拾った彼女が叫ぶから

彼方 紗夜

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エピローグ

新たな一歩

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 川の水がぬるみ始める三月の下旬が、ヴェスティリアにおける社交シーズンの始まる時期である。
 その幕開けは王家主催の盛大な舞踏会だ。今年もそれは変わらない。
 ただ一つ、人々の間を駆け巡ったセンセーショナルな噂の真偽を確かめようと、例年よりも遥かに多い出席者がつめかけたこと以外には。

「マリア、もしかして緊張してます?」
「そりゃそうよ。こんな場所、人より目線が高い位置にあるのは落ち着かないわ」

 楽団の音楽も、着飾った貴婦人の色取り取りのドレスも、会場を満たす談笑と香水の匂いも、もうずいぶんと久し振りだ。
 大広間の一角にしつらえた王族用の壇で、彼女もルーファスと並ぶ。

 ぞくぞくと集まる人々が、拝謁の順を待つ間も自分へと視線を注いでくる。かつて自分を嗤った彼らが、何とも言えない複雑な心情をその目にありありと浮かべているからなおのこと居心地が悪い。
 助けを求めて隣を見上げると、シルクのシャツに漆黒のウエストコートと同色のトラウザーズ姿のルーファスがへらりと笑った。出会った日と同じ姿だ。クラヴァットを留めるピンに琥珀色の宝石がはめこまれているのも、同じ。変わらない笑みにほっと息をついた。

「大丈夫、もうすぐ拝謁は終わりますから」
「ねえ、ルーファス。……イエーナ殿下は?」

 マリアは会場内に視線を彷徨わせた。イエーナだけでなく、ゲイルの姿も見られない。見渡せば、他の出席者もちらほらと首を傾げる様子がうかがえる。
 ルーファスがマリアの疑問に気づいたのか、更に笑みを浮かべた。

「出たくないそうですよ」
「お身体の加減でもお悪いのですか?」
「いやいやマリアちゃん、全部こいつのせいだから」

 ルーファスの向こう隣に立つイアンが、彼を指さして笑った。

「なんと、ガードナー公は暴行未遂事件の容疑者ににつき、この場には出られないのでした!」
「……え、ええっ?」
「しっ、イアン兄上、声が大きいですよ。ここだけの話なんですから」

 ──いったい何があったの!?
 驚きで咄嗟に言葉が出ず、マリアは目を瞬く。

 なんでも、事件の現場に居合わせた兵たちにより未遂に終わったが、捕えた実行犯らの供述によりゲイルの関与が明らかになったらしい。
 当然イエーナとの婚約も仕切り直しとなり、彼自身も禁固刑に処することが内々に決められた。だが、刑を執行する代わりにトゥーリスとゲルンの国境──ちょうど両国が睨み合いを続けている地域だ──に彼と公爵家の私兵を派遣するべく動いているのだという。
 
 信じられない。だがその思いは、ゲイルへの信頼とか過去への未練から来るものではない。ただ王女殿下との婚約のためにマリアを捨てた人が、みすみすその機会を失うようなことをしたのが意外だった。それくらい、彼女にとって彼はすでに遠い人だ。マリアはルーファスのフロックコートの裾をきゅっと掴んだ。

「でも襲われた方がご無事で良かったですね」

 マリアが顔を上げると、含みのある視線にかち合った。「何か?」と訊ねても二人とも微妙な顔だ。イアンは笑い出しそうだし、ルーファスは笑顔の割に憤然としている。

「当たり前じゃないですか。僕がそんな目に遭わせるとでも?」
「え? ルーファスの話なんてしてないんだけど」

 イアンが堪えきれないという風に吹き出す。失礼な。
 軽く睨みつけるも、しまいには手で口元を押さえる始末だ。どこがツボだったんだろう。

「……とにかく、これは両国の関係を他国に示すチャンスです。ヴェスティリアからも兵が増援されると知れば、ゲルンも迂闊なことはできないでしょう。取り急ぎトゥーリスへの持参金みたいなものですね。ちょうどガードナー家は王族との繋がりもできたことですし適任でしょう?」
「じゃあまだ正式にはイエーナ殿下との婚約は解消されてはいないのね?」
「彼の処分を発表するまでは、解消するのは得策ではないですからね」

 いま解消するには、正当な理由が必要だ。それは逆に言えば、ゲイルがトゥーリスの国境地帯に赴くことが正式に決まれば婚約も解消されるということだろうか。とそこまで考えて、マリアははっとルーファスを凝視した。
 ──もしかして「手土産」って……ゲイルのこと?

 笑うルーファスから黒いオーラが滲み出ているのが怖い。
 つまり、ルーファスはトゥーリスに居ながらすでに事件を耳にしており、主犯がゲイルであると突き止め、どう断罪するかも算段をつけていたということか。
 ──対応が早すぎるんじゃない? 寒気がするんだけど!

「我が弟ながら悪辣だよなあ。田舎な上にいつ戦争が起きるかわからねえ土地だぜ? 公爵も焦りすぎたよなあ」
「自業自得です。彼の罪を公表すれば王家としても体裁が悪いでしょう。全て丸く収まるいい案じゃないですか。マリアがトゥーリスに来たのは予想外でしたが」
「お前に踊らされた俺らの身にもなれ。イエーナはまだ自分がお前の思惑通りに動かされたとは気づいてないんだぞ。それに未遂だろ? お前の私情が入りまくってんじゃねーかよ」

 話についていけなくて歯痒い。だがさすがにこの場で問い詰めては無礼だと、マリアはぐっと我慢する。

「イアン兄上は僕らの味方だと仰いましたよね?」
「俺はマリアちゃんの味方だ!」
「なら問題ありません。彼にはせいぜい僕の役に立ってもらうだけですから」
 
 マリアの頬が引きつる。ルーファスを怒らせると後が大変になることだけは二人の様子を見れば嫌でもわかった。
 ところがつい「お気の毒ですね……」とマリアが零した瞬間、両方から「どこが!?」という突っ込みを入れられた。

「マリアは甘すぎます」
「そうだよマリアちゃん! そろそろ人を疑うことを覚えた方がいいよ? 特に婚約者とかな。……ぐぇっ!」

 にやついたイアンが一転、みぞおちを押さえて呻く。それを涼しい顔で一瞥して、ルーファスが彼女に向き直った。黒々とした気配は消え、一転して柔らかな笑みが広がる。

「ほら、マリア。いよいよファーストダンスの始まりますよ」
「え、ええ。……ルーファスは、ダンス大丈夫なの? 鈍ってないわよね?」

 華やかな音楽が奏でられ始めたことにマリアも気づく。これから国王夫妻のファーストダンスだ。
 マリアも気持ちを切り替え、改めてルーファスを見つめた。

 琥珀の目は自分を映して光を増し、麦の穂を思わせる色の髪は後ろに撫でつけられている。はらりと前髪が額に掛かるのが気になるのか、時おり彼が無意識にそれをいじる。
 彼女はその立ち姿を目を細めて見上げた。

 エミリアとイアンの立ち合いの下、二人は簡易的にではあったがトゥーリスで婚約式を執り行った。そしてその足で、いったん帰国したのだ。
 国王、王妃への報告に始まり、第三王子として全ての権利を放棄する手続き、ルーファスが携わっていた公務の引継ぎなど諸事を片付けるために。
 その中にはもちろん、マリアの両親への挨拶もあった。予め話をしていたとルーファスが言っただけあって驚く様子はなく、両親は手放しでマリアの結婚を喜んでくれた。トゥーリスに移れば会える機会も少なくなる、家のことは心配だが、それを気にさせずに祝福してくれた彼らの愛情が温かくてマリアは泣いた。
 とはいえ二人とも今は身軽であるから、機会があればトゥーリスに呼び寄せることもできるだろう。

 ヴェスティリア側でも、ルーファスが女王の嫡子であることを証明するため、というか口裏を合わせるためにルーファスは国王をも脅して一筆したためさせたようだ。息子の命を案じたエミリアがヴェスティリアに彼を亡命させていたという作り話である。しかし真相がイアンに知れてしまった以上、明るみに出るのは時間の問題かもしれないとルーファスはうっそり笑っていた。

 今日はマリアも正装である。
 彼女自身も、出会いの日と同じ深紅のドレスに同色のハイヒールだ。ドレスはもちろん王宮で用意されたものなので、出会いのときに着たものよりも数段質が良い。赤茶色の髪は王宮仕えの侍女が結い上げてくれた。

 ──一つだけ、違うのは。
 マリアは左手に目を落とした。
 そこには、金の指輪がはめられている。一見シンプルだが、よく見ると小粒のイエローダイヤモンドがびっしりと連なっており、内側には琥珀と紫水晶を交互に埋め込んである。揃いの婚約指輪は彼の手でもさり気なく光っていた。

「先生が隣にいるんですから、大船に乗った気でいますよ」
「やだ、リードはルーファスなんだからね」
「わかってますって。そろそろ一曲目が終わります。僕らの出番ですよ」

 これがルーファスの、第三王子としての最後の公務だ。
 ヴェスティリア国から華やかに退場するための、国王からのはなむけだった。皆へのお披露目である。
 マリアは横に並ぶルーファスの手に触れた。甘く溶けそうな目が更に細められる。彼がうやうやしい仕草でマリアの手を取った。

 これから、二人とも新しい土地で、知らない人々の間で、一から居場所を築いていく。
 学ばなければならないこともしなければならないことも山積みで、その多さに目眩を覚えることもある。
 それでも一度思いを全て伝えきったから、それを受け止めてくれた人とだから、怖くはない。全てさらけ出すことは人を弱くするのだと思っていたけど、そうじゃなかった。逆だった。

「拾ってくれて、ありがとうね」

 ぽつりと漏らすと、聞こえなかったみたいでルーファスが「ん?」と訊き返した。独り言だから、と笑ってごまかす。
 きっと後で追及されるだろう、「言って?」とその笑みを少し意地悪くゆがめながら。
 それでも今は何となく、このままで居てくれることが嬉しい。マリアは繋いだ手にきゅっと力を込めた。

「曲が変わりましたよ。マリア、行きましょうか」

 ルーファスが、ダンスの練習を重ねてきた日々よりも頼もしい口調で、彼女の腕を取り自身の腕に絡めた。
 足取りまであの頃とは違う。変わっていく。これまでも、これからも。

「ええ。じゃあ──あんたのお手並み、拝見するわ」
 
 マリアもまた挑むように微笑むと、ルーファスと共に広間の中心へ、一歩足を踏み出した。
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