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かみさま
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随分と昔の話である。
祖母の家はその当時から古臭く、今にも朽ち落ちそうな外観をしていた。
とはいえ、古い家であるから梁や柱などは太く丈夫なものを使っていたので、いつか崩壊するのではと要らぬ心配をする私に、祖母は呵呵とばかりに笑い私の背中を叩いて案ずることはないと繰り返していた。
そんな古い家だから、台風や悪天候の折などは酷く屋根が軋んだし、田舎の家だから裏の山から風雨を逃れて野生の獣や蛇などが入り込んでくることもしばしばで、年に数度とはいえ私はこの家を訪れるのを嫌っていた。生まれた時から都会とは言えずとも、田や畑など目にする機会など滅多にない暮らしをしてきたのだから、古ぼけた薄暗い部屋の隅でとぐろを巻く蛇に遭遇した時など、悲鳴を上げることもせずただ部屋の隅で震える以外のことは出来ない。祖母はその時私が失禁したのだと、面白おかしく親戚に話したりするから余計にあの田舎の家に行くのは気が重かった。
私が十か十一の夏休み、その日は雨の激しい日だった。瓦を打つ雨音はそのうち屋根を破壊するのではないかと言う勢いであったし、雨戸を閉め切った所為で灯りが点いていても部屋は陰鬱としており、風の所為でテレビの映りも悪いのだからもう寝てしまおう、と祖母の声により早々に床を延べ並んで横になった。
恐らく丑三つ時には少し早い時間だったであろう。私は尿意を催し目を覚ました。古い家らしく、祖母の家のトイレは縁側の突き当たりにあり、そこにたどり着くまでには例の蛇を見た部屋を通らなければならない。厭だな、と思ったものの、いい年なのに一人でトイレにも行けないとまた祖母にからかわれるのも不快であったし、意を決して布団を抜け出した。雨風は相変わらずごうごうと激しく、雨戸をがたぴしと鳴らしている。
通り道すべての灯りを点けてやろうと思ったけれど、暗闇で壁を探る中でへんなものに触れてしまうのが厭で、恐る恐る、一歩ずつ足を踏み出しながら縁側への廊下を歩く。一刻も早くトイレへ駆け込みたい気持ちを抑え、ようやく縁側の突き当たりのトイレの扉を見付けたときは死ぬほど安堵した。どうせ誰にも見つかるまいと、扉を開け放ったまま用を足し、手を洗いトイレを出て、後ろ手に扉を閉めたときにその違和感に気付いた。
何かがいる。
ひどく曖昧な確信だったと思う。私が仮に私の母であったなら、怖がりからくる勘違いだと一笑に付したはずだ。しかし子供の私は、その恐怖心をどうにも打ち消すことができなかった。こんなことなら祖母に笑われてでも誰かを叩き起こせばよかったと死ぬほど後悔をした。後悔をしたが、このままここに立ち尽くす訳にもいかない。こんなところで夜を明かすくらいなら全速力で走ってでも家族のいる寝床に戻った方が安全だ。そう思い、来た時とは逆に足早に縁側を駆け抜けようとした。
その時。
きぃ、と音がした。強い風に揺らされる雨戸の音でも、叩きつける雨が響く瓦の音でもない。きぃ、という音。
この時の私は子供ながらに懸命な判断をした。後ろから聞こえた、と思ったその音を無視して大急ぎで寝床へと戻ったのである。気のせい、気のせいと言い聞かせて布団に入り頭まで布団をかぶった時、また。
きぃ。
きぃ。きぃ。
顔を出してはいけない、と念仏のように繰り返した。何かよからぬモノがついてきたのだとしても、見なければ大丈夫、ここには家族もいるし祖母もいる。だから大丈夫、と何度も何度も頭の中で繰り返した。その私の願いも虚しく、音は明らかに近づいてくる。
きぃ。
きぃ。きぃ。
きぃ。きぃ。きぃ。
そこで音は止んだ。
後には変わらず、風と雨の音だけが残る。夏の最中に布団に潜り込んでいた所為で、暑くもあり息苦しくもある。音が止み、それでも私は慎重深く、再度音が鳴り出しやしないかと警戒し、さすがにもう大丈夫だろうという時間を置いてから、ゆっくりと布団から顔を出す。
何か、が私の顔を覗き込んでいた。
形は猿に似ていた。それが私の掛け布団の上に乗り、私を伺うように覗き込んでいた。顔の部分だけがやけに暗く、黄ばんだ白い目のようなものだけがぼんやりと浮かんでいる。喉が引き攣り、悲鳴も出ない私を見詰めるソレはひとこと、
「きぃ」
と言った。
気が付くと夜が明けており、私以外の布団は仕舞われていた。私が起きたのを見て祖母が、トイレの扉を閉め忘れただろうと小言を言ってきたのを覚えている。
どうせまた笑われて話のネタにされるだろうとは思ったが、誰かに話さずにはいられず、昨夜の話を祖母に伝えた。奇妙な猿のような生き物の話をすると、祖母は表情を曇らせ、ぽつりと呟いた。
「見たんか」
声音は静かであったが、鬼気迫る祖母の勢いに頷くと、祖母はそうか、と言い小さく首を振り、人には話さん方がいい、と付け加えた。
「神様に取られるでな」
それきり、祖母はその話を打ち切った。
幸い、その後十数年ほど私は無事に暮らしている。あの夏以来、祖母の家にいくこともない。
私たちが帰ったそのしばらく後、祖母は畑仕事に出かけた山で、獣に襲われて近くの病院へ入院し、そのまま退院することなく息を引き取ったのだ。
地元の人が言うには、祖母が山へ行く数日前、猿神に遭ったのだと近所の人に言い触らしていたという。
祖母の家はその当時から古臭く、今にも朽ち落ちそうな外観をしていた。
とはいえ、古い家であるから梁や柱などは太く丈夫なものを使っていたので、いつか崩壊するのではと要らぬ心配をする私に、祖母は呵呵とばかりに笑い私の背中を叩いて案ずることはないと繰り返していた。
そんな古い家だから、台風や悪天候の折などは酷く屋根が軋んだし、田舎の家だから裏の山から風雨を逃れて野生の獣や蛇などが入り込んでくることもしばしばで、年に数度とはいえ私はこの家を訪れるのを嫌っていた。生まれた時から都会とは言えずとも、田や畑など目にする機会など滅多にない暮らしをしてきたのだから、古ぼけた薄暗い部屋の隅でとぐろを巻く蛇に遭遇した時など、悲鳴を上げることもせずただ部屋の隅で震える以外のことは出来ない。祖母はその時私が失禁したのだと、面白おかしく親戚に話したりするから余計にあの田舎の家に行くのは気が重かった。
私が十か十一の夏休み、その日は雨の激しい日だった。瓦を打つ雨音はそのうち屋根を破壊するのではないかと言う勢いであったし、雨戸を閉め切った所為で灯りが点いていても部屋は陰鬱としており、風の所為でテレビの映りも悪いのだからもう寝てしまおう、と祖母の声により早々に床を延べ並んで横になった。
恐らく丑三つ時には少し早い時間だったであろう。私は尿意を催し目を覚ました。古い家らしく、祖母の家のトイレは縁側の突き当たりにあり、そこにたどり着くまでには例の蛇を見た部屋を通らなければならない。厭だな、と思ったものの、いい年なのに一人でトイレにも行けないとまた祖母にからかわれるのも不快であったし、意を決して布団を抜け出した。雨風は相変わらずごうごうと激しく、雨戸をがたぴしと鳴らしている。
通り道すべての灯りを点けてやろうと思ったけれど、暗闇で壁を探る中でへんなものに触れてしまうのが厭で、恐る恐る、一歩ずつ足を踏み出しながら縁側への廊下を歩く。一刻も早くトイレへ駆け込みたい気持ちを抑え、ようやく縁側の突き当たりのトイレの扉を見付けたときは死ぬほど安堵した。どうせ誰にも見つかるまいと、扉を開け放ったまま用を足し、手を洗いトイレを出て、後ろ手に扉を閉めたときにその違和感に気付いた。
何かがいる。
ひどく曖昧な確信だったと思う。私が仮に私の母であったなら、怖がりからくる勘違いだと一笑に付したはずだ。しかし子供の私は、その恐怖心をどうにも打ち消すことができなかった。こんなことなら祖母に笑われてでも誰かを叩き起こせばよかったと死ぬほど後悔をした。後悔をしたが、このままここに立ち尽くす訳にもいかない。こんなところで夜を明かすくらいなら全速力で走ってでも家族のいる寝床に戻った方が安全だ。そう思い、来た時とは逆に足早に縁側を駆け抜けようとした。
その時。
きぃ、と音がした。強い風に揺らされる雨戸の音でも、叩きつける雨が響く瓦の音でもない。きぃ、という音。
この時の私は子供ながらに懸命な判断をした。後ろから聞こえた、と思ったその音を無視して大急ぎで寝床へと戻ったのである。気のせい、気のせいと言い聞かせて布団に入り頭まで布団をかぶった時、また。
きぃ。
きぃ。きぃ。
顔を出してはいけない、と念仏のように繰り返した。何かよからぬモノがついてきたのだとしても、見なければ大丈夫、ここには家族もいるし祖母もいる。だから大丈夫、と何度も何度も頭の中で繰り返した。その私の願いも虚しく、音は明らかに近づいてくる。
きぃ。
きぃ。きぃ。
きぃ。きぃ。きぃ。
そこで音は止んだ。
後には変わらず、風と雨の音だけが残る。夏の最中に布団に潜り込んでいた所為で、暑くもあり息苦しくもある。音が止み、それでも私は慎重深く、再度音が鳴り出しやしないかと警戒し、さすがにもう大丈夫だろうという時間を置いてから、ゆっくりと布団から顔を出す。
何か、が私の顔を覗き込んでいた。
形は猿に似ていた。それが私の掛け布団の上に乗り、私を伺うように覗き込んでいた。顔の部分だけがやけに暗く、黄ばんだ白い目のようなものだけがぼんやりと浮かんでいる。喉が引き攣り、悲鳴も出ない私を見詰めるソレはひとこと、
「きぃ」
と言った。
気が付くと夜が明けており、私以外の布団は仕舞われていた。私が起きたのを見て祖母が、トイレの扉を閉め忘れただろうと小言を言ってきたのを覚えている。
どうせまた笑われて話のネタにされるだろうとは思ったが、誰かに話さずにはいられず、昨夜の話を祖母に伝えた。奇妙な猿のような生き物の話をすると、祖母は表情を曇らせ、ぽつりと呟いた。
「見たんか」
声音は静かであったが、鬼気迫る祖母の勢いに頷くと、祖母はそうか、と言い小さく首を振り、人には話さん方がいい、と付け加えた。
「神様に取られるでな」
それきり、祖母はその話を打ち切った。
幸い、その後十数年ほど私は無事に暮らしている。あの夏以来、祖母の家にいくこともない。
私たちが帰ったそのしばらく後、祖母は畑仕事に出かけた山で、獣に襲われて近くの病院へ入院し、そのまま退院することなく息を引き取ったのだ。
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