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伍/見えない道先の概算
5-6
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◇
愛莉がシャワーを終わらせた後、俺たちはすぐに寝る支度を始める。居間にあったミニテーブルを隅に寄せて、皐と一緒に押し入れに押し込んでいた布団を取り出す。桃色の布団を愛莉のほうに広げて、青色の、いつもの俺の布団を空いている場所に敷いた。
「え、早くない?」
そんな様子を見て、愛莉は唖然とした様子で声を出す。そう言われて携帯で時間を確認するも、表示された時刻は十一時、寝るには妥当、というよりかはいつもより遅いくらいの時間。
「割といつもこんな感じだぞ」
「割といつもこんな感じだよ」
俺の言葉に便乗するように、皐は微笑みながら声を重ねる。うへぇ、と愛莉は言葉を漏らしたあと、それを合図としたように今の電灯を、俺は沈黙させた。
俺と皐は一緒の布団の中に潜る。自分以外の温もりが隣にある感覚。久しぶりではないはずなのに、どこか懐かしい感覚。
布団の中で皐の足が絡んでくる。俺は抵抗することなく、それを受け入れる。布団の中であれば、愛莉にバレる心配はないと思ったから。
静かな呼吸音、すう、すう、とただ呼吸を繰り返す音。右からも、左からも。
近かったり、遠かったり。
聞きなじみがあったり、初めて聞くような気もする感覚があったり。
「ねえ」
沈黙の中、愛莉は言葉を広げる。
「本当にこんなに早く寝るの? 仕事の始まりって八時ってこの前言ってなかったっけ」
「なんだお前、寝たくないのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。ほら、高校生って夜遅くまで起きてる印象? みたいな」
「……きっと、普通の高校生ならそうなんだろうな」
だが、ここにいるのは普通、とは言い難い人間。
どこからどこまでが普通なのか、その線引きはわかることはない。高校生という身分を謳歌して、それが普通になるのだろうか。高校生活を送るだけで普通になるのだろうか。
きっと、そういうわけじゃないのだろう。
「ちなみに、始業時間は八時だけれど、それ以外の準備とかがあるから結構早めに起きなきゃいけないんだ」
「え、早出ってやつだ。何時に起きるの?」
「翔也はいつも四時に起きてるよー」
「早っ」
素っ頓狂な声を愛莉があげる。そんな声を聞いて、隣にいる皐の声がくすくすと笑うのが聞こえてくる。
「そっかー。それなら、仕方ないのかぁ」
「仕方ないんだ」
「仕方ないのです」
三人で、そんな会話をして、微笑む様子。
きっと、彼女らは楽しいのだろう。その中に介在しているから、なんとなく彼女らが楽しみながら、この空間を過ごしているのが理解できる。
それなら、俺もその流れに従うべきなんだろうけれど。
……目を閉じる。今は余計なことを考えるべきではない。明日の仕事に備えなければいけないのだから。
それから、愛莉との会話は生まれない。寝息のようなものは聞こえてこないけれど、俺が寝ることを受け入れるようだった。
◇
四月末に近づくにつれ、夏の気配はやってくる。今日だって温暖な気候だった。少しうだるような気配を感じていた。昼間に感じていた音の喧騒も、それも夏のにおいのようなものだ。俺は夏がそんなに好きではなかった。あの時期はいろいろなことを思い出してしまうから。
布団の中、皐のぬくもりを感じる。肌ではない、布を重ねたぬくもり。俺はそれを、少し鬱陶しく思った。彼女が嫌とかではない、ただ、暑かった。それだけだった。
すっと、静かに起き上がる──、起き上がろうとしたけれど、起こそうとした背は隣にいる皐によって抑えられた。抑えられた表紙に、そのまま彼女の布団の中に入った。
くぐもった空気、薄くなる酸素の感覚、すぐ目の前にある彼女の顔、肌をくすぐる彼女の呼吸。
「懐かしいね」
皐はそう言葉を吐いた。
「中学生の時、ずっと翔也が耳をふさいでくれてた。私も翔也の耳をふさいだの。……覚えてる?」
「……ああ」
忘れるわけがない、忘れられるわけがない。あの不和の環境を、彼女を守りたいと思った素直な感情を、忘れることはできない。
「たまには、こういう日もいいと思うんだ」
「……そう、かな」
俺は疑問符を浮かべながら、そう返した。
「……正直、俺にはなにもわからないんだ」
感情に連なっているもの。吐き出したいもの、俺は何を吐き出したいのか、暑さの中にある酩酊のような気分に、俺はそう言葉を吐いた。
「後ろめたい?」
皐はくすぐるような声でつぶやく。
「そういうわけじゃない」
俺自身で理解ができていない。ごちゃごちゃとした感情の整理がついていない。誰かに言及されることではっきりとするものかもしれない。いまだに抱え続けている罪悪感のような何か、俺はそれをどうすればいいのかわからない。
後ろめたい、後ろめたいのだろうか。
すれ違ったことが? そうじゃないだろ。俺はどうしたいのだろう。
先ほどまで正常を意識していた心が、皐の声で剝がれていく。
本物はない、偽物はない。だからこそ、本物といえるものを探したい。
そう思ってたけれど、そういうわけではない。それは心の格好つけのようなものかもしれない。本当は、俺の抱えているものが本物か知りたいだけなのだ。
それに対して俺は無力感を覚えているのだろうか。何かしらの責任感を覚えているのだろうか。その責任とはなんだろうか。
「……俺は、俺のことがわからないよ」
いつもより、素直に。愛莉には聞こえないように、皐の耳に届くようにささやく。
「不安なんだと思う。でも、何が不安なのかはわからないんだ。どこまでも道は続いていないんじゃないかって、そう思えてしまうときがある」
「私のこと? 私とのこと?」
「……わからない」
いや、わからないわけじゃない。具体的な言葉を表すのが、怖いだけだ。
「私は、それでもいいよ」
皐は、そう言葉を吐く。
「どこにも行かないって、独りになるのはいやだって、前にも言ったじゃん。その言葉に嘘はないもん」
皐は、そう言葉を吐く。
顔に血流が昇る感覚。
「……少し、暑いな」
「あっ、話を逸らしましたねぇ」
彼女のささやき声は耳に残る。からかうような、それでも慈しみが含まれているような、そんな声音。
「少し、夜風に当たってくる」
「私もいっしょに行く?」
「……いや、恥ずかしいから」
心にともるような熱い感覚。不快感とは違う鼓動の加速。どくどく、と耳元に聞こえる、耳が、頬が、暑く成る感覚。
それを皐には悟られたくない、きっと彼女はわかっているのだろうけれど。
俺はニヤつく頬の緩みを手で押さえながら、静かに玄関のほうへと向かった。
愛莉がシャワーを終わらせた後、俺たちはすぐに寝る支度を始める。居間にあったミニテーブルを隅に寄せて、皐と一緒に押し入れに押し込んでいた布団を取り出す。桃色の布団を愛莉のほうに広げて、青色の、いつもの俺の布団を空いている場所に敷いた。
「え、早くない?」
そんな様子を見て、愛莉は唖然とした様子で声を出す。そう言われて携帯で時間を確認するも、表示された時刻は十一時、寝るには妥当、というよりかはいつもより遅いくらいの時間。
「割といつもこんな感じだぞ」
「割といつもこんな感じだよ」
俺の言葉に便乗するように、皐は微笑みながら声を重ねる。うへぇ、と愛莉は言葉を漏らしたあと、それを合図としたように今の電灯を、俺は沈黙させた。
俺と皐は一緒の布団の中に潜る。自分以外の温もりが隣にある感覚。久しぶりではないはずなのに、どこか懐かしい感覚。
布団の中で皐の足が絡んでくる。俺は抵抗することなく、それを受け入れる。布団の中であれば、愛莉にバレる心配はないと思ったから。
静かな呼吸音、すう、すう、とただ呼吸を繰り返す音。右からも、左からも。
近かったり、遠かったり。
聞きなじみがあったり、初めて聞くような気もする感覚があったり。
「ねえ」
沈黙の中、愛莉は言葉を広げる。
「本当にこんなに早く寝るの? 仕事の始まりって八時ってこの前言ってなかったっけ」
「なんだお前、寝たくないのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。ほら、高校生って夜遅くまで起きてる印象? みたいな」
「……きっと、普通の高校生ならそうなんだろうな」
だが、ここにいるのは普通、とは言い難い人間。
どこからどこまでが普通なのか、その線引きはわかることはない。高校生という身分を謳歌して、それが普通になるのだろうか。高校生活を送るだけで普通になるのだろうか。
きっと、そういうわけじゃないのだろう。
「ちなみに、始業時間は八時だけれど、それ以外の準備とかがあるから結構早めに起きなきゃいけないんだ」
「え、早出ってやつだ。何時に起きるの?」
「翔也はいつも四時に起きてるよー」
「早っ」
素っ頓狂な声を愛莉があげる。そんな声を聞いて、隣にいる皐の声がくすくすと笑うのが聞こえてくる。
「そっかー。それなら、仕方ないのかぁ」
「仕方ないんだ」
「仕方ないのです」
三人で、そんな会話をして、微笑む様子。
きっと、彼女らは楽しいのだろう。その中に介在しているから、なんとなく彼女らが楽しみながら、この空間を過ごしているのが理解できる。
それなら、俺もその流れに従うべきなんだろうけれど。
……目を閉じる。今は余計なことを考えるべきではない。明日の仕事に備えなければいけないのだから。
それから、愛莉との会話は生まれない。寝息のようなものは聞こえてこないけれど、俺が寝ることを受け入れるようだった。
◇
四月末に近づくにつれ、夏の気配はやってくる。今日だって温暖な気候だった。少しうだるような気配を感じていた。昼間に感じていた音の喧騒も、それも夏のにおいのようなものだ。俺は夏がそんなに好きではなかった。あの時期はいろいろなことを思い出してしまうから。
布団の中、皐のぬくもりを感じる。肌ではない、布を重ねたぬくもり。俺はそれを、少し鬱陶しく思った。彼女が嫌とかではない、ただ、暑かった。それだけだった。
すっと、静かに起き上がる──、起き上がろうとしたけれど、起こそうとした背は隣にいる皐によって抑えられた。抑えられた表紙に、そのまま彼女の布団の中に入った。
くぐもった空気、薄くなる酸素の感覚、すぐ目の前にある彼女の顔、肌をくすぐる彼女の呼吸。
「懐かしいね」
皐はそう言葉を吐いた。
「中学生の時、ずっと翔也が耳をふさいでくれてた。私も翔也の耳をふさいだの。……覚えてる?」
「……ああ」
忘れるわけがない、忘れられるわけがない。あの不和の環境を、彼女を守りたいと思った素直な感情を、忘れることはできない。
「たまには、こういう日もいいと思うんだ」
「……そう、かな」
俺は疑問符を浮かべながら、そう返した。
「……正直、俺にはなにもわからないんだ」
感情に連なっているもの。吐き出したいもの、俺は何を吐き出したいのか、暑さの中にある酩酊のような気分に、俺はそう言葉を吐いた。
「後ろめたい?」
皐はくすぐるような声でつぶやく。
「そういうわけじゃない」
俺自身で理解ができていない。ごちゃごちゃとした感情の整理がついていない。誰かに言及されることではっきりとするものかもしれない。いまだに抱え続けている罪悪感のような何か、俺はそれをどうすればいいのかわからない。
後ろめたい、後ろめたいのだろうか。
すれ違ったことが? そうじゃないだろ。俺はどうしたいのだろう。
先ほどまで正常を意識していた心が、皐の声で剝がれていく。
本物はない、偽物はない。だからこそ、本物といえるものを探したい。
そう思ってたけれど、そういうわけではない。それは心の格好つけのようなものかもしれない。本当は、俺の抱えているものが本物か知りたいだけなのだ。
それに対して俺は無力感を覚えているのだろうか。何かしらの責任感を覚えているのだろうか。その責任とはなんだろうか。
「……俺は、俺のことがわからないよ」
いつもより、素直に。愛莉には聞こえないように、皐の耳に届くようにささやく。
「不安なんだと思う。でも、何が不安なのかはわからないんだ。どこまでも道は続いていないんじゃないかって、そう思えてしまうときがある」
「私のこと? 私とのこと?」
「……わからない」
いや、わからないわけじゃない。具体的な言葉を表すのが、怖いだけだ。
「私は、それでもいいよ」
皐は、そう言葉を吐く。
「どこにも行かないって、独りになるのはいやだって、前にも言ったじゃん。その言葉に嘘はないもん」
皐は、そう言葉を吐く。
顔に血流が昇る感覚。
「……少し、暑いな」
「あっ、話を逸らしましたねぇ」
彼女のささやき声は耳に残る。からかうような、それでも慈しみが含まれているような、そんな声音。
「少し、夜風に当たってくる」
「私もいっしょに行く?」
「……いや、恥ずかしいから」
心にともるような熱い感覚。不快感とは違う鼓動の加速。どくどく、と耳元に聞こえる、耳が、頬が、暑く成る感覚。
それを皐には悟られたくない、きっと彼女はわかっているのだろうけれど。
俺はニヤつく頬の緩みを手で押さえながら、静かに玄関のほうへと向かった。
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