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第一部 第五章 ガーベラ
第一部 天空色(スカイブルー)の想い 第五章 2
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* 2 *
ピクシードールのバッテリは激しく動けば動くほど消費する。
バッテリ残量から計算されるアライズの時間もまた同じになっているけど、いまのアリシアのバッテリ残量はほぼ満タン。代わりにスレイプニルのバッテリはあとどれほども残っていなかったが。
――ガーベラのバッテリはDカップ。たいして減ってもいないだろう。
今回は隠すこともなく、ガーベラは右手に仕込んであるファイアスターターを構え、突っ込んでくる。
「やれ、リーリエ」
『今日はこっちにも飛道具があるんだよ!』
近藤には聞こえない声で言って、リーリエはスレイプニルのラッチに搭載していた画鋲銃を両手に構え、引鉄を絞る。
どんなに素早く動こうとも、人間の動体視力よりも性能の高いピクシードールの視界から逃げることなんてできない。
引鉄を絞る度にレインアーマーが引き裂かれ、いままで見えていなかったガーベラのワインレッドの外観が露わになる。
二十発の弾を撃ち尽くしたとき、レインアーマーはほとんど残っていなかった。
椎名さんのデザインなんだろう、白いソフトアーマーのほとんどの部分は、白に縁取られたワインレッドのハードアーマーに覆われていた。
アニメに出てくる騎士の鎧のような感じではあるのに、見ようによっては道着のようにも見えるガーベラのハードアーマー。
可動型ではない、白い仮面タイプのフェイスに光るアイレンズがリーリエではなく、僕を睨みつけてきている。それはガーベラではなく、たぶん近藤の視線なんだろう。
「さて、ファイアスターターはつぶさせてもらったよ」
釘よりも太い画鋲銃の針状の弾を避けるために、ガーベラは両腕を使っていた。
予想していた通り、左右のハードアーマーには何本かの画鋲が刺さり、右腕の下にあるファイアスターターは使用不能になったはずだ。
予備の弾は持ってきているけど、一度アライズを解かないと画鋲銃に再装填をすることはできないだろう。
画鋲銃を地面に置き、リーリエがファイティングポーズを取る。
口元を歪ませた近藤は、残っていたレインアーマーをはぎ取り、刺さったままの画鋲を抜いて、ガーベラに構えを取らせた。
「できれば、僕はこんな戦いはしたくない」
「いまさら何言ってんだよ」
この後使うことになるだろう必殺技に向けた操作をしながら、僕は近藤に言う。
「僕たちはたぶん、魔女に踊らされてるだけなんだ」
「魔女?」
「うん。そいつがこのバトルの主催者で、魔女はエリクサーよりもさらに大きなものを求めてバトルを開催したんだ。戦い続けても、本当にエリクサーが得られるかどうかはわからない」
両手をコートのポケットに突っ込みながら、近藤は叫ぶ。
「お前の推測だろう! もし、もし梨里香が生き返る可能性があるなら、オレは何だってやる! 例え戦うことに意味がなくても、そうだとわかるまでは戦い続ける! どんな汚い使ったとしても!」
言って近藤はポケットから右手を出す。
その手に握られていたのは、手に収まる程度の小さな箱。
――なんだ? あれ。
推測する必要もなく、近藤によってボタンが押されたその箱が効果を発揮した。
『おにぃちゃ――』
「リーリエ!」
呼びかけても反応はない。途絶えてしまった。
スマートギアのディスプレイに表示された三本の通信回線は、通信が途切れたことを示すエラーの印が出ていた。
――モバイル通信の電波妨害装置!
すぐさま僕はセミコントロール用のアプリを立ち上げて、両手を下ろして待機状態になったアリシアとのリンクを確立する。
――まずい。
僕もセミコントロールでアリシアを動かすことくらいはできるけど、リーリエの操作には遠く及ばない。僕だけじゃ近藤とガーベラに勝つことなんてできない。
あの電波妨害装置を奪って止めないと、と思っているとき、スマートギアの視界の隅に影が見えた。
「ん?」
疑問の言葉を口にするのと同時に、僕は反射的にズボンのポケットに手を伸ばす。
ぶつかるように近づいてきた影に、半分無意識のうちに仕舞ってあったナイフを突き出していた。
「あ……」
驚きの声を上げたのは、近藤。
近藤は僕が突き出したナイフを持った手首を掴んで、捻りながら押し返していた。
――そっか。夏姫を気絶させたのは、これか。
頭の中でそんなことを考えていた。
近藤はただ強いだけのフルコントロールソーサラーじゃなく、ピクシードールを動かしながら自分も動くことができる珍しいタイプのソーサラーだったんだ。
百合乃と、同じようなタイプの。
「あ、れ?」
思考が滑っていくのを感じる。
頭の中でいろんなことが浮かんできてる気がするのに、考えをまとめることができない。
ちょうど胸の真ん中辺りに、冷たい感触があった。
何かが、身体の中に入り込んでるような感触。
冷たく感じていたそれが、一瞬にして燃え上がるような熱さになった。
「がっ」
柄までが僕の身体に潜り込んだナイフで、内臓のどこかが傷ついたんだろう。
喉まで押し寄せてくる感触は、堪えることもできずに口から吐き出されていた。
――僕が、死ぬ?
吐き出すのを堪えようと口元に当てた左手を見ると、真っ赤になっていた。
「ゆ、りの……」
自分でも何を呟いたのかわからないまま、僕の視界は落下していく地面を見ていた。
*
ドサリという大きな音が近くで聞こえて、夏姫は目を覚ました。
「くっ」
鳩尾辺りに重い感触があるのを感じながら、無理矢理に顔をあげると、スマートギアを被り、口元を強ばらせた近藤誠が立っているのが見えた。
――なんで、近藤が?
痛みと吐き気にもう一度寝転がりたい気持ちになりながらも、身体を起こす。
近藤が見下ろしている先を見てみると、克樹がいた。
「え?」
仰向けに倒れた克樹の胸には、この前首筋に押し当てられたナイフが突き立っていた。
にじみ出るように、ナイフの刺さっている場所から血が広がって行っていた。
「克樹?」
這い寄っていって、克樹の顔を見る。
明美のときと違って、途切れ途切れの息をしているだけの克樹。
ナイフはまだ刺さったままなのに、血があふれ出してきて、公園の砂利を赤く染めていく。
「克樹!」
呼びかけてみても、反応はない。
「すぐに救急車を!」
言いながら近藤の方に目を向けた夏姫は、彼がこの場所にいる理由に思い至る。
「あんたが、通り魔だったの? 明美にあんなことして、……克樹を、殺した!」
ビクリと身体を震わせる近藤は、どうしていいのかわからないように首を左右に振るばかりだった。
「救急車を!」
落ちていた自分の携帯端末を拾って通話をしようとしてみたが、圏外の表示。
「リーリエ!」
アライズしたまま立ち尽くしているアリシアに声をかけてみても、動く様子がなかった。
「な、んで?」
――克樹が死んじゃう。
どうしていいのかわからなかった。
救急車を呼ばなければならないのはわかっていたが、脚が震えて立つことができなかった。
「ダメ……。ダメだよ、克樹!」
いまの状況を認識した夏姫の目には、涙があふれてきていた。
克樹はもうほとんど息をしていない。
このままだと死んでしまうのはわかっているのに、立ち上がる力すら夏姫にはなかった。
「やだ! やだ! 克樹、死なないで!!」
両手で顔を覆い、首を振ることしか、夏姫にはできなかった。
「ゴメンね。ちょっとそこ、どいてもらってもいーい?」
そんな舌っ足らずな言葉とともに、夏姫の肩に手が置かれた。
顔を上げてみると、にっこりと笑うアリシアがいた。
「リー、リエ?」
克樹の側を少し離れ、膝立ちになったアリシアのことを見る。
――何か、違う。
アライズしたアリシアをリーリエが微笑ませているのは、克樹の家で見ていたが、それと同じ笑顔のようなのに、どこか違うように思えていた。
――それにいま、通信が。
もう一度携帯端末を見てみても、理由はわからないが、圏外のままだ。
克樹が言っていたリーリエの弱点。通信不能な状態にあるいま、どうやってリーリエがアリシアを操っているのかがわからない。
それからもうひとつ気づいたこと。
――声の位置が、ヘン。
「もう本当に、おにぃちゃんは無茶するんだからー。ダメだよ? あんまり無茶したら。あたしのことはもう良いんでしょう? だったら、こんなことしてちゃダメだよ。……でも、おにぃちゃんは聞いてくれないんだろうなぁ。あの人が、関わってるんだもんね」
リーリエは口を動かしながらも、スピーカーから声が出ていた。
でもいまは、アリシアの口の動きに合わせて、その口から声が出ているような気がしていた。
「もしかしてあなたは――」
「無茶ばっかりするおにぃちゃんだから、お願いするね。愛想尽かせるまででいーから」
にっこりと笑いかけてくる彼女が誰なのか、夏姫は理解していた。
「もう本当はこんなことしちゃダメなんだよ。あたしはもう、いないんだから。でも今回は特別。ほんのちょっとしか溜まってないし、たぶん次こんなことがあってもできないと思うけど、おにぃちゃんには死んでほしくないもん」
言って彼女は握り合わせた両手をナイフの上まで持っていく。
目を閉じ、大きく息を吸うような動作をした彼女が、唱えた。
「アライズ」
両手から、一粒の滴が落ちていった。
無色透明なその水のようなものが、ナイフに当たり、傷へと染み込んでいく。
キンッ、という甲高い音を立てて、ナイフが勝手に抜け落ちた。
血が噴き出すことはなく、何度か咳をして血を吐き出した後、克樹の息が安定する。
「それじゃあおにぃちゃんと、それからこの子のことをお願いします」
自分を示すように胸元に手を添えた彼女は、にっこりと笑う。
それからちらりと彼女がやった視線の方向には、近藤の右手があった。
その右手に握られている箱が何であるのか、夏姫は理解した。
アリシアの身体が力を失い、膝立ちの格好のまま停止する。
「克樹! 克樹!!」
近づいて大きな声で呼びかけると、克樹がうっすらと目を開けた。
再びあふれてきた涙の滴が、克樹の顔を濡らしていった。
ピクシードールのバッテリは激しく動けば動くほど消費する。
バッテリ残量から計算されるアライズの時間もまた同じになっているけど、いまのアリシアのバッテリ残量はほぼ満タン。代わりにスレイプニルのバッテリはあとどれほども残っていなかったが。
――ガーベラのバッテリはDカップ。たいして減ってもいないだろう。
今回は隠すこともなく、ガーベラは右手に仕込んであるファイアスターターを構え、突っ込んでくる。
「やれ、リーリエ」
『今日はこっちにも飛道具があるんだよ!』
近藤には聞こえない声で言って、リーリエはスレイプニルのラッチに搭載していた画鋲銃を両手に構え、引鉄を絞る。
どんなに素早く動こうとも、人間の動体視力よりも性能の高いピクシードールの視界から逃げることなんてできない。
引鉄を絞る度にレインアーマーが引き裂かれ、いままで見えていなかったガーベラのワインレッドの外観が露わになる。
二十発の弾を撃ち尽くしたとき、レインアーマーはほとんど残っていなかった。
椎名さんのデザインなんだろう、白いソフトアーマーのほとんどの部分は、白に縁取られたワインレッドのハードアーマーに覆われていた。
アニメに出てくる騎士の鎧のような感じではあるのに、見ようによっては道着のようにも見えるガーベラのハードアーマー。
可動型ではない、白い仮面タイプのフェイスに光るアイレンズがリーリエではなく、僕を睨みつけてきている。それはガーベラではなく、たぶん近藤の視線なんだろう。
「さて、ファイアスターターはつぶさせてもらったよ」
釘よりも太い画鋲銃の針状の弾を避けるために、ガーベラは両腕を使っていた。
予想していた通り、左右のハードアーマーには何本かの画鋲が刺さり、右腕の下にあるファイアスターターは使用不能になったはずだ。
予備の弾は持ってきているけど、一度アライズを解かないと画鋲銃に再装填をすることはできないだろう。
画鋲銃を地面に置き、リーリエがファイティングポーズを取る。
口元を歪ませた近藤は、残っていたレインアーマーをはぎ取り、刺さったままの画鋲を抜いて、ガーベラに構えを取らせた。
「できれば、僕はこんな戦いはしたくない」
「いまさら何言ってんだよ」
この後使うことになるだろう必殺技に向けた操作をしながら、僕は近藤に言う。
「僕たちはたぶん、魔女に踊らされてるだけなんだ」
「魔女?」
「うん。そいつがこのバトルの主催者で、魔女はエリクサーよりもさらに大きなものを求めてバトルを開催したんだ。戦い続けても、本当にエリクサーが得られるかどうかはわからない」
両手をコートのポケットに突っ込みながら、近藤は叫ぶ。
「お前の推測だろう! もし、もし梨里香が生き返る可能性があるなら、オレは何だってやる! 例え戦うことに意味がなくても、そうだとわかるまでは戦い続ける! どんな汚い使ったとしても!」
言って近藤はポケットから右手を出す。
その手に握られていたのは、手に収まる程度の小さな箱。
――なんだ? あれ。
推測する必要もなく、近藤によってボタンが押されたその箱が効果を発揮した。
『おにぃちゃ――』
「リーリエ!」
呼びかけても反応はない。途絶えてしまった。
スマートギアのディスプレイに表示された三本の通信回線は、通信が途切れたことを示すエラーの印が出ていた。
――モバイル通信の電波妨害装置!
すぐさま僕はセミコントロール用のアプリを立ち上げて、両手を下ろして待機状態になったアリシアとのリンクを確立する。
――まずい。
僕もセミコントロールでアリシアを動かすことくらいはできるけど、リーリエの操作には遠く及ばない。僕だけじゃ近藤とガーベラに勝つことなんてできない。
あの電波妨害装置を奪って止めないと、と思っているとき、スマートギアの視界の隅に影が見えた。
「ん?」
疑問の言葉を口にするのと同時に、僕は反射的にズボンのポケットに手を伸ばす。
ぶつかるように近づいてきた影に、半分無意識のうちに仕舞ってあったナイフを突き出していた。
「あ……」
驚きの声を上げたのは、近藤。
近藤は僕が突き出したナイフを持った手首を掴んで、捻りながら押し返していた。
――そっか。夏姫を気絶させたのは、これか。
頭の中でそんなことを考えていた。
近藤はただ強いだけのフルコントロールソーサラーじゃなく、ピクシードールを動かしながら自分も動くことができる珍しいタイプのソーサラーだったんだ。
百合乃と、同じようなタイプの。
「あ、れ?」
思考が滑っていくのを感じる。
頭の中でいろんなことが浮かんできてる気がするのに、考えをまとめることができない。
ちょうど胸の真ん中辺りに、冷たい感触があった。
何かが、身体の中に入り込んでるような感触。
冷たく感じていたそれが、一瞬にして燃え上がるような熱さになった。
「がっ」
柄までが僕の身体に潜り込んだナイフで、内臓のどこかが傷ついたんだろう。
喉まで押し寄せてくる感触は、堪えることもできずに口から吐き出されていた。
――僕が、死ぬ?
吐き出すのを堪えようと口元に当てた左手を見ると、真っ赤になっていた。
「ゆ、りの……」
自分でも何を呟いたのかわからないまま、僕の視界は落下していく地面を見ていた。
*
ドサリという大きな音が近くで聞こえて、夏姫は目を覚ました。
「くっ」
鳩尾辺りに重い感触があるのを感じながら、無理矢理に顔をあげると、スマートギアを被り、口元を強ばらせた近藤誠が立っているのが見えた。
――なんで、近藤が?
痛みと吐き気にもう一度寝転がりたい気持ちになりながらも、身体を起こす。
近藤が見下ろしている先を見てみると、克樹がいた。
「え?」
仰向けに倒れた克樹の胸には、この前首筋に押し当てられたナイフが突き立っていた。
にじみ出るように、ナイフの刺さっている場所から血が広がって行っていた。
「克樹?」
這い寄っていって、克樹の顔を見る。
明美のときと違って、途切れ途切れの息をしているだけの克樹。
ナイフはまだ刺さったままなのに、血があふれ出してきて、公園の砂利を赤く染めていく。
「克樹!」
呼びかけてみても、反応はない。
「すぐに救急車を!」
言いながら近藤の方に目を向けた夏姫は、彼がこの場所にいる理由に思い至る。
「あんたが、通り魔だったの? 明美にあんなことして、……克樹を、殺した!」
ビクリと身体を震わせる近藤は、どうしていいのかわからないように首を左右に振るばかりだった。
「救急車を!」
落ちていた自分の携帯端末を拾って通話をしようとしてみたが、圏外の表示。
「リーリエ!」
アライズしたまま立ち尽くしているアリシアに声をかけてみても、動く様子がなかった。
「な、んで?」
――克樹が死んじゃう。
どうしていいのかわからなかった。
救急車を呼ばなければならないのはわかっていたが、脚が震えて立つことができなかった。
「ダメ……。ダメだよ、克樹!」
いまの状況を認識した夏姫の目には、涙があふれてきていた。
克樹はもうほとんど息をしていない。
このままだと死んでしまうのはわかっているのに、立ち上がる力すら夏姫にはなかった。
「やだ! やだ! 克樹、死なないで!!」
両手で顔を覆い、首を振ることしか、夏姫にはできなかった。
「ゴメンね。ちょっとそこ、どいてもらってもいーい?」
そんな舌っ足らずな言葉とともに、夏姫の肩に手が置かれた。
顔を上げてみると、にっこりと笑うアリシアがいた。
「リー、リエ?」
克樹の側を少し離れ、膝立ちになったアリシアのことを見る。
――何か、違う。
アライズしたアリシアをリーリエが微笑ませているのは、克樹の家で見ていたが、それと同じ笑顔のようなのに、どこか違うように思えていた。
――それにいま、通信が。
もう一度携帯端末を見てみても、理由はわからないが、圏外のままだ。
克樹が言っていたリーリエの弱点。通信不能な状態にあるいま、どうやってリーリエがアリシアを操っているのかがわからない。
それからもうひとつ気づいたこと。
――声の位置が、ヘン。
「もう本当に、おにぃちゃんは無茶するんだからー。ダメだよ? あんまり無茶したら。あたしのことはもう良いんでしょう? だったら、こんなことしてちゃダメだよ。……でも、おにぃちゃんは聞いてくれないんだろうなぁ。あの人が、関わってるんだもんね」
リーリエは口を動かしながらも、スピーカーから声が出ていた。
でもいまは、アリシアの口の動きに合わせて、その口から声が出ているような気がしていた。
「もしかしてあなたは――」
「無茶ばっかりするおにぃちゃんだから、お願いするね。愛想尽かせるまででいーから」
にっこりと笑いかけてくる彼女が誰なのか、夏姫は理解していた。
「もう本当はこんなことしちゃダメなんだよ。あたしはもう、いないんだから。でも今回は特別。ほんのちょっとしか溜まってないし、たぶん次こんなことがあってもできないと思うけど、おにぃちゃんには死んでほしくないもん」
言って彼女は握り合わせた両手をナイフの上まで持っていく。
目を閉じ、大きく息を吸うような動作をした彼女が、唱えた。
「アライズ」
両手から、一粒の滴が落ちていった。
無色透明なその水のようなものが、ナイフに当たり、傷へと染み込んでいく。
キンッ、という甲高い音を立てて、ナイフが勝手に抜け落ちた。
血が噴き出すことはなく、何度か咳をして血を吐き出した後、克樹の息が安定する。
「それじゃあおにぃちゃんと、それからこの子のことをお願いします」
自分を示すように胸元に手を添えた彼女は、にっこりと笑う。
それからちらりと彼女がやった視線の方向には、近藤の右手があった。
その右手に握られている箱が何であるのか、夏姫は理解した。
アリシアの身体が力を失い、膝立ちの格好のまま停止する。
「克樹! 克樹!!」
近づいて大きな声で呼びかけると、克樹がうっすらと目を開けた。
再びあふれてきた涙の滴が、克樹の顔を濡らしていった。
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