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第一章 14歳の真実

15 晦日

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「つかさ……しんじゃったの?」

 加藤の腰の高さまでしかない小さな美咲が、幼い声で言う。
 えんじ色の新しいランドセルはまだ背に大きい。
 加藤にすがりつきながら、視線はベッドの上の母……美緒に向けられている。

「そうなんだ。可哀想だけど司は死んじゃったんだよ。ごめんな、美咲」

「どうして? おかあさんのおなかでいっぱい動いてたのに……」

「急に死んじゃったんだ。……産まれてくるのが怖くなったんじゃないかな?」

「わかんないよ。おとうさんのうそつき。ねえおかあさん、どうして?」

 ベッドの上の美緒は背を向けていた。肩が震えている。

「……ごめんね、ごめんね美咲」

「ごめんねじゃわからないよ。ねえおかあさん、どうしてつかさはしんじゃったの?」

「ごめんね……ごめんね……」

「美咲、お母さんは大変だったんだ。休ませてあげよう」

 加藤は美咲の小さな手を握り、有無を言わさず病室を連れ出して待合室の椅子に座らせる。
 待合室でも美咲の追及は続いた。加藤は答えに窮してしまう。

「なあ美咲、美咲だけじゃないんだ。お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、みーんな司が産まれてくるのを楽しみにしてたんだ。それは分かるよな?」

「うん……」

「だからみーんな悲しいんだ。たぶんお母さんがいちばん悲しい。それも分かるな?」

「……なんで……つかさは……しんだの?」

「わからないんだよ。お母さんのお腹の中で大変な病気になっちゃったのかもしれないし、もしかしたら産まれてきても生きていけない体だったのかもしれない」

「お父さんはさっき、産まれてくるのが怖くなったって言った」

「……ああ、だから、わからないんだよ」

「きっとそうだよ。……つかさは怖くなったんだ。おなかの中であんなにげんきだったくせに」

 美咲の顔は怒っている。目には涙が浮かんでいるが、悲しみより怒りが勝っているようだ。

「美咲……」

「つかさのいくじなし。おかあさんを泣かせて。男なのに……。わたし、ぜったいゆるさない……」



 そこで加藤は目を覚ました。
 夢……。今の夢は本当にあったことだったろうか? 思い出せない……。

 夢が鮮明に残っているのに、照らし合わせるべき記憶の方はおぼろげだ。
 暗い夢だった。加藤は目尻が濡れているのに気が付く。
 泣いていたのか、俺は……。

 起きていれば抑えられるが、夢の中の涙は抑える術がないようだ。ここ何日かは悪夢などなかったのに。

 それにしてもリアルな夢だ。たとえ事実と違っていても、お構い無しに記憶を塗り替えられそうなほどに……。
 恐怖に似た感情に加藤は少し戸惑った。

 司の流産……。確かに美咲は小学生になったばかりだった。我が家を襲った最初の不幸……。
 流産の苦しみ……。それは、それ自体あまりめずらしいことではないのに対し、当事者に与えるダメージは計り知れない。

 あのときは、すでに胎内で死んだ息子の骸を腹を痛めて産み落とすという生き地獄を踏んだ美緒の心を気遣うのが精一杯だったが……美咲も傷を負ったのだ。
 それも深傷を……間違いなく。

 美緒が産婦人科から退院するまでの数日は、お義母さんが来てくれた……と記憶している。
 美緒が退院してからもお義母さんはしばらく残ってくれていたはずだ。美緒のショックがあまりに大きく、隙あらば涙が溢れる有り様がしばらく続いたと記憶している。

 その間の美咲はどんなだったろうか……。
 思い出せない。

 加藤の記憶に美咲が戻ってくるのは、美緒が落ち着きを取り戻して、家族3人で食卓を囲むようになってからだ。
 それ以降も、司のことは親子の間でしばらくのあいだタブーになった。
 不意にテレビなどで赤ちゃんの話題が出ると、美緒が泣き出し、次いで美咲も泣き出した。
 美咲の泣き方は……そうだ、口を固く結んで、黙って泣いていた。
 悔し泣き……。そんな泣き方だった。

 男なのに……か。この出来事は、幼かった美咲の心に何を落としただろう。
 富永が導き出した結論……美咲が男であったという事実……。たしかに一連の美咲の行動は、そう考えた方が自然だ。
 しかし……。美咲が幼心に刻んだ決意のようなものが、呪いとなってその後の美咲を縛り続けていたとは考えられないだろうか。
 ……あり得なくはない。加藤にはそう思えた。

 美咲の身体は間違いなく女性であったし、鬼籍に入った今となっては、精神的なものも脳の機能も診断は不可能だ。……真実はすでに灰になったのだから。

 美咲の心は本当に男だったのか? いや、やめよう……。
 もはやこの問いに意味はない。美咲は美咲だった、それでいい……。

 一度はそう思ったものの、起きて和室の仏壇を前にした加藤の頭中に、再び似たような疑問がもたれかかる。
 美咲は司であろうとし、そして美緒であろうとした。本当の自分を殺して父に尽くそうとしていた。
 俺はそんなことを望んだ覚えはないのに……。

 ……「お父さんをよろしくね」……。美緒、お前が遺した言葉も美咲に呪いをかけたかもしれないぞ。

 美咲、俺はそんなに辛そうに生きていたか?
 加藤は一番新しい位牌に問う。本当のお前はどこにいたんだ、と。
 まったく……誰に似たのか、お前は人が好すぎたんだ。
 お前の人生の主人公はお前なんだぞ……美咲。

 仏壇に、美咲が好んだコーヒーを供える。
 この好みすら借り物だったのではないか。
 加藤にはそう思えた。

 気を取り直して着替えをし、加藤は玄関を出る。
 家にいると気が滅入るのだ。事故現場までの散歩が加藤の日課になりつつあった。

 途中で花屋に寄って適当に花を買う。急に湧いた不似合いな常連客にも、花屋はいつも優しかった。
 まあ商売なのだから当然ではあるのだが。

 事故から10日以上が経ち、現場の花は日に日に数を減らしていく。
 こうして人の記憶から消えていくのだ……存在は。

 反対側のたもとに女性がいた。遠目でも判る……堤加南子だ。
 加藤がいるのを認め、登るのをためらっているようだ。美咲を愛してくれた女性……。
 言い尽くせぬ思いはあるが、それはわざわざ言葉にするものではない。加藤は堤に深々と頭を下げてから、この場所を譲るために反対側へと橋を降る。
 そういえば今日は大晦日だったな。どうでもいいが……。

 夕方、加藤がコタツでひとり、家族のアルバムを開いて感傷に浸かっていたところ、不意にインターホンが鳴った。
 今年もあと四半日で終わろうというときに、いったい誰だ?
 玄関ドアのレンズを覗き込むと、大きな瞳が反対側から加藤を覗き込んでいた。
 うわっ……ビックリした。こんなベタなイタズラをされたのは初めてかもしれない。加藤は玄関を開ける。

「……どうした?」

「どうもしねえよ。こんなときにひとりで年を越すのは寂しかろうと思って来てやった。迷惑だったか?」

「こんばんは」

 岩崎と富永だった。富永の手には大きなビニール袋が2つ……いや、3つか……ぶら下がっている。

「……ああ、迷惑だな」

「お邪魔しまぁーす」

「あ、こらっ」

「と、いうことだ。邪魔するぞ」

 有無を言わさぬつもりか。
 ……まあ悪くはないが。

「うわっ可愛いー。お父さん若ーい」

 富永がコタツの上のアルバムを見つけたようだ。
 嬌声を上げている。加藤はなんだか気恥ずかしい気持ちになった。
 ……諦めるか。

「分かった、あがってくれ」

「ああ、お邪魔する」

 加藤は岩崎を招き入れた。ダイニングに行くと富永が台所でビニール袋の中身を広げている。

「お父さん、今日は鍋ですよ。みんなで紅白観ましょうよ。ええと……鍋は……あ、あった」

「何か手伝おうか?」

「大丈夫です。任せてください。……ちゃんと勉強してきましたから」

「加藤、気を付けろ。とんでもないものをつくりそうだ」

「……そのようだ」

 加藤は台所に行き、白菜と格闘する富永を見やる。その手つきはおぼつかない。
 仕事とは違い、料理は不得手のようだ。
 ……仕方がない、と加藤は加勢した。……というよりは、ほとんど加藤の手により鍋の材料がこしらえられた。


「じゃあ、いただきまーす」

 富永の声援を受けて加藤が調理した豆乳鍋が完成した。3人で酒盛りを始める。岩崎も富永も躊躇なくビールを空ける。
 こいつら……どうやって帰るつもりだ?

「しかし大変な師走だったな、加藤」

「まあな。だが、お前と富永君のお陰で救われたよ、本当に。仕事も速かった。驚いたよ、正直言って」

「そう言ってもらえると、富永も頑張った甲斐があるってもんだ。たいしたもんだろ? こいつ」

「ああ、ほんとにな」

「今日はどうしたんですか課長。……お父さん、いつもはちっとも誉めてくれないんですよ」

「まあ職場では仕方がないだろう。しかし、うん……ほんとに大したもんだ。料理はからきしのようだがな」

「あ、お父さんひどーい」

「俺には判るぞ、富永。ほんとは男なんだろ? お前」

「あ、それ、なんとかハラスメント」

 この部屋にこんな和やかな時間が流れるのは久しぶり……いや、初めてかもしれない。
 加藤も久しぶり、酒に体を預けることにした。

「……しかし加藤、俺は思うんだがな」

「うん?」

「美咲ちゃんはある意味、携帯電話に殺されたんじゃないかな」

「……ああ、ある意味、な」

「だろ? 美咲ちゃんがやっていたことは、俺たちの頃みたいに携帯電話がない時代なら、そもそも中学生ひとりにできるようなことじゃない」

「そうだろうな。だが俺は堤先生を責めるつもりはない。ねだられたら俺が買ってやっていただろうからな」

「携帯電話は怖いぞ。簡単に人を傷つけるし、殺すことだってある。剥き出しの凶器だと思わないか?」

「確かにな。……しかも諸刃だ」

「でもフィルタリングとかありますよ。子どものために」

「あのなお前、あんなものは電話会社が貴重な客層を逃がさないための口実だ。与えられた子どもがそれで満足するわけねえよ、絶対。なあ加藤」

「……さすがに言い過ぎのような気もするが」

「言い過ぎじゃねえよ。本来、子どもに持たせていいもんじゃないんだ。昔の、電話だけしかできない携帯とは違う。なんだってできるんだ。いじめでも、脅迫でも……それこそ売春でもな。危なさで言えばナイフなんか可愛いもんだ」

「課長、相当嫌いみたいですね。携帯電話が」

「他人事みたいに言うな。お前知ってるか? 携帯電話ができてから110番は倍以上になったんだぞ。今はなんでもすぐに通報だ。ことの大小が見えにくい」

「……それは……でも、いい面もありますよね。何かあったときにすぐ通報できるんですから」

「そういう時代なんだよ、岩崎」

「時代のせいじゃない、人間のせいだ」

 それからも、しばらくは岩崎の独壇場だった。
 まるで親の仇のように岩崎の携帯電話談義は留まることがなかった。
 よほど肚に据えかねていたようだ。

 まあ、携帯電話が世の中を大きく変えたことは加藤にも解る。
 その変わり方が、ある意味では技術の進歩に併せた緩やかなものだったことも今の惨状の一因だ。茹でガエル……。それが今の社会の状態だ。

 携帯電話がはじめから今の機能を備えて登場していれば、岩崎の言うとおり、所有に厳しい年齢基準が設けられていたかもしれない。

 富永は付き合い切れないとばかりに、美咲の部屋から勝手に持ってきた知恵の輪と格闘している。
 無秩序で無遠慮な心地よい時間が流れていく。



「お父さぁん。わたし、今日は帰りませんよぉ」

 富永はしたたかに酔っていた。くねくねと加藤にまとわりついてくる。……仕事の時とは別人だ。

「……おい岩崎、お前のところは美人局までやってるのか?」

 岩崎が笑う。

「そうだ。そしてそいつはうちの稼ぎ頭なんだ」

「ひっかかったらどうなるんだ?」

「お前は俺の言いなりだ」

「そうか」

「あーっ。また課長が悪口言ってる」

「なんのことだ?」

「知りません。ぷいっ」

「……ごきげんだな、富永」

「し、知りませんっ。ぷいっ」

 そのあと、岩崎と加藤は昔話に花を咲かせた。
 富永は始めこそ興味津々に聞き入っていたが、すぐに飽きて「あいかぎー、あいかぎー」とか言いながらダイニングの収納をまさぐっていた。
 放っておこう……。本人は楽しそうだし。

「……加藤、絶望するなよ」

「ん?」

 岩崎が急に真剣になったので、加藤は思わず聞き返した。

「絶望か……。どうだろうな。まあ、しばらくは生きるさ。親より先に死ぬのが不孝だということはよく分かったんでな」

「お前の親御さんはなんて言ってんだ?」

「『まだ若いんだから、もう一度お前の人生を生きろ』と言われたな、たしか」

「同感だ。お前みたいな奴が不幸な世の中は間違っている」

「それは大袈裟だ。世の中は俺なんかよりずっと不幸な人が山ほどいる。それも理不尽にな」

「そうかもしれねえが、それに気兼ねする必要はないだろう」

「解ってるさ。そんなことは」

「……ならいいんだが。ん、富永が寝たか」

 富永を見ると、変な体勢でコタツに潜り込んでいびきをかいている。

「……どうするんだ? これ」

「捨てていく。……そうだな、俺はそろそろ帰るぞ」

「なに? 置いていくのか? このまま」

 岩崎が悪戯な笑みを浮かべる。

「ああ、持って帰れそうにないんでな。家内が車で迎えに来てるんだ。帰るぞ」

「さすがにまずいだろう、それは」

「まずいことはない、なんにもな。明日、加藤の家で目を覚ました富永の顔が見られないのが残念だが」

「何かあったらどうするんだ」

「さっきも言ったろ。その時は、お前は俺の言いなりだ。……まあ、よろしくやってくれ。じゃ、またな」

 加藤は玄関で粘ったが、岩崎は本当に帰ってしまった。仕方がなく加藤はダイニングに戻り、恐る恐る富永の寝顔を覗き込む。
 熟睡している。胆が座っている、の一言で済むのか? この無防備さは……。
 岩崎の言いなり……か。その生き方も悪くないな……。

 よだれを垂らして寝ているこの富永をどうこうするとかは別にして。

 間もなく今年が終わろうとしていたとき、卓上に置かれた加藤の携帯電話が鳴る。

 岩崎か? おおかた富永が心配になった。そんなところだろう。

 裏返しに置かれていた携帯電話を手に取り、なんの気なしに加藤は液晶画面を見る。


   #BNZ/531+zt5n



「……はい、加藤です」

(ああ、加藤さん。夜分にすみません、村田です。そろそろ落ち着いた頃かと思いまして。今、大丈夫ですか?)

「大丈夫だが何の用だ? 生憎だが俺はあんたに用などないぞ」

(いえ、この前のお話の続きを……と思いまして)

「あの話に続きがあるのか? あんたが言った医療チームとやらは確かに来た。来たが結局美咲は死んだ。まさか、それでも俺から治療費を取ろうっていうのか?」

 コタツに入って穏やかな時間を味わっていた加藤の語気が自然と荒くなる。
 なんなんだこいつは……。
 人の一大事にいちいち水を差しやがって。

「だいたい、この薄気味悪い電話番号はなんだ? 俺はあの晩、かけ直したんだぞ。……美咲が死んでから」

(申し訳ありません。その都度で違う番号になってしまうので……)

 世界随一のIT企業とはいえ、あまりに失礼が過ぎるだろう。

 どのみち美咲は死んだのだ。
 こんな話はどうでもいい。どうでもいいからこんな電話はさっさと終わらせよう。

「まあいい。それで、いくらなんだ? 無駄骨の代金は」

(いえ、おカネの話ではありません)

「……なんだと?」

(この前の電話でお話ししたとおりです。……加藤さん、美咲ちゃんともう一度、話がしたいと思いませんか?)

「俺もこの前言ったとおりだ。もう一度言うぞ。あんたは何を言ってるんだ?」

 いったい何が目的だ? ……俺を精神的に潰そうというのか?

(……加藤さん)

「なんだ? 言ってみろ」


(……私たちは、美咲ちゃんのこころをお預りしています)
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