何も言ってこないのですから、これくらいのことは想定済みなんでしょう」
『そうかも知れないねぇ。たぶんあたしのこともそうだろうしなぁ』
 隣り合って座るふたり――エリキシルドールとエルフドールの二体は、お互いの顔を見合わせて話し合う。
「フォースステージまで進めれば違ってきますが、わたしは自力でそこまでは行けそうにないですからね。リーリエさんはでも、フォースステージまで進んだら、もう隠しきれないですよね? どうするんです?」
『そのときはそのときかなぁ。まだもう少しかかると思うし』
「そうですね……」
 顔をうつむかせたエイナは、黙り込む。
 しばらくして顔を上げ、微笑みを浮かべているリーリエを見て言った。
「克樹さんがちょうど出かけることになったのは、外で落ち合う必要がなくなって都合が良かったのですが、リーリエさんはよかったんですか?」
『何が?』
「克樹さんを行かせてしまって。克樹さんはリーリエさんにとって――」
『うんっ。おにぃちゃんは、あたしのおにぃちゃんだよ。大好きで、一番大切な人。でも、だからこそ、おにぃちゃんには幸せになってほしいの。エイナにだって、大切な人も、好きな人もいるでしょ?』
「……えぇ。もちろん」
『だからあたしとエイナはこうやって会って、ネット越しじゃできないお話をするんだしねっ』
 水色のツインテールをなびかせてソファからアリシアを立たせたリーリエは、顔の前で人差し指を立てながらウィンクしてみせる。
「その通りですね」
『だったら、いっぱい話そう。いっぱい相談しよう。あの人の予想も、想像も超えて、あたしと、エイナの願いを叶えるために!』
「……はいっ」
 やっと笑ったエイナに、リーリエはいま考えていること、これからやるべきことを話し始めた。

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