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第一章:樹梓の決断
04.拒絶と決意
しおりを挟む「──樹様、シェント様がお見えになりました。樹様」
「え……あ……。ありがとう、ございます」
(樹様って、お母さんなに言ってるんだろう。)
ぼおっとした頭で思った次の瞬間、梓は今までのことを思い出して重い溜息を吐いた。いつになったらこの感覚は消えるだろうか。梓は項垂れながら今すべきことを考える。
そしてメイドに礼を言って梓は身体を起こした。
どうやら朝の早い時間らしい。カーテンが開いた大きな窓からほんのり薄暗さを纏った空が見えていて、肌寒さを覚える。
梓は花の間で一夜を過ごしていた。あんなことがあったのにまた部屋に戻る気にはとてもなれなかったからだ。ドアを開けてまだあの男がいたら?もしいなかったとしても安心はできない。なにせ男も鍵を持っているのだ。
「私が片付けておきますので、どうぞこれを」
「……わあ」
毛布を片付けようとする梓に声をかけたメイドが手渡してくれたのは温かいタオルだった。梓は誘われるように温かいタオルに顔をつける。のぼる蒸気や肌を包む温かさに気持ちがよくて微睡むのに、洗われるようなさっぱり感を覚えた。
(ああ、幸せ……。)
異性と会うのに寝起きだから気を使ってくれたのだろう。梓はメイドに感謝を覚えながら身だしなみを整える。
目はすっかり覚めて気持ちは晴れ晴れとしていた。
「ありがとうございます。凄く元気が出ました」
「それはよかったです」
微笑むメイドは昨日の夜に出会った少女のひとりだった。梓を止めようとしたメイドだ。
「……私、樹って言います。お名前を聞いてもいいですか?」
「樹様、私どもに敬語は不要です。……私の名前はリリアと申します。タオル、片付けますね」
カナリアと同じように大人びた表情だが、カナリアより少し砕けた雰囲気がある。働き始めて日が浅いのだろうか。梓は思案しながらリリアが差しだしてきた手にタオルをのせる。リリアは一礼すると花の間を退出した。待合室に繋がるドアを鍵で開けて退出したのだが、ドアの向こうに見えたのは待合室ではなかった。きっと神子の部屋に繋がる魔法の鍵のように、メイドには他の部屋に繋がる鍵を渡されているのだろう。神子の要望にすぐ応えられるように。
「神子様。シェント様が待合室でお待ちです」
「はい。ありがとうございます」
梓は立ち上がってひとつ深呼吸をしたあと、メイドが開けてくれたドアをこえて待合室に移動する。シェントは梓をみるとソファから立ち上がって、口元だけで微笑んだ。
「おはようございます」
「おはようございます」
「……どうぞおかけください」
シェントに促されて梓はシェントの真正面に座る。
昨日の夜ヴィラに乱暴されてから梓はすぐに花の間へ行き、メイドにシェントへの伝言を頼んだ。シェントの空いている時間で構わないから直接会って話がしたいと言ったのだ。
(昼を過ぎると思ってたのに。)
梓は目の前に座るシェントを見て一度目を伏せる。そして、口を開いた。
「お尋ねしたいことがあります」
「ええ、どうぞ」
「あなたは昨日、魔力は近くにいる人に移るから過ごすだけでいいと……身体を重ねる必要はないと言いました」
「はい、確かに申し上げました」
「私はこの国の力を借りないと生きられません。そもそもあなたが言っているこの世界の現実が本当か分からないけれど、私には確かめるための度胸も対応できる力もないです。もしあなたが言っていることが本当だったら、気持ちの赴くまま外に出れば今より状況が悪化することは間違いない。それは分かります──結局帰ることができるまで、5年後まで私はこの国の力を借りないといけない」
後半はほとんど自分に言い聞かせるような独り言だった。梓は気持ちが高まってごちゃごちゃになってしまいそうなのをなんとか抑え込みながら、シェントを見据える。
シェントは昨日と違い髪を結んでいなかった。ほどかれた髪は肩より少し長さがあり、シェントの動きに合わせてさらりと動く。体格や顔をみれば男性と分かるが、女性のように思ってしまうぐらいの美形だ。
梓は自分の姿が昨日と同じ格好のままだということと、シェントの雰囲気に気圧されれそうになる。
しかし、シェントの黒い瞳を見ながらはっきりと言った。
「私に魔法をかけてください。誰も私に触れられないようにする魔法をお願いします」
「樹様……?」
「昨日ヴィラさんが部屋に来て話もそこそこにいきなりキスしてきました。その言動からこの国で、少なくともヴィラさん──きっと他の魔法が使える男の人たちもそれが普通なんでしょう。だけど私は嫌だ。……気色が悪い。なんでゆう──いきなり召喚されたかと思えば知らない男とキスしなければならないんですか。それでここの普通に従ってセックスも当たり前ですか。嫌です。私は絶対に嫌だっ!」
「樹様……」
膝の上で握り拳を作って声を荒げた梓にシェントは目を瞬かせる。梓の言動を見るにヴィラが梓の部屋に現れたのは本当のことなのだろう。
(ということは魔物の討伐が早くに済んだのか……あの野郎……)
シェントは内心で悪態をつきながらどうしようかと考える。
いや、梓は望みを先に言っていた。
「私はこの国の力を借りなければ生きられない。だから、その対価として協力すると決めました。……こう言えること自体、ある意味優遇されているのだと思います。でもお願いです。どうか誰も私に触れられないように魔法をかけてください。義務は果たします。魔力なんて渡しているのかもよく分からないですが、一緒にいることで移るならそれでいいです。勝手にとってください──でも、触られるのは嫌だ」
シェントは真剣な梓の目を見ながら頭を抱えたくなった。そんな魔法は聞いたことがない。いや、使えるのかもしれないがそれには大きな魔力が必要となるだろう。いまの魔力ではとてもじゃないが出来そうになかった。
だが梓は本気だ。もしここで出来ないと言ってしまったならば、彼女なりに全力で抵抗するだろう。できるだけ神子にはこの国に好意的に過ごしてほしい。人の口に戸は立てられない。神子の不満が市民だけではなく他国に伝われば、好機として召喚に関して物申されることは間違いない。
(5年後。5年後まではこの神子にも出来るだけでいいから大人しくしてほしい)
1人の神子が不満を叫び続ければ、先の神子はともかく今回来た神子は強く影響を受けるだろう。欲に溺れていてもあの神子たちのことだ。すぐに私もと言い出す可能性がある。
シェントは返事も忘れて黙り込む。
(駄目なのかな)
梓は難しい顔をして口を開かないシェントに不安を感じていた。だが、不安を感じているだけでは駄目だと言い聞かせて立ち上がる。
梓の突然の行動にシェントが思わずといったように目を見開きながら梓を見上げた。梓はなぜかシェントの隣に座りなおし、シェントの手を両手で握りしめた。そして、まるで祈るように力をこめる。
「魔力なら好きなだけ使って。だから──お願い……っ」
それがとんでもない殺し文句であることを梓は知らないのだろう。シェントは驚きのあまり少しのけぞってしまった自分に気がついて、らしからぬ行動をした恥ずかしさから赤くなっただろう火照る顔を手で隠した。
そこで、気がつく。
魔力がとんでもない勢いで満たされ始めている。
シェントは一瞬で我に返って自身の手を握る梓を見る。茶色の瞳はまだ真剣にシェントに訴えかけていた。
シェントが梓に言ったことは真実だった。
女の魔力は魔法を使う者に、一番近くに居る男に移っていく。
しかし真実は他にもある。
身体を重ねたほうがより早く魔力は満ちる。触れる肌の多さからか、文字通り一番に近い場所にいるからか、神子の体液を直接得ることができるからか──詳しくはまだ分かっていないが、魔力が満ちる速さは間違いない。
シェントは昨晩、白那とはなにもなかった。同じ部屋で過ごし同じベッドで一夜を共にしただけだ。それでも魔力は日常に支障のない範囲で回復している。そもそも魔力が完全に満ちること自体少ない。
それがいま、梓に手を握られているだけで魔力がどんどんと満ちていくのを実感する。
添えられるように握られていた手がぎゅっと力を込められる。シェントは思わず身体を強張らせてしまった。
しかし、強く唇を結ぶ梓の身体が僅かに震えていることに気がついて、余裕を取り戻す。梓は真剣だ。それはもう分かっているのに、シェントは場違いにも梓の髪が綺麗だと思ってしまった。胸元まである真っ黒な髪は巻かれることなくまっすぐで彼女の性格を表しているようだ。
一度も笑わず眉を寄せてばかりの彼女の顔を思い浮かべ──はっとする。
「樹様。魔法は使える者が限られる稀有なもので、けれど万能ではありません」
「でも魔物を倒すには使える。そんなありえない力で使える人も限られるのなら、そんな出鱈目なものなら、できるよ」
梓の言い分は願望に近かったが、梓のいわんとすることはシェントにも分かった。魔物に囲まれ絶望した最中、幾度ありえない力を宿す魔法に助けられたことだろう。神の力だ。だからこそ絶やすわけにはいかず召喚が続けられる。
(確かに、出来るかもしれない)
他の者が言ったなら一笑に付すところだが、他でもない神子の言葉だ。それに魔力は満ちているのだから、試すだけならなんのデメリットもない。
魔法は神へ祈って行うものだ。少なくともシェントはそう考えている。魔法の使いかたは漠然としていて、いつの間にか使えるようになったというものが多い。だから魔法は個人によって解釈が異なる。
シェントは祈った。
自身が知っているどの方法が梓にとってよい結果をもたらすか分からなかったため、自身がしてきた魔法の使い方に習って祈る。
「樹様は誰にも触れられたくないのですね」
「はい」
「ですがそれだと樹様自身も誰にも触れなくなります」
「え……そっか。でも、それでもっ」
「人限定で出来るのが望ましいかとは思いますが、どのような形で成功するか分からない魔法です。もしかしたら樹様が触れることができない存在になることで、樹様自身もそうなりかねません。人を触ることはおろか自分自身にさえ触れられなくなると生死の問題に繋がります。派生して他の動物や物にも触れなくなる恐れも、あります」
「……でも、魔法」
「魔法は万能ではありません。神の力なれど気まぐれなもので、望みすべてを叶えるわけではないのです……こういうのはどうでしょうか」
怯んで眉を下げる梓に、シェントは言葉を選びながら紡ぐ。気を抜けば早口になってしまいそうだった。小さな手を握り返す。シェントはそんな自身の行動に疑問を覚えたが、答えは見つからない。
(自分で自分の行動の裏を考えるとは。)
思わず笑ってしまいそうになったが、目の前にいる梓をこれ以上怯えさせないように堪える。
「樹様が拒絶出来るようにするんです。対象が限れるとは分かりませんから、樹様が厭うものすべてを拒絶できるように」
「……よく分からないけど、もうあんなことは嫌だから、お願い」
「……正直、私もしたことがない魔法なのでどういう結果になるかは「いい」
全面的な信頼といえるのか、梓の盲目的な言葉にシェントは苦笑いを浮かべる。シェントが最後の頼みの綱だからこそ、梓がシェントの手を繋いでまで願っているのだと分かっている。
それでも、はっきりと断言してシェントに願う梓の姿に、シェントは梓の願いが叶えばいいと思った。
その瞬間少なくない魔力が減って気のせいか梓の周りがキラキラと輝く。それは梓自身も感じたようで、険しい顔がパチパチと目を瞬かせて呆けたようになる。そして疑問を口にする代わり眉間にシワを寄せた梓は、首を傾げてみせた。
髪がふわりと揺れる。
シェントの手を握っていた小さな手がゆるゆると離れていって、傷だらけの男の手が、離れた体温を追うように梓に伸びた。
驚いたのだろう。
次から次に沸いてくる疑問で余裕がなくなっていた梓は、視界の端にシェントの動きを捉えたとき伸びてきた手をヴィラの手と錯覚してしまった。
梓は身体を強張らせるが、男がそれに気がついたときにはもう遅い。シェントの手は梓の手に重なっていた。
けれど、シェントが梓の体温を感じることはなかった。
シェントの手は梓の手を通り過ぎてソファに沈み込んでいる。2人でその光景を眺め、2人同時に顔をあげてお互いの顔を見合う。
魔法は成された。
遅れて理解した梓は初めて満面の笑顔を浮かべた。それにシェントはなぜか自分のことのように嬉しさを感じたが、それ以上に梓の手を通り抜けた自身の手にショックを受けていた。
魔法は成された。
梓の身体はソファを通過することはない。シェントを受け付けなかっただけだ。
「……成功してなによりです」
「シェントさんありがとう!ありがとうございますっ!」
「他の者にもこのことを伝えておきます。樹様の意向も伝えますので、今後、ヴィラのようなことが起きないよう取り計らいますね」
「……本当にありがとうございます」
嬉しさのあまりか梓の目尻には涙が浮かんでいる。
シェントは先日までの神子を思いながら、神子といえどこうも違うのかとなんともいえない笑顔を浮かべる。
「これで私も協力できるし、これなら私もここで生きていける」
きっと独り言なのだろう。
梓は開いたり閉じたりしている自分の手を見ながら呟いていた。そこで思ったのが、もし魔法が完成しなかったらどうなったのかということだ。魔法さえ試さず出来ないと断ったのなら梓は──梓なりの抵抗とは一体なんだったのだろう。
シェントは続きを考えないように目を閉じる。答えは薄々分かっていた。あの時の彼女の顔は覚悟を決めた兵士と同じ顔をしていた。
(これで魔力の供給に支障はなくなった。……それでいい)
笑う梓にシェントは相槌を打ちながら今日の予定を話した。
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