狐狸の類

なたね由

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一章

彼の昔

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 ここへは六つの時に来た。
 それから、もう何年経ったかは覚えていない。彼なら正確な年月を覚えているかもしれないが、聞いたところで教えてくれるはずもない。気が付けばこの社の界隈もすっかり雰囲気が変わってしまって、もう僕を覚えている人なんてとうにいなくなってしまった。

 ぴったり百段の石段の上に建つこの神社を訪れる人は、ごく稀になってしまった。それは多分、僕がここに来た時にはこの社の建つ小高い丘をぐるりと囲むように広がっていた田畑が、すっかり数を減らしてしまったことにも関りがあるのだろう。

 今、七輪の前に背を屈め、破れた団扇でぱたぱたと扇ぎ煙に目を擦る彼は、この社に居着いた土地神である。彼曰く、本当は最初から神様だったのではなく、ただの小さな狐だったという。棲み処の森を奪われ親兄弟を失い、不憫に思ったこの社の主に神として祀り上げられたのだ、と。ということは恐らく、彼はこの境内で事切れたのだろう。それでもこの界隈の人間を恨むでもなく、かと言って神様らしく護ってやるという気持ちもなく、ただ彼はここに居た。それでいい、と言われたのだそうだ。ここに居て、あまり悪戯な振る舞いをしないように心掛けるように。その言いつけを守り、彼自身も覚えていないくらい長くここに居たら、いつの間に神に成っていた。

 僕が子供の頃、彼は豊穣の神であり、畏怖の対象でもあった。この社は祭の時でなくてもそれなりに賑わっていたし、秋の祭が来れば境内からは人が溢れるほどだったのに、今ではすっかり寂れてしまっている。時代の変遷、と彼は言う。確かに、僕のような田舎の子供から見ても、その時代とやらは変わっているのだろう。
 けれど、信仰が薄くなれば彼の土地神としての力も減っていく。そしてそれが尽きた時彼は、そして彼に生かされた僕は、一体どうなるのだろうと最近よく考えてしまう。
 そうなればこんな場所は打ち捨てて別のところへ行こう、と彼は言う。けれど、僕は生まれてか育ってきたこの場所が、未だになんとなく、好きなのだ。

 ここに来たのは六つの時だ。そして、年を取らなくなってしまってからどれほど経ったのか。それはもう思い出せない。きっともう恐ろしいくらい長い歳月を超えてきただろうに、ありとあらゆる出来事はすべて、昨日のことのように思い出せる。
 彼はそれを、僕が「そう」なってしまった所為だと言う。僕はそれを思い出すたび、自分がもう人ではない何かになってしまったことを思い知るのが嫌で、普段は忘れたことにしている。忘れたことにしていれば、彼も何も言わない。

 あの頃は祭の晩に起きるかどわかしを、村の人たちは神隠しなのだといい、その夜に居なくなった子供を進んで捜そうとはしなかった。中には人買いや人さらいにさらわれ、そのまま酷い目に遭った子供も居たのだろう。それでも祭の夜に起きるその出来事を、村の人たちはある種の恒例行事のように捉えていた。拝殿で巫女舞が舞われるように、櫓の上で大きな太鼓が叩かれるように。
 だから、居なくなってしまった子供の家族は嘆き悲しみこそすれ、それを捜して取り戻そうなどと、露ほども考えなかったらしい。迷子や人さらいではなく神隠しだと信じられていたから。そしてかどわかされた子供の家では数年のうちに、新しくより良い子宝に恵まれるという言い伝えが信じられており、そして実際にその例もあったものだから、できそこないの子を持った家では逆にかどわかしを望むことさえあった。それは、僕の家も例外ではなかったことを、僕がかどわかされた数年後の秋祭りで知った。

 さらわれた子供はどこに消えてしまうのか。

 ここへ来てまだ日の浅い頃、子供ならではの無鉄砲さでそう聞いたとき、彼は驚くほど淡々とした口調で食いました、と答えた。なるほど、食うために攫うのであれば僕もいずれ同じように食われるのだろうと、子供ながらに妙に冷静な気持ちで考えたことを覚えている。
 かどわかしのあった次の年は豊作が約束されていると村の言い伝えで知っていた。だから、自分は拝殿に積まれた米や酒や果物なんかと同じように、この人に捧げられ食われる供物なんだと受け止め、納得したのには先の通り、僕の家族の何となくそわそわした態度で察していたからだと思う。

 けれど結局、彼は僕を食わなかった。
 拝殿の裏のあの小屋に僕を閉じ込め、夜中以外は外に出さぬようにと匿って過ごした。次の年もその次の年も神隠しは起きず、豊作とは言い難いまでもそれなりの暮らしを送ることが出来る程度の恵みを享受し、彼らは慎ましく細々と永らえていた。

 何故彼が僕を食らわなかったのか、それは未だに分からない。
 寂しかったんです、と彼は言った。だから遊び相手にしてやろうと、心根の清純な子供ばかりを連れて来たはいいけれど、泣くわ喚くわでまるで話にならない。だから食った、という。それであれば好奇心の塊で、年の割に恐怖心が欠落した僕が彼に気に入られ、それ故に命拾いをしたのだという理屈は通る。

 竹の箒を持ち石段のてっぺんに立って、そんなことを思う。今年もまた、祭の季節がやってくる。高いところから見回すと、最近ではめっきり減ってしまった稲穂の海の金色に、彼の毛並みはよく似ている、と思った。
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