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テオドール迷宮へ行く

開かれた扉

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 ジェイコブが手紙に添えていた地図は、どれだけひいき目に見てもその用を足すには最悪の代物だった。

 何本かの交差した太い線と、かろうじて矢印とわかる、ひどくにじんだインクの染み。矢印の横に記された判読しづらい文字。それで全てだ。
 それでもその文字がなかったら、僕はもうとっくにあきらめて、どこかで目についた安宿に転がり込んでいたことだろう。

 不案内な初めての街でそんな真似をすれば、だいたい翌朝には路銀を奪われ身ぐるみはがれた死体になって運河に浮かぶか、あるいはもっと悪い運命に巻き込まれると相場が決まっている。

 だから、僕は地図に書かれた通りを必死に探し続けていた。道行く人にそれとなく尋ね、あるいは辻々の標示板を睨みつけ、腰に提げた長剣の柄をときどき確かめながら、眉をしかめて速足で歩きまわった。ジェイコブとなんとしても合流しなければならない。

「それにしても、きったない街だなあ……」
 歩きながら見回すと、街路の様子は不出来な地図にいっそふさわしく見えた。
 ユーレジエン州の旧都エスティナと言えば、このマンスフェル王国北部では飛びぬけて大きな都市だというのに、この界隈の狭さ汚さと言ったら。

 路地には壊れかけたような荷車、いやむしろ荷車の残骸がそこかしこの石壁にもたれかかり、その傍らでは犬の糞と人の反吐がひとつのベッドで違う夢を見ているといったありさまだ。 
 案外、この惨状を伝えるためにこそ、ジェイコブは地図をあそこまで乱雑に殴り書きしたのかも――そんなやくたいもない考えが頭に浮かぶくらいには疲れて途方に暮れたころ、ようやく僕は目的の通りと目指すものを見つけた。

 東メラン街二十三番地五号、すずらん亭。それがジェイコブの定宿だ。名の通りすずらんの花をかたどった――とは言いがたいその不細工な看板を確認すると、僕は道路に面した狭い入り口から、二階への直通階段を駆けあがった。

 上がってすぐの部屋――手紙にはそう書いてある。僕の目の前には、真鍮のノッカーが取り付けられたすすけた樫材のドアが鎮座していた。
 
「ジェイク! ジェイコブ・ハリントン! いるのかい? 僕だ、テオドール・シュヴァリエがお招きに応じてやってきたんだぜ。いるんなら開けてくれ!」

 声が消えたあとには静まり返った薄暗い廊下。

 いや、なんだかかすかに人の声がした。不機嫌そうな女の声だ――

(ん? 女の声?)

 ……そして、古くなってゆるんだ床板をずかずかと踏んで歩いてくる足音。
 ばたん、と音を立ててドアがこちら向きに押し開かれ、危うく鼻っ面を吹き飛ばされかけた。
 
「だぁれ?」

 もつれた長い赤毛の頭をぼりぼりかきながら、その女は充血した赤い目で僕をにらみつけていた。不摂生をしているのか荒れてガサガサの肌と、鼻の周りに散らばった濃い色のそばかす。だらしなく片方落っこちた下着の肩紐。
 その下にある白く丸いふくらみに一瞬目が吸い寄せられたが、こんな荒れ放題の伽藍に置かれていたのでは、せっかくの宝珠も悪魔の用意した毒団子か何かとしか思えない。

 第一、僕が今の境遇に陥ったのはアナスタシアの侍女に不用意に親切気を出したせいだ。二度とあんな失敗をしてなるものか。

 僕の目線より少し下から、値踏みするように見上げたまま三回ほど呼吸を繰り返すと、彼女は急に興味を失ったような気の抜けた声を出した。
「……その様子だと、お客じゃなさそうね」

 口ぶりからすると、彼女はどうも娼婦か何かのたぐいらしい。今は昼間だし、多分仕事は休みなのだろう。

「あなたは……ジェイクとはどういう……?」

 そう尋ねると、彼女は僕に向かって人差し指を突き出した。
「……あっち」
 
「は?」

「あのね。ジェイコブ・ハリントンさんなら、お部屋はあっちよ」
 口元から漏れる、深いため息
 数秒たって、やっとこ僕はその指が、背後の壁に向けられているのに気が付いた。振り向くと、そこには同じようなドアがあった――なるほど。
 
「彼、三日くらい戻ってないのよね……」
 
 留守だったのか。間の悪いことにもほどがある、おまけに部屋を間違えて、見ず知らずの女性のしどけない姿をじろじろと見てしまうことになるとは。
 丁寧に謝罪すると彼女はほんの少し顔を赤らめ、今度は静かにドアを閉めた。

 ――二十分くらい、待っててもらえるかしら?
 
 待ってどうしろというのだろう。だが、僕は律儀に待った。彼女はジェイコブと何かしら付き合いがありそうに思えたからだ。部屋の中からはバタバタと音がしている。そうしてふいにまたドアが開いた。
 
「お待たせ」

「……誰!?」

 そこにいたのはとんでもない美女だった。つややかな赤毛は風変わりな形に編み込まれて燃え輝き、琥珀色の瞳の上には、長いまつげが初夏の木立のような紫の影を落としている。
 頬骨の高い顔はふわりとした光を発しているように見え、鼻の上にうっすらと散らばったそばかすは木漏れ日のような金色。

 手には長い杖、腰には短剣。暗いえんじ色をした鹿皮のコルセットに持ち上げられて、形のいい胸が鎖骨の下で高らかに天を見上げている。釣り鐘型のスカートは膝丈で、その下には細い足がすらりと伸びていた。
  
「……初めまして、私はニーナ・シェルテムショック。職業はまあ……一種の高級娼婦ってところね」

「高級……娼婦?」

 初めて聞く言葉だった。高級とか低級とか、貴賤の別があるものなのか。

「『娼婦』といってもいろいろなのよ。私の場合、春を売ることはめったにないわ――特別に気に入ったお客なら別だけど。まあ、普通はいろんな方のお話し相手をして、聞き集めたうわさや耳寄りな情報を売ったり、珍しい品物を鑑定したりね。お友達のことが心配なら相談に乗るわ、専門家ほどじゃないけど魔法の心得も少しはあるから」

「……ぜひ」

 僕には選択の余地がなかった。ジェイコブを頼りにこっちへ出てきたのに、彼と連絡がつかないままでは身動きも取れない。

「じゃあ、ここからはあなたも私のお客ってことになるわね。どうぞよろしく」

 彼女はそういってスカートのすそをつまむと、僕に向かって実に優雅に会釈をして見せた。
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