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#3 漂流者たち(2)

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 ――翌日。
 九尾仮島の空は高く晴れ渡っていた。
 穏やかな波が打ち寄せる浜辺に青山一家とルーナはいた。

「ルーナ! カニがいたよ!」
「きゃーっ!」

 ルーナは昭太のつかまえたカニに驚いたように逃げ惑っている。
 昭太はそれを面白がって追いかけて回る。
 島っ子なのに色白のルーナは外遊びに慣れていないらしく、昭太のすることなすことになんでも興味を示した。
 自然とルーナは昭太のあとをどこへでもついて回り、昭太もそれを受け入れた。
 素直なルーナが青山一家になじむのには時間はかからなかった。
 昨夜はぶつぶつと言っていた佐江でさえ、初めてのプライベートビーチを前に文句の言葉はもうなかった。
 飲み物やランチに始まり、パラソルやビーチマット、日焼けジェルに釣り具まで、欲しいものはなんでもエンゲルバードが用意してくれた。
 そのサービスはもはや五つ星ホテル並みといってもいい。

「これで新聞かラジオさえあれば、完璧なんだけどな」と、丈一郎が漏らす。
「そうね、わたしは音楽が欲しいわ」

 こどもたちを見つめながら佐江が笑った。
 すると白い帽子に赤と白のボーダーの水着の着たルーナが顔を上げた。

「おうた、うたえるよ」
「うた?」

 佐江が聞き返すや否や、ルーナはやにわに見事なアリアを披露した。
 こどもとはいえ、発声から音程の細部に至るまでマイナードの仕込んだアリアはそれはちょっとしたものだった。

「ルーナ、とっても上手だね。英語の発音がとてもいい。伯爵が教えてくれたのかい?」
「そうよ。マイナードはおうたが好きなの。キリストはきらいだけど」

 ルーナは唐突に昭太を見た。

「昭太もうたって」
「ぼ、僕?」
「うん」
「僕は英語の歌なんて歌えないよ」
「なんでもいいよ」

 昭太はその後の一言がまさか「グリーングリーン」のひとりリサイタルとなり、

「すてき! 昭太、もう一回」
「えっ……」

 さらにはルーナが歌を覚えるまでアンコールステージが繰り返されるとは思いもよらなかった。
 昭太は合計六回もグリーングリーンを歌い終わった後、ルーナから七回目のアンコールがかかる前に、やや強引に話をねじ込んだ。

「そういえばルーナのお母さんは?」
「おかあさんは、ここにはいないの」
「どこか別なところに住んでるの?」
「うん……」

 ルーナがやや考えるような顔つきをしたので、夫妻は視線を交わした。
 佐江はルーナに余計な気を使わせないためにそれとなく話をはぐらかした。

「じゃあ、他のご家族は?」
「ごかぞくって、なあに?」

 ルーナはきょとんとした。
 三人は顔を見合わせた。
 まさかとは思うが、今ルーナは家族とはなにかと聞き返したはしなかっただろうか。
 三人ともそう言う顔つきをした。

「家族って言うのは……」

 昭太は答えようと試みたが、家族と言葉が当たり前すぎてなんて説明したらいいかわからなかった。
 昭太に代わって丈一郎が優しく説明をした。

「ルーナ、僕らをごらん。僕は昭太のお父さん、君で言うとマイナード伯爵のことだよ。彼女は僕の奥さんで、昭太のお母さんだ。僕らのことをみんなあわせて家族と呼ぶんだ」
「かぞく」

 ルーナは繰り返した。
 今の言葉でルーナは家族の意味を理解したらしかった。
 とするとこれはルーナの知能的な問題ではない。
 おそらくは父親のせいだろう。
 ルーナの受けている音楽以外の教育レベルは大目に見ても十分とは言えそうになかった。
 それは彼女のそばに母親がいないせいかもしれない。
 敏感にそう察した昭太はこどもながらの率直さで聞いた。

「ルーナのお母さんは、島を出ていっちゃったの?」
「ううん」

 ルーナは首を横に振った。

「おとうさんとおかうさんは、わたしを赤ちゃんポストにおいていったの。わたしマイナードにもらわれたの」

 昭太は耳を疑った。
 赤ちゃんポストとは、親の都合で育てられなくなった新生児を匿名で養子に出すしくみのことだ。
 望まれないこどもの中絶や殺害を防ぐ目的で設立されているものだが、そのネーミングからして小学生の昭太でさえと人を物として扱うような違和感がある。
 そのような言葉があどけないルーナの口から出てきたことは、昭太にとっては大きなショックだった。
 それは丈一郎や佐江にも同じだった。

「ごめんなさい、つらいことを聞いたわね」

 佐江は思わずルーナの手を取った。
 丈一郎はルーナの境遇に同情するとともに、マイナードに対して一抹の感心を抱いた。
 丈一郎は財を持つ者は持たざる者に施すべきであるという信念を持っている。
 そう言う意味でマイナードは持つ者として果たすべき社会貢献に寄与していると思ったのだ。
 年も若くまた自分も病の身であるにもかかわらず、なかなかできることではない。
 あの一風変わった伯爵がその内面では恵まれない子に手を差し伸べるような慈善的な側面を持ち合わせていると思うと、ぐっと親密感が感じられると言うものである。
 本当のところを言えばマイナードは食料を確保するためにルーナを盗んできたのであって、それは丈一郎の単なる勘違いにすぎなかったが、残念ながら彼がそれを知るはずもない。

「それじゃあ、君の家族はマイナード伯爵と執事のエンゲルバードさんだね」
「わたしのかぞく」
「家族にはいろんな形があっていいんだよ。要は、一緒にいて安心できて助け合える仲間が家族なんだ。

 欠点を認め合い許し合うことで、かなしみやくるしみを分かち合い、よろこびやたのしみは二倍にも三倍にもなる。それが家族なんだよ」
 丈一郎の言葉はまるで道徳の教科書通りだった。
 もし教室で耳にしていたらいたら、退屈すぎて間違いなく睡魔に負けるだろう。
 だが、この丈一郎と言う人間はくそがつくほど心底真面目な男で、理想を叶えるためにはあらゆる想像や理念は明確な言語によって語られるべきだと信じるタイプの男だった。
 幸いルーナは学校と言う場所にも教師という人にもお目にかかったためしがない。
 丈一郎の言葉はルーナにとってはいい学びとなったのだろう。
 理解を得たと見えて、ルーナはにこりと笑うとうなづいた。

「マイナードとエンゲルバードが、かぞく」

 そう、ルーナにとってはつらいことなどない。
 かなしいこともない。
 ルーナが他人と家族のことを比べたのは今日が初めてだったが、その比較対象が少なすぎるのだ。
 ルーナにとって家族とは、マイナードとエンゲルバードのことを言う。
 今日はそれに気がついた、それだけのことだった。

「ただ気になるのは……。君の教育に関しては、少し認識が甘いんじゃないかな」

 丈一郎は考えるように顎に手をやった。
 佐江も同感を示し、ルーナに聞いた。

「そうね。ルーナは今いくつ?」
「じゅういっさい」
「それにしては、体が小さすぎるわ。ちゃんと食べさせてもらっているの?」

 佐江はびっくりしたように体を前にせり出した。
 佐江と丈一郎もまた、ルーナの年齢はもう少し下だと思っていたのだ。
 ルーナと昭太を比べると、ルーナの背は昭太より一段と言わず二段ほども低い。
 体格や骨格、その線の細さは女の子だからという理由だけでは納得しがたいほどだった。

「君の年齢の一般的な女の子からすると、君は少し成長が遅いみたいだね。なにかホルモンに異常があるのかも知れない。心配することはない。診察を受けられるよう僕から伯爵に勧めてみよう」
「それがいいわ。私たちは医者なの。きっと大丈夫よ」
「いしゃ?」

 言いかけたルーナの言葉に今度は昭太が答えた。

「お父さんとお母さんは、人の病気や怪我を治すのが仕事なんだ」
「びょうき? しごと?」

 ルーナと昭太の質問と答えの掛け合いはしばらく続きそうだった。

 九尾仮島の日が落ちた。
 夕食時の屋敷にはよい匂いが漂っている。
 面々がそろった食堂で、丈一郎は早速マイナードにルーナの診察を提案をした。
 丈一郎はマイナードの動向に注意を払いながら慎重に言った。
 えてして親と言う者は、こどものことになると思いもよらぬ動揺を見せたりするものだからだ。

「伯爵。お嬢さんは身体の発達にやや難が見受けられます。一度ちゃんとした検診を受けた方が良いと思います」
「なに」

 その日もワインだけしか口にしないマイナードは青白い顔の眉を少しだけ上げた。

「発達障害は早いうちから治療を受ければいい結果を得られることが多いんです。今は良い薬もあります」
「ルーナが発達障害? そんなわけはない」

 マイナードはばかにしたように首を振った。
 マイナードは小さなころからずっとルーナの血の味をみて来たのだ。
 それでなくとも、もう何百年と言う間に幾人もの人間の血を飲んできた吸血鬼だ。
 ルーナが病気であればわからないはずがなかった。

「聞いてください、僕たちは医者です。息子とお嬢さんはほぼ同い歳です。
 お嬢さんの年齢からすると体が小さすぎるのです。
 このような離島では発見が遅れても仕方ありません。でも、だからと言って検査や治療を遅らせるわけにはいきません」

 丈一郎は医者たる責任感のもと言いきった。
 そして、彼は言葉にしたことは実現させなければ気が済まないのだ。

「医者だかなんだか知らないが、ルーナの健康は私がよく知って入る。口出ししてくれなくても結構だ」

 そう言われて引き下がれる丈一郎ではない。
 そもそもルーナの教育に関しても、丈一郎はマイナードにひとこと言ってやりたいと思っていたのだ。

「あなたはルーナを引き取った保護者として、ルーナを不自由なく育てる責任があるはずです。
 ルーナの健康も学ぶ権利もあなたが守ってやらなければならないんですよ」

 この言葉にマイナードはカチンと来た。

「まるで私が守っていないように言い方ではないか! 私は誰よりルーナを大切にしている」
「でしたら、検査を受けさせるべきです。大切ならなおさら」
「必要ない!」

 マイナードは苛立たしげにワイングラスを置いた。
 その瞬間、ぴしっとグラスにひびが入った。

「娘さんの病と向き合うのが怖いのですか?」
「怖いだと? 私がか? 馬鹿な!」

 丈一郎はそう言う患者やその家族を何人も見て来た。
 大きな病であればあるほど、人はその事実を受け止めるのは難しい。
 しかしそれ認めたとき初めて治療の一歩が始まるのだ。
 そういうわけで真面目な丈一郎は一歩も引こうとしない。

「でしたら!」
「だまれ! 必要ないと言ったらない!」

 丈一郎は思わず、むっと眉を寄せた。
 だまれ、とはあんまりな言い方だ。
 丈一郎はそれでも礼を尽くして説得を試みた。

「伯爵、こどもは親の娯楽で育てるものではありません。生まれてきた瞬間から、生きる権利を持った人間なのです。
 まして好き勝手にして望まれないこどもをつくって、しかも責任を放棄するなんて甚だしいことです。
 伯爵はそんな境遇にあったルーナに手を差し伸べて、親としてのこれまで愛情をそいできたのではないですか。そうでしょう? そんなあなたに、このことがわからないはずがありません」

 マイナードはついに立ちあがった。

「他人につべこべ言われたくない! 私がいいと言ったらそれでいいのだ。
 文句があるなら出ていけ! 定期船が来るまでここにいたいのなら、その口にそのパンでも詰めてふさいでおくんだな!」

 マイナードはつかつかと青山一家の後を通り過ぎると、まだ食べている途中のルーナを抱き上げて食堂を出て行ってしまった。
 丈一郎はやりばのない握り拳をつくった。

「なんて傲慢なんだ……」

 丈一郎は一瞬でもマイナードを慈善家だなんて思ったことを後悔した。
 なんと頑なで、なんと高慢な男なのだろう。
 金でも地位でも、ありあまる力を持つ人間はこうも独りよがりになってしまうものだろうか。
 医師会と言う組織に属する丈一郎は、そう言う人間を目にすることが度々ある。
 怒りを禁じえない夫の横で妻は怯えて体を震わせた。

「あの人……怖いわ……。ルーナは大丈夫なのかしら」
「まったくだ。こどもをなんだと思ってるんだ……!」

 昭太はだまって一連を見つめていたが、もし父親がマイナードのような高圧的で自己中心的な人間であったらと思うと、それだけで息が詰まりそうだった。
 そんな思いからつい口が出た。

「伯爵はルーナのことが心配じゃないのかな?」

 見上げた息子の視線に丈一郎は何とも答えられず、ただ昭太の肩をさすった。

「あなた。まだ時間はたくさんあるわ。ゆっくりわかってもらいましょうよ」

 今度は妻が夫を慰める番だった。

 一方、食堂を後にしたマイナードとルーナは、二階のルーナ部屋にいた。

「マイナード、どうしておこってるの?」

 マイナードはイライラと爪を噛んだ。

「私を侮辱したからだ! あの青山丈一郎と言う男め!」
「ぶじょく?」
「それにルーナのことも健康ではないなどと嘘をつきおって。医者だなんだか知らないが、下手な講釈をたれおってからに!」
「こうしゃく?」

 ルーナに難しい言葉はわからない。

「私がまるでルーナを大切にしていないように言いおって、いったい何様のつもりなのだ! うっとうしい! これだから人間は面倒なのだ!」

 激しくいらだつマイナードの隣でルーナはひとり取り残されたようにおし黙った。
 しばらくしてエンゲルバードがサンドイッチとミルクを持って入って来た。

「お食事の途中でございましたから、お腹が空かれているかと思いまして」
「ありがとう、エンゲルバード」

 ルーナは切り分けられたひと切れを取って口に運んだ。
 その様子を確かめた後、エンゲルバードは主人のほうを向いた。

「旦那様、あの医者が言うことにも一理あるかと」
「なにっ?」

 鋭く返すその視線にも動じず、エンゲルバードは賢明な意見を述べた。

「ルーナ様の成長の遅れは血の吸いすぎが原因ではないでしょうか? 
 人間の血は地球で言えば川や海と同じでございます。水が枯れれば木々は育ちません。いずれ、木々は枯れてしまいましょう」

 マイナードは、はっとしてルーナを見た。
 ルーナの手首や首筋は細い。
 それはこどもだからと思っていたが、丈一郎はルーナは昭太とほとんど同じ歳だと言っていた。
 マイナードにようやく冷静な思考力が戻ってきた。
 昭太の健康的な体躯やはつらつとしたさまを思い返して、マイナードはようやくそうかも知れないと思い返した。

「ルーナ!」

 マイナードは思わずルーナを抱きしめた。
 もしそれ本当ならルーナはエンゲルバードが言ったとおり育たず枯れてしまうのだ。

「この子が死んだら、私も死んでしまう!」

 マイナードはじわじわとルーナの置かれている環境について危機を感じ始めた。
 ルーナが死ねばマイナードは二度とルーナの血にはありつけない。
 やにわに取り乱した主人にエンゲルバードは冷静に言った。

「旦那様は不老不死ですから死にません」
「馬鹿者! 私たち一族は孤独では生きてはゆけぬのだ!」

 それまで黙って話を聞いていたルーナがサンドイッチのなくなった右手を上げてマイナードの頬に触れた。

「かなしいの、マイナード?」
「ルーナがいなくなることを考えると私はつらくて悲しいのだ。胸が苦しくて堪らなくなる……」

 苦悩に満ちたマイナードの表情を見つめながら、
 ルーナはその小さな手でマイナードの髪を撫でた。

「いっしょにいれば、かなしいことははんぶんになるのよ。わたしたちは家族だもの」
「家族?」
「そうよ。家族はいっしょにいるとあんしんできて、たすけあうなかまなの。けってんをみとめあって、そしてゆるしあうの。家族はよろこびやたのしみは二ばいにも三ばいにもなるのよ」

 思わぬ言葉にマイナードは驚いた。
 マイナードはこれまで自分たちを指して家族と言ったことは一度もない。
 ルーナはあの一家から聞いて学んだ家族なる定義についてを披露したに違いなかった。
 驚きと同時に、マイナードの胸に突然温かいものが湧きあがってきた。

(これはなんだ……?)

 マイナードは自分の胸に問う。
 吸血鬼になって以来長い間忘れていた感情だった。
 彼がその記憶を思い出すためには、何百年もの年月をさかのぼらなければならなかった。
 そして今となっては、それはあっという間に過ぎ去った懐かしい記憶だった。
 家族。なんというやさしい響き。
 なんというはかなくも温かいぬくもり。
 闇の世界に身を落としたときから、もう二度と感じることはないと思っていた。
 しかし、そのぬくもりが今確かにここにある。
 マイナードはルーナの手を手を重ねて自分の頬にそっと押しあてた。
 小さなその手にマイナードは果てしなく尊いものを感じた。

「うむ……、確かにそのようだ」

 マイナードの胸は、もう苦しくない。
 ルーナはマイナードを見つめて確認するように質問した。

「あんしん、する?」
「うむ、安心する」
「かなしくない?」
「うむ、かなしくない」

 さしずめルーナが医者で、マイナードは問診を受ける患者のようだった。

「マイナードはおこりんぼだけど、わたしゆるしてあげる」
「うむ」
「わたしのけってんは?」
「ルーナの欠点?」
「家族はゆるしあうの」

 ルーナは丈一郎の言った家族の定義を、今確かめようとしているのだった。

「そうだな、私の言うことを聞かないところだ」
「ゆるしてくれる?」
「うむ、許そう」

 ルーナは望んでいた答えを得られたのだろう。
 にこっと笑うとうれしそうにマイナードの首に抱きついた。

「マイナード、わたしといるとたのしい?」
「うむ、たのしい」
「なん倍くらい?」
「百倍くらい。いや千倍、万倍だ」

 ルーナのいない暮らしなんて想像できない、とマイナードは心から思う。

「わたしはひゃく倍のひゃく倍くらい。それかもっとよ」

 ルーナは百以上の数を知らなかった。
 マイナードの顔にふっくらとした笑みが浮かんだ。
 マイナードはルーナの頬に頬を寄せて抱きしめた。

「私たちは家族だ……!」

 マイナードははじめて強い気持ちで家族と言う言葉を使った。
 すると隣でじっと二人のやり取りを聞いていたエンゲルバードがめずらしくもじもじとしている。

「あの……、その……、私もその、か、家族に……その……」

 すると、ふたりの視線がエンゲルバードを見上げ、ルーナとマイナードがそれぞれに言った。

「エンゲルバードも家族」
「うむ、私の芸術作品から家族に昇格することを許そう」

 エンゲルバードはその大きな体を震わせた。

「あっ……ありがとうございます、旦那様! ルーナ様!」

 エンゲルバードのつくりの悪い顔にはお世辞にも美しいとは言えないが、今までにない笑顔が浮かんでいた。
 この瞬間三人にとってお互いがかけがえのない存在になり、それは家族という言葉で確かめられた。
 こうしてはじめて吸血鬼と少女は家族の絆を確かめ合ったのだった。

 それからと言うものマイナードはルーナの血を吸うのを控えるようになった。
 そればかりではない。

「こうした孤島に住んでいると情報がなかなか入ってこないでしょうが、今の医療はとても発展しているんです。本島にまで行けば、十分な検査と治療が受けられます。大丈夫ですよ」
「う、うむ、そうか……」

 丈一郎の話をマイナードは小難しい顔をして聞いている。

「食事は必要なものをバランスよく食べなければいけませんわ。成長期には特に気を使わなければいけません。

 エンゲルバードさん、缶詰の野菜ばかりでなくちゃんとした生野菜も必要ですよ。庭で育ててみたらいかかです」

「ハイ、今度野菜の種も取り寄せてみます」

 佐江の話にエンゲルバードは頷いた。

「それから適度な運動も必要です。筋肉や骨の形成は、使うことで促されるのです。どうしてもっと活発に運動させないのですか? こんなに素晴らしい

 自然があるのに。
 伯爵もあのミノムシスタイルでなら外に出られるのですから、無理をしろとは言いませんが、もっと一緒に遊んであげるべきです」
 さすがに一子の母である佐江は、ルーナの生活環境について事細かな指示を出す。

「ああ……、それはルーナが怪我でもしないかと心配なのだ……。あの子は外に出ると決まって怪我をするのだ。そのくせ自分の血でさえ怖がって、その始末といったら大変なのだ……。(私もできれば外に出たくないし……)」
「怪我も成長の過程には必要なことなのですよ。人は小さな怪我を繰り返すことで、日常の危険を予測できるようになっていくのですから。
 例えば、階段から飛び降りて怪我をしたこどもが、二階の窓から飛び降りてみようなんてことは思わないでしょう?」
「むう、確かに……」

 マイナードにとって青山夫妻の普通の人間の暮らし方や教育方法は新鮮だった。
 なぜならマイナードとってははるかはるかはるか昔の記憶でしかなかったし、自分自身は怪我をしてもすぐに治ってしまう上、病気もしない。食事をバランスよく食べる必要もないし、その細身の体には人間には出せない腕力や脚力が備わっている。
 マイナードは二階どころかビルの最上階から飛び降りたところで怪我などしなのだ。
 吸血鬼の暮らしに比べてはるかに面倒なことばかりだったが、それでも大切な家族であるルーナのためだと思うとマイナードは真剣だった。
 エンゲルバードもまた同じで改善できることに関しては即座に対応していった。
 マイナードは彼なりに青山一家を受け入れ始めていた。
 青山一家も島に来て以来感じてきた奇妙な違和感を徐々に払拭しつつあった。
 ここへ来て少し風変わりではあるが、伯爵とその執事は本当にルーナを大切にしていると言うことが彼らにも実感できるようになったのだ。
 家族や仲間を大切にする気持ちは、誰にでも共感できるものだ。
 その気持ちを共有できる相手となら、信頼感と言うものも自然と芽生えてくる。
 青山一家にとって絶界の孤島がすこしずつ過ごしやすい場所に変わりつつあった。

 そして、青山一家が漂着して二週間ほど経った夜のこと。

「あのね、きょう昭太がね」
 七日ぶりにルーナの血をもらうため、マイナードはルーナと同じベッドの中にいた。
 ルーナとマイナードはいつものように手をつなぎ合っている。
 しかし、マイナードは少し不服そうな顔をしていた。

「ルーナ、このところ昭太の話ばかりではないか。私とゲームもしてもくれないし……」

 マイナードは彼なりのさみしさを抱えていた。
 元来吸血人とは孤独な性質なのである。
 マイナードは以前に比べれば数段に野外へ出てルーナと遊ぶようになっていたが、それでも青山一家がするように人間とまったく同じというようにはいかなかった。

「あしたいっしょにあそぼ」
「なにっ? いいのか?」
「みんなで森をたんけんにいくの。マイナードもいっしょにいこ?」
「むう、外か……」
「あしたはくもりよ。エンゲルバードがそういってたの。おねがい、マイナード」

 ベッドの中でルーナはマイナードの腕を掴んで懇願のまなざしを向けた。
 こんな目をされると、マイナードはつい聞けない願いも聞いてしまう。

「むむう、……わかった。そうしよう」
「やったあ」

 ルーナがうれしそうにマイナードの胸に顔をうずめた。
 マイナードの顔にルーナの猫毛が触れる。
 こうしたふとしたときマイナードはいつも想像する。
 それは、ルーナが美しい女性に成長しこの手から離れてしまうときのことだ。
 その日はきっといつか来るに決まっている。
 こうして同じベッドで眠ることを許してくれるのはいつまでだろうか。
 いつかルーナはこのベッドの中で家族以外の誰かのことを強く思いながら眠りにつく。
 ひと度その瞳を開けば、水平線のかなたに愛しい人の姿を重ねる。
 ルーナが寝ても覚めても、心の中を自分たちではない誰かが埋めてしまうときがきっと来る。
 マイナードはルーナが誰かに恋をするときのことを思うと、それだけで嫉妬に悶えた。
 ルーナが奪われるような気がして堪らなくつらいのだ。
 例えば、昭太。
 昭太は明らかにルーナに好意を持っているようだ。
 彼が成長し再びルーナと出会ったとしたら、二人はいったいどうなるだろう。

「ルーナ、血をもらってもいいかい」
「うん」

 ルーナはためらいなく瞳を閉じた。
 マイナードはそっとルーナの髪を脇へ流す。
 白くて細い首筋が現れる。
 このようになんのためらいや障害もなく無防備に肌をさらしてくれるのは、この先も続くのだろうか。
 それとも。……
 マイナードは今まで以上に優しくルーナの首筋にキスをした。
 皮膚を破る感触と、その瞬間あふれだす生命力。
 このところルーナの血は少しずつ濃くなってきている。
 やはりエンゲルバードの言うことは間違いではなかったのだ。
 医者である青山夫妻の助言も十分信頼に足るものと言うことだ。
 マイナードは体の中に流れてくる力を感じる度にますますルーナが愛おしく思えた。

(私はルーナからエナジーをもらって生かされているのだ……)

 マイナードは人間にはわかりえない絆をルーナとのあいだに感じていた。
 マイナードの行いはごく普通の人間の良識からすればそれは恐るべき悪魔の所業に違いなかった。
 しかしこれこそがマイナードとルーナをつなぐ家族の証でもあった。
 ルーナはすやすやと静かな寝息をたて始めた。
 マイナードはルーナの首筋から唇を離すとその寝顔を見守った。
 青白い彼の顔が、これ以上なく穏やかな表情を浮かべている。
 この先のことはわからない。
 しかし、ルーナを思う気持ちだけは変わらない。
 マイナードはルーナの額にやさしくキスをした。


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⭐︎登録お願いします。  今まで発表した 日本昔ばなしの短編集を、再放送致します。 朝ドラの総集編のような物です笑 読みやすくなっているので、 ⭐︎登録して、何度もお読み下さい。 読んだ方も、読んでない方も、 新しい発見があるはず! 是非お楽しみ下さい😄 ⭐︎登録、コメント待ってます。

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