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第二章:変わる、代わる
123.「もう一度言っておくと」
しおりを挟む目元を赤くするヤトラの顔が見ることができたのは強張った肩が力をなくしてしばらく経ったあとだ。視線を逸らして身体を縮ませる姿を見て口元が緩んでしまう。
梓は自分がしてもらったようにヤトラの目元に残っていた涙をハンカチで拭った。
「落ち着きましたか」
「本当に不甲斐ないです……」
「私はちょっと嬉しいですよ。このまえヤトラさんに話を聞いてもらったおかげで……いろいろ、気持ちの整理ができたんです。だからお返しできて嬉しいんですよ」
微笑みながらその日のことを思い出した梓はまたもや顔を青くしたり赤くしたりしながら学ばない自分を内心罵倒する。
その間に落ち着きを取り戻したのか、それていた青い瞳が戻って梓を抱きしめていた手が離れていく。唇をぎゅっと結びつつも目元を和らげたヤトラは近くにあったハンカチを、梓の手を握った。
「また、こうやって会えませんか」
「……ルールにひっかかるのでは?」
「その日たまたま居合わせるだけですから」
それは随分都合のいい解釈をしたルールだ。会ってはいけないというルールなら自分の神子でない神子を見つけたら直ちに見つからないようにするはずだ。そんな陰ながらの努力があったからだろう。梓は自分の聖騎士以外の聖騎士に会うことは少なかった。会ってしまったからしょうがない、なんて。
「そんな感じでいいんですか」
「駄目なんでしょうか」
長いあいだ悩んでいたことがとてもくだらないことになってしまった。クスクス笑う梓と違ってヤトラは自信なさげに眉を下げて落ち着かない様子だ。
「私、最近よく分かったんですが結構自分勝手なんです。それに自分のことばっかり考えてます……ねえ、ヤトラさん」
そんなことないと否定しようとしただろうヤトラに梓はニッと笑みを浮かべる。それは悩んで落ち込み泣いていたときが嘘のように晴れやかな表情で、ヤトラは目を見開いた。
「神子からの命令です。今度また会いましょう?もし私を見つけたらヤトラさんの都合がいいときに……討伐とか誰かの約束がないときにでも声をかけてください……これでいいんでしょうか?一応、もう一度言っておくとこれは命令です」
命令と言いながら首を傾げて自信なさげだ。反応のないヤトラを見て梓はさらに自信を失ったのか「命令ですよ?」と駄目押ししている。
「そんな命令初めて聞きました」
「だと思います」
「命令……命令ですか」
しっくりこないのか2度呟いたヤトラが目を瞬かせ、梓に視線を戻す。とたんに噴出したヤトラは楽しそうに笑いだして目を瞬かせる梓に謝罪混ぜながらもまだ笑う。以前にもあった似たような出来事に梓は蝋燭を消す代わりに空を見上げる。ああ、眩しい。
ひとしきり笑ったヤトラは満面の笑みを浮かべた。
「分かりました、神子様。あなたの姿を見つけたら必ずご挨拶に伺います」
「あ、なにか用事がないときだけでいいですから」
「ふふ」
胸に手を当ててお辞儀するヤトラに釘をさすが笑みが返ってくるだけだ。それでもヤトラは元気になったようではあるし、梓も梓で随分と気が楽になっている。
「ああ、そういえばこの前いつものパン屋に行ったのですが新商品が出ていましたよ」
「え、じゃあ今度行ってみます」
「是非。オススメはゴボウパンですね」
そういえばと話される話題は次から次にでてくる。城下町に明るいヤトラならではの情報もあれば梓が好きな店の新商品や本の話も多くヤトラとの会話は飽きることがない。
そんな懐かしい時間は、あっという間で。
「──それでは樹様、また」
「また今度」
まだ少し赤い目元を残したままのヤトラを見送った梓は一人残った広場で空を見上げた。まだまだ空は眩しく綺麗なまま。けれど朝からずっと梓の気分は雨になったり曇りになったり晴れになったりと忙しい。ルトの件をシェントにあたって慰められて、気分転換に走りに行こうとしたら八重と白那に会って女子会。八重や自分の新しい一面を知って恥ずかしさに逃げて、泣くヤトラを慰めたあとは一緒に笑って次の約束をした。
──人生ってなにが起こるか分からない。
美海と話して知ったフィルターごしに見ていた世界。八重と話して思い知った好きなように歪めていた世界。他人事にして無視し続けるはずだったのに泣いたり恥ずかしがったり怒ったり絶望したりと自分で忙しくする毎日。
『駄目なんでしょうか』
勝手に自分で逃げ道を消していたのに、視界が晴れた瞬間、思いつめていたのが嘘のように笑ってしまって。
「お帰りなさいませ」
「ただいまです」
微笑むメイドに自然と微笑み返すことができる。部屋に戻って服を着替えたあと大好きなお茶を用意すれば単純な心はますます緩んで。
「……?」
キイ、と軋む音。
見ればドアがゆっくりと開いていって……そのまま、動かない。
「シェントさん?」
忘れ物でもしたのだろうか。それとももう討伐が終わったのだろうか。
どちらにせよきっとシェントは梓を見て微笑み、きっと「ただいま」と言うだろう。もしかしたら今朝のように口づけることもあるかもしれない。そして、薄っすらと頬を赤くして樹と呼ぶのだ。
それが分かるから心臓がドクドクと音を鳴らす。姿を見せないシェントを捜してドアを覗き込んで……梓は口をぽかんと開ける。
「テイル?」
ドアを開けたまま部屋にも入らず立っていたのはテイルだった。
テイルは唇つりあげて驚く梓を見ている。
「よお」
静かな声。
けれど、混乱に固まっていた梓の表情はテイルの声を聞いて明るくなって少なくない喜びを浮かべる。すぐに照れくさそうに髪をなでて視線をそらしはしたが、分かりやすい梓にテイルは目元を和らげた。
「そんなに俺に会いたかったか?」
からかう声。
分かっているのに真っ赤になってしまった顔。テイルを睨むがまるで効果はないようだ。
「すげー真っ赤」
「五月蠅い。といより、ルール。それに」
梓がなにを言っても口元つりあげるだけで、テイルは部屋にも入らず梓を見ている。どくどく音を鳴らす心臓。それに……自分の神子の部屋にしか行けないはずなのに、なぜテイルはこの部屋にこれたのだろう。
「ドアに秘密があってな」
「ドア?鍵じゃなくて?」
「へえ、分かってたのか」
「え?どっち?」
テイルは鍵を指にひっかけてくるくるまわす。それが差し出されて梓は思わず近づいて鍵を覗き込んだ。
──あ、花が落ちてる。
テイルの部屋の床に一輪の黄色い花。妙に目が奪われて、もう一歩。
「その花」
言葉は続けられない。魔法のように消えた指輪に抗議することさえ思いつかず、梓は手首を握り締めるテイルの手に目が奪われる。
ドクリと身体を揺らす心臓。捕まった。そんなことを思ってしまったのは強い力のせいだろう。掴まれた手は痛みを訴えていて、その熱さに喉が鳴る。
顔を、あげる。ゆっくりと弧を描いていくテイルの目を見つけた。
「ようやくだ」
掠れた声。
鳴り続ける心臓はなにを思っているのだろう。手が引っ張られてバランスを崩す身体。転ぶまいと慌てた足が一瞬で両足宙に浮いて、抱き上げられた身体は自由を失って呆然とする。テイルの肩に手をおけば髪が追うように滑って絡んでくる。指先にはテイルの髪が触れて、心臓は急に息を止めてしまって。
「俺を見ろよ」
暗い声。
緑色の瞳はなにかを探るように梓を見て離れない。それなのに見上げてくる顔は嘘のように笑っていて……背後でドアが閉まる音が聞こえた。
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