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#4 伯爵への疑惑(1)

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 その日マイナードはルーナとの約束通り、九尾仮島の森の中にいた。
 九尾仮島の森はほとんど手入れのされていない原生林だ。

「すごく癒されるわねぇ。これも屋久杉と同じ種類かしら?」
「圧倒されるね」

 青山一家は多くの人が巨木を見たらそうするように、幹に抱きついたり撫でたりした。

「お気をつけください。倒木や雷で割れた枝に引っ掛かることがありますから」

 エンゲルバードは倒木などものともしない剛腕ぶりで、ふたつの家族が歩く道を開いた。
 その一行の真上をなにかが飛んでいった。

「マイナード、みて、鳥!」
「ああ、あれはルリカケスだ」

 マイナードは博識を発揮した。
 ルーナは目の前の発見にその瞳をきらきらとさせている。

「あおかったね!」
「ルリというのは青色のことを言うのだ。瑠璃色のないのはただのカケスだ」

 ルーナは黒ずくめのミノムシのようなマイナードの隣で感心している。
 昭太はいつになく落ち着かなかった。
 いつもは昭太にべったりのルーナが、今日はマイナードにぴったり寄り添っている。
 昭太はそれが気に入らない。
 いつもならさっきのセリフは、

「昭太、みて、鳥!」
「ああ、あれはね……」

 そこまで脳内で再生したところで、昭太はルリカケスを知らなかったことに気がついた。
 いやしかし、それがなんだと言うのだ。
 昭太は思い直してもう一度頭の中でやり直す。

「昭太、みて、鳥!」
「ほんとだ、なんの鳥だろう」
「あおかったね!」
「うん、青かったね……」

 昭太の想像の中ではそれ以上に話が膨らまなかった。
 昭太は自分の無知を悔やんだが、昭太は生まれてまだ十二年しか生きていないのだから仕方ない。
 そして、世紀をまたにかけて生きているマイナードと小学生の昭太を比べるのはあまりにも酷と言うものだろう。
 ルーナはいつものように初めて聞いた言葉を繰り返す。
 言いにくいのかいつも以上に舌足らずだ。

「るりいろ?」
「瑠璃色の地球と言うだろ」

 マイナードがそう答えたところで、昭太は二人の会話に強引に割り込んだ。
 昭太はルーナの注意を引きたくてうずうずしていたのだ。

「僕、それなら知ってるよ! 去年合唱発表会で歌ったんだ」
「どんなおうた?」
「えっ……」

 不用意なその一言が昭太に浜辺のデ・ジャヴュを味あわせる羽目になった。
 ルーナは新しい歌を喜んでくれたが三回目のアンコールがかかったときには、昭太はもう二度と歌の名前を口には出すまいと固く決心した。
 四回目の歌が終わるころ、海から湿った風が吹いて来た。


 エンゲルバードは空を見上げた。

「これは降りますね。少し予定より早いですが引き上げましょう」
「そうか、それなら北側を通って帰ろう。あっちからの方が近い」
「しかし北側はもっと足場が悪いですよ」
「かまわん」

 マイナードは青山一家の意見を聞きもしないで独断する。
 相談されたところで青山一家も初めての場所に関してわかるはずもないが、少々不親切というものだ。
 案の定およそルーナのようなこどもの足では進めない険しい所へ出てしまった。
 大人の佐江でさえ丈一郎の助けが必要なほどだ。

「ルーナ、おいで」

 マイナードは軽々とルーナを抱き上げた。
 もともと吸血人は力が強い。
 阻む枝葉や岩などをものともせず、マイナードはずんずん進んで行く。
 マイナードやエンゲルバード、そしてマイナードの腕のすっぽり納まるルーナはいいとしても、後に続く三人は右から左というわけには行かなかった。

「佐江、僕に捕まって」
「ええ……」

 丈一郎は妻に手を差し伸べて足場の悪い道を慎重に行く。
 しかし昭太はルーナに追い付きたいばかりにいささかむちゃな進み方をしていた。

「昭太、大丈夫か。あっ、おい」
「僕、大丈夫だよ!」

 昭太は父と母を追い越して、先を行くマイナードの後を追った。
 昭太はマイナードがたった今軽々と越えた朽ちかけた倒木に足をかけた。
 昭太がその幹によじ上ろうとしたそのときだった。
 朽ちかけていた外皮が、ぼろりと崩れた。
 その瞬間を、マイナードの肩越しに見ていたルーナが、あっと声を上げた。
 ルーナの声に後ろを振り帰ったかと思うと、マイナードはほとんど同時に来た道を戻っていた。
 それも信じられないスピードで。
 人の速さとの差は、まるで人の動きが映画のスローモーション演出のようだった。
 昭太が背面から倒れそうになっている。
 そのちょうど真後ろには、落雷で割れたとおぼしき鋭い枝があった。
 そのまま倒れこめば確実に背中を直撃すると言う体勢だ。
 マイナードは素早く昭太の手を取った。
 これぐらいのことはマイナードにとってどうと言うことはない。
 そのままゆっくり昭太を地面に下せばいいだけだった。
 しかし、吸血人ともあろうマイナードが油断した。
 丈一郎である。
 同じく昭太を助けようと駆け寄った丈一郎と激しくぶつかってしまったのだ。

「うわっ!」
「っ!」

 マイナードと丈一郎は互いにバランスを崩した。
 丈一郎が地面に転がり、昭太はマイナードの手から離れたものの、枝からそれて地面に倒れこんだ。
 しかし、不意打ちを食らったマイナードが受け身を取り損ねた。
 ルーナをおぶっていたために、不自然な体勢で倒れざるを得なかったのだ。
 しかし、それがよくなかった。
 マイナードの脇腹に割れ枝が深々と突き刺さったのだ。

「うっ!」

 吸血人と言えど痛みを感じないわけではない。
 サングラスの奥のマイナードが苦痛に顔をゆがめた。
 マイナードの黒いマントから人の手首ほどの太さがあろうかと言う枝が堂々と突き出ていた。
 その先からつつと赤いものが滴り落ちた。

「わ、わああっ!」

 叫んだのは昭太だった。
 丈一郎と佐江は一気に蒼白になった。
 しかしそこはやはり医者だ。

「伯爵! 動かないで!」

 マイナードはそう言われて言うことを聞くような吸血人ではない。

「大丈夫だ。大したことはない」
「だっ、だめですよ! 動かないで!」

 マイナードはおもむろに枝を掴み、にわかに力を込めると一気に抜きとった。
 一瞬、血が噴き出したが、それはすぐに止まった。

「は、伯爵……!」

 丈一郎は思わず硬直した。
 佐江と昭太も言葉を失っていた。

「悪いが私は先に行く。エンゲルバード、お前は三人を連れて屋敷へ戻れ」

 枝を投げ捨てるとマイナードはルーナを連れたまま、あっという間に先へ行ってしまった。
 絶句する青山一家は目の前で起こったことが信じられなかった。
 エンゲルバードは彼らに考える寸暇も与えずに言った。

「さあ、屋敷へまいりましょう」

 エンゲルバードの静かな声がやけに不気味に響いた。
 ますます陰りだした空としけった風が陰気な空気をじわじわと運んでくるようだった。
 青山親子の視界から外れると、人にはあるまじき速さでマイナードは屋敷へ戻った。
 そして、地下階段を駆け下りて自分の寝室に入った。
 この地下室と言うのが全く光の入らない暗室だった。
 ルーナはマイナードの指示にならって手探りでロウソクに火を灯した。
 炎に照らされたマイナードの顔は痛みに激しく歪んでいた。

「だいじょうぶ?」
「う……あまりよくない……。血を流し過ぎた」

 マイナードが服を脱ぎ捨てて肌をあらわにすると、マイナードの脇腹にはじっとりと血に濡れた貫通穴が開いていた。
 ルーナはあまりに痛ましい傷口に戦慄を覚えたが、このくらいの傷でマイナードが死ぬことはないと知っている。
 以前もこれに近いことがあったのを覚えている。
 それでも、ルーナには血が怖かった。
 ルーナは膝を擦りむいただけでも大泣きしてしまうのに、マイナードはこんな大きな怪我をしながらも屋敷まで走ってきたのだ。
 勇気を振り絞って、ルーナは震えそうになる手を押さえつけるように燭台を強く握りしめた。

「回復には時間がかかる。いや、余り早く治し過ぎても怪しまれるか……」

 ルーナはマイナードの額に汗か光っているのを見つけて手近な布で拭いた。

「ばれちゃう……?」
「そうだな……、この際早く治してもともと大したことがなかったといい張るしかないな」

 そうは言ったものの、マイナードに今この傷を回復させるだけの十分な血液量はない。
 マイナードはざっと二日はかかると踏んだ。
 それも全く動かないで済めばだ。
 青山一家をごまかせるかどうかは怪しいところだ。
 医師の彼らが傷を見せろと言わないはずがない。
 特に丈一郎はこうと言ったら聞かない男だ。
 どう言いくるめたらいいものか。
 マイナードは苦痛で鈍りつつある思考を奮い立たせる。 
 ルーナはそんなマイナードの様子を悟ったのか、荒い息をつくマイナードの前に進み出た。
 燭台を床に置くと、ルーナは自ら自分の髪をよけて首筋をあらわにした。

「マイナード、血をのんで」
「なに?」
「そうしたらはやくなおるでしょ?」
「だめだ。昨日もらったばかりだ」
「だって……」

 ルーナは泣きそうな顔をした。

「だめだ、ルーナ。君の体が心配だ」

 マイナードは苦しそうな息を吐きながら首を振った。
 ルーナはマイナードの首に抱きついた。

「吸血人だとばれたらマイナードはころされちゃうんでしょ? そんなのいや」 

 マイナードは痛みと同時に首にからみつくルーナの重さを感じた。
 細い腕は小さく震えていた。
 ルーナは怯えているのだ。
 不安に駆られたのは、今までマイナードから聞かされてきた話を思い出したからだ。
 マイナードの話は自分に都合よく、吸血人の歴史を吸血人の立場から一方的に語ったものだった。
 吸血人一族が人間にもたらした損害については小指の先ほどもないちょっぴりとしたことしか触れなかったくせに、人間が吸血人たちは行った弾圧は聞くにも堪えないようなひどく恐ろしいことばかりだったと誇張して話してきたのだ。
 ルーナが怯えるのも無理はなかった。
 ことの真偽はいずれにしても吸血人の歴史は淘汰と悲劇の歴史であり、そしてこの現在がまさにその一編を加える可能性をはらんでいるのは違いない。
 ここをうまくを乗り越えていかなければ、ルーナはマイナードを失うことになる。
 ルーナにとってかけがえのない家族を失うことになるのだ。
 社会から断絶された孤島で暮らし十分な教育を与えられていないルーナが恐れを抱く根拠としては十分だった。
 ルーナは涙を浮かべて懇願した。

「おねがい、マイナード……」
「ルーナ……」

 マイナードの胸は詰まった。
 瞳と瞳をかわすだけでお互いがどれほどお互いのことが大切に思っているかがわかった。
 マイナードがルーナを失うことを恐れるように、ルーナもまたマイナードを失うことを恐れているのだ。
 相手が大切であればあるほど、それに比例して恐れは強くなる。
 マイナードはルーナの濡れた瞳を見つめながら思った。

(この尊いぬくもりを手放すと言うのなら、生きていくことにどれほどの意味があるだろう)

 長い時を過ごす吸血人だからこそ知っている。
 どれだけ年をとらずに長い時間生きていられたところで、あのよろこびを心から味わうのはたやすいことではない。
 家族の絆を確かめた今、マイナードもまたルーナの気持ちに応えられずにはいられなかった。

「わかった……」
「ばれないように、ちゃんとなおして」
「うむ、わかった……」

 マイナードがルーナの頬にそっと触れた。
 ルーナはいつものように瞳を閉じてマイナードに体を預けた。
 マイナードは昨日キスしたばかりのその首筋へ唇を寄せた。
 とくとくと流れる生命の源。
 牙を当てれば造作もなく破れる柔らかい皮膚。
 その瞬間、年月を重ねたワインのように鼻腔を刺激する魅惑の香り。
 マイナードの舌にほろ甘くまろやかな果汁が溢れ出す。
 一口吸う度にマイナードの脇腹に開いた穴が修復されていく。
 マイナードはゆっくりと丁寧にその血を味わった。
 一滴も無駄にしないよう、また一滴でも多くルーナから奪わぬよう細心の注意を払った。
 その傷が見事にぴったりふさがると、マイナードはそっと唇を離した。
 見るとルーナはひどくだるそうな顔をしている。

「大丈夫かい、ルーナ?」
「なおった?」
「うむ、治った」
「よかった……」

 ルーナは力なくマイナードにもたれかかった。

「ルーナ!」

 マイナードは慌ててルーナを寝室に運んだ。

「ああ、ルーナ」
「お、おみず……」

 マイナードはすぐに枕元の水差しからコップに水を入れ、ルーナの唇に水を運んだ。
 その唇はすでに乾いて真っ青になっている。マイナードは大量の血液を失ったルーナの身体はかなり危険な状態であることを察した。
 マイナードを心配させまいと血を吸われているあいだルーナは弱音を吐かなかったのだ。
 大人でさえ身体の水分量に異常をきたせば、耐えがたい頭痛や吐き気などの脱水症状に見舞われる。
 ただでさえ小さな体が含有する血液の量は限られている。
 ルーナの苦痛は想像を絶するものに違いなかった。
 わかっていたことだったがマイナードの顔には激しい後悔がにじんだ。
 マイナードはルーナの手を握りその額に触れた。
 あどけない瞳はまっすぐにマイナードを見つめ返していた。

「大丈夫かい、ルーナ」
「……うん……」

 力のない声でルーナは応えた。

「ルーナ、今日はこのままお休み。エンゲルバードが戻ってきたら、食べるものを用意させるから、いいね?」
「……」

 ルーナはうなずくとすぐに目を閉じた。
 それ以上しゃべる気力もなかったのだ。
 ルーナはその命をかけてマイナードを救った。
 マイナードが人間によって裁かれないために吸血人であるマイナードを守ったのだ。
 家族への想いがかよわい彼女を奮い立たせたのだった。
 マイナードは決意した。

(今度は私がルーナを守る番だ)

 ルーナの想いに応えるために青山一家にはつけ入るすきを与えてはならない。
 マイナードとルーナが家族であり続けるために、吸血人であることは断固隠しとおさねばならない。
 マイナードはルーナのかけ布団を直してルーナの額にキスをする。
 そして音もなくマイナードはルーナの寝室を後にした。
 マイナードの瞳だけが固い決意を秘めてきらめいていた。
 マイナードとルーナの到着から遅れて小一時間。
 エンゲルバードと青山一家が屋敷へ帰ってきた。
 帰りがけわずかに雨に振られたが、その晩の雨を思えば大したことはなかった。
 日が落ちてあたりは闇のカーテンに包まれた。
 雨粒が静かに夜窓を濡らしている。
 さらに昼間とはうって変わっていささか冷えて来た。
 雨が降ると石の舘は急激にその熱を失い始めるのだった。
 青山親子の着替えが済むと、食事が準備された。
 食堂はマイナードとルーナがいないことを除けばそれはいつもどおりで、エンゲルバードの対応も終始礼儀正しかった。
 マイナードとエンゲルバードは細部にまで気を配って、これまでとなんら変わったことのないように取り計らった。
 彼らがマイナードたちの奇妙な点に深入りできぬよう一分のすきも与えなかった。
 部屋に戻り風呂に入った後、エンゲルバードに用意してもらったやや厚手のガウンを着て、青山一家は寝室にいた。
 青山一家は森で起こったあのときのことを振り返っていた。
 佐江はガウン越しに自分を抱くように腕を組んでいる。

「やっぱり、変よ、あの伯爵」
「ああ……確かにそうだ。あのときマイナード伯爵は黒いマントをはおっていた。体の線ははっきりしなかったが……」
「あれは確かに刺さってたわ。音がしたもの」
「そうだ。あれは刺さっていた。そうでなければあの血の量は説明できない」

 丈一郎も佐江も同意見だった。
 昭太はベッドの上で二人の会話を不穏な表情で聞いていた。

「それなのに伯爵の傷はただのかすり傷だった」
「あの傷ではあれほどの出血はしないわ」

 ただのかすり傷とは、こういうことだっだ。
 エンゲルバードが三人をつれて屋敷に戻ってくると、マイナードは平然として迎えた。

「なに、傷? 大したことはないと言っただろう」
「し、しかし……」
「まあ、それでも私も少々心配だったのでね、傷を確かめるために先に帰らせてもらった。太陽のもとで肌をさらすわけにもいかなかったのでね」

 納得のいかない丈一郎はやはりマイナードに傷を診せろと迫った。
 マイナードは診せる必要はないといいながらも、三人の前でシャツを脱いで見せた。
 そこにはテープで簡素にとめられたガーゼがあるだけだった。
 むろん丈一郎はそのガーゼをはがすよう要求した。
 しかし丈一郎らの予想に反して、ガーゼの下にはわずかに擦り傷があるだけだった。
 それは傷を完治させた後、マイナードが自分でつけたものだった。

「だから大したことはないと言っただろう」
「そんな……」

 傷を目の当たりにして丈一郎たちは信じられなかった。
 疑問は解決するどころか深まるばかりだった。
 傷のことだけではない。
 よしんばマイナード負った傷が彼の言う通り大したことがなかったとしても、あの足場の悪い森の中をこどもを一人抱えて、あれほどの速さで進んでいけるだろうか。
 丈一郎は年相応以上に体力には自信がある。
 長年の乗馬で体は絞っていたし、医者としての仕事や医院の経営、そして相当な体力が必要であるクルーザーの管理を自分ひとりでこなしていた。
 体格だけ見てもマイナードの一回りは大きかった。
 その丈一郎でさえあのときのマイナードほどの速さでしげみや蔦のからまる木々の間を進むことはたぶんできない。
 自分の身一つならまだしもこどもを抱えてならおそらく不可能だ。
 傷を負っていたのならなおさらだろう。

「なにを言っている。ここは私の島だぞ。いくら私が外に出るのが苦手だとは言え、森歩きくらい日常茶飯事だ。この島全体が私の庭のようなものだぞ」

 だからあの足場の悪い森にも慣れていると言うのだろうか。
 ただ慣れていると言うだけで、あの細い体のマイナードが丈一郎よりも軽がると整備されていない茂みを進んでいけるだろうか。
 思い返せば、昭太が転びそうになったときマイナードは丈一郎より離れた場所にいたにもかかわらず、丈一郎より先に手を差し伸べていたではないか。
 そのときもまた彼はルーナをその手に抱いていたのだ。
 このからくりを一体どう説明できるのだろうか。
 マイナードの身体能力は尋常じゃない。
 丈一郎は部屋の中を行ったり来たりした。

「あの身のこなしも普通じゃない」
「伯爵はあのときお父さんよりも早く僕の手をつかんだよ」

 丈一郎にとって昭太の証言は信頼できるものだった。
 それは自分の記憶と一致していたし、なにより丈一郎は自分の息子があらゆる判断に関していつでも大人を頼りにしなければならないほどこどもではないことを知っていた。
 佐江も同感だった。

「まさかトレーニングでもしているのかしら……。ううん、説明できないわ……」
「ああ、説明できない」

 三人はしばらくじっと黙っていた。
 三人の顔に不安の色が広がっていく。
 黙っているとそれだけ計り知れない闇が迫ってくるような気がした。
 丈一郎はその気配を感じてやや明るい調子でやってみる。

「まさか伯爵は希代の手品師じゃないだろうな。僕たちを驚かそうとしてやったとか」
「伯爵が手品師?」

 昭太は意表をつかれたのか、ぱっと顔を上げた。
 一方、佐江は首を横に振った。

「そんな手品、ちっとも面白くないわ」
「だがそうでなければ吸血鬼か」
「吸血鬼?」

 佐江はあからさまに嫌そうな顔をしたので、丈一郎は慌ててとりつくろった。

「それともベニクラゲかも知れん」
「なにそれ、不老不死ってこと? やめて。それこそ面白くない冗談よ」

 佐江はそう言ったが、昭太は興味をそそられた。
 吸血鬼なんてものは昭太はこれまで物語の世界の話だと思っていた。
 もちろん今だってそう思っている。
 しかし、もしもマイナード伯爵が本物の吸血鬼だったらものすごいスリルだ。
 さしずめあの怪物のような執事はフランケンシュタインの怪物に違いない。
 昭太の中でにわかに恐怖と好奇心が交錯する。
 真実かどうかわからないがそれでもそんなおとぎ話が目の前に現れたのだとしたら、やっぱり興奮せずにはいられない。
 昭太の空想の一方で、医師夫婦の会話は続いていた。

「不老不死か……、この場合それは正しくないな」
「というと?」
「僕は再生能力について可能性を論じてみたいんだ」
「再生能力ですって?」
「この場合適切なものはなんだろう?」

 丈一郎の問いに佐江は考えをめぐらせた。
 ともに医院を経営していく中で、二人はこうした議論のやり方に慣れている。

「トカゲの尻尾とか、あとプラナリアかしら……」
「でも哺乳類じゃないな」
「そうね。でも遺伝子操作によって再生能力を持ったマウスは誕生しているわ」

 正しい答えへのアプローチとなる期待は薄くてもあれこれ検証を試みてみるだけで、むやみに気分が落ち込まずに済むことを佐江は気づき始めていた。

「遺伝子操作……、ああ、そうか!」
「なに?」
「伯爵は遺伝的な酵素欠陥による骨髄性プロトポルフィリン症なんだ。だとしたら遺伝子になんらかの変異があるとみても不自然はないんじゃないかな?」
「そうね、まあ、考えられなくもないわ……」

 そこへ昭太が口を挟む。

「じゃあ、伯爵は吸血鬼ではないの?」
「そんなことあるわけないでしょ。昭太もまだまだこどもね」

 佐江は小さなこどもにするように昭太の頭をなでたが、昭太はやや不服そうだった。
 丈一郎は昭太の気持ちがわからないでもなかった。
 自身の中の幼心を引き出して思う。
 もし本物の吸血鬼がいたとして、まして現在一家が吸血鬼の館にやっかいになっているのだとしたら、三人は空前の冒険映画の中にいるに違いない。
 この絶海の弧島も古い屋敷も不気味な執事も、その映画の舞台としてはあつらえが良すぎている。
 丈一郎もまた伯爵一家に対する謎には不安と共に、好奇心や空想心を抱かずにはいられなかったのだ。
 一方、佐江は考察を続ける。

「ねえ、こういうことは考えられない? 彼はiPS細胞を使った……」

 iPS細胞とは多くの細胞に分化できる分化万能性と、分裂増殖を経てもそれを維持できる自己複製能を持たせた細胞のことだ。主に再生医療に実用を期待されている研究のひとつだ。
「こんな場所で?」
「彼は島を所有して歴史的建造物を所有するほどの富豪よ。それくらいどうにかするわ」
「じゃあこれも考えられないか。細胞外マトリックス」

 細胞外マトリックスとは通称妖精の粉と呼ばれる人工的な医療粉末だ。豚の膀胱から取り出した成分で組織を再生させることができる。再生医療や美容において実用化しつつある研究だ。

「それもありえるわ」
「そして伯爵の遺伝異常も手伝って、彼は強力な回復力、再生能力を持つにいたった」

 そこまで話が盛り上がったところで、やはり佐江が頭を振った。

「ちょっと飛躍しすぎだわ」
「……そうだね……」

 丈一郎も小さくため息をついた。
 昭太は父と母の顔を見比べる。

「そうなの?」
「伯爵の体には確かに枝が刺さっていた。貫通していたわ」
「この目で確かめたわけじゃないけど、おそらくね」
「例え伯爵がiPS細胞や細胞外マトリックスを使っていたとしても、そんな傷を小一時間で回復できるなんてことは考えにくいわ。イモリだって尻尾が完全に再生されるまで少なくとも二ヶ月はかかるのよ。どちらの研究にもそんな例はないはずよ」
「だとすると、やっぱり伯爵の怪我ははたいした怪我じゃなかったんじゃないだろうか? そもそもそんな大怪我をした人間は歩いてここまでたどり着けない」
「だったらあの血はなに?」
「そうだ、あの血の量は説明がつかない。それになぜすぐに血が止まったんだろう」
  結局彼らの考察は堂々巡りになってしまった。
 夜は刻々と更けていく。
 それから丈一郎と佐江は二度ほど同じような考察をして、同じように堂々巡りを繰り返した。
 昭太は一向に進展しない話に耳を傾けながら、うつらうつらとしていた。

「枝が刺さっていたのは確実よ」
「あの再生の速さは疑問だ」

 窓の外の雨を眺めながら話し合う二人の影がろうそくの灯に照らされて床に伸びている。
 昭太はその影を横目にベッドの中にもぐりこんだ。
 昭太は眠りにつくまで父と母の会話を聞きながら、吸血鬼について考えていた。
 昭太は映画や漫画で見た吸血鬼を思い浮かべた。
 もしマイナードが吸血鬼だったら、きっと不思議な力でその傷を治してしまったに違いない。
 吸血鬼は信じられないような身体能力の持ち主なのだ。

「あの血が説明できないわ」
「あれはいったい何だったんだ」

 そうだ、血。
 吸血鬼なら人間の血が必要だ。
 あれだけ血を失ったのだから、彼は血に飢えているに違いない。

(もしかしたら、血を求めてやって来るかもしれない。もし今夜、吸血鬼伯爵が僕たちを襲ってきたら、僕たちはたった三人で太刀打ちできるかなあ)
「なんだか怖いわ、あなた……」
「大丈夫だよ。僕たち三人が一緒にいれば大丈夫。どんな困難だって乗り越えられるよ。あの嵐を思い出してごらんよ」
(そう、僕らは大丈夫。お父さんとお母さんと僕が一緒ならきっと吸血鬼だって怪物だってとかなる)

 昭太は毛布の中でうなづいた。

(だけどあの子、ルーナ。ルーナは伯爵の正体を知っているのかな。それともルーナも吸血鬼の仲間なんだろうか。
 いや、きっとそんなはずはない。ルーナみたいな小さくてかわいい子が、人間の血を吸うなんて考えられない。あの子、カニでさえ触れないんだから)

 昭太は閉じた瞼の裏で空想をめぐらせた。

(もしもマイナード伯爵が吸血鬼ならきっとルーナは騙されているんだ。きっとルーナはなんにも知らないんだ。ルーナがいろいろ知ってしまうと吸血鬼には都合が悪いから、だから伯爵はルーナになんにも教えないんだ。
 もし本当にマイナード伯爵が血も涙もない吸血鬼だったら、僕がルーナを守ってあげよう。もしも、もしも本当にそうなら、僕がルーナを魔の手から救い出してあげるんだ……)

 昭太は自分がヒーローになったように、吸血鬼からルーナを助け出す場面を思い浮かべながら静かに眠りについた。
 我が子がベッドで寝息を立て始めたのに気がつくと夫妻も静かにベッドに横たわった。
 窓の外はひっそりとした雨が続いている。
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咲間 咲良
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森崎花菜(もりさきはな)は、ちょっぴり人見知りで怖がりな小学五年生。 ある日、親友の友美とともに向かった公園で木の根に食べられそうになってしまう。助けてくれたのは見知らぬ少年、黒住アキト。 花菜のクラスの転校生だったアキトは赤茶色の猫・赤ニャンを従える「おんみょうじ」だという。 なりゆきでアキトとともに「鬼退治」をすることになる花菜だったが──。

訳あり新聞部の部長が"陽"気すぎる

純鈍
児童書・童話
中学1年生の小森詩歩は夜の小学校(プール)で失踪した弟を探していた。弟の友人は彼が怪異に連れ去られたと言っているのだが、両親は信じてくれない。そのため自分で探すことにするのだが、頼れるのは変わった新聞部の部長、甲斐枝 宗だけだった。彼はいつも大きな顔の何かを憑れていて……。訳あり新聞部の残念なイケメン部長が笑えるくらい陽気すぎて怪異が散る。

こちら第二編集部!

月芝
児童書・童話
かつては全国でも有数の生徒数を誇ったマンモス小学校も、 いまや少子化の波に押されて、かつての勢いはない。 生徒数も全盛期の三分の一にまで減ってしまった。 そんな小学校には、ふたつの校内新聞がある。 第一編集部が発行している「パンダ通信」 第二編集部が発行している「エリマキトカゲ通信」 片やカジュアルでおしゃれで今時のトレンドにも敏感にて、 主に女生徒たちから絶大な支持をえている。 片や手堅い紙面造りが仇となり、保護者らと一部のマニアには 熱烈に支持されているものの、もはや風前の灯……。 編集部の規模、人員、発行部数も人気も雲泥の差にて、このままでは廃刊もありうる。 この危機的状況を打破すべく、第二編集部は起死回生の企画を立ち上げた。 それは―― 廃刊の危機を回避すべく、立ち上がった弱小第二編集部の面々。 これは企画を押しつけ……げふんげふん、もといまかされた女子部員たちが、 取材絡みでちょっと不思議なことを体験する物語である。

おなら、おもっきり出したいよね

魚口ホワホワ
児童書・童話
 ぼくの名前は、出男(でるお)、おじいちゃんが、世界に出て行く男になるようにと、つけられたみたい。  でも、ぼくの場合は、違うもの出ちゃうのさ、それは『おなら』すぐしたくなっちゃんだ。  そんなある日、『おならの妖精ププ』に出会い、おならの意味や大切さを教えてもらったのさ。  やっぱり、おならは、おもっきり出したいよね。

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