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第三章 入道グモとワニと禄朗

第三章 3 禄朗

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       * 3 *


「おはよう……」
「おはよ。どうしたんだ? 今日は」
「おはよう。ひどい顔してるね」
「大丈夫だよ」

 改めて自分の部屋も、屋根裏部屋も探してみたけど、新しく禄朗の痕跡を見つけることはできなかった。
 隣の佐々木さんの家にも、理由をつけて行ってみた。出てきたおばさんは、禄朗のことを憶えてる様子はなかった。
 この世界にはいま、禄朗の痕跡はアルバムと日記帳とフィルムカメラしかない。
 それだけはなくしちゃいけないと思って、あたしは今日も鞄の中にアルバムと日記帳を入れてきていた。
 沙倉とマリエちゃんの声に返事をして、気分転換にと思って朝にシャワーも浴びてきたのに、ちっとも晴れない気持ちを胸にずっしりと感じながら、あたしはうつむいたまま自分の席に向かった。
 椅子に座って鞄を机のフックに引っかける。

「おはよう」
「うん、おはよう……」

 隣の席からかけられた声に反射的に応えて、顔を上げる。
 違和感があった。
 不思議な感じがあった。
 ゆっくりと右側の席に顔を向けると、不思議そうな顔をした男の子があたしのことを見ていた。
 男の子にしてはちょっと低めなのを気にしてる背丈。太ると絶対大福みたいになるだろうけど、痩せているから柔らかい感じがする顔。おかっぱみたいにしてた髪を短くしたのは高校に入ってからで、それだけですごく男っぽくなったような気がしたのを、よく憶えてる。
 優しい目と笑顔であたしのことを見つめてきていたのは、禄朗。
 禄朗がいま、あたしの隣の席に座っていた。

「どうしたんだよ、アイ。朝から熱いなぁ」
「ダメだよ、沙倉。あんまりそんなこと言っちゃ」

 見つめ合うあたしと禄朗のことを沙倉が茶化して、マリエちゃんがそれをたしなめるけど、あたしの耳にはあんまり入ってきていなかった。

「朝遅かったみたいだから、今日は先に学校に来ちゃったよ」

 いつも禄朗と学校に登校してたし、下校するときも用事がなければ一緒だった。何かあって一緒に登校できないときは、こうやって会って最初にそのことを言ってくれていた。

 ――あぁ、禄朗だ。

 あたしの中にある記憶と少しも変わらない禄朗が、いまそこにいる。
 どこに行ってたのか訊きたくもあったけど、どうでもいいことだった。
 優しく微笑む彼がいまここにいること。それだけが重要で、大切で、それ以外のことはどうでもいいことだった。
 手を伸ばして、禄朗の頬に触れてみる。
 柔らかいその感触は、確かにあたしの知ってる禄朗の頬だった。
 泣きそうになって、胸が詰まって、あたしは思わず禄朗の肩に顔を押しつける。
 いつもと変わらない禄朗の匂いが、あたしに安心をくれた。

「おいおい。教室だってわかってるか?」
「そろそろ先生も来るよ」

 呆れたような沙倉とマリエちゃんの声に、あたしは恥ずかしくなって急いで身体を自分の席に戻した。
 それからもう一度、禄朗のことを見て、ふたりで少し笑い合う。
 ライオンがやってきて、三〇回の吠え声を上げて点呼を取る間も、あたしはずっと禄朗のことを見ていた。
 あたしの視線に気づいて不思議そうに首を傾げる禄朗だったけど、それでも笑ってくれる。

 いっぱい訊きたいことがあった。
 でももう、禄朗がここにいる。
 だからそれは全部、どうでもいいことのような気がしていた。




「じゃあまた明日な、アイ」
「またね、アイリス」
「うん。また明日」

 校門の前で沙倉とマリエちゃんに別れの挨拶をして、あたしは右側にいる禄朗を見る。

「帰ろう」
「うん」

 彼の言葉に頷いて、あたしは家に向かって歩き始める。
 右手を少し彼の方に差し出すと、何も言わないまま向こうから手を伸ばしてくれた。

 ――いつから手をつなぐようになったんだっけ。

 二年になる直前の春休みに恋人同士になった禄朗とあたしだけど、学校帰りやふたりで出かけるときだけとはいえ、禄朗に告白された遊園地の帰りのときだって手をつなぐこともできなかった。
 そんなふたりだったのに手をつなぐようになったのは、確か始業式が終わって二年生になって、四月も半ばが過ぎた頃。

 ――そうだ。確かあのとき……。

 一年のときにはあたしと禄朗は別のクラスで、曽我さんは禄朗と同じクラスだった。
 そのときに何かあったのかも知れないし、まだ何もなかったのかも知れない。
 とにかくあたしは、曽我さんが禄朗のことを見ていることに気がついて、自分から手を伸ばしたのを憶えてる。

 それからある意味決定的だったのが、ゴールデンウィークに入る前の日のこと。
 待っててと禄朗が言うから校門の前で待ってたら、泣きそうな顔をした曽我さんが学校から出てきたことがあった。
 遅れて出てきた禄朗は普段と変わらない様子だったけど、タイミングから考えて禄朗と曽我さんの間に何かあったんだろうとは思っていた。

 ――あれ? 何かヘンだ。

 ふと胸の中にある箱が、ちくりと暴れて痛みを生んだ。
 何かを忘れてる気がした。
 胸の中にあるような気がしていた箱が開いたことで、あたしは禄朗とのことを全部思い出した。
 いまはもうその箱は開きっ放しで、出てくるものなんてないはずなのに、まだ何か、箱の中に残っているものがあるような気がした。
 それがなんだったのかわからなくて、不安がこみ上げてくる。
 思い出さなくちゃいけないような気がしてるのに、どうしても思い出すことができない。箱の中からは何も出てきてはくれない。

「どうしたの? 考え事?」

 優しい声で問われて、あたしは禄朗の顔を見る。
 微かに笑むその表情が、あたしの不安を消してくれる。

 ――もう、考える必要なんてないんだ。

 だって禄朗はここにいるんだから。
 もうどこにも行ったりはしないんだから。

「うぅん。何でもないよ」

 笑顔で彼の言葉に答えて、あたしはいつもよりもほんの少しゆっくりした足取りで歩く。
 通りがかった駅のロータリーでは、客待ちをする絡繰人形の人力車が列をなしていた。
 ちょうど到着した電車から降りてきた色とりどりの不定型なスライムの群れたちが次々と人力車に乗り込んで行くけど、いくらも進まないうちに絡繰人形と車体を栄養に変えてしまって、通りに出る手前で行き詰まっている。
 国道に出ると、いつになく交通量が多かった。
 二頭立ての戦車がスゴイ勢いで通り過ぎたかと思うと、中身をくりぬいた巨大なカボチャの馬車がそれを追いかけるようにスピードを上げていく。のろのろとした牛車が気まぐれに道をふさいで、アッという間に道路は大渋滞となってしまう。
 乱闘が始まりそうな雰囲気の国道を避けて、あたしは禄朗と一緒に、少し遠回りになる川沿いの土手に足を向けた。

 そんなに禄朗とは話していない。

 交わす言葉も少なく一緒に歩くだけなのに、つないだ手から幸せがあふれてきていた。
 手をつないでるだけで、うぅん、手をつないでなくても、こうして禄朗と一緒に歩くだけで、あたしにとっては充分だった。
 いつまでもいつまでもこんな時間が続いてほしいと、あたしは願っていた。

 ――そう、なるよね。

 あたしは禄朗と約束したんだから。
 ずっと同じ道を歩いて行くことはなくても、あたしと禄朗は一緒にいる。死ぬまで一緒にいるって、あのとき約束したんだから。
 そう思うのに、ふつふつと胸の中にわき上がってくる不安。
 なんでそんな不安を感じてるのかわからない。
 でもいまは禄朗がいる。
 不安に思う必要なんてひとつもない。
 つないでる手が暖かくて、大きくて、わたしは彼の手を少し強くつかむ。
 それに気づいて笑顔を向けてきてくれる禄朗に、わたしも笑顔を返す。

 一緒にいることは、幸せ。
 こうやっていま禄朗と一緒にいることは、あたしにとってなによりの幸せ。
 だから、不安を感じる必要なんて、ひとつもなかった。

「後で僕の部屋まで来てくれる?」
「え?」

 幸せを噛みしめてる間に家に着いちゃって、少し寂しく感じてるときにそう言われた。
 何か用事があるのかどうかはわからないけど、あたしの気持ちを察してくれたのかも知れない。

「うん、わかった。すぐ行くね」

 つないでいた手を離して、急いで家の中に入る。
 お母さんにただいまの言葉を放り投げて自分の部屋に駆け込んで、お気に入りの、でもあんまり着飾らない感じのブラウスとプリーツスカートを選んで制服から着替える。
 もう少し考えたかったけど、早く禄朗のとこに行きたくて、髪を軽く整えたあたしは階段を駆け下りて家を出た。

「お邪魔します」

 と呼び鈴も鳴らさずに禄朗の家の玄関を開けて中に入る。
 おばさんがいるかと思ったけど、一階には人の気配はなかった。
 脱いだ靴を揃えてから、あたしは禄朗の部屋に向かうため、駆け足で階段を上がった。

「早かったね」

 部屋の扉をノックすると、そう言って制服のままの禄朗が扉を開けてくれた。

「適当に座って」

 言われて部屋を見回すけど、客用の椅子があるわけでも、絨毯の上に座布団が用意されてるわけでもない。

 ――最後に禄朗の部屋に入ったのって、いつだったっけ。

 小学校の頃はよく遊びに来てたけど、中学になってからはあんまり禄朗の部屋には行かなくなっていた。
 特別理由があったわけじゃない。何となく恥ずかしくなっていて、その頃から彼のことを異性として意識し始めたんだと思う。
 禄朗にバレないように、ちらちらと部屋の中を見回してみる。
 あたしの部屋とそんなに変わらない、クローゼットと机と棚がある程度の部屋。
 物はすごく少なくて、男の子の部屋だからもっといろんな物があるような気がするのに、まるで空き部屋みたいに密度が低いように思えた。

 ――あれ?

 部屋を見ていてちょっと疑問を感じた。
 不思議な気持ちになっていた。

 ――あれが、ない?

 見つけられなかったのは、古びた感じの木の箱。
 いつも机の片隅に置いてあって、中身を見せてくれたことはなかったけど、大切にしているものらしかった。
 禄朗が開けてるときにちょっと見えちゃったことがあって、その中には写真や小物なんかの、彼にとっての宝物が仕舞ってあるみたいだった。
 最後に見たのは中学のときの話だし、本当に大切にしてたみたいだけど、もうずいぶん経ってるんだ、どこかに仕舞い込んじゃったか、捨てちゃっただけかも知れない。
 結局見回してみても座る場所が見つけられなくて、仕方なくベッドの上に座って、でもその後どうしていいのかわからなくなった。
 話したいことがあるような気がするのに、話す言葉が見つからない。禄朗と一緒にいるだけで幸せで、それ以上のことはいらなくて、だからとりあえず思いついたことを口にしてみる。

「おばさんは?」
「今日は出かけて夜まで帰ってこないんだよ」

 言って禄朗はあたしの隣に腰掛ける。
 緊張で、心臓が強く、激しく脈打ち始めた。
 自分でもぎこちなくなってるのがわかる首を動かして禄朗の方を見ると、彼も緊張してるのか、どこか笑顔が固まっているようだった。

「今日は少しヘンだったけど、どうかしたの?」
「うぅん、何でもないよ」

 ――だってもう、禄朗はここにいるんだから。

 禄朗の膝の上に手を伸ばして、彼の手に触れる。
 握り返してくれた手は暖かくて、いま彼がここにいることを、確かに実感することができた。

「ん、よかった」

 禄朗が見せてくれた笑顔に、あたしも自分の顔に笑顔が浮かぶのを感じてる。

 ――あぁ、そう言えば。

 あたしの部屋にあるフィルムカメラを、持ってくればよかったと思う。
 あれは禄朗のものだった。
 なんであたしの部屋にあったのかはわからないけど、早く禄朗に返さないといけない。

 ――でもあれは、なんでだろう?

 カメラにこびりついた汚れのことが、何となく気になった。
 禄朗が大切に使ってたカメラに、何であんな汚れがこびりついているのか、不思議に感じていた。
 胸の中の開きっぱなしの箱が騒ぎ出す。
 それは思い出さなくちゃいけないことで、でも思い出しちゃいけないことのような気もした。

「ねぇ」
「うん?」

 呼びかけられて禄朗を見てみると、彼の顔には笑みがなくって、真剣な目であたしのことを見つめてきていた。
 彼の真剣な顔が近づいてきて、突然であたしはそれを拒むことも忘れてしまっていた。
 覆い被さるようにあたしの身体をベッドの上に横たえさせた禄朗。
 ちょっとだけ強引で、少し勢いが良すぎて、一気に高まる緊張と恥ずかしさで、あたしはいま考えていたことも忘れて、口から飛び出してきちゃいうそうなほど激しい心臓の鼓動を意識する。
 スカートがめくれ上がって、太ももがほとんど丸見えになっちゃってる。
 ブラウスもずり上がっちゃって、ヘソの辺りに少し冷たい空気が触れてるのがわかった。

 突然のことで驚いてて、恥ずかしくて顔から火が出そうで、隠したかったけど、両方の手首をつかまれてるから、それもできない。
 それに、真剣というより緊張した表情の禄朗を、あたしは拒絶したりできない。
 いつかこうなるんだろうって、予想していた。
 告白されたあの日から、覚悟は決めていたつもりだった。
 だって禄朗も男の子ってことくらい、ずいぶん前から気づいていたから。
 あたしも禄朗とこうなることを、ぜんぜん考えてなかったわけじゃない。

 女の子だって少しくらい、期待してるんだから。

 前触れも何もなくて、心構えも充分にできてるわけじゃないけど、あたしは禄朗のことを受け入れる。
 近づいてくる彼の顔に、目をつむった。
 あたしの左手から離された禄朗の右手が、丸見えになっちゃってるあたしの腰に触れる。
 ブラウスをさらにめくり上げながら、背中に回されていく手。
 滑るように背中を、あたしの肌を、禄朗の手が触れていく。
 くすぐったくて恥ずかしい。でも何か、ぞくぞくとする感覚がして、あたしは思わず吐息を漏らしてしまう。
 だんだんと強くなっていく心地よい禄朗の匂いに、あたしの緊張はさらに高まっていく。

 春のあの日から、まだ数えるくらいしかキスもしたことはない。
 でもいままでずっと一緒に生きてきた禄朗だから、怖がる必要なんてない。拒絶する理由なんてない。
 すぐ近くにある少し荒い息づかいに鼓動が早まる。

「好きだよ。愛してるよ、アイリス」

 触れそうなほど近づいた唇からささやかれた言葉。
 その瞬間、あたしは禄朗のことを突き飛ばしていた。

「どうしたの? アイリス」

 驚いた顔の禄朗が手を伸ばしてくるけど、あたしはベッドの端まで逃げてしまう。
 いままで疑うことなく禄朗と思っていた人が、もう禄朗には見えなくなっていた。
 顔も、声も、匂いも禄朗なのに、いまあたしのことを見つめてくる彼の瞳が、禄朗には見えなかった。

 ――禄朗が、あたしのことをイーリスって呼んでくれない。

 そんなこと、嘘だと思った。
 信じたくなかった。
 禄朗はいつもあたしのことをイーリスと呼んでくれた。
 あたしのことを、あたしとして見てくれるときは絶対に、あたしをイーリスと呼んでくれていた。
 あたしが彼にだけ許してる、彼があたしをあたしとして見てくれる、絆だった。
 あたしのことを見てくれていたはずなのに、あたしのことをイーリスと呼んでくれない禄朗なんて、禄朗だなんて思えなかった。

「貴方は、誰?」
 問われて少し顔を伏せた彼。
 顔を上げたとき、表情をなくした顔で彼は言う。

「ダメだよ、アイリス。僕が禄朗だ。君がそう認識しなければ、世界は壊れてしまうよ。君が望んで生まれた世界が、崩れてしまうよ」

 意味がわからなかった。
 禄朗の姿をしながら、禄朗でない彼の言葉は、あたしの耳には聞こえなかった。
 胸の中の箱が、激しく暴れていた。
 胸が痛くて、つらくて、やっと会えた禄朗が禄朗でなかったことが悲しくて、あたしはもう我慢することなんてできなかった。

「あたしが探していたのは、貴方じゃない」
「……そう」

 少し悲しそうな顔になる、禄朗ではない彼。

「貴方のことなんて知らないっ。貴方は、禄朗なんかじゃない!!」
 そう叫んで、あたしは禄朗の部屋を走り出た。


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