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第二章:変わる、代わる
120.「もしかして、気にしてました?」
しおりを挟むまっすぐに告げられた想いに梓は何度か瞬いて、そらされることのない黒い瞳にようやく理解する。シェントの手は少し震えている。白い肌は赤く染まっていって、見続けていると視線が気恥ずかしげにおよいだが、困ったような笑みとともに視線が戻ってきて……顔が一気に熱くなるのが分かる。
「あ……え?」
「少し、失礼します」
「っ」
動揺する梓に微笑み一色になったシェントがハンカチをとりだして涙を拭う。優しく押しつけられるハンカチはそうだが、近くで感じる体温に落ち着かなくて梓の背中は椅子の背にぴたりとくっついてしまっている。分かりやすい反応にシェントの笑みはますます深まっていくばかりだ。
「あなたを抱きしめてもいいですか?」
「え?!いえ、え?」
混乱のあまり流れた涙がまたハンカチで拭われて、その合間に見えた微笑む顔にからかわれているのだと分かった梓がシェントをジト目で探るが反省の色はみえない。それどころか視線は一向にそれない。
──愛しいとか抱きしめたいとか、私を?
シェントがそんなことを言うのが信じられないうえ抱きしめられる状況が想像できず戸惑いが大きい。
『私はあなたに甘えすぎていました』
それなのに、思い出してしまったのは女性の神子全員で会ったあとの出来事だ。悪役をかってでたシェントにあたって感情のままに泣いて醜態をさらした日。背中に感じた手の力を、すぐ近くで聞こえた苦しい声を、梓の身体を隠してしまう体温を思い出してしまう。
「あ」
あの日もそうだったが、シェントならと思ってしまった。シェントなら醜態をさらしても最後まで話を聞いてくれるのだと知っていたから、泣きながら縋りついてしまった。
情けなさと恥ずかしさで溢れてくる涙はかいがいしく拭き取られ、救いのないことにそのたびにまた涙が出てくる。顔が熱い。頭は真っ白になって黒い瞳を見返すことしかできない。
握られたままだった手の力が緩まる。あ。未練がましく思ってしまった心はなんだろう。拘束から解放された手は空気の冷たさを思い出して、すぐに温かさを思い出す。輪郭を確かめるように触れた指が絡んで重なった。
「虫以上の存在になれて嬉しく思います」
「む、虫?……あ」
場違いな言葉にたじろぐが、シェントがいわんとすることが分かって梓は目を逸らす。
『虫ってできれば直視したいものじゃないですけど居ても問題ありませんし、最低限身体にくっつくことがなければどうでもよくないですか?気がついたらどこかに消えてますし。お互いそんな感覚で過ごしたらどうでしょう?』
シェントと過ごすひと月をどうすればお互い楽に過ごせるか考えて話した夜、自分で言ったことだ。もっと他に例えがなかったのかと項垂れれば手に力が込められる。指が肌をなぞって、視線が絡んで。
「もしかして、気にしてました?」
「いえそんな」
微笑む顔はどうも胡散臭い。ああそれでも、涙は止まって少しおかしい気持ちがこみあげてくる。
──さっきまでの自分が嘘みたい。
梓は絶望しきっていた時間を思い出して笑ってしまう。なにも解決したわけではないし、まだ心は傷ついて、どうするかも決まらない。不安でたまらなくて、今ならどんな些細なことでも泣いてしまうだろう。
けれど以前と違ってひとりですべて解決することではないのだ。ひとりで生きていけるように勉強をしてきた。ときには友人と遊ぶこともやめて将来どうすればひとりで生きていけるか、どうすれば誰にも頼らずに生きていけるか、そればかり考えていた。
「シェントさん」
恋人のように手をつなぎながら笑い合っているのが不思議で、視線が絡むたびドキリとする鼓動が落ち着かない。手に力をこめれば、瞬いたあと黒い瞳がじっと見上げてくる。椅子からおりて、シェントと違い両膝床につければこんどは黒い瞳が見下ろしてくる。それでも、さきほどより視線は近くなって。
どういえばいいのだろう。
どうすれば伝わるのだろう。
『言えばいいじゃない。あなたってずっと見てるだけでしょ』
分からないことはたくさんある。それでも、たくさんの出来事が答えを教えてくれる。喉元ひっかかっていた形にならなかった想いがようやく言葉になって出てきて。
「甘えても、いいですか」
息をのむのが聞こえて、繋がっている手が震えるのが分かる。それでも恐怖だけでなくきっと期待に似た気持ちを抱けたのは、真っ赤になった顔が嬉しくてたまらないと笑ったからだろう。
「ええ、勿論」
心臓を撫でるような声だ。優しい声。それなのに孕む欲の感情が伝わってくる。男の人。それなのに梓を傷つけようとする気持ちがないのが分かる。怖がらせないように待っていて驚かせないように気を配っているのだ。
分かってしまう。
熱くなっていっこうに冷めない顔は馬鹿正直で、きっと、伝わってしまっている。
手に力をいれれば握り返される。ゆっくり力を抜けば同じように離れてしまって、目を見れば梓を見ていた瞳をみつける。少し遠い距離をうめるため膝立ちで歩いてシェントの服を掴めば、ああ、もう近く。
胸によりかかればあっという間に腕のなかに閉じ込められた。熱い体温に身体が沸騰してしまったような錯覚に陥って、なのに身体はホッと安心しきって力が抜けていく。すうっと呼吸が出来て、すべてが大丈夫なのだと、そう思えてしまった。
──甘えてもいいんだ。
恥ずかしくてたまらないのに自分とは違う温もりが心地いい。身体を拘束する力の強さに嬉しさに似た気持ちを覚えてしまう。守られているような気分になって、ここに居てもいいのだと思えてしまう。
考えるよりも先に身体が動く。服を握り締めていた手をシェントの背中に伸ばして自分がされているように抱きしめかえせば、手が足りなくて同じようにはいかない。それでも代わりに力をこめてみれば大きな身体がびくりと動いて。
「あなたは、ほんとうに」
呟きが震えて伝わってくる。身体が動いて、つられるように顔をあげれば金色の髪。合間にみえる黒い瞳に目が奪われていたら鼻先触れて──吐息を感じる。ゾクリと震えたのは伝わってしまっただろう。息をするのが憚られて身をひけば金色の睫毛をみつけてしまう。黒い瞳。身体はもうそらすことができなくて、腰に触れた手が誘うままに身を寄せれば黒い髪がシェントに落ちていく。
「……口づけてもいいですか」
許しを請う声に身体のなか這い上がったものはなんだろう。熱い吐息がでているのが分かる。シェントと同じぐらい熱くなっていく身体。
それが欲なのだと、もう知っている。
「っ」
「床は冷えるでしょう?」
膝裏引き寄せられて感じたのは温かさ。服越しに感じる温もりにハッとしたときにはもう片方も同じように引き寄せられてシェントを跨ぐようになってしまっている。梓を見る瞳は笑っていて、背中を抱く手に安心よりも落ち着かない気持ちが上回っていく。
ささやかな距離を守ろうと肩においた手に力が入ってしまって。
「それならシェントさんのほうが、っ」
抱きしめられ、見上げてくる瞳が間近に見える。逸れない視線は待っているのだろう。けれど、余裕をなくしていく理性はよけいなことばかり考えてしまう。胸がシェントの身体に触れて五月蠅くてたまらない鼓動がばれてしまいそうだ。身体を押し離して逃げればいいだけなのに膝裏撫でて遊ぶ指に意識が向いてしまう。強く抱かれたままの腰はシェントの身体に触れていて、服越しだというのに身体の輪郭が分かってしまって。
「樹」
囁かれる言葉に理性はぐらぐら揺れて、逃げ道探して辺りを見渡したせいでシェントの肩においたままだった手を見てしまう。指が、シーツに触れる。冷たい床。もう一度視線をあげればシェントの背にあるベッドが見えて。
「っ」
真っ赤になる顔を見て瞬いた目はなにを知ったのか感情堪えて唇を震わせる。弁解しようとした小さな唇はシェントの顔を見て言葉を吐き出せなくなってしまった。続けられない言葉が苦し紛れに落ちていって、それを拾うように顔を覗き込んでくるシェントに目が奪われてしまう。梓を見て、離れない視線。熱を浮かべて請い続けている。腰を抱く手は強いままで、頬を上気させる顔は意地悪く笑って。
「私のほうが、なんですか?どうしたらいいでしょう」
「……」
「樹」
涙滲ませながら恨めし気に黙る梓にシェントは微笑む。そして肩におかれた手に触れ、腕を柔く捕まえて。
「さきほどと同じように私を抱きしめてくれませんか」
「っ」
「お願いです」
ねだる声は甘く耳に響いて、ほんの少し、ほんの少し腕がひかれただけなのにそのままシェントの胸に身体を預けてしまう。引き寄せられて、落ちていく身体。顔を見ることは出来なくなってしまったが、膝の間に座って抱きしめられると、心臓が五月蠅くてしょうがないのにそれが安心する。ぎゅっと抱きしめられて同じようにかえせば、互いの身体の輪郭を思い知る。温かい、熱い。髪をかき上げた指が梓の耳に触れて、唇が頬に触れる。柔らかい感触が小さなリップ音を鳴らして「樹」と呼んで。
どちらが請うているのかもう分からない。
囁きが唇に触れるわずかな距離がもどかしい。それでもシェントはまだ待っていて、苦しげに寄る眉を見ているだけ。シェントの名前を呼んだ唇がときどき触れても、じっと、待っていて。
悩んだ目が、動く。
それた視線が戻って、唇を見て、黒い瞳を見た。
「ん……」
触れた唇。そのまま柔らかく押しつけられ、シェントは頭がおかしくなりそうな衝動に呼吸を忘れてしまう。腕のなかにある身体はシェントに頼りきりになっていて逃げだそうなどとは考えてもいない。触れただけの唇をどうしたらいいのか迷っているだけだ。
このまま、欲のままに溺れることができたらどれだけいいだろう。
それでも口のなか伝わってくる緊張になんとか衝動を堪えて梓を抱きしめれば、欲よりも嬉しさや幸せな気持ちに満たされてたまらなくなってしまう。誰かを頼ることや欲しがることを苦手とする梓を大事にしたい。甘やかして、怖いというのならそうでなくなるまで一つ一つ溶かしていきたい。
それなのに、背中にあったままの小さな手が戸惑いがちに真似をしてきて、獣のように喉が鳴ってしまう。びくりと驚いた身体を怖がらせたくなくて手の力を緩めてみたが、見上げてくる顔にうまく微笑めたかは分からない。きっと欲が滲んでしまっていて、警戒心の強い梓のことだから気がついてしまっただろう。それでも浮かんだ表情は恥じらいで、また喉が鳴りそうになる。
「討伐に、行くんですよね」
「そうでしたか?」
「ご自分で言ってましたから」
「そんなもの忘れてあなたを抱きしめていたいと思っています。呆れますか?」
この期に及んで逃げようとしても、なにをしても可愛くてしょうがない。なにせはっきりと胸の内をさらけだせば真っ赤な表情が雄弁に感情を語ってくれる。
「樹、あなたと話したいことがたくさんあります。明日帰ります。ですから……あなたのことを沢山教えてほしい。よければ、私のこともあなたに知ってほしい」
真っ赤な頬を撫でながら願えば、悩み震えた唇がゆっくりと動いて、ようやく音をだす。
「……はい」
それは甘美な響きをしていてすべてのことを忘れさせる。よけいな言葉も、柵も、関係もなにもかもが消えていく。ただ目の前の梓が欲しくて、触れたくて。
「私もシェントさんのことが知りたいです」
赤い顔がはにかんで、小さな手が伸びてくる。同じように頬に触れた手は熱い。茶色の瞳をみれば視線は絡んで──そのまま口づける。身体を繋げたわけでもないのに満たされるこの想いはなんだろう。このまま夢のような時間にいつまでも浸っていたい。それなのにただの口づけがひどく艶めかしく、触れる舌に沸く劣情は理性を壊していって。
「……なるべく早く戻ります」
「……それよりも無事に帰ってきてください」
揺れる感情を押し殺して声を振り絞れば、似たような顔をしていた梓が困ったように微笑む。赤い顔、濡れた唇、見上げてくる茶色の瞳。
たまらず、手が伸びて。
「──いってきます」
微笑みドアを閉めたシェントを荒い息をした梓が恨めし気に見送る。最後にもう一度と請われた口づけは触れて舌を舐めあう優しいものだったのにも関わらず、孕む熱にあてられてまともに息もできなかった。与え続けられる感情は受け止めてもすぐいっぱいになって、押し付け合う身体に欲を積もらせる。
息も絶え絶えになった梓を見て微笑んだ顔は愛しくてたまらないと目を細めるのに、欲を教える口づけはやまなくて。
「シェントさんって、エッチだ」
抱きしめられた感触が残る自身の身体を抱きしめ、梓はポツリと呟く。
真っ赤な顔はもうなにに悩んでいたかも忘れてしまっていた。
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