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第二章 日記とイーリスと未来予報士

第二章 1 司馬遷ライオン

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第二章 日記とイーリスと未来予報士


       * 1 *


 震える膝を奮い立たせて、あたしはどうにか立ち上がる。
 曽我さんが飛び降りた。
 そのことだけはわかってるんだから、とにかくそのことを誰かに伝えて、どうにかしなくちゃいけない。
 フェンスをつかんで、曽我さんが落ちた方に捕まり歩きで移動して下を見てみようとするけど、落ちていった辺りまでは見ることができなかった。

 身体が震えてる。

 いろんなことが思い浮かんでは消えていく。
 想像することはやめて、でも考えることはやめないで、大きく何度か深呼吸をしたあたしは、やっと膝の力を取り戻す。
 手につかんだままだった鍵をスカートのポケットに押し込んで、階段室の扉から校舎に入って階段を下りていく。

 ――あんなところから落ちたら、無事で済むはずがない。

 校舎は三階建て。
 階段室の上からだから、四階くらいの高さから落ちたことになる。
 膝が笑っていて一歩一歩踏みしめるように階段を下り始めたのに、気がついたら早足になっていた。

 ――普通なら。

 止まりそうになる頭を動かし続けるために、あたしは考えることをやめない。
 高いところから落ちたら怪我をする。
 あの高さから落ちたなら、どんなに軽くても大怪我をする。
 二階から一階に下りるときには、あたしは走っていた。

 ――大怪我で済まなかったら?

 そう自分に問いかけて、あたしはまた頭の中が真っ白になっていた。
 いつの間にか本鈴も鳴ってたらしく、廊下には人影はなかった。
 しんと静まり返った校舎で、あたしは階段の手すりに体重をかけてかろうじて立ちながら、残り数段を必死になって踏みしめる。
 大怪我で済まなかったときのことが、どうしても考えられない。考えたくない。
 最悪の事態も考えなくちゃいけないのに、あたしは曽我さんが落ちた場所に向かいながら、思考停止に陥っていた。

 苦しくなるほど心臓が脈打ってる。
 昇降口に向かう脚が鉛のように重い。
 気が遠くなるような気持ちになりながら、あたしは歩くよりも遅い足取りで、その場所に向かった。

「ここ、だよね?」

 ポーチのようなコンクリートが剥き出しになってる場所に、曽我さんは落ちてきているはずだった。
 でも、そこには何もない。
 周りを見回してみても、曽我さんの姿はなかった。
 近くに引っかかるような木もないし、校舎を見上げてもどこかに引っかかってるなんてこともなく、コンクリートの上にも、人が落ちてきたような跡は残ってなかった。
 曽我さんは、消えてしまっていた。

「確かに落ちたよね?」

 口に出して確認してみるけど、誰かが応えることはない。
 曽我さんが落ちたことに気づいて集まってる人も、ひとりもいなかった。
 もしかしたら誰かが助けたのかも知れないと思って保健室に走っていく。
 授業中だけど気にしてられなくて開けた扉の向こうには、誰もいなかった。カーテンが開けられていて見えてるベッドにも、寝ている人はいなかった。

「嘘……」

 いまの状況をどう考えていいのかわからなくて、ただつぶやく。
 何が起こったのか、本当にわからなかった。
 あたしは確かに曽我さんが落ちていくのを見たはずなのに、その痕跡はなくて、誰かがそのことに気づいた様子もない。
 授業に入った校内は静まり返っていて、あたしだけが取り残されたみたいに保健室の前で突っ立っていた。

「何が起こったの?」

 ちっとも状況を理解することができなくて、あたしはもう考えることができなくなっていた。




 教室の後ろの扉を開ける。
 クラスメイトの視線があたしに集まる。
 教壇に立っているのは、いつも通りきっちりしたスーツ姿のライオン。
 見事な毛並みをしてるのに、頭頂部だけがバリカンで刈り取ったみたいに薄くなってるたてがみ。逆モヒカンみたいになってる司馬遷ライオンが、肉球のある手で器用に教科書表示用のスレート端末を持って、教壇からあたしのことを捕食対象でも見るみたいな目で睨みつけてきていた。

「どこ行ってたんだ、立花」

 あたしの頭くらいぺろりと食べてしまいそうな大きな口で問われて、あたしは泣きそうになる。

「あの、曽我さんが……。曽我さんが……」

 身体の力が抜けそうになって、あたしは教室の扉をつかんでどうにか立っていた。

「曽我?」

 獲物に狙いを付けるように目を細めて、司馬遷ライオンはあたしのことを睨み続けている。

「曽我さんが屋上から飛び降りて、その――」
「ちょっと待て」

 威嚇するような鋭い声に止められて、あたしは口をつぐむ。

「そもそも曽我ってのは誰なんだ」
「え?」

 問われて驚く。

「曽我さんです。曽我フィオナです、先生」
「だからそれは誰なんだ。二年に曽我って名前の生徒はいないぞ」

 嘘を吐いているようには見えない司馬遷ライオンの言葉に、あたしは教室を見回す。
 机の数は二九。
 ひとつ、減っていた。

 ――違う。

 あたしの中で、あたしが否定する。
 胸の中の箱が、激しく震えて否定する。
 ひとつ、と思った瞬間に感じたのは、強烈な違和感。
 吐き気がするほど感じるそれに、あたしはなくなった机がひとつじゃないことを意識する。

 ――昨日、あたしは何に違和感を感じてた? 今日の朝、何で違和感を感じたの?

 自分の席を見て、その右隣を見てみる。
 他のみんなと一緒にあたしのことを見つめてきている男の子。彼の顔が、そこに見えていることに、あたしは違和感を覚えてる。

 ――減った席の数は、ふたつだ。

 昨日のことをあたしは思い出した。
 なぜ忘れていたのかわからない。あれだけ不思議に思ってたのに、いまのいままで思い出せなかったことが信じられない。
 昨日あたしが不思議に思っていた空席。
 その空席があったとき、教室の中にあった机は三一だったはずだ。
 曽我さんの席も、昨日誰も気にしていなかった空席も、いまは跡形もなくなってしまっている。
 どうしてそんなことが起こってるのか、あたしには少しも理解できなかった。

「とにかく自分の席に座りなさい」

 沙倉とマリエちゃんがあたしに心配そうな目を向けてきていたけど、それはあたしに対する心配であって、いなくなってしまった、席さえなくなってしまった曽我さんへの心配じゃない気がした。
 倒れそうになる足取りで机の間を縫って、自分の席に座る。
 本当に何が起こったのか理解できなかった。
 何をどうしていいのかわからなかった。
 あたしにはこの教室が、この世界が、歪んでるようにしか見えなかった。


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