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第4部
愛し子って、何様?
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展示室の内部は展示品と展示品の間に十分なスペースが設けられており、サロンから見るよりもずっと奥行きのある広い空間だった。
周囲に年代ものの繊細な曲線を描く陶器の壺や、何代か前の先祖が使ったのだろう白金の鎧の一式など大物が並んでいる奥まった場所で、ようやくイグナスの足が止まる。
「手を離して」
アシェルナオは掴まれている手を引き抜こうと引っ張る。
「嫌だ」
だがイグナスは掴んだ手にさらに力をこめた。
成人した男性としては平均的な体型のイグナスだが、それでもアシェルナオと比べれば歴然とした体格差があった。
強く手を掴まれて、間近で上から見下ろされているだけで、アシェルナオは体が竦んだ。
それに、否定しても拒絶しても、自己本位の身勝手な言い分を突きつけるイグナスは、あの男の言動を思い出させた。
自分こそが番だと言って体を求めて来たあの男に。
拒めば力づくで言いなりにさせようとするあの男に。
「人を呼……」
「うちの家宝を見せてあげてるだけなのに人を呼ぶの? 愛し子って、何様? その前に本当に愛し子なの? 浄化って、歌を歌っただけじゃん。瘴気があったとしても歌だけで本当に浄化できるの? 確かに綺麗な顔をしているけど、だから生まれ変わりですって言われたって信じられる? その顔で王太子殿下をたぶらかして国を騙そうとしてるんじゃないの?」
確かに美しい少年だが、周囲を美丈夫の護衛騎士で固めて甘やかされているアシェルナオに、イグナスは無性に腹立たしさを覚えていた。
ヴィンケル侯爵の三男として生まれ、父はベアール領主で大臣。王都のタウンハウスで生活し、お茶会や夜会に出席しては貴族の交友を広げて裕福に気ままに生活しているが、誰も自分を婚約者には選んでくれない。
それはイグナスの気位の高さと、自分の望む条件に該当しない人物には歯牙もかけない性格のせいなのだが、自分のことは棚に上げ、愛し子という名目で無条件に愛されているアシェルナオが気に触って仕方なかった。
自分より高位の貴族で王太子の婚約者というアシェルナオに憎しみさえ湧いていた。
憎しみを隠さないイグナスの瞳には底知れぬ悪意があり、アシェルナオは締め付けられるような痛みを感じて胸を押さえる。
「キーッ」
ふよりんが全身の毛を逆立てて牙を剥いた。
「ふよりん、だめ」
アシェルナオは興奮するふよりんを手のひらに乗せる。
「狂暴で野蛮な魔獣を身近に置いてるなんて、とんだ愛し子様だ。エルランデル公爵家の次男だというけど、黒髪と黒い瞳だから愛し子様の身代わりにしようとエルランデル公爵が金で買った子供じゃないのか? 本当は卑しい身分じゃないのか? 母親はとんだ淫乱とかだったりして。それとも犯罪者? その因縁で黒い髪と黒い瞳になったんじゃない? それに王太子殿下もだけど周りの護衛もみんな美形で揃えているし。親が親なら子供も淫乱なんだろう」
「違……」
前世でも今世でも、こんなあからさまな悪意に晒されたことのないアシェルナオは、反論の言葉を口にする余裕もなく、弱々しく首を振って否定することしかできなかった。
「黒髪と黒い瞳って、不吉な色だよね。禍々しい。浄化しているっていうけど、本当は瘴気を巻き散らして、それを回収しているだけじゃないのか? こんなのが王太子殿下の婚約者? 僕の方がまだましだ」
一方的な罵詈雑言に、アシェルナオは目の前が暗くなった。
イグナスを怖いと思ったのは、自分の主張ばかりで他人の言うことに耳を貸さないところがあの男に似ているからだけではなく、初めて愛し子を疑惑の目で見てくる存在だからだと、今になって思い当たった。
テュコ、アイナ、ドリーンに尽くされて、家族からの愛情にも恵まれ、学友たちも優しく、何よりヴァレリラルドという婚約者から愛されているアシェルナオは、自分に向けられる悪意や憎悪が体を蝕むほど恐ろしいことを初めて知った。
200年以上前に現れた、アシェルナオの前の愛し子。献身的に浄化をし、病に侵された者たちに寄り添おうとしたのに黒目黒髪というだけで迫害された愛し子。
イグナス1人の言葉だけでもこんなに辛いのに、保護してくれる神殿の者以外から迫害された前の愛し子は、国王からさえ疎まれた愛し子は、どんなに辛くて苦しかったのだろう。どれほど傷付き、うちのめされたのだろう。
アシェルナオの瞳から涙が溢れる。溢れた涙が頬を伝って床にポタポタと落ちた。
呼吸が浅くなり、速くなる。アシェルナオの手足が冷たくなり、体から力が抜けていく。初めて向けられる悪意が前の愛し子への思いと共鳴して暗い絶望を呼び起こした。
イグナスは反論もせずに涙を流して被害者ぶるアシェルナオに我慢できず、その華奢な体を突き飛ばした。
為す術もなく冷たい大理石の床に倒れたアシェルナオに向けて、イグナスはどこかの遺跡から見つかったと思われる人物のレリーフの施された壺を投げつける。
壺はアシェルナオの手前の床に落ちて、大きな音を立てながらゆっくりと砕け散る。イグナスの口元がおぞましく歪む。
一連の動作が、アシェルナオにはまるでスローモーションの中での出来事に見えた。
笑ってる……。そう思ったアシェルナオの頬にチクッと痛みが走った。
「愛し子様何を! ああ、うちの家宝の壺になんてことを!」
大袈裟に喚くイグナスの声に、アシェルナオの呼吸がまた浅く、速くなる。体を起こそうとしたが力が入らず、手を伸ばして近くに落ちた壺の破片を振える指で摘まみ上げる。
意識はあるのに目の前が暗かった。狭い視界の中で指先に触れた破片を引き寄せたものの、その指先が破片を持ったまま強張り、自分の意志ではないところで握りしめる。
破片が指や手のひらに食い込み、そこから血が流れた。
「あっ……あぁ……」
流れ出た血が床に伝い落ちるのを見て、アシェルナオは動揺し、息苦しさが加速する。
薄れる意識の中でふよりんの唸り声が遠くで聞こえた。
※※※※※※※※※※※※※※※※
お声がけ、エール、いいね、ありがとうございます。
ナオちゃんが辛くてすみません。
でもここは5部につながる大事なところなのです。
5部はあと数話、事後処理が片付いてからになります。
周囲に年代ものの繊細な曲線を描く陶器の壺や、何代か前の先祖が使ったのだろう白金の鎧の一式など大物が並んでいる奥まった場所で、ようやくイグナスの足が止まる。
「手を離して」
アシェルナオは掴まれている手を引き抜こうと引っ張る。
「嫌だ」
だがイグナスは掴んだ手にさらに力をこめた。
成人した男性としては平均的な体型のイグナスだが、それでもアシェルナオと比べれば歴然とした体格差があった。
強く手を掴まれて、間近で上から見下ろされているだけで、アシェルナオは体が竦んだ。
それに、否定しても拒絶しても、自己本位の身勝手な言い分を突きつけるイグナスは、あの男の言動を思い出させた。
自分こそが番だと言って体を求めて来たあの男に。
拒めば力づくで言いなりにさせようとするあの男に。
「人を呼……」
「うちの家宝を見せてあげてるだけなのに人を呼ぶの? 愛し子って、何様? その前に本当に愛し子なの? 浄化って、歌を歌っただけじゃん。瘴気があったとしても歌だけで本当に浄化できるの? 確かに綺麗な顔をしているけど、だから生まれ変わりですって言われたって信じられる? その顔で王太子殿下をたぶらかして国を騙そうとしてるんじゃないの?」
確かに美しい少年だが、周囲を美丈夫の護衛騎士で固めて甘やかされているアシェルナオに、イグナスは無性に腹立たしさを覚えていた。
ヴィンケル侯爵の三男として生まれ、父はベアール領主で大臣。王都のタウンハウスで生活し、お茶会や夜会に出席しては貴族の交友を広げて裕福に気ままに生活しているが、誰も自分を婚約者には選んでくれない。
それはイグナスの気位の高さと、自分の望む条件に該当しない人物には歯牙もかけない性格のせいなのだが、自分のことは棚に上げ、愛し子という名目で無条件に愛されているアシェルナオが気に触って仕方なかった。
自分より高位の貴族で王太子の婚約者というアシェルナオに憎しみさえ湧いていた。
憎しみを隠さないイグナスの瞳には底知れぬ悪意があり、アシェルナオは締め付けられるような痛みを感じて胸を押さえる。
「キーッ」
ふよりんが全身の毛を逆立てて牙を剥いた。
「ふよりん、だめ」
アシェルナオは興奮するふよりんを手のひらに乗せる。
「狂暴で野蛮な魔獣を身近に置いてるなんて、とんだ愛し子様だ。エルランデル公爵家の次男だというけど、黒髪と黒い瞳だから愛し子様の身代わりにしようとエルランデル公爵が金で買った子供じゃないのか? 本当は卑しい身分じゃないのか? 母親はとんだ淫乱とかだったりして。それとも犯罪者? その因縁で黒い髪と黒い瞳になったんじゃない? それに王太子殿下もだけど周りの護衛もみんな美形で揃えているし。親が親なら子供も淫乱なんだろう」
「違……」
前世でも今世でも、こんなあからさまな悪意に晒されたことのないアシェルナオは、反論の言葉を口にする余裕もなく、弱々しく首を振って否定することしかできなかった。
「黒髪と黒い瞳って、不吉な色だよね。禍々しい。浄化しているっていうけど、本当は瘴気を巻き散らして、それを回収しているだけじゃないのか? こんなのが王太子殿下の婚約者? 僕の方がまだましだ」
一方的な罵詈雑言に、アシェルナオは目の前が暗くなった。
イグナスを怖いと思ったのは、自分の主張ばかりで他人の言うことに耳を貸さないところがあの男に似ているからだけではなく、初めて愛し子を疑惑の目で見てくる存在だからだと、今になって思い当たった。
テュコ、アイナ、ドリーンに尽くされて、家族からの愛情にも恵まれ、学友たちも優しく、何よりヴァレリラルドという婚約者から愛されているアシェルナオは、自分に向けられる悪意や憎悪が体を蝕むほど恐ろしいことを初めて知った。
200年以上前に現れた、アシェルナオの前の愛し子。献身的に浄化をし、病に侵された者たちに寄り添おうとしたのに黒目黒髪というだけで迫害された愛し子。
イグナス1人の言葉だけでもこんなに辛いのに、保護してくれる神殿の者以外から迫害された前の愛し子は、国王からさえ疎まれた愛し子は、どんなに辛くて苦しかったのだろう。どれほど傷付き、うちのめされたのだろう。
アシェルナオの瞳から涙が溢れる。溢れた涙が頬を伝って床にポタポタと落ちた。
呼吸が浅くなり、速くなる。アシェルナオの手足が冷たくなり、体から力が抜けていく。初めて向けられる悪意が前の愛し子への思いと共鳴して暗い絶望を呼び起こした。
イグナスは反論もせずに涙を流して被害者ぶるアシェルナオに我慢できず、その華奢な体を突き飛ばした。
為す術もなく冷たい大理石の床に倒れたアシェルナオに向けて、イグナスはどこかの遺跡から見つかったと思われる人物のレリーフの施された壺を投げつける。
壺はアシェルナオの手前の床に落ちて、大きな音を立てながらゆっくりと砕け散る。イグナスの口元がおぞましく歪む。
一連の動作が、アシェルナオにはまるでスローモーションの中での出来事に見えた。
笑ってる……。そう思ったアシェルナオの頬にチクッと痛みが走った。
「愛し子様何を! ああ、うちの家宝の壺になんてことを!」
大袈裟に喚くイグナスの声に、アシェルナオの呼吸がまた浅く、速くなる。体を起こそうとしたが力が入らず、手を伸ばして近くに落ちた壺の破片を振える指で摘まみ上げる。
意識はあるのに目の前が暗かった。狭い視界の中で指先に触れた破片を引き寄せたものの、その指先が破片を持ったまま強張り、自分の意志ではないところで握りしめる。
破片が指や手のひらに食い込み、そこから血が流れた。
「あっ……あぁ……」
流れ出た血が床に伝い落ちるのを見て、アシェルナオは動揺し、息苦しさが加速する。
薄れる意識の中でふよりんの唸り声が遠くで聞こえた。
※※※※※※※※※※※※※※※※
お声がけ、エール、いいね、ありがとうございます。
ナオちゃんが辛くてすみません。
でもここは5部につながる大事なところなのです。
5部はあと数話、事後処理が片付いてからになります。
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