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逃げろ、逃げろ、逃げろ!
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「おい、どういうつもりだ? 手を放せ、聞いてるのか? 答えろ、口は利けるんだろう」
矢継ぎ早に紡がれる言葉を無視して歩く。夜の森は静かで、騎士たちが誰かを探す声や足音は近づけばすぐに聞こえてきた。が、それとは別に、暗闇の中、息を潜めてこちらを見ているものたちの気配も色濃い。緊張に汗が滲んだ。
騎士たちは『夜が明けるまで』と言っていたが、月はまだ中天を少し過ぎた場所にある。夜明けまで、森をさ迷い続けて逃げ切れるだろうか。振り返ると、月明りに照らされたローラン様は、蒼白な顔色をしていた。胸から足元へぽたぽたと血が滴っている。
どこか落ち着く場所を見つけなければいけない。傷の手当もしたい。森の奥深くへと歩いていると、不意にローラン様の体が崩れた。振り向くと、地面に膝をつき、胸に手を当てて苦しげな呼吸をしている。俺は慌ててしゃがみこみ、彼の胸に手を当てた。その手が鋭い音を立て強かに跳ねのけられる。
「触るな」
冷たい声だった。彼はそのまま、拳を握って俺の肩を乱暴に押した。体が揺れ、後ろに尻もちをつく。
「なんのつもりか知らないが、さっさと消えろ」
「消えません」
「このまま騎士団に俺を売り渡そうって腹か? 殺されたくないなら諦めるんだな。小金欲しさに命をなくしちゃ元も子もないだろ」
話す姿は間違いなくローランさまなのに、出てくる言葉はローラン様が決して口にしないだろう言葉で、鋭い棘がある。が、その眼差しも、腰に差す短剣も、声音も、月明りに照らされた髪の一筋でさえ、彼がローラン様なのだということを俺に伝えていた。
なぜ彼が森で怪我をしているのか、なぜまるで俺のことなど知らないように話すのか、わからないことばかりだ。でも俺は、彼がローランさまなら、助けずにおれないのだ。彼の傍に膝をつき、胸に当てられた手を両手でそっと包み込む。睨みつけられたが、その目をまっすぐに見つめ返す。
「お守りします」
「……は?」
「お守りします。蕗があなたを。きっと」
手を伸ばして、指の腹で彼の顔についた泥を拭う。綺麗になった頬は、やはり主人の頬に似ている。もしこれが勘違いで、ローラン様は今も城にちゃんといるのだとしても、今ここで彼を見捨てればきっと後悔する。ローラン様の元に帰るのは、彼を助けてからでもいい。ローラン様は呆気にとられたように俺を見ていたが、すぐに眉を顰め、俺の手を払った。
「信じろと? さっき会ったばかりのお前を? 馬鹿げてる」
言いながら、彼は急にせき込み、口元を手で覆った。その指の隙間から、どろどろと赤黒い液体が垂れる。それだけではない。木々が揺れ、葉が踏み荒らされる音。騎士たちの声が聞こえてきた。俺は彼に背を向けた。
「乗ってください」
「馬鹿か、乗るわけない」
「走りますから、早く乗って。もう騎士が来てしまいます」
躊躇う気配がする。が、後ろで踏みつけられた小枝の折れる音が聞こえたことで決心がついたらしい、背にローラン様の重みが乗る。彼を背負って、俺は走り出した。自分とほとんど同じか、やや大きい体格の男を背負うのはめちゃくちゃにきつかったが、死力を尽くした。火事場の馬鹿力というやつなのか、悪路でも足はちゃんと動く。
しかし騎士たちとの距離が近すぎたらしい。見つけたぞ、という声がし、騎士たちの足音、松明の明かりが近づいてくる。
「いたぞ! つかまえろ」
「仲間がいるぞ」
「構わん、王妃様の命だ、諸共殺せ!」
やはり騎士たちが探していたのはローラン様だったのだ。後ろから矢が飛んでくる。何本かが足や腕を掠める。幸いローラン様には当たっていないようだが、いつまでも幸運は続かない。必死に足を動かしながら、状況を打開する方法を考える。追手を巻くために崖から落ちるか? 一人ならそうしたが、今はローラン様がいる、そんな博打はできない。
その時、俺の目は森の暗闇に光を捉えた。いつもなら、間違いなく背を向けて走り出すであろうその光に、今は一縷の望みをかけて一直線に駆ける。向こうもその異常な雰囲気を察知したのだろう、恐ろしい唸り声をあげ、暗闇から獣が姿を現した。ギリギリまで近づき、獣が跳躍した瞬間、俺は体全体を伏せて獣の足元へと滑り込んだ。
が、飛びだした獣は既に俺の後ろにいた別の獲物を視界に入れている。松明を持ち、目立つ白い服を着た人間たち。後ろにいた群れの獣は、首魁である一匹を追って、俺には目もくれず猛然と騎士たちの方へと押し寄せた。悲鳴と唸り声。爪と剣の交わる音。俺は素早く体を起こし、背のローラン様を抱え直した。
獣たちが騎士に気を取られているうちに、少しでも距離を稼ぐ。必死に森を走っていると、脇腹を伝って、足元に赤い雫が落ちていくことに気づいた。背がぐっしょりと濡れている。ローラン様の胸から出た血だ。
彼はもう話す気力もないようだった。耳元に荒い呼気が触れる。体は微かに震えていた。
恐怖に立ち止まりたくなる。彼の体を胸に抱きしめて、死ぬなと叫んで泣きたい。でも、そんなことをしてなんになる? 俺にできるのは、逃げて、彼を安全な場所へ連れ出し、一刻でも早く治療することだけだ。頭の中に止血の薬草がいくつも浮かんでは消える。
横になれる場所、身を隠せる場所が欲しい。必死に走っていくうち、不意に見覚えのある場所を見つける。森の奥まった場所、行き止まりにある洞窟。かつてチオンジーの住処だった場所だ。考える余裕もなく、俺は洞窟へ飛び込んだ。その瞬間、信じられないことだが洞窟の奥に、オルランド騎士団長が首を落としたはずのチオンジーが息づいているのを感じた。頭の中ではもう一人の自分が「お前は馬鹿か?」と罵詈雑言の限りを尽くしていたが、この状況では、そこにチオンジーがいると分かってなお、かえってここが一番安全なように思えた。
俺は嘘つきで、チオンジーは俺の味方をするから。
洞窟に足を踏み入れた途端、奥の暗がりからなにか大きい生き物が深く息を吐く音が聞こえた。緊張に手が震える。重たい足音。やがて姿を現した、自分の五倍ほどもあるチオンジーを前に、俺は覚悟を決めた。
矢継ぎ早に紡がれる言葉を無視して歩く。夜の森は静かで、騎士たちが誰かを探す声や足音は近づけばすぐに聞こえてきた。が、それとは別に、暗闇の中、息を潜めてこちらを見ているものたちの気配も色濃い。緊張に汗が滲んだ。
騎士たちは『夜が明けるまで』と言っていたが、月はまだ中天を少し過ぎた場所にある。夜明けまで、森をさ迷い続けて逃げ切れるだろうか。振り返ると、月明りに照らされたローラン様は、蒼白な顔色をしていた。胸から足元へぽたぽたと血が滴っている。
どこか落ち着く場所を見つけなければいけない。傷の手当もしたい。森の奥深くへと歩いていると、不意にローラン様の体が崩れた。振り向くと、地面に膝をつき、胸に手を当てて苦しげな呼吸をしている。俺は慌ててしゃがみこみ、彼の胸に手を当てた。その手が鋭い音を立て強かに跳ねのけられる。
「触るな」
冷たい声だった。彼はそのまま、拳を握って俺の肩を乱暴に押した。体が揺れ、後ろに尻もちをつく。
「なんのつもりか知らないが、さっさと消えろ」
「消えません」
「このまま騎士団に俺を売り渡そうって腹か? 殺されたくないなら諦めるんだな。小金欲しさに命をなくしちゃ元も子もないだろ」
話す姿は間違いなくローランさまなのに、出てくる言葉はローラン様が決して口にしないだろう言葉で、鋭い棘がある。が、その眼差しも、腰に差す短剣も、声音も、月明りに照らされた髪の一筋でさえ、彼がローラン様なのだということを俺に伝えていた。
なぜ彼が森で怪我をしているのか、なぜまるで俺のことなど知らないように話すのか、わからないことばかりだ。でも俺は、彼がローランさまなら、助けずにおれないのだ。彼の傍に膝をつき、胸に当てられた手を両手でそっと包み込む。睨みつけられたが、その目をまっすぐに見つめ返す。
「お守りします」
「……は?」
「お守りします。蕗があなたを。きっと」
手を伸ばして、指の腹で彼の顔についた泥を拭う。綺麗になった頬は、やはり主人の頬に似ている。もしこれが勘違いで、ローラン様は今も城にちゃんといるのだとしても、今ここで彼を見捨てればきっと後悔する。ローラン様の元に帰るのは、彼を助けてからでもいい。ローラン様は呆気にとられたように俺を見ていたが、すぐに眉を顰め、俺の手を払った。
「信じろと? さっき会ったばかりのお前を? 馬鹿げてる」
言いながら、彼は急にせき込み、口元を手で覆った。その指の隙間から、どろどろと赤黒い液体が垂れる。それだけではない。木々が揺れ、葉が踏み荒らされる音。騎士たちの声が聞こえてきた。俺は彼に背を向けた。
「乗ってください」
「馬鹿か、乗るわけない」
「走りますから、早く乗って。もう騎士が来てしまいます」
躊躇う気配がする。が、後ろで踏みつけられた小枝の折れる音が聞こえたことで決心がついたらしい、背にローラン様の重みが乗る。彼を背負って、俺は走り出した。自分とほとんど同じか、やや大きい体格の男を背負うのはめちゃくちゃにきつかったが、死力を尽くした。火事場の馬鹿力というやつなのか、悪路でも足はちゃんと動く。
しかし騎士たちとの距離が近すぎたらしい。見つけたぞ、という声がし、騎士たちの足音、松明の明かりが近づいてくる。
「いたぞ! つかまえろ」
「仲間がいるぞ」
「構わん、王妃様の命だ、諸共殺せ!」
やはり騎士たちが探していたのはローラン様だったのだ。後ろから矢が飛んでくる。何本かが足や腕を掠める。幸いローラン様には当たっていないようだが、いつまでも幸運は続かない。必死に足を動かしながら、状況を打開する方法を考える。追手を巻くために崖から落ちるか? 一人ならそうしたが、今はローラン様がいる、そんな博打はできない。
その時、俺の目は森の暗闇に光を捉えた。いつもなら、間違いなく背を向けて走り出すであろうその光に、今は一縷の望みをかけて一直線に駆ける。向こうもその異常な雰囲気を察知したのだろう、恐ろしい唸り声をあげ、暗闇から獣が姿を現した。ギリギリまで近づき、獣が跳躍した瞬間、俺は体全体を伏せて獣の足元へと滑り込んだ。
が、飛びだした獣は既に俺の後ろにいた別の獲物を視界に入れている。松明を持ち、目立つ白い服を着た人間たち。後ろにいた群れの獣は、首魁である一匹を追って、俺には目もくれず猛然と騎士たちの方へと押し寄せた。悲鳴と唸り声。爪と剣の交わる音。俺は素早く体を起こし、背のローラン様を抱え直した。
獣たちが騎士に気を取られているうちに、少しでも距離を稼ぐ。必死に森を走っていると、脇腹を伝って、足元に赤い雫が落ちていくことに気づいた。背がぐっしょりと濡れている。ローラン様の胸から出た血だ。
彼はもう話す気力もないようだった。耳元に荒い呼気が触れる。体は微かに震えていた。
恐怖に立ち止まりたくなる。彼の体を胸に抱きしめて、死ぬなと叫んで泣きたい。でも、そんなことをしてなんになる? 俺にできるのは、逃げて、彼を安全な場所へ連れ出し、一刻でも早く治療することだけだ。頭の中に止血の薬草がいくつも浮かんでは消える。
横になれる場所、身を隠せる場所が欲しい。必死に走っていくうち、不意に見覚えのある場所を見つける。森の奥まった場所、行き止まりにある洞窟。かつてチオンジーの住処だった場所だ。考える余裕もなく、俺は洞窟へ飛び込んだ。その瞬間、信じられないことだが洞窟の奥に、オルランド騎士団長が首を落としたはずのチオンジーが息づいているのを感じた。頭の中ではもう一人の自分が「お前は馬鹿か?」と罵詈雑言の限りを尽くしていたが、この状況では、そこにチオンジーがいると分かってなお、かえってここが一番安全なように思えた。
俺は嘘つきで、チオンジーは俺の味方をするから。
洞窟に足を踏み入れた途端、奥の暗がりからなにか大きい生き物が深く息を吐く音が聞こえた。緊張に手が震える。重たい足音。やがて姿を現した、自分の五倍ほどもあるチオンジーを前に、俺は覚悟を決めた。
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