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1.渡せなかったラブレター

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あるアパートの二階、
ある一室の前で、
私は早鐘を打つ心臓を落ち着かせるため
大きく息を吐いて呼吸を整える。

私はこれから、
今まで生きてきた人生の中で
最も重大なイベントを迎えようとしている。

何度か大きく深呼吸をして、
震える指でドアベルを押した。

…………長い沈黙。

ベルを押したことを後悔するほど緊張していた。

しばらく返事を待っても反応がない。
これだけ古い建物だから、ドアベルが壊れているということもあるかもしれない。

震える指を握り締め、
手の甲でドアを軽くノックしてみると、
部屋の中で何かが動く気配がした。

彼だろうか。
そう思ったら心臓の音が聞こえてきそうなほどバクバクと暴れだした。
人の気配がもうすぐそこまで来ている。

「……どちらさん?」

ドアが開いて現れた人物を前に、
私はうれしさと緊張のあまり卒倒してしまいそうだった。

その人は間違いなく目的の人物。

腰まで下げてはいた鼠色のスウェットに、
着古して襟が伸びてしまったロングTシャツ。
ゆるくパーマを当て脱色した髪は整えられておらずあらぬ方向に毛先が広がっている。

ラフな服装の彼に否応なしに胸がときめき、
溢れ出しそうな感情の高ぶりを押さえる。
私は彼に変に思われないよう涼しい顔を取り繕った。

「私はこういうものです」

私は緊張のあまり、いつもの癖でスーツの内ポケットから名刺を差し出してしまう。
彼が受け取りかけたところで危うく奪い返す。

「は? なに?」

眉根を寄せた怪訝な表情が胸に刺さる。
鍛えているのか生まれつき恵まれているのかガッチリとした体格の彼にはすごみがあり、
ホストやモデルをしていると言われても納得の容姿には迫力がある。

奪い返した名刺には『高鷲ホールディングス秘書課 宇佐美雪人』と書かれていて、名前はともかく社名を彼に知られるわけにはいかない。

「申し訳ありません、名刺を切らしておりました」
「それは?」
彼が指さしたこの名刺は紛れもなく自分のもの。
「これは取引先から頂いたものでした」
身分を明かさないためだとわかっていても、彼に嘘をつくなんて心が痛む。

「ふうん、で?」
「失礼いたしました、私は宇佐美と申します。本日は高鷲龍平様へこちらをお持ちしました」

スーツの内ポケットから取り出したのは一枚の白い封筒。
あくまで機械的な仕草で差し出したそれは、
自分の龍平に対する想いを精一杯書き込んだ信書……通俗的にいうとラブレターが入っている。

龍平の手が封筒を受け取る。
渡した指先が痺れるほど心臓が高鳴っている。

彼はこの手紙を読んでどんな言葉をかけてくれるだろう。
元から男同士ということもあり玉砕覚悟だ。
気持ちが悪いと罵られ、帰れとドアを閉められる心の準備はしてきている。
だがもしかしたら私を受け入れてくれるかもしれない。

ーー実は俺もキミのことが好きだったんだ。

龍平がそう言って私の手を取ってくれる、
そんな場面を何度思い浮かべただろう。
しかし龍平は私のことが分からないようだったからその妄想の実現は難しい。

それならばこれはどうだろう。

ーーキミのような綺麗な人なら喜んで恋人にしてあげよう。

龍平がそう言って私の黒髪に触れて口づけをする。
思い浮かべるだけで体が熱を帯びて爆発しそうだ。

龍平にそんな言葉をかけてもらう日のために毎日の健康管理と美容には人一倍気を使っていたし、今日だってここへ来る前に美容院で髪を整えてきたのだ。

「あーっと、宇佐美さんだっけ?」
「はい、そうです」

期待に頬を染めてしまっているのが見られたくなくてうつむいてしまう。
龍平がどんな言葉をかけてくれるのか、不安と膨らみすぎた期待で胸があふれそうだ。

「それで、俺のだっていうそいつはどこ?」

龍平の微妙な言い回しに首をかしげる。

そういわれてみれば手紙の中で
私は貴方のもの、
というようなことを書いた気がする。
差出人の署名をし忘れただろうか、
それでも自分が渡したのだから自分が差出人だとすぐにわかりそうなものだ。

「まさか、お前?」
「――はい、私です」

顔から火を噴いてしまいそうだった。
俺のものだなんて、まるでもう私を龍平のものだと認めてくれたような言葉ではないか。
私はあなたのものです、と叫びたい。

「ああッ? タチわりぃ冗談はやめろ!」
突然龍平に胸倉を掴まれ、
ガクガクと前後にゆすられる。

がっちりとした身体つきから龍平の方が自分よりも身長が高く見えていたが、
こうして並んでみると意外と同じくらいだということが分かった。
もしかしたら自分の方が背が高いかもしれない。
そうだとしても龍平は世間一般的には背が高い部類に入るだろう。

あまりのショッキングな反応にどうでもいいことを考えてしまった。

「だいたいお前いくつだよ! どうみても俺より年上じゃねぇかよ!」
「年上ではいけませんか?」
「ハァ? いいわけないだろ、そもそもありえないだろ!」

龍平は激昂している。
こんな風に罵られるかもしれないと心の準備はしていたものの、想い人にきつく当たられるのはつらいものがある。

「そうですか、残念です……」

男同士だからではなく年齢差の方でふられるとは予想外だった。
確かに八歳の年の差は二十代前半の彼から見れば大きいかもしれない。
こんなことならもっと肌の手入れに力を入れていればよかった。

「いやなんでそこでお前が落ち込むんだよ」

龍平が私の胸元に手紙を突きつける、
丁寧に女性らしい字で書かれたそれがぐしゃりと音を立てた。

「あ、これは……」

その手紙には見覚えがあった、
それは龍平への熱い想いを綴った大切なラブレター、ではなかった。

『あなたの子です、しばらく預かって下さい』
手紙にはそう書かれていた。
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