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第一幕
ともだち Chapter.1
しおりを挟む闇暦二九年──。
昼の陽射しも慢性的な黒雲に遮蔽され、曇天の如き淡い光源にしかならない。
日中は黒月の発光も鎮静化する。
ダルムシュタッドの町外れに在る老人の家では、今日も美しく澄んだ音色が奏でられていた。
ヴァイオリンの調べだ。
質素な木造家屋を繁り囲う木々は魔樹のシルエットと化して情景の仄暗さへ溶け込み、その根元を縫うように小川がせせらぐ。山から涌き出る清水のせいか、幸いにも魔気に毒されてはいない。健常体の水だ。
家屋からは仄かな温かさが洩れ、奏でる弦が唄と流れ漂う。
慢性的な闇が染め上げる現世魔界に於いて、それは不釣り合いな叙情ではある。
さりながら、その旋律は浄化のような安らぎを周囲に拡散した。
この音色にたゆとう間だけは、不思議と心に情景が広がった。
見た事すら無い情景が……。
青は澄み、緑は萌え、風はそよぎ、鳥は囀ずる──その夢想の中では〈娘〉も万物に受け入れられていた。
やがて終幕を迎える、かけがえの無い時間……。
寂しくも満ち足りた想いを抱いて〈娘〉は夢から醒める。
目の前に居る奏者──ロッキングチェアに座る盲目の老人は暖炉の暖かさに揺れつつ、愛用のヴァイオリンを静かに膝元へと置いた。
「ありがとう」
心から惜しみ無い拍手を送り〈娘〉は感謝の意を示した。
満足そうな温顔で応え、老人は席を立つ。
覚束無い足下を気遣い、すぐさま〈娘〉は寄り添った。
そろりそろりと安全を確保しながら、食卓へと誘導する。
「続きは、また明日な……」
「うん」
質素な樫卓へと相席する。
二人だけが共有する独演会ではあるが〈娘〉は待ち遠しくて仕方なかった。
「それはそうと、娘さん? お前さんが来て何日になるかの?」
マグカップのミルクを飲みながら、老人が切り出した。
「半年以上になる」と、答えて〈娘〉はハッと思い至る。「迷惑か?」
「まさか?」老人は白長い顎髭を撫でながら、優しい苦笑で否定した。「ワシは息子を亡くして以来、何もかもが嫌になってな──だから、こうして隠頓生活なんぞしておるんじゃが──来る日も来る日も孤独での。そこへお前さんが迷い混んだ。人知れず納屋なんぞに住み着いていたもんだから、そりゃ最初は驚いたが、話してみればなかなか誠実で聡明じゃないか。だとすれば、信用に足る人物──無断で納屋へと隠れ住んでいたのは、何か止むに止まれぬ事情があるのだろう──そう思えばこそ、ワシは〝オマエさん〟を受け入れたんじゃよ」
「ありがとう」
「それに、娘さんや? オマエさんには行く所なぞ無いのじゃろう?」
「うん、無い」
「だったら、ずっと此処に居ればいい。ここまで一緒に暮らしとったら、そりゃお前さん〝家族〟だろうさ?」
「そうか、ありがとう」
優しい皺が「うんうん」と頷く。
この〈娘〉の受け答えには、感情的な機微が窺えなかった。
というよりは、些か欠落していると言った方が正しいか。
然れど、悪意皆無な誠実さを感受させる。
だからこそ、盲目の老人は満足そうな笑みで受け入れるのであった。
それは、おそらく〝子供のような無垢な心〟故の非礼とも思えるから……。
一方で〈娘〉にしても、この老人は稀有な理解者であった。
彼は、あれこれと詮索する事をしなかった。
だからこそ名前を追求される事も無く、そのまま〝娘さん〟で通っている。
そして──幸か不幸か──盲目であった事から、彼女の醜怪な容姿を見られる心配が無い。
長く伸ばした前髪を垂らして醜い右顔面を覆い隠してはいたが、それでも一目見れば異様さに気付いたであろう。襤褸の長外套だけは纏っているものの、全身を繋ぎ留める縫合痕は隠しようもない。何よりも、この巨躯だ──彷徨の中で学んだが、普通の女性は、こんなに大きくない。
フランケンシュタイン城から逃走して一年弱──。
彼女は自分の居場所を見つけていた。
それは危うげな脆さにある居場所ではあったが、この世で無二の居られる場所だ。
老人が分け与えてくれたパンを受け取る。質素ながらも二人の昼飯だ。
「パン……おいしい……」
大事そうに一口食べると、自覚無き実感を小さく漏らし呟いた。
焦げた厚皮はボロボロと固かったが、それでも〈娘〉には充分な御馳走であった。
木の実よりはマシだ。あれは集めるのに時間が掛かる。
「アンファーレン」
「うん? 何じゃね?」
「ありがとう」
素直な感情を現す。
この老人から教わった〝優しさ〟に感謝する言葉──大好きな言葉であった。
ややあって、不意に玄関の樫戸が開く。
予期せぬ来客の反応を警戒して〈娘〉は身を隠すように縮こまった。外套衣の襟をフードと被り、奇怪な素性を隠蔽しようと試みる。
自衛手段だ。
彼女の姿を見た者は例外無く恐れおののき、そして、拒絶と加虐心に任せて迫害した。
此処へと辿り着くまで、幾度となく〈娘〉が体験した教訓である。
「おじいちゃん、いるでしょ?」
幼女の声であった。
ひとまずの安心を得た〈娘〉は警戒心を解く。
扉を開けて入って来たのは、愛らしい少女であった。まだ九才だ。
幼き身を軟らかな彩りに飾るピンク色のチャイルドドレス。赤いバケット帽からは、金髪のおさげが溢れる。腕に通す愛用のバスケットケースは、母親に手作りしてもらったお気に入りだ。
「あ、やっぱりお姉ちゃんもいた」
「うん、いた」
素直な鸚鵡返しを返事とする。
「何じゃ? マリーよ、また一人で来たのかい?」
出迎えようとする老体を気遣いに制して〈娘〉は代役と席を立った。
相手が幼い少女であるせいか、玄関先で並ぶと彼女の巨体が際立つ。
マリーは〈娘〉の顔を見上げ、ニカッと嬉しそうに歯を見せた。それに応えて〈娘〉も微かに微笑を含む。
まだ感情の表現が上手く出来ない……だから、これが精一杯の〝友情の証〟であった。
「マリー、一人で来た?」
先刻の老人の言葉を、そのまま繰り返す。
「そうよ?」
幼さ故に好奇心が先立ったのか、この少女は初見から〈娘〉に怯えなかった。
或いは、アンファーレン老人から受け継いだおおらかな気質かもしれない。
いずれにしろ〈娘〉の奇異性を百も承知で接してくれる〝かけがえのない友達〟であった。
来客であるはずの少女が、主導権を持って〈娘〉の手を引く。
こうして、いつもの三人が食卓を囲んだ。
「ああ、また何もしないパンだわ」
質素な食事を見て、マリーが呆れた。
「マリー、パンは何かをしてくれている」
「え?」
「私のお腹を満たしてくれている」
的外れな〈娘〉の返答に、マリーは大人びた溜め息で更に呆れる。
「そうじゃないのよ、お姉ちゃん。わたしが言っているのは、何の味付けもしてないって事なんですからね?」
「そうか、ありがとう」
「何を『ありがとう』なの?」
「教えてくれた」
暫くの間を置いて、少女は困惑の嘆息に沈んだ。
このお姉さんの事は大好きだが、どうにも常識がズレている。下手をしたら、自分よりも知識が無いのかもしれない──そう感じた時から、マリーは自発的に〝教育係〟を意識していた。
「たぶん、こんなことだと思ったの。だから、コレを持ってきてあげたのよ?」そう言って、バスケットケースから幾つかの瓶詰めを取り出す。「はい、イチゴジャムとピクルス……それから、すこしだけど蒸し鶏も」
「いちごじゃむ……」
初めて見る物体を、まじまじと〈娘〉は凝視した。赤いグチャグチャが瓶に圧迫される見栄えは〈娘〉の目にはグロテスクにも映る。
「なあ、マリー?」アンファーレン老人は微かに困惑を込めて口を開いた。「来てくれるのは有り難いが、一人で来るのは、もう止めておくれ? 可愛い孫娘が危険に晒されると思うと、ワシは心配で心配で……」
「デッドのこと?」祖父の心配とは裏腹に、少女は涼しい態度で食事の準備を進める。「だいじょうぶよ、おじいちゃん。このまちには〝兵隊さん〟がいるから、デッドなんかこないもの」
「……〈完璧なる軍隊〉か。しかしのう?」
釈然としない様子で白い顎髭を撫でた。
この世に『完璧』などというものは無い。万ヶ一という事もある。
人生の深みにそれを知ればこそ、老人は懸念を拭えないのだ。
「私が着いていく」
唐突に〈娘〉が宣言した。
瓶詰めジャムへの好奇心は逸らさぬまま。
「ついていく……って、お姉ちゃんが、わたしをおくってくれるの?」
「うん」
赤い瓶には見入る。
「かえりはいいけど、くるときは?」
「呼べばいい。聞こえる」
「きこえないわよ! おうちまで一〇分もかかるのよ?」
「大丈夫。聞こえる」
「きこえませんよーだ!」
「聞こえる。マリーの声だから」
実際〈娘〉は、嘘をついていない。
彼女の聴覚は常人レベルを遥かに超えているのだから。
ただし、万事を集音していては精神的に保たない。
そんな状態になれば、常時に於いて大騒音に煩わされる事になるだろう。心休まる瞬間とて無い。
だから〈娘〉は関心事以外に、この超聴覚は使わなかった。
生体的なスイッチのオンオフである。
だが、マリーとアンファーレン老人は〈娘〉にとって〝かけがえのないともだち〟だ。
だからこそ、常にオンとしても良い──そう判断した。
「じゃあ、わたしがピンチのときも、お姉ちゃんがたすけにきてくれるの?」
「うん、行く」
ジッとイチゴジャムを見据えながら言う。
「……そっか」
マリーは何故だか嬉しくなって、パンを大きく頬張った。イチゴジャムの芳醇な甘味が口の中で熟れる。
幼い少女なりの照れ隠しだ。
「……マリー?」
ようやく〈娘〉は目線を上げ、真顔で〝ともだち〟を正視した。
「なあに? お姉ちゃん?」
食べる手を休めずに、マリーが応える。
「いちごじゃむは、何の内臓?」
口に含んだミルクを思わず噴き出すアンファーレン。
あまりに突飛でグロテスクな発想に、少女は顔をしかめるしかなかった。
せっかくの食欲も減退したが、食卓は大笑いに包まれる。
ただ一人の朴念仁を措いて……。
慢性的な黒雲に覆われている闇暦だが、一応は昼夜の区切りが存在する。
陽光は闇の層に遮られて弱体化するものの判別可能だ。
日中は曇天宛らの薄暗さになるし、夕暮れは短く黄昏を染めるのだから。そして、夜ともなれば、黒月は自らの周囲に白き月光を吐く。
従って、少なくとも現状は夕刻だ。
街へと続く丘陵の野道を、大きな人影と小さな人影が連れ添って歩いた。
「ねえ、お姉ちゃん?」マリーが見上げて言う。「お姉ちゃんは、どうして街に来たがらないの?」
優しい困惑を浮かべ〈娘〉は答えた。
「私は行ってはいけない……嫌われる」
「そんなことないわ! 街の人達は、みんな優しいのよ?」
「そうだな……優しい人達だ」
それは知っていた。
実際に幾度かは、街へと忍び込んだ事もある。
物影に隠れて羨望に観察した光景は、彼等の長閑な善良さを〈娘〉に示してくれた。
石畳の広場では社交の雑談が笑みに交わされ、子供達は溌剌とした元気で遊び駆け回る。
坂道に立ち往生する荷馬車が在れば通りすがりが力添えをし、杖つく老人には周囲が気遣った。
何処かの誰かが困れば、何処かの誰かが手を貸す──そんな人達だ。
強く憧れた。
眩しさに惹かれた。
だからこそ〈娘〉は思う──自分は介入してはいけない……と。
それは、きっとこの世界を壊してしまう事になるから……。
かつて、サン・ジェルマンは言った──「外の世界は、とても怖い所なんだよ……君にとってはね。とても怖く、恐ろしく、残酷で、苦しい世界なのさ。君は、この城から出てはいけない……出るべきではないんだ」と。
その言葉の意味を、現在の〈娘〉は理解する事が出来た。
罵倒に投げつけられる石礫──容赦なく殴りつける硬い棒──幾度痛みを味わったかは数えていない……。
心の痛みを……。
普段は優しい人々も、一度〈娘〉の醜怪さを見れば豹変するのだ。
それでも〝人間〟を憎めなかった。
憎めない自分が恨めしくさえ思えた。
憐れであった。
だから〈娘〉は泣いた。
毎日……毎日…………。
ひたすらに慟哭した……。
然れど、現在は違う。
自分の掌には持て余す小さな手の温もり──それが心の痕を埋めてくれるから。
「……マリー」
「なに? お姉ちゃん?」
「私が怖くない?」
「顔のこと?」
「うん」
長い前髪を垂らしたところで、完全に隠し通せるはずもない。せいぜい遠目か一見程度にしか通用しない小細工だ。
当然ながら、マリーは〈娘〉の右顔面を朧気に見ている。
その醜怪さを……。
さすがに剥き出した眼球までは見えていないだろうが……。
「こわいわよ?」
屈託なく答えた。
「そうか」
当然の返答とばかりに〈娘〉は受け入れる。
「こわいに決まっているじゃない。顔だけじゃなく、体もキズだらけだもん。最初に見たときは〈デッド〉かと思ったわ」
「うん、ごめん」
何故か謝っていた。
「でも、しかたないわよ? だって、それだけの大ケガをしたんでしょう?」
「……うん」
この子と初めて出会った時に〈娘〉は嘘をついていた。
厳密にはアンファーレン老が取り繕った方便なのだが……。
致し方ない選択とはいえ、その負い目は心苦しかった。
正直、嘘は嫌いである。
たぶん、それは〝罪〟であり、この苦しさは〝罰〟だ。
「それにね? わたし、お姉ちゃん好きだもん」
またも屈託なく言う。
それは〈娘〉にとって、予想外の言葉であった。
「怖いのに?」
戸惑いを抱いて訊ねる。
「うん、やさしいから」
「そうか」
何故だろう……胸が温かく、そして苦しかった。
けれども、この苦しみは辛くない。
これまで味わった〝寒い苦しみ〟とは違う。
それを人間は〝愛情〟と呼ぶ事を〈娘〉はまだ知らない……。
「マリー」
「なに? さっきから?」
「ありがとう」
心から涌き出る想いそのままに〈娘〉は微笑みを捧げた。
小さなともだちは暫く不思議そうに見つめていたが……やがて温かな笑顔を与えてくれた。
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