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~第三幕~
銀弾吼える! Chapter.1
しおりを挟む自動車の助手席から頬杖に地平を眺め、夜神冴子は牧歌的な長閑さを反芻した。
一望の絶景には畑の茶色が広がる。遠景の山々は深い緑を神様からの囲いと誇示して、淡く白味掛かる青空と霞み融けていた。時折、土面の波間で動く黒い点は、はたして牛か耕耘機か。
「ブモォーー……」
遠鳴きした。
(あ、やっぱ牛だ)
とりとめのない思考逃しの答え合わせ。
日本は東北地方に在るこのしがない田舎町は、約一五〇世帯以下で構成されていた。
都会の洗練に憧れたか……或いは易く毒されたかは知らないが、それなりに拓けた施設は林立している。取り分け、全国規模で展開するチェーン店舗はジワジワ侵食する潮のように地方へも広がるのだから、商業主義の波紋からは当然ながら免れない。利便的な恩恵ではあるが。
ともしても、そうしたテナントビルが囃す賑わいは概ね駅前に集中しており、一度領域から外れれば、コンビニ間の距離ですら軽いサイクリングコースだ。道なりには簡素な住宅が遠慮した間隔で連なり、地元生活に密接した商店街ですら気軽に出向くにはメンドクサイ位置に離れている。いずれにしても歓楽区画を離れれば、往来の姿は少ない。
「夜神刑事」
運転席の中年刑事から呼び掛けられ、気だるく態勢を座り直す。
「……冴子でいいですよ、織部刑事」
覇気萎えて返しつつ、差し出された間食を受け取る。
神経質そうな細面ではあるが、印象に反して柔和な物腰の男性であった。
とりあえず正面への注視に復活すると、開封して一口食む。
定番のアンパンかと思いきや『ランチョンパック』のストロベリージャム味。おまけに牛乳ではなくレモンティー。このオッサン、デキる。
彼女達が観察力を傾けているのは、年季に格式を生んだ木造旧家であった。
敷地内を隔離に囲う高い白塗りの壁は瓦屋根から松の植え込みを披露し、広く構えた杉板造りの門構えは小脇に据えた勝手口が如何にもな歴史の風格を感受させる。
地元では有名な名旅館〈茶乾亭〉だ。
正門の様子を窺い続けて二時間以上経つが進展は無い。
俗にいう〝張り込み〟というヤツは、見るとやるとで大違いの精神的重労働であった。
とはいえ、念願の〈刑事〉になれたのだから仕方ない。
キャリアも無い小娘が、こうして憧れの職業へトントン拍子で就けたのだから御の字だ。まあ、叔父が警部というコネはあったにせよ。もっとも昇進試験を見据えて、人並以上の猛勉強はした……と、軽く自尊を添えておく。
女子高生感覚で頬張る様を苦笑い、中年刑事は与太話に訊ねてみた。
「君は、どうして〝刑事〟なんかを志望に? 正直、割の合う職業でもないだろうに……況してや、女性の身では」
「下らない動機です。子供の時に見た〈正義のヒロイン〉に憧れた……そんだけ」
咀嚼の粘り感をレモンティーでクリアリセットする。
「漫画家やアニメ会社でも良かっただろう?」
「やる方になりたかった……そんだけです」自嘲孕みの肩竦めにレモンティーを含む。「ガキくさいですか?」
年輩刑事が眉根を曇らせたのは、動機云々よりも若い娘の言葉使いが少々はしたなく思えたからだ。
「いいや? 実際、動機そのものは、たいして意味が無い事だ」
じゃあ、何で訊いた──そう沸き立つツッコミを、冴子はレモンティーで飲み込む。
「肝心なのは、結果だからな」
「は~い、頑張って結果出しま~す」
「来たぞ!」
叱咤にも似た示唆がグダグダな会話を掻き消す。
正面へと注視を戻せば、外出帰りの外国人が姿を現していた。スーツ姿の金髪は、田舎風情には場違いな違和感を主張している。
こんな特徴は、いまのところ目的の被疑者以外にない。
「行くぞ」
言い捨てて、織部刑事は車外へと出た。
「あ、はい!」
釣られて後に続く。
玄関を潜る前に身柄を確保したい。
一瞬たりとはいえ、自らの使命を失念していた素人気質を反省する。
と、アスファルトに踵を刻むと同時に、冴子は微々と違和感を感じた。
「黒い……靄?」
それは排水路から溢れ出たのか──浅い嵩が、彼女の足下に甘え絡むかの如く漂う。
ややあって、うっすらとした黒綿は微風の息吹に撹拌されて失せた。
錯覚だ。
勤務時間を回り警察署から解放された冴子と織部は、それでも情報整理の勤勉さにレストラン〈ラ・リーズ〉へと赴いた。地元では高級な部類だ。
わざわざ個室仕様のテラス席を指定したのは、閉め出された環境の方が秘事を会話し易いからである。聞き耳など立たない。
右手の柵越しに視線を逃せば、敷地内に繁る竹林がベールと隠して笹の葉音を夜風に奏でた。益々以て御誂え向きだ。
闇に溶ける背高い竹影は、この上無く不気味な怪物であったが……。
「被疑者〝ハリー・クラーヴァル〟は、一転して犯人と昇華された……か」
緩やかな揺らぎを奏でる赤ワインを眺め、冴子は独り言めいて呟いた。
「当人が認めて自供しているのだから、別段疑う余地も無いだろうな」
対面席の織部刑事は煙草に火を着けると、沈むかのように紫煙を吐いた。
屋外の風向きに循環されて、こちらへと煙る。
勘弁しろ、オッサン。
ディナーが不味くなる。
「もう一度、情報を把握し直しておこうか」
「今更ですか?」
ローストビーフを食し始めたタイミングで言うな。
「初心は鉄則だ。見直す事で、見落としに気付く事もある」
銜え煙草が手帳の殴り書きに目を通し始めたので、冴子は内心渋々で従う。
納得には至らぬが、冴子は熟知した情報を口頭羅列する。
「容疑は『連続射殺事件』──此処二ヶ月月強で、四件もの射殺事件が起きた。数少ない目撃証言から、現場付近から立ち去る〝ハリー・クラーヴァル〟が浮かび上がり、身柄確保の令状が出されるに至る」
「いずれも銃痕は一ヶ所。頭や心臓などの致命箇所だ。それが〝何〟を意味するか解るか?」
「最初から明確な殺意があった?」
「二〇点……大負けしても三十五点だな」辛口採点に両断した織部が、虚空に一息燻らせる。「ヤツの腕前が相当だという事実だ。相応の場数を踏んでいなければ、これほど一撃必殺の成果は出せんよ。つまりマトモな人種じゃない」
「ギャング? それとも、マフィア?」
「さて……な。そこまでは洗わなけりゃ判らん。それに──」
「──銃ですね?」
「ああ」
ハリー・クラーヴァルから没収した拳銃は、実に不可解な代物であった。
白銀に輝くボディは、そこかしこに繊細な金装飾を施し、何処と無く時代錯誤な骨董感を漂わす。
おまけに構造を観察してみれば、どうやらオートマチック型だ。装飾に反した時代錯誤ぶりは胡散臭さを増幅させる。
一見には玩具にさえ思えた。
手にした際のズシリと重い存在感が、それを全面否定したが……。
無論、こんな銃など史実上に存在しない。
冴子にしてみれば、趣味でもないのに根詰めて資料検索をしたのだから間違いない。
更に不可解なのは、この奇銃が吽とも寸とも言わなかった事である。
冴子はもちろん、織部や他の刑事といった男手でも、トリガーすら動かない。まるで一体成型オブジェであるかのように頑として機能しなかった。
いやはや、どんな安全装置なのか。
無論、所持者に尋問はしたが、彼は意味深に嘯くだけである──「コイツ自身が選んだ者でなければ無理さ」と。
とんだアニメオタクぶりには、さすがの冴子も閉口する。
とりあえず物は〈科捜研〉行き決定となった。
「もうひとつある。先日、賀来さんから検死解剖の結果を聞いたがな」
「ああ、科捜研の」
「全部〈銀の弾丸〉だったそうだ」
「銀弾? 何で?」
「とは言っても、コーティングだったがな」
「メッキ?」
「と呼ぶほど安い物でもない。純銀によるコーティングで、層厚は約三ミリ。おまけに三ミリ程内部浸透もしている……どういう手品か知らないが。表層計六ミリ分は、間違いなく〈銀弾〉だ。いずれにせよ薬莢ならともかく実弾そのものに施しているのだから、酔狂な悪戯とするには結構な本気度だよ。消耗品如きに大枚を叩いている」
「銀の銃弾……ねえ?」スティックセロリをポリポリと齧った。「まるで……」
「まるで?」
「ああ、気にしないで下さい。単に〝オタク小娘の稚拙な空想〟ですから」
おどけた肩竦めに、織部は怪訝を向けた。
一方で冴子は釈然としない思考を夜空へと投げる。
月と目が合った。
目?
ギョッとした一瞬後には淀む単眼は失せていた。
錯覚だ。
新月は白い。
神聖な場所とはいえ、夜に神社を訪れるものではない。
別に『丑の刻参り』云々ではない。
そもそも、仮にそんな輩と鉢合わせしても、冴子には取り抑える自信と職権がある。
そうではなく、問題なのは〈神〉と〈魔〉は紙一重という真理だ。
厳格な威風を晒す大鳥居は、帳に神性を一転させて魔性を醸す。青空の下に清涼満ちていた神気が、青暗く深い閑寂には霊気と潜んだ。
神気──霊気──妖気────何と表現しても構わないが、つまりはそういうものである。
それでも冴子が〈戌守神社〉を訪れた理由は……実家だからだ。
「ただいまー……」
社務所裏に構える木造家屋へと帰宅する。
ガラガラと玄関の引戸が鳴くと、すぐさま妹が出迎えに出た。
「おかえり、お姉ちゃん」
「ん」
手持ちの紙袋を手渡して、疲労感のままにリビングへと足を運ぶ。
「何?」と、不思議そうな顔を浮かべる妹の頭を、軽く撫でて素通りした。
「ローストビーフのテイクア~ウト ♪ ……食べ残しだけどね?」
「え? じゃあ……お姉ちゃん〈ラ・リーズ〉へ行ったの?」
「行ったよー?」
背後からの質問に、萎えた陽気で返す。
「ズルい! わたしも、お姉ちゃんと行きたかったのに!」
「仕事」
「ズル!」
「今度連れて行くって」
「いつ?」
「そーねぇ? 再来週の土曜なら……どう?」
「ヤタ ♪ 」
無邪気な歓喜。
その愛らしい素直さは、軽い流し見だけでも冴子の疲労感を潤いに癒す。
「いけませんよ!」
不意に聞こえた厳格な制止。
その規律とした威圧に、妹の木漏れ陽は一転して陰りに沈んだ。
母である。
「その日は〝御務め〟が入っているでしょう!」
「あ……うん」
シュンと落とす落胆。
両者の間に挟まれた冴子にしてみれば、居心地が悪かった。
何よりも、こんな妹の消沈は居たたまれない。
「母さん、一日ぐらい別にいーじゃん? 年頃なんだから、まずは自由にさせてやんなよ?」
「冴子、あなたは口を出すんじゃありません! 部外者のクセに!」
「はぁ?」
「そもそも長女であるあなたが〈巫女〉を継げば……それを〈刑事〉などと酔狂な!」
「はぁぁ? 聞き捨てならないわね! コッチは心身擲って治安を守ってるんですけど! 街の人達が安心して暮らせるようにね!」
「夜神家が負うべき本分ではありません!」
「こんんんの! アッッッタマきた!」
「や……やめて! お姉ちゃん!」
いまにも食って掛からんばかりの憤慨を、割って入った妹が我が身を以て押し止めた!
「ちょっと! 放しなさいよ!」
「わたしはいいの! いいから!」
「良かないわよ!」
「いいの!」
強まった語気に思わず激情を呑む。
「今度〝御務め〟が無い日を作るから……その時、連れて行って?」
胸元に在る少女の瞳は潤みつつも、それでも健気に笑顔を飾っていた。
それが、冴子の心には痛かった。
そう、とても痛い……。
「……分かった」本音を表さぬ純心を、頭を撫でて慰める。「その時は休みを貰うから……何が何でも」
熱めが好きだ。
桧の風呂桶から、自分の体積だけの湯を溢れ流す。
「ふいぃぃ……」
湯熱による全身マッサージを浸透に浴び、冴子は軽い至福感を堪能した。筋肉が温かさに弛緩する。胸に実る豊かな重みが浮力に解放され、肩の負担が少し楽に感じた。
疲労もある。
汚れも気になる。
しかし、それ以上に〝穢れ〟を落とさねばならない。
件の不可解さに〈魔性〉の存在を想像した事で、意図せずして〝穢れ〟を帯びた感じがした。
況してや〝刑事〟などという因果な仕事は、何処で〝想い〟を被るか分からない。
無念──邪念──疎み──恐怖──敵意──殺意──狂気────それらは総て〝穢れ〟だ。
そして、そうしたものは呼んでしまう。
脳裏を過る〝単眼の黒月〟──数日前の〝黒い靄〟────見えたのは、そのせいかもしれない。
だから、風呂だ。
洗い流す。
簡易的な浄め……。
沐浴には、そうした意味合いもある。
旧家造りの古めかしさ故に至る箇所も古風な不便性を残す家だが、この桧風呂には素直に感謝したい。
湯気に紛れて鼻腔を擽るのは、香木宛らの芳しさ。ツンと刺すような心地好い違和感は、子供時代から劣化していない。自分よりも以前から先祖が使っていた歴史を想像すれば、侮り難し日本文化の伝統技術力。
それでも冴子は入浴剤を入れる派であった。
容器を開けると清々しい清涼感が一気に発散される。キャップ一杯の混入量で、湯編みは緑色へと仕切り直された。愛用は『森林の香り』……桧の芳しさとは相性がいい。
「狼男……か」
湯面を悪戯に指弾き、誰に言うとでもなく呟く。
「此処、日本よ?」
玩具のアヒルが無責任面でプカプカ。
思索を泳がすには丁度良い。
「でも〈銀の弾丸〉なんて、それ以外に意味が無い」
確証は無い。
確信するとも確証は無い。
というよりも、現実的に在り得ない。
「だとすれば……どういう事?」
少なくとも、彼──〝ハリー・クラーヴァル〟は〈狼男〉を意識していたはずだ。
そうでなければ、この〈怪物〉の弱点である〈銀弾〉など意味が無い。
「……妄想による凶行? 被害者を〈怪物〉と妄想して、凶行に及んだ?」
そうした〈精神異常者〉的な犯行動機も可能性としてはある。
さりながら、釈然とはしない。
織部刑事と共に事情聴取の様子は傍聴している。
マジックミラー越しの傍聴とはいえ、彼は非常に冷静沈着で理知的な人物に見えた。
到底、馬鹿馬鹿しい夢想に溺れるようには思えない。
「怪物……か」
古来よりの空想産物へ想像力が働くと、連鎖的に〈月〉を思い出した。
巨大な単眼で見据える黒い月──。
一瞬、湯温が冷える。
胸の谷間に泳ぎ着いたアヒルが、間抜け面で現実へと呼び戻してくれたが……。
「……見えないなぁ」
顔を洗って背凭れる肢体。
また無駄湯が溢れた。
朝霧に授かる青の清涼──。
冴子は早朝の拝殿へと足を運んでいた。
「……やっぱ要るよね」
財布から小銭を出して、賽銭箱へ投げ入れる。
実家を継がぬ〈刑事〉としての道を選んだのだから、そこは一般参拝者と同じ扱いに割り切らねば不敬だ。
神妙な二礼二拍に崇敬を乗せ、想いに手を合わせる。
祭神〈戌守〉──俗に〈犬神〉と呼ばれる妖怪の類であり、日本狼を神格化した存在だ。
そう、広義では〈妖怪〉の部類ではある。
しかしながら、面白い事に主観を変えれば〈神様〉でもあった。
元来、自然具象の存在には二面性が備わっている。
人間を恩恵を授ける有り難みは〈神〉と崇められ、実害を及ぼす側面は〈魔〉と畏れられた。
例えば、人間は〝水〟の恩恵無くしては生きられない。しかし、一転して過剰に荒れるそれは〝水害〟として怖れられた。
そうした〈神/魔〉両性質を〝同一存在〟と見なして共存内包させたものが〈自然神〉であり〈精霊崇拝〉の根だ。絶対的な『善悪二元論』の都合に切り離してしまう〈一神教〉との差は、そこにある。
そして、この国──日本の民は、根本的に〈精霊崇拝〉の気質が色濃い。
なればこそ、森羅万象に〈神〉を求め、同時に〈妖魔〉と恐れるのだ。
(ああ、今日もいるなぁ……)と、冴子は黙想の最中に感じた。
瞼を綴じた闇の先に、鎮かにも力強い青き灯火が盛っている。
拝殿越しの本殿内──祭壇の辺りだろうか?
ゆらゆらと息吹く揺らぎは頼もしく腰を下ろし、ジッとこちらを見据えていた。
とはいえ、それは目を開いて見えるものでもない。
(戌守さま、どうぞ御加護を……)
厳粛な想いを捧げる。
と、冴子は少々違和感を感受した。
(いつもと違う?)
今日の蒼焔は、普段の陽炎的な揺らぎではない。
不完全燃焼を起こした炎のような燻りを帯びていた。
その胎動がリズム的に刻まれる事で、冴子は〝神託〟の意向を悟ろうとする。
(何かを伝えようとしている?)
とはいえ〝何〟を伝えんとしているかまでは把握できなかった。
生憎と〈巫女〉ではない。
「……珍しいわね」
歯痒い黙想を不意に遮られた。
背後からの声に振り向く。
母だ。
さりながら、自分達姉妹を産んだ以上、もはや〈巫女〉としての祭事には携われぬ。
故に普段着であった。
「何か悩みが出来たのかしら?」
「ま……ね」
苦笑いで応える。
静々と素通りすると、母も早朝の参拝を済ませた。
冴子の神頼みと違って、彼女の場合は日課だ。
「……あのさ、母さん? あの子、もう少し自由にしてあげられない? 祭事は分かるけど、まだ高校生なんだし……」
拝む背中へと訴えてみる。
反応は無い。
「あの年頃じゃ、やりたい事や楽しみたい事も山程あるよ。このままじゃ、友達関係だってギクシャクしだす。せめて成人式を迎えるまでは……」
真摯な愁訴に賭けてみた。
現状、妹が体験している苦しみは他人事ではない。
かつて学生時分の己も同じであった。
だからこそ、どうにかしてあげたい。
その苦しさを知るからこそ……。
姉であるからこそ…………。
「……継いで欲しかったのだけどね」
「あ……」面を上げた母の第一声は、冴子の発言権を無下に潰す絶対的な印籠であった。「……私には重いよ」
ばつの悪い愁いを置いて、出勤へと踵を返す。
この話題を前にしてマンツーでは、立場的に居心地が悪い。
神託は気になるが……。
冴子は感じる子であった。
見えはしない。
それでも、この世ならざる存在を鋭敏に感じる。
幼い頃からだ。
おそらく潜在的な霊力は家族でも一番強い。
否、或いは数世代遡っても、冴子ほどの逸材はいないやもしれぬ。
だからこそ、母としても惜しかった。
我が子ながらも、心の底から惜しい逸材である。
「あの子が継いでくれれば、当家の〈戌守信仰〉は如何に安泰か……」
醒めて後にする女刑事の背中へ、そんな想いを注いでいた。
死体など何処にでも在る!
火葬の法律整備化?
それが何だという!
野垂れ死んだ遭難者──。
無念に孤独死を迎えた老衰者──。
発見されていない自殺者──。
飢えと寒さに果てた浮浪者──。
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いま、この瞬間、息を引き取った者────。
総てが死体だ!
日本とて死体が溢れている!
だから、夜神冴子は走った!
死者が復活に蠢き、生者捕食に蹂躙する地獄絵図を!
聞き込みの最中、突如として顕現した現世魔界であった!
「……無事でいてよね」
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すぐにでも駆け着けたいが、現状の混沌では侭ならぬ!
近くに在る安全な場所は──!
「警察署! あの強固な施設なら生き残れる! 当面は……だけど」
疾走に流れ過ぎる情景には、もはや日常の安穏など欠片も無かった!
住宅街を賑わす断末魔!
商店街を色染める阿鼻叫喚!
贄と裂かれる腸!
赤は飛沫と虚空を染め、生命は恐怖と絶望を嘆きに乗せた!
それを悪夢の演出と盛り上げるのは、股下まで嵩を増して蔓延する黒い濃霧!
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