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第二幕
わたし Chapter.8
しおりを挟む悪路も悪天候も関係無い!
左右に繁る暗緑の樹木が高速に滑り去る!
背後に轟く雷光は高鳴る鼓動の顕現か!
サン・ジェルマンが駆るジープは、猛スピードで泥濘む土肌を走り続けた!
街中は避ける!
疾駆に障害である事もあるが、何よりも街の人々に〈娘〉を見られれば厄介だからだ。
大回りに進路を取り、一路、雑木林沿いを爆走した!
「では〝ハリー・クラーヴァル〟は偽名だと?」
助手席からの訊い掛けに、サン・ジェルマン卿は悪路を睨み据えつつ答えた。
「そうとも言えるし、違うとも言える。私がハリー・クラーヴァルとして生きた時代は、確かに在ったのだからね」
「何故、偽名などを?」
「悠久たる時代の流れの中に在って〝不変の個〟など理不尽な枷でしかない。それは神から課せられた獄刑と同じだ。だからこそ、時として生まれ変わる事で、魂の閉塞感を緩和したくなる時期もあるのさ」
「そして理由は、もうひとつ……迫害から逃れる為」冥女帝の開口に、バックミラー越しの一瞥がピクリと反応する。「人間の世で生きようとすれば、やがて不老不死の異能特性は顕著に認識されてしまう。そうなれば口先三寸の取り繕いなど不可能──やがては脅威に駆られた暴徒によって迫害の憂き目に遭う。その魔手から逃れるには、住み慣れた地を離れるしかない。そうした流浪の中で安住を得る為に別人を演じる必要があった。違うか?」
「私やウォルフガング・ゲルハルト──いや、ヨーゼフ・メンゲレと呼ぶべきか──は、そうして生き延びてきたのだよ……激動にうねる時代の変革を」
「ウォルフガング・ゲルハルトも、そうした存在だったのですか……」
ブリュンヒルドにしてみれば初耳な情報である。
同時に何故か納得に足るのであった──あの男の奇異性に。
確かに、彼は〝人間〟であった。
否、その異能が〝不老〟という内包性質では外的印象から嗅ぎ取る事など不可能だ。
しかしながら、幾度と我を交える事で、ブリュンヒルドは違和感にも似た異質を感じていた。
その冷徹な猟奇性だ。
あまりにも冷徹過ぎる人格は、はたして如何にエゴイストとはいえ常人が到達できる域ではないように感じられた。
しかし、常人ではないとしたら?
悠久ともいえる時代の流れに生き永らえる事で、常人としての価値観が失われていたら?
だからこそ、サン・ジェルマン卿の説明に至極納得するのだ。
そして、彼もまた〈怪物〉であったのだ……と。
時代が生んだ怪物であったのだ……と。
「だが、私と彼には相違がある。ひとつは〝不死体質〟を得た経緯。彼は自ら固執的に望んで〈科学〉によって〝不老体質〟を得た。だが、私は〈魔術〉──いや、正しくは〈錬金術〉と呼ぶべきか──によって〝不老不死〟を得たのだよ」
「錬金術? 噂程度に聞いた事はありますが……何です?」
怪訝を挟むブリュンヒルド。
神話時代を基盤に生きた彼女は、後世のオカルト事情には正直明るくない。
その事を察したサン・ジェルマン卿が要約に説明する。
「要するに〈科学〉の前身学問分野だよ。人類にとって超常的行使術であった〈魔術〉や〈魔法〉は、旧暦中世に於いて理路整然化しようとする研究の流れに推移した。つまりは、そのプロセスを解析しようとする神秘学が〈錬金術〉だ。それ自体は前時代的なカルト性によって根絶の憂き目に遭ったが、そこで蓄えられた膨大な知識の礎は合理的な理論へと昇華結実し、やがて〈科学〉となったのさ。多くの人々は知らぬままだが『化学ノウハウ』や『蒸留技術』など〈錬金術〉が生み出した基礎科学は決して軽視されるべき物ではない」
「は……はあ……」
納得に至らない納得を浮かべていた。
些か難解であった事を承知に、サン・ジェルマン卿は微かな苦笑を浮かべる。
が、それも一瞬。
すぐさま真剣味に引き締まり、述懐を続けた。
「かつて、とある錬金術師──或いは〝魔術師〟か──が『不老不死の探究』に没頭していた。その集大成として生み出された生命が、この私──不死身の男〝サン・ジェルマン伯爵〟なのさ」
「錬金魔術による人造生命体──即ち、そなたは〈ホムンクルス〉か」
ヘルの暗い指摘に、忌まわしき想いを噛んで頷く。
「それも〈唯一無二のホムンクルス〉と呼べるだろうね。総じて〈ホムンクルス〉は蜻蛉の如く短命だ。多くは〝人間〟よりも寿命が短い……況してや、不老不死たる〈ホムンクルス〉など現存しないだろう」
「……〈完全人造生命体〉というワケか。成程。だからこそ、父上と邂逅した事もあった。その封印地を探り出すにも、費やせる時間は無限に有るのだからな」
「かつては〈アステカ〉も〈バビロニア〉も体験しているさ」
自然の剛力にタイヤを持っていかれそうになり、卿は荒いハンドル捌きで立て直した。
「すみません……その〈ホムンクルス〉とは?」
またも神話時代の無知が、話の腰を折る。
「〈錬金術〉に於ける最大秘奥義のひとつにして、彼の〈賢者の石〉と並ぶ永久的命題のひとつだ。即ち、魔術によって〈人間〉を生み出そうとする禁忌実験だよ」
「生命の……創造?」
ゾッとする事実を想起し、ブリュンヒルドは思わず後部座席の〈娘〉を盗み見た!
死体を縫合した再生被造物──忌まわしき科学実験の落とし児────それ故に、彼女はどれだけの悲劇を背負ってきた事か!
だからこそ、抑えきれない憤りに任せて吠えるのだ!
人類の愚かしさに対する糾弾を!
「何故、そのような魔術実験を! 摂理に反した暴挙を! ともすれば、神の意に対する反逆ではありませんか!」
「愚直だな、ブリュンヒルド嬢。人間の性だよ。定命であらばこそ〈永遠の命〉を欲し探究するのは……」
「ですが!」
鎮まらぬ憤慨を無下に遮り、サン・ジェルマン卿は平静に続ける。
「さりながら、この非倫理的『生命創造』は、崇高な理念の下で実験され続けたのは事実だ。ひとつは、純粋に『不老不死への願望』──私の場合は、まさしくこれに該当する」
「……もうひとつは?」
不信感にも似た戦乙女の疎みを一瞥し、道程の正視に回答を示す。
「……『生命創造プロセスの解析』さ。生命の創造とは、即ち『神の領域』と同義だ。それを得る事によって自分自身を〈神〉と昇天同格化する事こそが、多くの錬金術師の根底的目的なのだよ」
「神に並ぼうなどと! それは傲慢というものです!」
「フッ……見くびられたものだな、我々〈神〉も…………」
感情的に呑まれるブリュンヒルドに反して、冥女帝は涼やかだ。
何故ならば、彼女は知っている。
人間というものが、如何に〝死〟という呪縛を畏れているかを……。
ともすれば、知識探究の果てに凌駕せんと足掻くのは当然と言えるだろう。
「それで? 何者なのだ? そなたのような特異存在を生み出した魔術師は?」
「……〝クリスチャン・ローゼンクロイツ〟! 後の旧暦中世時代には、史上最大の魔術秘密結社〈薔薇十字団〉を設立した大魔術師だ!」
豪雨の重みを煩わしさに、サン・ジェルマン卿はハンドルを舵切った。
はたして、それは内なる嫌悪感の顕れやもしれないが……。
「いつの時代の人物だ?」
「十七世紀──旧暦中世だよ」
「時代が合わぬな。旧暦十七世紀の人物なれば、十六世紀に滅亡した〈アステカ〉や紀元前文明たる〈バビロニア〉へ、そなたが訪れる事は叶わぬ」
ヘルの指摘は、相変わらず本質を穿つものだ。
サン・ジェルマン卿は乾いた自嘲を軽く浮かべる。
「クリスチャン・ローゼンクロイツが表舞台へと姿を見せたのが、十七世紀だったというだけの話さ。彼自身は、遥か古代から存在していた」
「しかし、そんな以前から生きているなど──」そこまで口にして、ブリュンヒルドはハッと思い当たった。「──まさか貴方は、そのための……不老不死を完全にする為の実験体?」
返事は無い。
ただ黙して悪路と闘うだけであった。
思い沈黙を共有し、やがてサン・ジェルマン卿は次なる話題進展を切り出した。
「私とメンゲレの次なる相違は〝欲〟の在り方だ。彼は〈第四帝国〉──即ち〝人造超人による現人類の支配〟を野心としていた。そして、その頂点に君臨する事を……ね。嬉々と〈ナチスドイツ〉に参加したのも、自らの研究にとって願ったり叶ったりの後援組織と利用できるからだ」
「では、貴方の〝欲〟とは?」
暫しの間を噛み締め、サン・ジェルマン卿は吐露のように紡ぎ出す。
「……死ぬ事だよ」
「そんな? それは……」
間違っている──そう主張しようとしたものの、ブリュンヒルドは言葉を呑んだ。
謀らずも、この場に居る者は定命を凌駕した人外ばかりだ。分からぬではない。
況して自分は〈北欧神館〉に、ヘルは〈冥界〉という適応環境に生きていた。
しかしながら、サン・ジェルマン伯爵は──そして、ウォルフガング・ゲルハルトは──違う。
人間社会だ。
見渡せば〝定命の人間〟ばかりの環境である。
そうした渦中での疎外感や虚無感は計り知れない。
そして、常に奇異への偏見に晒され、迫害に畏れて生き続けねばならない……。
サン・ジェルマン伯爵が〝人並みの死〟を望み、ウォルフガングが独善的な選民意識に自己逃避して歪むのも、一概に否定できる在り方ではないだろう。
それでも──「死んでいい命は無い」──後部座席に眠る戦友を改めて眺めた。
彼女なら、どういう答に行き着くのであろうか?
神への謀反と生まれ落ち、迫害に忌避され続け、それでも〈生命〉を慈しむ彼女ならば……。
そんな憂いが観察視されていた事を、戦乙女は気付く事もなかった。
悠久の流れに魂と向き合ってきた冥女帝の一顧に……。
(形はどうあれ、此処に集った者達は皆同じ。定命の理から外れながらも、それ故に〈命〉と向き合い、葛藤している者達だ)
死ねぬ男〝サン・ジェルマン伯爵〟──。
戦乙女と転生した神話時代の王女〝ブリュンヒルド〟──。
そして〈冥女帝〉たる自分────。
奇しくも不老不死の体現者であり、定命への愛をジレンマと抱く者達である。
(だからこそ、我も惹かれ集うた……か。いや、或いは──)
隣座席へ視線を流す。
横たわるのは、総ての元凶たる巨躯。
(──誘われたか……この者に…………)
噛み締めるかのように瞼を綴じた。
「それで? 何処へ向かおうと言うのです?」
ブリュンヒルドがサン・ジェルマン卿へと訊ねる。
「彼が生まれた場所だよ」
「それは?」
「フランケンシュタイン城だ」
雷鳴が歓喜に轟いた。
切羽詰まった来訪者のように、大粒の雨が窓を乱打する。
気持ち鎮まった矢先にまた雷光が轟き、不安を再び掻き乱す。
嫌いだった。
昔から、こういう天気は怖くて嫌いだ。
マリーは窓辺に眺めるのをやめて、ベッドへと潜り込む。
頭からタオルケットを被り、大きなぬいぐるみを添い寝の友と付き合わせた。
室内が青白いストロボに浮き彫りとされ、数秒遅れで雷鳴が威嚇を吼える。
それが幾度となく繰り返される。
自分の部屋に魔物が棲みついたかのように不穏であった。
だから、とりとめの無い思索に意識を逃がす。
(さっきの鳴き声、何だったのかな……)
答は無くていい。
幼児なりの現実逃避だ。
(大人達は兵隊さんが倒してくれた──って安心しているけど……ううん、たぶんその通りだわ。だって、鳴き声が止んだんですもの。でも、その兵隊さんたちの方が、何倍もこわい人たちなのよ?)
その事を想起すると、同時に浮かぶ想いが胸を締め付ける。
(……お姉ちゃん)
──そこまで〝会いたい〟という気持ちが強いなら会うべきです! でなければ、貴女は一生後悔する!
もうひとりのお姉ちゃんが後押ししてくれた言葉が、小さな胸に灯火と揺らいだ。
モヤモヤと煩った闇から、彼女を救い出す道標のように……。
(明日、会いに行こうかな……)
不確かな決意に微睡む。
やがてスヤスヤとした寝息は、畏怖を強いる雷鳴すら忘却させた……。
漆黒の大海に溺れるが如く〈娘〉は沈んでいく。
抗う気は無い──否、そんな気力など、最初から生じなかった。
とうに精根尽きている。
身を委ねてたゆとうだけだ……。
(私は……どうなった?)
最後に網膜へと焼き付いたのは、白く染まる世界。
現状とは正反対な光景。
(ああ、そうか……ロキだ…………)
ようやく思い出す──己の末路を。
仰臥に堕ちて逝く──。
深淵へと────。
奈落へと──────。
恐怖は無い。
感慨も無い。
ただ受け入れるだけであった。
安らぐ感覚が五体に纏わり着き、誘眠を真綿とくるんで来る。
(私は……死んだのか?)
自分には無縁な事象だと思っていた。
(……死ねたのか?)
ともすれば、それは仄かにも嬉しい。
己の異常性が、ひとつ否定されたのだから……。
己が〈怪物〉たる異常性を…………。
背後の湖底から水泡が昇っていく。
過ぎ去り消える泡は、ひとつひとつが異なる情景を包み込んでいた。
長閑な田園──。
風情在る赤煉瓦の街辻──。
小鳥囀ずる湖畔────。
どれもこれも初めて見る景色だ。
さりとも、総てが懐かしい。
それは不思議な光景であった。
人間達は忙しなく行き交うも、理不尽な畏怖に媚びる様子など無い。
何よりも空は青く、雲が白い。
どこまでも続く青は〈娘〉の心を驚嘆へと解放し、嬉しくも哀しい感情を揺さぶった。
(これは……旧暦?)
書物で知った情報と照らし合わせる。
──懐かしいな。
自分の内で誰かが懐古した。
(誰だ?)
心底に居る他人へと戸惑う。
──懐かしいわね。
また別の誰かが懐古を呟いた。
(誰なんだ?)
間違いなく心底に……否、魂の奥底に誰かが居る!
自分の知らぬ誰かが!
二人だ!
男と女だ!
青年がいた。
目の前に立つ青年は見るからに温厚で優しそうだった。
それは慈しみに見つめる瞳が暗に裏付けている。
(……フォン・フランケンシュタイン?)
その名を呼ぶと〈娘〉には涙が零れた。
初めて会った青年だ。
面識など無い。
それでも、懐かしかった。
胸が締め付けられた。
込み上げる感情が何なのか理解できないまま、抱き締めて欲しい狂おしさが暴れた。
だから──涙が零れた。
青年は愛しさに微笑むだけ……。
されど、その眼差しは〈娘〉を捕らえてはいない。
まるで〈娘〉が見えていないかのように、その背後へと愛情は注がれていた。
示唆されたかのように振り向く。
女性がいた。
繊細なドレスを気品に纏う令嬢だ。
初めて見る女性だ。
たおやかで……可憐で……儚くて…………。
そして、何よりも自分に似ていた。
(……エリザベス・ランチェスカ?)
その名を呟くと〈娘〉には狂おしさが暴れた。
ずっと会いたかった。
彼女を見つけた途端、抱き締めたい衝動に駆られた。
だから──涙が溢れた。
会った事など無いというのに……。
彼女は、ただ慈しむだけ……。
されど、その憂いは〈娘〉を認識してはいない。
まるで〈娘〉が存在していないかのように、その背後へと慈愛は注がれていた。
──エリザベス・ランチェスカ……。
──フォン・フランケンシュタイン……。
惹かれるままに歩み近付く二人。
ずっと焦がれた想いに委ね、強い抱擁にひとつとなった。
尽きぬ涙に戸惑う〈娘〉を透過として……。
──もう放さない……。
──もう離れない……。
──ずっと……ずっと…………。
その者達が何者なのか──〈娘〉は知らない。
だが、体感を通じて確信できた事があった。
直感的に理解できた事があった。
自覚を帯びない感情が教えてくれた事実が……。
(嗚呼、そうか……私は…………)
〝フォン・フランケンシュタイン〟にして〝エリザベス・ランチェスカ〟────。
〝エリザベス・ランチェスカ〟にして〝フォン・フランケンシュタイン〟────。
この身体は〝エリザベス・ランチェスカ〟の物──。
この脳は〝フォン・フランケンシュタイン〟の物──。
死してひとつとなった恋人同士──。
もはや離れる事もない二人──。
では、私は何だ?
総てが借り物……。
生者を模倣した死体……。
継ぎ接ぎだらけの醜い失敗作……。
私は……私は…………?
私は、誰だ?
恋火の抱擁と重なり、自分が虚影と熔けていく。
そして〈娘〉は、深い闇に呑まれた。
生も死も平等な深淵へと……。
私は……誰だ?
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