かれん

青木ぬかり

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10月3日(月)

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 午後イチの講義は愛たちと別々、理沙と一緒に選んだ講義だったので、真琴は総合科学部の入口で愛たちと別れ、今度は理沙と一緒に経済学の講義を受けた。
 教室で理沙の顔を見た真琴は開口一番、変なチーム名で恥をかいた恨み言を理沙に投げつけたが、理沙はむしろ嬉しそうに受け流し、昨日のパチンコがどれほど楽しかったかを語った。
 ……そうだった。理沙は昨日、わざわざ家に帰ってから黙ってパチンコを始めたんだった。真琴たちに気を使うフリまでして。
 そんなことしなくてよかったのにと真琴が言うと、理沙は「だってほら、アンタたちの前でパチンコやりたいなんて言ったら、なんかめんどくさそうじゃん」と言った。
 まあ、そうかもしれないなと真琴も思った。

 理沙も夕方はサークルに行くと言うので、夜のカレコレのことはサークルのときに島田を含め3人で決めることにして真琴は理沙と別れた。
 そして今日の最後の講義、教育学部の必修科目を受けるために教育学部に向かう。

 移動しながら真琴は、理沙と一緒の講義の最中、マナーモードの携帯電話が震えたことを思い出し、携帯電話を手に取り確認する。

 それは運営からのお知らせを告げる通知で、見ると見出しは〝アンケートの実施結果について〟となっていた。
 真琴は時計を見る。午後2時20分……。

 そっか。私が投げたアンケートは午後2時までが回答期限だった。もう結果が送られてきたんだ……。
 運営の処理の速さに驚きつつ、真琴はアンケート結果を開く。


 アプリ研究会はカレン運営に関係していると思いますか。

   ・ はい  …  3.7%
   ・ いいえ … 91.2%
   ・ 未回答 …  5.1%

 うん、まあ、妥当なところかな。とりあえず本気でアプ研を疑ってる人は僅かだということは判る。
 気になるのは、約5パーセントもの未回答者がいることだ。
 回答しなかった場合のペナルティーは設定しなかったけど、運営から必ず回答しろと言われたアンケートを無視した人が5パーセント……。
 この人たちは、ペナルティーがないことを知り得たんだろうか。

 そしてそのお知らせには、「詳細データ」というリンクと、「公開設定」というボタンがあった。
 ……へえ、公開できるんだ、これ。

 よし、公開しちゃえ。これはダメ押し……これでアプ研の騒ぎは終わりだ。
 真琴は公開設定の案内に従い、アンケート結果を公開する処理をした。

 そして教育学部に着いた真琴は、教室で再び愛たちと合流する。
 そして席に着くと、おもむろに愛が耳打ちしてくる。

「あのさ、さっきの話……窓口を平野にするっての、あれボツね。窓口は私にする」

 ん? ああ、誰かが愛たちのチームになんか言ってきた場合のことか。

 でも、私にはあんまり関係ないよな……それ。

「……いいけど……ってか、わたしチーム違うし」

「誰がチームなのかは誰にも教えない」

「……どういうこと?」

「『三中』っていうチームに真琴が欠けてることも、その穴に平野がいることも、わざわざ答えたりしないってことよ。みんなはいつもの女3人でチームを組んでると思ってるはず。……勝手にね」

「……なんのために?」

「利用価値は未知数。だけど教える義務はない、でしょ。平野と組んでるなんて誰も予想してないだろうし、真琴は隠れ蓑にできるし」

「……まあ、ね」

「そもそも『三中』が私たちだってのを認める義務もないんだよ。認めるメリットがないかぎり」

「それは……さすがに無理なんじゃない?」

「うん、だから私と早紀は聞かれれば否定しない。でもホントはぜんぶ『ナイショ』でごまかしていいんだよ。だから平野のことは言わない。思わぬところで役に立つかもよ。陰のチームメイト」

「謎の人……だね」

「そ、謎の人。みんなまだ、早紀と平野のこと知らないし」

「ちょっとしたスパイだね」

「まあね。これから警戒すべきなのは現実の方かもしれないしね」

 そう言う愛の表情は、なにか、この状況を楽しもうとしているようにも見える。
 愛……。愛はいったい運営に何を握られ、そして今、運営に何を思うんだろう。

「まあ、愛がそう言うんなら……いいよ、分かった。平野のことは誰にも言わないよ」

「うん、お願い」

 ヒソヒソとそんな話をしながら間もなく講義が始まるというころ、真琴は教室内の雰囲気がサッと変わるのを感じた。
周りを見るとみんなが前……教室の出入口の方を見ている。

 少し早めに教授が来たのかと、周りに倣って前を見ると、学科の先輩の一群が入ってきていた。
 それを見て皆、何事かと囁いている。

 教室内にいる1年生の注目が集まった頃合いで、先輩のひとりが「連絡です」と切り出した。

 その先輩が告げたのは、今日の4コマ目……つまり今からの講義が終わった後、教育学部の講堂で緊急の学生ミーティングを行うということだった。
 「全員参加でお願いします」と、口調こそ丁寧だが態度と手段は強硬だ。

 カレンのことだ。まず間違いなく。
 たぶん教室にいるみんながそう思ってるはず……。

 だが、先輩の代表が告げた大義名分は「孤立して混乱したりしないよう団結するため」だった。
 教室内は微妙な空気になったが、1年生側から反論や質問があがる暇なく教授が入ってきた。
 教授を見るなり会釈をしながらそそくさと出ていく先輩たちを、教授は怪訝そうに見送った。

 ……作戦だ。これは。反論させないための。
 最前の学生に教授が「なに? 今の」と尋ねている。
 学生がどう答えているのかは聞こえなかったが、教授は1回首をかしげただけで教壇に上がり、そして講義を始めた。

 先輩たちもアレだけど、教授たち……というか大学もおかしいよな……。真琴はそんな感想を抱いた。
 今日の講義はこれで4コマ目だけど、教授は誰ひとりとしてカレンのことを口にしていない。
 まるで……そう、まるでタブーみたいに……。

 大人たちの側……大学と警察との間でそんな感じの方針が決まったんだろうか。
 カレンのことは禁句……。そんな感じの。

 みんなの力で演出された秩序。
 いや違う。だってみんな、力を合わせてなんかない。
 ……少なくとも学生は。

 ん……そっか……。もしかしたら大人たちは力を合わせてるかもしれないのか。
 誰の意思かは判んないけど……。


 真琴はその講義のあいだ、とりとめもないまま考えて過ごし、果たして何も見出だせないまま終わった。
 教室内は一気にざわつく。話題は目下、先輩たちから告げられた緊急の学生ミーティングとやらに行くのかどうか、だ。
 他の学部の友達に電話で相談している人もいる。

「なんか……変な雰囲気だね。どうする? 愛」

「私は行ってみる。真琴は……来ないでいいんじゃない?」

「え? そうなの?」

「うん、だいたい今、このタイミングで3年の先輩たちと話しても、ウチらに良いことなんてひとつもないよ。それこそイヤな気分になるだけ。目を付けられんのもアレだから私は行ってみるけど、真琴は……行ったらめんどくさくない? チームのこと聞かれたとき」

「う~ん……悩ましいね」

「私はチームの実態を明かさないから、来なければ真琴は……うん、自分でバラさなければ、みんなの中ではチーム『三中』のひとりとして隠れるよ」

「その方がいい……のかな?」

「そう思う。嘘つかないで済むでしょ? ミーティングに出て『私のチームは三中です』って言っちゃったら嘘じゃん。それより言わない方がお得だよ」

「迷惑じゃない?」

「迷惑? なに言ってんの? チームは別でも真琴はウチらの隠し玉だよ。ほら、なんたってウチら、同じ学科で組んじゃったから逃げづらいんだよね」

「うん……。分かった」

「どんなだったか、あとで教えるよ。ちゃんと」

「うん、お願い」

 愛とそんな約束を交わし、真琴は教室を出て教育学部を離れた。

 人の少ない場所を見つけ、バッグのポケットから黒い携帯電話を取り出して自分の携帯……スマートフォンの電源を切る。

 そして松下刑事に電話をかけながら真琴は、自分がいる場所が工学部食堂……警察の詰所の目と鼻の先であることに気が付き自嘲した。


「わざわざここまで来なくても、電話でよかったのに」

「あ、はい、そう思って電話したんですけど、考えてみたらすぐ近くだったんで、バカみたいだなって……」

 松下に促され、真琴はまた取調べ室のような部屋に入る。
 変な場所に立って、ひとりでヒソヒソと電話してる方がよっぽど怪しいと考えた真琴は結局、松下が電話に出るや否や「今から行きます」と言って現地本部に入った。

「どう? 大学の様子。最初の平日だけど」

「そうですね……。なんか不自然に普通です。あれ? なんかヘンですね、これじゃ」

 松下が優しく笑う。

「いや、よく伝わったよ。うん、なるほどね。取り乱したり、思い詰めてるような学生はいない?」

「それは分かりません……けど、私が知る限りでは……はい、いないです」

 松下の顔に安堵が浮かぶ。

 松下さんってホント、気持ちが顔に出るよな……。
 刑事さんなのに。

「じゃあ、なにか変わったことは?」

「はい。あの……私の、学科の友だちが、なんか、今までになく機嫌がいいんです」

 真琴は少しの躊躇いを残しながら切り出した。
 それを察した松下が「心配は無用だよ」という。
 警察は秘密を漏らさない、と。

 松下の落ち着いた声で躊躇いは消え、真琴は愛の変化……今朝からの愛の言動について説明した。
 説明する用意などしていなかったのに、自分でも驚くほどに上手に説明できたことに真琴自身が驚いた。
 かなり伝わりにくい話のはずなのに……。

 やはり松下さんは本物の刑事、話を聞き出すことのプロなんだ。真琴はそれを強く感じた。

「……宗教……なるほどね」

「どうなんでしょう。その見方」

「うん、端的に表すなら的を射てるんじゃないかな」

「そうなんですね……。じゃあ人心を損なわないように、運営が示したルールは守られるっていうのも……」

「うん、合ってると思う。責任は持てないけど」

「そうですか」

 真琴は安心したような、それでいて考えがまとまらないような、なんとも言えない気分になってきた。

「古川さん」

「はい」

「その、賢者の子の機嫌がいいのは悪い話じゃないよ」

「……はい。それは私もなんとなく……そう思います」

「その子はたぶん、カレンに関しては古川さんより先……というか、深いところを見てるよね、きっと」

「ああ、そんな感じは……はい、あります。とっても」

「でも全部を知ってるわけじゃない。その証拠にその子はカレコレを進めて運営を知ろうとしてる」

「そういえば……そうですね」

 たしかに松下さんの言うとおり、愛は、なにか私の知らないことを知ってそうだけど運営の仲間じゃない。
 そして……運営を知ろうとしてる。

 真琴は考え込む。松下はしばらく何も言わずに見守っていたが、真琴の思考が行き止まりに着いた気配を察したように口を開く。

「大学を……いや違うか。囚われたみんなを助けたいとは思わない?」

 真琴は思わず顔を上げた。
 松下の表情はあくまで穏やかだ。

「それは……。できるものなら助けたい……っていうか、そんな大それたことより、まず自分が助かりたいです」

「待つの? 誰かが助けてくれるのを」

「それは……。でも、私なんかじゃ……」

「可能性はある。僕はそう思う」

「……どうして……ですか?」

 松下はここでにっこりと微笑む。

「刑事の見立て、だよ」

「え……」

 それだけ? ……根拠ないの?
 真琴は言いかけたが、松下の言葉にはそれを押し留める重さがあった。

「僕は古川さんに情報を提供する用意がある」

「…………。」

「この騒ぎの本当のところを、僕らと一緒に調べてみない?」

「松下さん。おとといは、無理強いはしないって……」

「じゃあ古川さんは知りたくない? みんなをこんな目に遭わせているものがなんなのか。僕は知りたい。まあ、それが仕事なんだけどね」

「それは、知りたい……です」

 ちょっと愛のことを報告にきたつもりが思わぬ展開だ。
 松下さんは今、一線を越えろと誘っている。

 一線を越えるといっても犯罪を犯すわけじゃない。警察に協力するんだ。
 島田くんも警察を信じろと言ってた……。

 ……でも、怖い。

「古川さん」

「……はい」

「もょもとって、憶えてるかな?」

「あ、はい、もちろん。最初に警察に駆けつけてくれた人ですよね。私、絶対忘れません。……あ、そうですよ。あの人みたいに勇気のある人の方が私なんかよりよっぽど……」

「もょもとなんていない」

「え……」

「ん? あ……いないわけじゃないのか……」

「……どういうこと……ですか」


「もょもとは……僕なんだ」


「………え」

「……決めるときだよ。古川さん」

「……え……あ」

 不測の告知とともに松下に決断を迫られて、真琴は目を伏せて必死に考え始める。

 松下さんが……もょもと? なに? それ……。
 もょもとは松下さん……つまり警察のなりすまし?
 じゃ、もょもとが警察署に駆け込んで警察が動いたっていうのは嘘……作り話ってこと?
 なんで? なんで警察がそんな嘘つくの?
 警察は……信じていいんじゃなかったの?

 なにこれ……怖いよ……。
 島田くん……私、どうしたらいいの?

 逃げたい……。とにかくこの場から逃げて島田くんに相談したい。
 でもきっと、今逃げたらもう二度とこの話はない。
 逃げたら……ホントのことを知る機会は閉ざされる。
 そして今、決めるのは自分しかいない。
 自分で決めるしかないんだ……。
 でも……お母さん……助けて。……教えて。

「……古川さん」

 どんどん前に沈んでいた真琴の頭の上から優しい声がする。

「……はい」

 真琴は頭を垂れたまま、かろうじて返事をした。

「古川さんは、話しちゃダメだよって言われたことを話しちゃう人?」

「……違います」

「じゃあ、あれこれ難しく考えなくていいよ。うん。考えることは……知るのか、それとも知らないままでいるのか。それだけじゃない?」

「……そう……なんですか?」

「だってそうだろ? 古川さんは他人に話さないんだから」

「…………。」

「知らなきゃよかったと思うかもしれない。だけど知らないままじゃ、古川さんは僕……というか警察に不信を抱いたままこの騒動を過ごすことになる。それは僕にとっても不本意だよ。とっても」

「……そうですよね。じゃあ……わたしは……知りたいです」

「よし、決まりだ」

「え……決まっちゃったん……ですか?」

「やっぱりやめとく? ……無理強いはしないよ」

「いじわるですね。……今日の松下さん」

「え、いや……そんなつもりは、ない……つもり」

「ないつもり……ですか」

「うん。意地悪なことをしてる自覚はあるんだ。よくよく見定めなきゃなんないからね」

「たしかに、そうですね」

「よろこんで引き受けるような人はむしろ適性を欠くことが多いしね。ある種のジレンマだよ」

「はい……解ります」

「で、古川さんは信用するに足る人、そして知ろうとする人だ。はい決まり」

 松下が笑顔を見せる。

 この笑顔も……どこまで本物なんだろう。
 いや、疑うのはヤメだ。
 これから聞かされることに集中しなきゃ。

 真琴の顔に決意を見て、松下の瞳には期待が浮かんだ。

「じゃ……ちょっと待ってて」

 そう言い残して松下は部屋を出ていく。

 待たされている間、真琴は勇者もょもとのことを考えたが、もはや幻……なにも想像できなかった。

 ん、やけに遅いな。
 待ち時間を長く感じた真琴が腕時計を見ようとしたとき、ちょうど松下が戻ってきた。手には資料を持っている。
 そしてその資料の中から、A4大の1枚を机上に差し出して言う。

「これがいちばん簡単にまとめた資料。分からない部分は聞いて。答えられる範囲で答えるから」

 そう言われて真っ先に目に入ったのは資料の標題だった。


 【 広大人権テロ事件(仮)経過概要 】


 人権テロ……なるほど言い得て妙だけど、初めて聞くよな、こんな言葉。

 全体を眺めると、資料は所々が黒塗りされていた。
 ……これは「言えない部分」なんだろうな。

 さほど密ではないその資料を、真琴は指でなぞりながら確認していく。


 認知:9月28日 11:20ころ
 端緒:西條署宛て差出人不明の封書による
   ※封書とは別に早朝、匿名の電話予告あり


 これはつまり、カレンのアプリが豹変する半日前には警察に何らかの報せがあったということだ。
 そして資料をなぞる人差し指が止まる。


1 告発及び保護要請への対応
 (1) 寺本忠幸(■■■■■)
    14:22現逮 → 本部留置
 (2) 町田正樹(■■■)
    15:14緊逮 → 東署留置
 (3) ■■■■
    15:56保護 → 同意入院(■■病院)


 告発って……。これ、たしかカレンで晒された二人じゃん。
現逮とか緊逮って、まさか……逮捕されたってこと?
 もょもとは掲示板でたしか、警察がちゃんとケアするって……え?

 スカスカの資料のくせに内容はとんでもない破壊力……。
 つらなる単語の一つひとつが真琴に衝撃を与える。
 いちいち尋ねていたら的外れなことを言いそうだ。
 真琴は質問を飲み込んで先を読む。


2 初動対応
 (1) 連絡用端末の設定(封書の指示による)
   公用端末に「カレン」をインストール
   母親から■■のアカウント使用の同意を得る
   同アカウントによりアプリを起動 → メンテ中
 (2) 捜査本部の設置
   西條署大会議室に捜査本部を設置
 (3) 警察庁公安局への速報
  ・ 定型的捜査によるサーバの特定結果を報告
  ・ 警察庁派遣技師によるプログラム解析開始
 (4) 学長への連絡及び職員からの実態聴取
    → 捜査本部の構内移設は決裂

3 アプリ改変後
 (1) 改変されたアプリの解析作業
 (2) 被害規模により警察庁指定重要事件となる
 (3) 特異テロ、人質事件として内閣官房に報告
 (4) 警察庁長官名で報道協定締結
 (5) 運営の指示に基づき掲示板に投稿

4 運営による被疑者私刑後の対応
 (1) テント設置業者の任意同行と事情聴取
 (2) 西條署来庁者(学生)への対応、詳細聴取
 (3) 捜査本部の構内移設を大学側が合意
 (4) 学生説明会の開催決定(運営の指示による)
 (5) 捜査主任官(国際捜査:大塚)の指定
 (6) 第一回全体捜査会議

※ この時点まで運営から具体的要求なし



「………え……と」

「何から聞いていいか分からない、でしょ?」

「……はい」

「うん。じゃあ捕捉するよ。まずこの事件、発端は西條署に郵送された1通の封書なんだ」

「はい。いったい……なにが書かれてたんですか?」

「内容は、学生による2件の犯罪の告発、そしてひとりの学生の保護要請だよ」

「それが動画を晒された二人……なんですか?」

「そう。封書にはSDカードが同封されてて、その内容…データは二人を直ちに逮捕するに充分な証拠だった」

「なにをしたんですか? その二人は」

「ゴメン、それは言えない。だけど決して軽くない罪だよ」

「告発を受けてすぐに逮捕したのに、なんで二人は晒されたんですか?」

「古川さん。運営はそれについて、なんて言ってた?」

「え? ええと、たしか、アンインストールして、再インストールしなかったから……でしたね」

「うん。でもそれは運営の嘘なんだ。逮捕してすぐ、二人のアカウントは運営によって凍結された」

「……そうなんですか?」

「二人の動画を晒したのは……運営による私刑だよ」

「私刑……ですか」

 聞き慣れない言葉に真琴は聞き返す。

「簡単に言えば復讐、正しくは私人による報復かな。日本は私刑を禁じてる。でも運営は、法による裁きは生ぬるいと思ってるんだよ。たぶん」

「……そんなに……悪いことをしてたんですか。二人は」

「それは個人の主観に依る。あと、それとは別に、晒すことには大きな狙いがあったんだ」

「……あ、そうか。学生をカレンから離れられなくしたんですね?」

「そのとおり。実際、カレンの豹変を受けて一度アンインストールした学生は多いと思うよ。こんなのやってられっかよってね。でも、そういう学生たちも二人が晒されたことを知らされて、みんな慌てて再インストールしたんだよ」

「ですね。そうなりますよね」

「二人の犯罪は報道発表に適さないものだったから、二人が逮捕されて留置場にいることを学生たちは……というか、世間は知らないんだ」

「そうなんですね。あ、この、もうひとつの……保護要請ってなんですか?」

「これは、うん……。これも詳しくは言えないんだけど、夏休みの間に重度の鬱になってて、だけど誰にも言えずに独りで危険な状態になってた学生を保護したんだ。放っておいたら最悪の選択をしてた可能性が高い」

「え……そうなんですか?」

「うん。運営がそれを知り得たのは例によって盗撮……覗き見なんだ。皮肉だけど運営はひとりの学生を救ったことになる」

「良心も……あるんですね」

「それはどうかな。運営はその保護された学生のアカウントを警察への連絡に使うと指定したんだ。利用したんだよ。つまり」

「……周到ですね。徹底的に」

「そしてあの夜、捜査本部のみんなが見守る中で、僕は封書の指示に沿って掲示板へ書き込みをした。……さも勇敢な学生が警察に訴えたかのようなストーリーを創るためにね」

「……信じました。……すっかり」

 松下が苦笑いする。

「よろこんでいいのか複雑だね。でもあの時点で警察はそうするしかなかった」

「それは……はい、わかります」

「捜査は着実に進んでるんだ。でも解決の道は遠い。ネックは2つ、ひとつは説明会でも言ったとおりサーバが国外、それも……よりによって中国にあること」

「もうひとつは……身代がデータだから……ですね」

「そうなんだ。囚われているのは生身じゃなくてプライベート。どこにでも隠せるし、いくらでも複製できる。人権テロ……。かなり上手いネーミングだよ、ホント」

 それから真琴は、現時点までの捜査の状況を松下から聞かされた。
 例によって伏せられた部分が多かったが、着実に進んでいるという松下の言葉が決して見栄ではないことを真琴は知った。
 いずれ警察は充分な証拠を揃えて運営、その首謀者を捉えるだろう。真琴はそう感じた。
 真琴がそれを言うと松下は「たぶん黒幕を特定してからが勝負……交渉の始まりなんだよ。この事件は」と言った。

 そうだよな……。こんな、テロと称されるような大がかりな犯罪、運営は完全犯罪なんて最初から目論んでない。
捕まる覚悟はできてるんだ。……たぶん。

 松下によれば、発端となった封書の消印は東京……新宿だったらしい。そしてそれは撹乱工作だろうと付け加えた。
 真琴には、運営が何か時間稼ぎをしているように思えた。

 時間稼ぎ……。でも、なんの? いつまで?
 運営が定めた執行開始……。10月10日までだろうか。
 そもそも運営はなんのために期限を定めたんだろう。

「さあ、この部屋を出た瞬間から古川さんは正式に警察の協力者だよ。よろしくね」

「あ、はい……。って、ところで何をするんですか? わたしは」

 松下は、ポケットから白い携帯電話を取り出して机に置いたあとで、一旦後ろに置いていた資料の中から、厚みがあるマチ付きの封筒を取り出して机に置いた。
 そして真琴への指令を告げる。

「古川さんへの特命事項は、ひとりのカレンユーザーとして、今の運営の目的を探ることだよ」

「目的……ですか。じゃ、今もまだ、運営からは何の要求もないんですね」

「うん、そう。たぶんないよ、これからも。僕はそんな気がする」

 運営はまだ目的を明かしてない……。ホントだろうか。
 ……じゃ、本当に説教がしたいだけ?
 いや、それだけのために成しうることじゃない。この事件を仕掛けた労力を考えれば……。

「あえて言うなら、誰かにカレコレをクリアさせること……なのかもしれない」

「え?」

「これを見ればそんな気がするかもしれないよ。古川さんも」

 松下は机の上、資料の中から取り出した封筒を真琴の目の前に差し出した。

「これ……は、なんですか?」

「カレンコレクションのプログラム解析結果だよ」

 真琴はその封筒を手に取り、中身を覗く。

 ……厚い。ざっと50……いや、100枚近いんじゃないの? これ……。

「ネタバレ……ですね?」

「うん。でも完全なネタバレじゃないんだ。ほら、カレコレはスタンドアロンじゃなくて頻繁にサーバと交信するだろ?」

「ああ、サーバの反応は判らないんですね」

「そう。この資料を見たからといって、たやすくクリアできる代物じゃないんだ。カレコレは」

「……そうなんですか」

「ちなみにその資料、敵が出してくる問題は省いてある」

「え?」

 松下は再度後ろを向き、別の封筒を手に取った。
 そしてそれを机に置く。
 置いた時に「ドサッ」という音がした。

「これが問題だけをまとめた資料だよ。要る?」

 ……なにこれ。さらに分厚いんじゃないの?
 真琴は唖然とし、口が半開きになったのに気付いて慌てて閉じた。

「……すごい量ですね」

「うん、すごい。しかもね、正解が分からないんだよ。プログラムの分析じゃ」

「つまり、プレイヤーの解答はサーバに送られてから判定されるんですね」

「そう。だからあんまり意味ないんだよ。これ見ても」

「でも、出題される問題を知ることはできるんですよね?」

 話の流れに乗った真琴の何気ない問い返しに松下が笑う。

「古川さん」

「はい」

「……やるの? もう一度、受験勉強」

「え……」

「だってこれ、かなり立派な……膨大な問題集だよ。おまけに解答と解説が付いてない」

「ああ……つまり、そんなことをしてる時間は……」

「ないんだ、はっきり言って。うん、1年生を取り込もうっていう3年生の狙いは正しいよ。今からブランクを取り戻すのは容易じゃない」

「ええと……じゃあ、問題のレベルは……やっぱり、大学受験レベルまでなんですか?」

「知識を問う問題は、ね」

「……どういう意味ですか」

「学力を測る問題が終わった先には、人物を試す問題が待ってる」

「人物を試す……ですか?」

「うん。思想や信条、道徳観や価値観、れに常識や良識……。それこそ正解が知れない問題のオンパレードだよ」

「それじゃ……意味ないですね。問題集は」

「そう。だから全員1年生の古川さんのチームは、入試問題みたいな部分はチャッチャと終わらせて、その先の問題に取りかかってほしいんだ」

「……分かりました。やってみます」

「ああ、それはそうと古川さんのチーム、他の二人は口が固い?」

 松下が唐突に話題を変えたので真琴は戸惑う。
 そしてちょっと考えてから答えた。

「ええと……一人は固いです。でも、もう一人は……軽いです。絶望的に」

 真琴の答えに、松下は軽く首をかしげた。

「……絶望的に?」

「はい。空気……いえ、ヘリウムよりも軽いです」

「それは……。軽そうだね、ホントに」

「口が軽いことがアイデンティティみたいな子です」

 松下が声をたてて笑う。
 真琴の表現が気に入ったようだ。

「そりゃ大したもんだね、ある意味で。……よっぽど仲がいい、憎めない子なんだ。違う?」

「はい、いちばんの親友です」

「そしてもう一人の……口が固い方は、彼氏……なのかな?」

「はい。そうですね」

「そうか……うん。親友と恋人……いいチームだね。彼氏さん、学部は?」

「法学部です」

「へえ、法学部……か」

 松下はしみじみとそう言いながら目を伏せ何かを考えている。
 やがて何かを決めたように言う。

「……うん。古川さん、見せていいよ。その資料」

「え……いいんですか? これ、思いっきり『部外秘』って書いてありますけど」

「もちろん見せていいのは口が固い彼氏の方だけだよ。その……ヘリウムさんには絶対見せないで」

「はい、それはもう。でも、どういうことですか?」

「うん……。この資料、とにかく分かりにくいんだよ。親切じゃないっていうか……。アプリを売り込むプレゼン資料じゃないから、淡々と事実だけを記載してるんだ」

「まあ、そうですよね」

「さらに言うと上手くもない。あくまで警察が作った、形式に則った報告書なんだよ。どこが重要部分なのかを読みとるには慣れが要るんだ」

「……そうなんですか」

「ある意味では法律の文章に近い。古川さんの彼氏なら、案外すんなり読むかもしれない」

「かもしれませんね、たしかに」

「それに……ね」

「なんですか?」

「僕の許可がなくても、古川さんはきっと彼氏に見せて相談しただろ?」

「え? いえ、そんな……」

「いいんだよ。でも、これで後ろめたさは消えたろ?」

「…………。」

「いいんだよ、ホントに。……そう、むしろ古川さんは資料を見ないで、素の状態で臨むのも悪くない。それも彼氏に言ってみてよ。僕の意見として」

「……わかりました」

「くれぐれも、その……キャラが軽い子には感付かれないようにね」

「はい」

 そこからはなんとなく雑談のような雰囲気となり、真琴はカレコレのパチンコのことや、理学部ステージで味わった嫌な気分などを話した。
 途中、松下は思い出したように「貸してる携帯、ちょっと交換させて」と言って真琴に黒い携帯電話を出させ、代わりに白い携帯電話を持たせた。

「僕の番号は電話帳の『まっちゃん』ね」

「それはずいぶん……なんというか……アレですね」

「擬装だよ。気にしないで」

 気になることをサラリと言い、質問をさせない。この辺は刑事の技なんだろうな……。

「今にして思えば、もょもとが私の書き込みに返した返事、そのまんま松下さんでしたね」

「ああ、あれね。……うん。周りのみんなから総ツッコミに遭ったよ。こんな学生いねえだろってね」

「あ、そういえば賢者のことはもういいんですか?」

「え? ああ、賢者ね。……うん、それはまあ、ボチボチ……またいずれ頼むよ」

 あれ? なんだ? 私は今日、そもそも賢者……愛の様子について報告にきたんだ。
 そして松下さんは強い関心を持って聞いていた。……演技じゃなく。
 それが……どうして今、この反応?

「どうしたんですか? なんで急に変わったんですか?」

「え? ……賢者のこと?」

「はい」

「なにもないよ。優先順位の問題だよ」

 優先順位? 私から愛のことを聞いて、賢者の話の重要性が下がったの?
 愛が変わったのは悪いことじゃない。そう言ってたけど……。

「いや、ホントになんにもないよ。『賢者』って、なんか重要人物っぽいカンジだったけど、そこまで特別視しなくてもいい気がしてきたんだ」


「…………教えてください。賢者のこと」

 松下が動きを止め、そして真琴の目の色を確かめる。

「…………ここで……ダウト?」

「………はい」

 真琴の目に降りる気配がないことを読み取り、松下が頭を掻く。

「えーと、古川さん……。あ、いや、ちょっと待って」

 言いかけて……やめて、松下は真琴から視線を逸らして考えている。
 真琴はその間、松下から目を離さす無言で追及する。
 そうしているうち真琴は、なんだか不安になってきた。
 ……触れちゃいけなかったの? ひょっとして……。

「古川さん」

「はい」

「古川さんは誰かひとりでも、友だちと……その、爆弾の中身を教え合った?」

「え? ……いえ、誰にも教えてないですし、聞いてもいません」

「うん。つまり、どんなに仲が良くても学生の間では、そこは聞かないことが暗黙の了解になってるってことだよね」

「まあ……そうですね。このあいだ松下さんから見せてもらったアンケート結果でも、爆弾の中身は恥ずかしいこと……知られたくないことばっかりでしたしね」

「うん……古川さん」

「はい」

「これは警察の正式な見解じゃなくて、僕個人の考えとして聞いてほしい。……いい?」

「……はい」

「賢者は運営の一部だった」

「はえ……え?」

 思わず妙な反応になったが、真琴にそれを気にする余裕はなく、松下にもそれを囃す雰囲気はなかった。
 絶句する真琴に松下はゆっくりと語る。

「運営はたしかに大きなことをしている。だけど、どうやらそれほど巨大な組織じゃなさそうなんだ。運営は、セクトごとに完璧に分業された労力に支えられていたんだよ」

「なに……を、言ってるん……ですか?」

「賢者は、カレンが変わった先月の28日よりもずっと以前から運営に囚われていた囚人……運営の手足だったんだよ。たぶん」

「あ……」

「もちろん賢者同士はお互いを知らないし連携もないから組織の一員じゃない。ただ個別に運営の業務の一部を担わされていたんだ。……強制的にね」

「業務って……なんですか?」

「例えば発表と同時に全学部の講義のカリキュラムを入力すること、短期のバイト情報や大学生協のセール情報を更新すること。そして、受け持ち学生がやり取りしているメッセージとかを確認してSTDとウェー……今でいう徳と業を振ることとか……だよ」

 ドクン…。真琴の胸を動悸が襲った。

「さっき聞いた古川さんの友だちの賢者、その子が明るくなったのは、つまり運営から解放された……いや、完全には解放されてないけど、役目……労役を終えて他のみんなと同列になったことを実感できたんじゃないかな。賢者っていう呼び名は、他人より深く知る者っていう感じもするし、今までの労に対して運営から送られた称号のようにも思えるしね」

 ドクン……ドクン……。真琴の動悸は止まらない。
 そして思考が鈍っていく。
 なにかの答えにたどり着くのを拒むように……。

「……古川さん、大丈夫?」

 顔に出てるんだろう。松下さんが心配してる……。

「あ……はい、大丈夫です」

「今言ったこと……これはあくまで僕の推測。だから事実のように語ってもらったら困るけど、古川さんがそうだと思うなら、古川さんの持論にしていいよ」

「それは……どういう意味……ですか?」

「そのまんまの意味だよ。古川さん自身の推理として振る舞っていい。……必要ならね」



 動悸が治まらないまま、松下に見送られて真琴は現地本部を出た。
 別れ際、松下から「その資料は、家に帰るまでは肌身離さす持っててね。亡くしたら大変なんだ」と言われた。
 真琴は鈍い頭で考える。そっか……。じゃあ今日はサークルに行けないな……。

 あ、サークル……。真琴は慌ててバッグから自分の携帯電話を取り出して電源を入れる。
 マズい……。切ってる時間が長かった。
 もうとっくにサークル始まってるし……。


「ああ…」

 案の定、起動と同時に新着メッセージが通知される。


『なにやってんのよ』

『電源切ってるってどういうこと?いきなり不倫?』

『マジで怒るよ』


 理沙……当然の反応だよな。どうしよう……。
 島田くんからはなんのメッセージもない……。
 状況を察してくれてるんだろうか。

 いずれにしてもサークルに行けない真琴は考えた末、島田にメッセージを送ることにした。

『風邪ひいた。……ことにして』

 ……伝わるかな。お願い、伝わって。じゃなきゃ修羅場になりそう。

 祈りながら握りしめる携帯電話がメッセージの受信を告げる。どっちだ……。


『わかった。なんとかする』

 島田くんだ。……よかった……助かった。

 なんとか修羅場は回避できそうだ。そう胸を撫で下ろした真琴はようやく平常心を取り戻す。
 そしてアパートに帰るべく自転車で構内を横断する。

 途中、サークル棟の前で自転車を漕ぐ足が自然と止まった。

 アプ研、どうなったんだろ……。
 気になりだしたら治まらない。……ヤバいな、なんか変な気分だ。
 たぶん松下さんの話が衝撃的すぎたんだ。
 ちょっとだけ覗いてみようかな。……通りがかりだし。

 そうして真琴はサークル棟、アプ研のドアをノックする。
 無言のままドアが開き、無精髭の小暮が顔を出す。
 このヒゲ……剃ってもないし伸びてもないよな……。
 スタイルなんだ。このヒゲは……。

「……お前さ、なんか……そういうセンサー付いてんの?」

「……なんのことですか?」

「なんか普通じゃない時に現れるからな。もう俺にとってお前は、非日常の象徴だよ」

「非日常って……。騒ぎは収まってないんですか?」

「ん? ああ、騒ぎは収まったよ。おかげさまでな」

「よかった。……じゃ、なんですか? 非日常って」

「めずらしい客が来てるだけだよ。まあ上がれよ、お前も」

「あ、はい、失礼します」

 真琴はドアをくぐった先、高級ソファがある部屋に入って先客の姿を認める。


 ……え?


「古川……」


「…………隊長」


 ドクン。目に飛び込んできた先客……バイト隊長の伊東と見つめ合い、真琴の胸には先刻をはるかに上回る激しい動悸が訪れた。

 真琴と伊東、二人は身動きもできずに見つめ合う。
 なんでこんなところで……。お互いの顔にそう書いてあった。

「………隊長が、どうしてここに……」

 破裂しそうな胸を強く押さえながら、絞り出すようにして真琴はようやく口を開いた。

「……いや……ちょっと、な」

 伊東が答えを濁す。そこに無精髭がコーヒーを運んできた。

「ん? なんだお前ら、知り合いか?」

 知り合いもなにも……。そうだ、隊長が言わないなら小暮先輩に聞けばいい。

「小暮先輩。なんで隊長がここにいるんですか?」

「……誰だよ隊長って」

「あ、その……伊東先輩です。バイトが一緒なんです」

「ん? ん……」

 小暮は即答しかけて言葉を飲み込んだ。
 そして伊東に視線を投げる。
 伊東は目を伏せ、両手を組んで沈黙する。


「……なんか知らねえけど、あのな古川」

「はい」

「伊東はアプ研なんだよ」

「え? ……そうだったんですか?」

 初めて聞く話だ……。
 真琴は伊東を見るが、その伊東は固まったまま……。自ら答える気配はない。

「まあ……伊東がここに来るのは、丸2年ぶりくらいだけど……な」

 ああ、だから小暮先輩は「めずらしい客」って言ったのか。
 でも……どういうこと?

「そんなに……来てなかったんですか」

「ああ、うん。このまえ話したろ? カレンが広まりだしたころ、カレンは危険だぞって闘ったんだ、俺たち」

「ああ、はい。聞きました」

「おい小暮」

 ここで伊東が口を開いた。
 言うな……。真琴には確かにそう聞こえた。
 だが小暮は、そんな伊東を一瞥しただけで話を続ける。

「でな、そのとき伊東は何故か、カレンを使い続けることを選んだんだ。……頑なに、な」

   あ……

 急速に耳が遠くなるような感覚が真琴を襲う。

「それから伊東はフェードアウト。でも俺の中じゃ今でも伊東はアプ研の仲間だよ。だいたいアプ研に出入りする女の子たちはみ~んなカレンを使ってたんだ。完全に禁止してたってわけじゃない」


 あ……ああ……そう、そうなんだ……。

 きっと私、自分でも気付いてたんだ。ホントは……。


 みんなを残してバイト先を出たときの、あの違和感も……

 〝俺にとっては特別〟……島田くんにそう言われた時に感じた「なにか」も……

 そして……独りでカレンの「功」と「罪」を思っていた寂しげな隊長の姿も……


 私……逃げてた。……そう、知らないようにしてたんだ。

 でも……。……それでも……ズルいのは……どっち?


「……隊長」

 呼びかけた真琴に、伊東は視線だけを返してよこす。
 真琴はバッグから携帯電話を取り出して、目の前で電源を切ってみせる。

「切ってください……隊長も」

「…………。」

「おい古川、なに泣いてんだよ」

 遠く聞こえる小暮の言葉で、真琴は自分の頬に涙が伝っていることに気付く。

 ……ホントだ。私、泣いてる。……なんで?
 悲しい……とは違う。……悔しい……とも違う。


 そして欠けた聴覚に代わり、いくつもの場面が真琴の脳裏を埋めていく。
 それはバイトを始めたころから真琴に目をかけ、ずっと優しく面倒をみてくれた頼もしいバイト隊長の伊東の姿、そして共有した時間だった。


 ああそっか……もう壊れちゃうんだ。これ。
 じゃあ……じゃあ言っとかなきゃ。壊れる前に。

「隊長、私……大好きでした。隊長とバイト入るの」


 真琴の心が平常ではないことを見てとった伊東は、ポケットから携帯電話を出して電源を切る。
 そして覚悟を決めたように真琴の正面を向き、涙を止めない真琴の顔を見据えた。


「隊長は……賢者……なんですね?」

「……そうだ」

「しかも、受け持ちの中に私がいた。……そうなんですね?」

「……うん」

 そうだよ、突出した徳……。
 私は、運営にとって特別だったんじゃない。
 私……私は、ひとりの賢者にとって特別だったんだ。


「じゃあ隊長は今まで……私……私の、全部の……わたしの……」


 ……駄目。言葉が出ない……。
 ……もう、もう泣こう。


 真琴は立ったまま天井を見上げ、声をあげて泣く。
 溢れるままの涙は耳を走り、次々と落ちていく。



「……伊東、どういうことだ? これ」

「……俺が悪いんだよ、なにもかも」

「おい、解るように言え。俺はこの子に借りがあるんだ」

「話せば長いんだよ。簡単に言うと、卑怯な恋をしてたんだ」

「あ? 恋? ……誰が、誰にだよ」

「……俺が、古川に、だよ」

「ん……。……で、なんで泣いてんだ?」

「ああ……それは、うん……古川が落ち着いてから話そう」

「なんで?」

「古川には、ちゃんと話さなきゃいけないんだ。俺は」



  広い部屋の中で真琴は泣く。


 その果てない声は伊東の眉間に痛みを刻む。

 とりなす術を見付けない小暮は考えることを諦めてソファに身を沈める。


 ひとつの部屋に、重さの異なる時間が流れていた。


 ただしその空間を支配するものは真琴の激情であり、それは瞬く間に部屋の隅まで行き渡っていた。



 そうして真琴に支配された空気は、真琴が放つ感情の移ろいと共に徐々にその色を変えていく。

 嘆きと怒りと失望を混ぜた叫びは次第に勢いを失い、やがて哀の一色に染まった。


 歌詞も旋律もない、哀しみだけの独唱…それは圧倒的な引力で二人の聴衆の心を奪い、終演を迎えるころには時間さえも束ねあげ、部屋に不思議な一体感を残した。



「……座れよ、古川」

 予定されていたかのような自然な響きで小暮の言葉が部屋に溶ける。
 そして静かな動きで力なく、真琴はソファにストンと腰を落とした。

「……で、伊東の番……だろ?」

「……そう……だな」

 小暮に促された伊東は、自分の番を自覚しながらも言葉を探しているようだった。
 対面の真琴は俯いたまま黙るが、そこに伊東を責める気配はない。

「……俺は……外した方がいいのか?」

「いや、このままいてくれ。小暮にも聞いてもらいたい話だ」

 そう言って、また伊東は黙る。

 3人を包む空気は、この沈黙さえ予定にあるかのようだった。


 そして言葉を定めた伊東が口を開く。


「俺は……古川が好きだ」


 期待も照れも、そしてときめきもない告白……。
 それは事実の確認に必要な作業……自白だった。


 そんな不遇の告白に、真琴はまたひとつ涙を落とす。

 再び崩れそうになる心を抑えながら真琴は台本を前に進める。

「いつから……ですか……」

「一目惚れ……いや、初めて会ったときからと言うのが正確……かな」

「つまり、会う前から知っていたんですね。……私を」

「……そうだ」


 この先にある事実に怯え、真琴はさらに声を細める。

「……なにを、知ってたん…ですか?」


 覚悟が要るのか、ここで伊東は間をとった。


「……運営から与えられた情報だよ。カレンを介してやり取りされているメッセージや、携帯に保存された画像、そして検索履歴とか……だ」

「………。」

 伊東の言葉に真琴の心が大きく揺れる。
 膝の上に置いた手に力を込めて真琴は耐える。

 ……大丈夫。
 ……こんなのは……予想の範囲内。大丈夫……。

 そして、なんとか耐えきった真琴は先を促す。

「話してください。……今まで隊長が何をして……いえ、ごめんなさい。運営に何をさせられていたのか」

「……わかった」


 そうして始まった伊東の話、それはおおむね松下の推測どおりで、伊東はカレンというアプリが広まり始めて間もない頃に運営に囚われ、先月28日までの丸2年以上にわたって運営から課せられた作業をしていたというものだった。

 伊東がしていた作業、それは運営から与えられる学生の情報を元に学生の素行を観察することだった。

 そして学生の言動に応じて徳と業の前身である「STD」と「ウェー」、2種類の評価を付けていたというのだが、この評価の基準については伊東、つまり評定者の主観に偏り過ぎないよう、かなり細かい基準が示されていたらしい。
 評価を付けるシステムはアプリの追加機能という扱いで評定者に個別に付与されていたようで、運営が示した評価基準も伊東がやってきたことの証跡も、すべて9月28日のアプリ改変と同時に消失していた。

 そして伊東に残ったのは、他の学生と同じ安っぽいアプリと「賢者」という意味ありげな肩書きだった。


「じゃあ今はもう、特別な権限はないんですね」

「うん、ない。特別だったという痕跡すらない」

 つまり、愛も同じ境遇にあったなら、これも松下さんが想像したとおり……。
狙い撃ちで弱味を握られて誰にも言えず独りで悩んでいた状況に比べれば、今は「解放された」に近い。
 だって今はもう、みんな一緒……同列になったんだから。

 でも、それにしても……。

「……訴えようとはしなかったんですか? 運営を」

「……『こいつは訴えない』……そういう人間に狙いを付けてたんだと思う。それに……うん、俺は運営に恨みはないんだ」

「……どうしてですか?」

「俺はたぶん運営に囚われてたんじゃない。自分の罪に縛られてたんだよ。2年前に運営は、俺の罪を俺に突き付けたんだ。そして課された作業はその罪に対する罰だった。俺は運営のおかげで道を外さずに済んだ。今はそう思ってる。あ、いや……古川のことはぜんぶ俺が悪い。俺がルール違反をしたんだ」

 ん? んん? つまり、どういうこと?
 隊長は2年前、そんなに悪いことをしてたってこと?
 でも、他人のプライバシーを見る作業が罰って……。

「……なんで他人の秘密を覗くことが罰になるんですか?」

「……人には……あ、いや、大抵の人には表と裏があるからだよ。一言でいえば人の醜い部分を見続ける作業だったよ。うん……人の業の深さについて、ずっと考えることを強いられた」

「そう……なんですか?」

 いまいちピンとこない……。実際にその立場にならないと解らないんだろうな、これは。

「機械的に選別してたんだろうけど、担当する学生は自分と接点のない人だけだった。電話帳やSNSで繋がってるリアルの知り合いの秘密を見せられることはなかったんだ。知り合いの裏の顔を見続けてたら、たぶん正気を保てなかったと思う。担当してる学生と知り合いになることもあったけど、大抵は自動的に担当リストから削除されたし、そもそも自分で削除もできた」

「自分で削除も……できたんですか」

「そう。そして替わりに別の学生が充てがわれた。というか、少しずつ増やされてた」


 …そうか。……そういうことか。


「じゃ、わたしは……その、担当学生と知り合いになっちゃったケースなんですね」

「……そうだ」

「ルール違反って……なにをしたんですか?」

「古川が初めてバイトに来て自己紹介したとき、俺はすぐに気が付いた。古川が自分の担当リストにいること」

「……はい」

「古川と連絡先を交換してしまう前に、俺は急いで携帯をもう1台契約したんだよ。みんなには、携帯が壊れたついでに携帯会社も替えたって説明したんだ」

「あ……」

「それ以来、元からある携帯はカレン専用機になった。表の自分と裏の自分を分けたんだよ。俺は」


 真琴は続く質問を躊躇い、部屋に沈黙が訪れる。


 ……この優しい隊長をここまで縛り続けた罪って何?
 隊長は、なんで禁を犯してまで私なんかに……私なんかのどこに拘ったの?
 このルール違反、運営は見逃したの?
 疑問はまだまだある……けど……。



「古川、俺が代わりに殴ってやろうか?」

「え?」

 小暮の言葉で真琴は顔を上げる。

 小暮にも聞いてもらいたい話……。隊長はそう言った。
 そうか、隊長はアプ研にいたんだった……。
もしかして小暮先輩は知ってるの? 隊長の……罪を。

 不意に放たれた小暮の言葉で、散らばった疑問の中のひとつが押し出された。
 そして真琴は伊東に問う。

「なんなんですか? その……隊長の罪って」

「ん……」

 これに伊東は顔をしかめ、しばらく考えてから返す。

「……言えないんだ」

「……そう……ですか」

 簡単に引き下がるつもりはなかったが、伊東の回答には追及を拒む重さがあった。
 これは……単に言いたくないんじゃない。言っちゃいけないヤツなんだ……。
 真琴はそう理解した。

 だが、そうは思いながらも、気になる真琴は小暮に視線を投げる。
 小暮は無表情……努めて表情を消しているようにも見えた。

「なんだよ、俺も知らないぞ。何も教えてやれない」

 知ってるけど言えない……。小暮の顔にはそう書いてあった。
 やっぱり知ってる。知ってるけど言えないんだ。

「教えてやれないけど、こいつを殴ることはできるぞ」

「え? いえ、どうして……ですか?」

「だってこいつの話はつまり、ずっと隠れて古川を観察してたってことだろ? 運営サマとやらの意に背いてまでな。立派なストーカーじゃねえか」

 え? ストーカー? ……そう……なるの?
 隊長が……私のストーカー……

 小暮が用いた卑劣なワード、それは伊東の行為を端的に表しているようにも思えた。
 しかし真琴は、そのワードを伊東に重ねることができない。

 隊長は、いつだって私に優しかった……。
 でも特別扱いはされてなかった……と思う。
 そうだよ、隊長はみんなに優しくて、みんなに気を配って、みんなに頼りにされてて……。
 私の中で隊長は、私なんかより遥かに大人。
 それに、私のことが好きだなんて……それもバイトを始めたころからなんて……。
そんな素振り、一度も見せたことがない。なんか……なんかおかしくない?

「……なにがしたかったんですか? ……隊長は」

「……ん」

 真琴は、心に沸いた疑問をそのまま口にしていた。
 伊東は答えず、小暮が反応する。

「おい古川、耳貸すなよ。このことに限っちゃお前に非はない。お前にとってこいつは変態だ」

 変態って……。そんなヒドい言葉……。
 でもなんか……。あ、そうか……。

 先刻から伊東をなじる小暮の言葉、その言葉の端に真琴は小暮の真意を見た。

 〝このことに限っちゃ〟〝お前にとって〟……。
……そうだよ、小暮先輩は隊長を知ってる。二人には私の知らない絆があるんだ。
 その小暮先輩が隊長を単純な悪にして話を終わらせようとしてる。
 これはきっと隊長のためなんだ……。小暮先輩は隊長の心を理解してる。


 そこまで考えが至ったとき、揺れていた真琴の心は一気に凪いでしまった。
 そして真琴にはもう、伊東を追及するエネルギーはなかった。

 ……疲れた。……もうなにも考えたくない。
 帰ろう…。そうだ、早く帰らなきゃ……。

「わたし……帰ります」

 ソファを立ち、逃げるようにドアに向かう。
 続けて立った伊東が「古川」と呼び止める。
 真琴は立ち止まり、振り返らずに問い返す。


「……なんですか?」

「その……なんていうか、頼みが……あるんだ」


 頼み? ああ、バイト辞めたりしないでってことか……。
 それは……ええと、たぶん辞めたりはしない……あ、いや、どうだろ……わかんないな。

 真琴は伊東の頼みを先読みして考えを巡らす。


「その……最後に一回だけ、抱きしめてもいいか?」

「え……」


 想定外の申し出に、真琴は必死で台本を探す。

 なにこれ? どういうこと?
 つまり、ここでキッパリと拒絶して、けりをつけてほしいってこと?
 でも「最後に」って言ってるし……。
つまり付き合いたいとかそういうんじゃなくて、ええと……。

 真琴は、今までに見知った伊東の性分をすべて総動員して分析する。
 そして結論を出した。

 ……そうか。これは私が隊長のことをどう思ってるかを問われてるんだ。
 ええと、だからつまり、ここで私が「わかりました」って言えば、その返事で隊長の気持ちは救われる……。
 そして隊長も「その言葉だけで救われたよ。ありがとな」とかなんとか言って、ホントに抱き付いたりはしない。
 うん、間違いない。これは……そういうシーンだ。

 そして真琴は台本のセリフを読む。


「それで隊長の気が済むなら……どうぞ」


 そう言い終わるや否や、真琴は後ろから抱きしめられた。


  ……あれ? 抱きしめられちゃった……。


 逞しい腕に抱かれながら、筋書きを消された真琴は動けない。
 全身から力が抜け、バッグを床に落とす。

 嫌悪はない。背中……息を止めて真琴を抱きしめる伊東から伝わってくるのは欲情などではなく、もっと純粋で、そして切実なものだった。
 部屋の中、真琴の静かな息づかいだけが時を刻んでいた。


 そうして伊東は緩やかに腕を解く。

 真琴は振り向くこともできぬままバッグを拾い、伊東に尋ねる。


「わたしなんかの……どこ……」

「……綺麗だったんだ。ひたすら。裏表もなくて。……明かすつもりもなかった」


 明かすつもりもなかった……か。たしかに隊長が賢者だと気付いたのはイレギュラーだ。
 愛のこと、そして松下さんからの情報がなければ見抜けなかった……。
 でも、明かすつもりもない恋って……。

 それも隊長の罪に関係あるの?
 それとも後ろめたかっただけ?

 両方なんだろうな。……きっと。

 一旦は思考を取り戻した真琴だったが、抑えがきかない感情の波が遅れて押し寄せてきた。
 あ……ヤバい。

「……帰ります」

 かろうじてそう言い残し、真琴は振り返らずに部屋を出た。
 外に出た瞬間、感情にさらわれる。

 真琴はグシャグシャになりながら自転車にまたがり、人目を避けて家路を急いだ。

 胸を埋め尽くすのはこれまで経験したことのない感情で、油断すれば叫んでしまいそうな衝動を抑え、涙を撒き散らして鼻をすすりながら真琴は自転車を漕いだ。


 そしてアパートに着いた真琴は、自分の部屋の前に島田の姿を認めて戸惑う。

 携帯電話を弄っていた島田は、明らかに苛立ちながら真琴を見たが、その苛立ちは目が合った瞬間に消えた。

 島田のその変わりざまを見て、思わず真琴は今の自分の顔を想像する。

 ああ……きっと私、ヒドい顔してる……。

「……大丈夫……なのか?」

 ……ああ、島田くんが心配してる……。
 島田くん、怒ってない。……よかった。

「うん、大丈夫。ゴメンね、すぐ開けるから」

 あれ? 鍵がうまく挿さらない。
 しっかりしなきゃ……。しっかり……。

 なんとか玄関を開けた真琴は「はい」と言って島田を先に入れようとしたが、逆に島田に背中を押されてしまった。

 家に入った真琴は一瞬で気が緩む。
 う……またヤバい。

 真琴は靴を脱ぎ捨て、島田を玄関に置き去りにしてベッドに飛び込んだ。
 うつ伏せで放心する。

「…………古川……なにがあったんだ?」

 島田の優しい声を後ろで聞く。

 ものすごい心配させてるよな……。
 でも、うまく話せないよ……まだ。

「……なんか……なんかね、いろいろあった」

「…そう……か。誰かに……なんかされたのか?」

 え? ああ、そういう心配……。
 ……そうだよね。そんな雰囲気だよね、これ……。

「大丈夫……。そんなんじゃないの」

「ん……そっか。……なんか俺にできること……ある?」


 ……島田くんに……できること?

 あ……そうだ、そうだよ。甘えていいんだ。
 大好きな人が心配してくれてるんだから。

 真琴はゆっくりと仰向けになって島田を見る。

「……島田くん」

「うん」

「だっこして」

「……ん」


 島田はゆっくりとした動きで真琴の隣で横になってから、大切なものを抱えるようにして、胸でそっと真琴を包んだ。

 対する真琴は、しがみつくように精一杯の力で島田に抱き付いた。
 反射的に島田がビクッと硬直する。

 ……あ、ビックリさせちゃった。


 そして島田の身体から徐々に力が抜けていくのに併せるように、真琴の心からも力が抜けていく。

 島田の胸の中、真琴は島田の鼓動で自分を溶かす。
 ことの大小をはかる物差しが完全に壊れた危うい感覚に身を置きながら、それでも真琴は癒されていく。

 そしてぼんやりと考える。


 ……これ、この状況って……どうなの?

 ぜんぶカレンのせい……
 ぜんぶカレンの……おかげ?


 ここ数日のあいだに得たもの失ったもの……真琴の頭に沢山のことがらが次々と浮かんでは消えていく……が、壊れた物差しはその重さを教えない。
 そして真琴の心は「今」を過ぎ、これから数日のあいだに得るもの失うものに想いを馳せる。

 しかし、やはり重さは判らなかった。


「島田くん……」

「ん?」

「あ……ううん、なんでもない。……ありがと」

「……うん」

「ね……いま……何時かな」

「たぶん……7時前」

「そっか。ねえ島田くん、私のバッグに封筒が入ってんだ。それ見てみてよ」

「なんの封筒?」

「カレコレの解析結果だって」

「……それ、古川は見たのか? もう」

「見てないよ。なんかね、島田くんに見てもらえって言われた」

「……なんだそれ」

「たぶんよく分かんないんじゃないかな、私が見ても。私は見ないでカレコレ進めた方がいいかもよって……」

「それは……気になるな。どういう意味だ?」

「見れば分かるんじゃない?」

 名残惜しそうにしながらも封筒の中身に興味を持った島田は、ゆっくりと真琴から身体を剥がす。

 静かにベッドを離れる背中を眺めながら、真琴は島田の体温の余韻に浸る。

「うお……ずいぶん分厚いんだな、これ」

「え、あ……うん。たぶん大変だよね、見るの」

「まあ見てみるよ」

「うん。……私、このまま横になってていい? ちょっとだけ」

「いいよ。あ、そうだお前、携帯切ったままだろ?」

 あ、そういえばそうだ。
 えっと携帯は……バッグ? いや、ポケットに入れた。

 真琴は寝そべったままポケットをまさぐり、携帯電話を取り出してすぐに電源を入れた。
 起動中の画面を見ながら理沙のことを思い出す。

「そうだ理沙よ。理沙のことは大丈夫なの?」

「ん? ああ清川な。うん、大丈夫だよ」

「怒ってない……の?」

「ええと……。ま、怒っちゃいるけど……大丈夫だよ。会ったら分かる」

「ふ~ん……」

 理沙……本気で怒ってるっぽかったけど……。ホントに大丈夫なのかな。

 どうやって理沙を言いくるめたのか聞こうと思ったとき、起動した携帯電話がメッセージの受信を告げた。
 そこに理沙からのメッセージを見つけ、真琴は急いでそれを開く。


  『ちくしょう、グレてやる』


 ……ああ……うん、これは……大丈夫だ。


 安心した真琴は礼を言おうと島田を見たが、その島田は早くも書類に集中しているようだったので、あえて真琴は何も言わず、そのまま目を閉じて、まどろみに身を預けた。
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